「何が重要か」を見抜く力──生きることの根本にある認知プロセス
- Seo Seungchul

- 10月29日
- 読了時間: 11分

シリーズ: 論文渉猟
◆今回の論文:Johannes Jaeger et al. "Naturalizing relevance realization: why agency and cognition are fundamentally not computational" (Frontiers in Psychology, 2024年6月24日)
概要: 生物の認知プロセスが本質的に計算的ではない理由を、関連性実現の概念を通じて論じた論文
情報が溢れる現代、私たちが常に直面するのは「何が重要なのか」を見分ける課題です。仕事でも日常生活でも、膨大な選択肢の中から本当に意味のあるものを選び取る力が問われています。
しかし、この「関連性の実現」と呼ばれるプロセスは、実は人間だけでなく、バクテリアから植物まで、すべての生物が持つ根本的な能力なのです。最新の研究では、この能力こそが生物を非生物から分ける決定的な特徴であり、コンピューターのアルゴリズムでは完全に再現できない生命の謎の核心にあることが明らかになっています。
認知科学、哲学、生物学の交差点で展開される興味深い議論を通して、私たちの「生きる」という行為そのものが、実は高度な知的活動であることを探っていきましょう。そこには、人工知能の限界と、生命の持つ驚くべき創造性への新たな洞察が待っています。
生命の根本にある謎
富良野:最近読んだ論文で、とても興味深い主張に出会ったんです。生物がどうやって「何が重要か」を判断するか、つまり関連性を実現するプロセスは、アルゴリズムでは完全に再現できないっていう話でした。
Phrona:関連性を実現する、ですか。なんだかとても人間らしい表現ですね。でも確かに、私たちは毎日無意識のうちに、見たもの聞いたものの中から重要なことを選び取っていますものね。
富良野:そうなんです。でも驚くべきは、この能力がバクテリアにもあるということです。バクテリアが栄養を求めて移動するとき、彼らは環境の中から「良いもの」と「悪いもの」を区別している。これって、まさに関連性の実現じゃないですか。
Phrona:バクテリアが選択をしている、と考えるのは面白いですね。でも、それってプログラムされた反応とはどう違うんでしょう?コンピューターだって、入力に応じて出力を変えることはできますから。
富良野:そこが核心なんです。アルゴリズムは「小さな世界」にしか存在できない。すべてのルールが事前に定義された世界でしか動けないんです。でも生物は「大きな世界」、つまり未定義で曖昧で無限の可能性を含む現実の世界で生きている。
Phrona:なるほど。つまり、アルゴリズムは問題が既に整理されている状況でしか働けないけれど、生物はまず「問題とは何か」を見つけ出すところから始めているということですか。
形式化の逆説
富良野:まさにそういうことです。論文では、これを「形式化の逆説」と呼んでいました。関連性を実現するプロセスは、まさに形式化そのものなんです。意味のある世界を、ルールで扱える形に変換する作業。
Phrona:でも、それって循環論法になりませんか?形式化するためのルールを作るのに、また形式化が必要になって、永遠に続いてしまいそう。
富良野:その通りです。だからこそ、生物の関連性実現は、論理的推論とは根本的に違うプロセスなんです。生物は、対立処理という仕組みを使っている。複数の戦略を同時に試して、お互いを競わせながら、その場その場で最適な答えを見つけ出していく。
Phrona:競わせる、というのが面白いですね。まるで生物の中で、小さな民主主義が行われているみたい。一つの正解を探すのではなく、いろんな可能性を並行して探索している。
富良野:それに、この過程は完璧である必要がないんです。「満足できる程度」で十分。完璧な最適化ではなく、その時その状況で「まあ、これでいけるかな」というレベルの解決策を見つけられれば生き延びられる。
Phrona:ああ、それは人間の直感的な判断に近いかもしれませんね。私たちも日常的に、すべての情報を分析し尽くすのではなく、「なんとなく」この道を選ぶとか、「感じ」で決断することが多いですから。
生物の自己製造という奇跡
富良野:論文では、生物の最も基本的な特徴として「自己製造」を挙げています。生物は自分自身を作り続けている。この循環的なプロセスが、生物に固有の目標設定能力を与えているんです。
Phrona:自分を作り続ける、ですか。なんだか哲学的な表現ですね。でも確かに、私たちの体も常に細胞を入れ替えて、代謝を続けて、自分であり続けようとしていますね。
富良野:そうです。そして重要なのは、この自己製造が階層的で自己言及的だということです。酵素が代謝を促進し、代謝が酵素を作り、その全体が細胞の境界を維持する。どの部分も他の部分なしには存在できない。
Phrona:まるで、誰かが設計図を持っているわけでもないのに、自然に組織化されていく感じですね。でも、そんなことが物理学の法則に反せずに可能なんでしょうか?
富良野:可能なんです。ただし、熱力学的に開放された系で、平衡から遠く離れた状態でのみ。生物は環境からエネルギーを取り入れて、それを使って自分の組織を維持し続けている。ろうそくの炎やハリケーンも似たような構造を持ちますが、自己製造はできません。
Phrona:なるほど。生物は単なる自己組織化を超えた、もっと高次の現象なんですね。そして、この自己製造能力があるからこそ、生物は自分にとって何が重要かを判断できる、と。
期待と予測の力
富良野:さらに興味深いのは、生物が予測システムでもあるということです。最も単純なバクテリアでさえ、行動の結果を予測して現在の選択に反映させている。これを「予期」と呼んでいました。
Phrona:バクテリアが予測をする、というのはすごいことですね。でも、それは意識的な計画とは違うんですよね?彼らは「こうすれば栄養が得られるはず」と考えているわけではない。
富良野:その通りです。進化によって習得された自動的な反応なんです。でも重要なのは、この反応が未来の状態を現在に引き込んでいるということ。バクテリアの内部モデルが、期待される結果に基づいて現在の行動を変化させている。
Phrona:それって、私たちが「勘」と呼んでいるものに近いかもしれませんね。論理的に考える前に、なんとなく「こっちの方が良さそう」と感じる、あの感覚。
富良野:まさにその通りです。そして、この予測能力があるからこそ、生物は目標を設定し、それに向かって行動することができる。アルゴリズムには、この内発的な目標設定能力がありません。すべての目標は外部から与えられる必要がある。
Phrona:そう考えると、生物の行動って本当に主体的なんですね。自分で目標を決めて、自分で予測して、自分で選択している。当たり前だと思っていたことが、実はとても特別なことだったんですね。
隣接可能性という概念
富良野:論文の最も刺激的な概念の一つが「隣接可能性」です。生物は事前に定義された可能性の空間で進化するのではなく、進化しながら可能性の空間そのものを拡張していくという考え方です。
Phrona:可能性の空間を拡張する、ですか。それは、生物が新しい生き方を発明し続けているということでしょうか?
富良野:そうです。例えば、最初の光合成を行う生物が現れたとき、それまで存在しなかった全く新しい生存戦略が生まれた。それは事前に予測可能だったものではなく、進化の過程で創発したイノベーションだった。
Phrona:なるほど。つまり、進化は単なる既存の設計図の組み合わせではなく、本当の意味での創造なんですね。新しい可能性を文字通り作り出している。
富良野:その通りです。そして、この創造性は関連性実現と密接に関係している。生物が新しい環境要因を「重要」として認識し始めたとき、新しい適応の可能性が開かれる。
Phrona:それって、人間の創造性にも通じるものがありそうですね。芸術家や科学者が新しい視点を発見するとき、それまで見えなかった可能性の空間が開かれる感じ。
富良野:まさにそうだと思います。人間の認知も、意識も、この根本的な生命プロセスの精緻化された形なのかもしれません。
人工知能への示唆
Phrona:こうした議論は、人工知能の開発にとってどんな意味を持つんでしょうか?今のAIはアルゴリズムベースですよね。
富良野:それが重要な点なんです。現在の人工知能は、どんなに高度に見えても、基本的には小さな世界の中で動いている。大きな世界で本当に重要なものを見つけ出す能力は持っていません。
Phrona:でも、最近のAIはとても人間らしい対話ができますし、創造的な作品も作れますよね?それでも限界があるということですか?
富良野:そうです。現在のAIは、人間が準備したデータの中で関連性を見つけることはできますが、データの外にある未知の関連性を発見することはできません。真の意味での創発的な思考は難しいと思います。
Phrona:そう考えると、生物の持つ関連性実現能力って、本当に特別なものなんですね。機械には真似できない、生命ならではの知性というものがある。
富良野:ただし、これは機械学習や人工知能を否定するものではありません。それらは特定の問題解決には非常に有効です。問題は、それだけで一般的な知能を実現できると考えることです。
Phrona:人工知能は強力な道具にはなるけれど、少なくとも現在のアプローチでは、生物のような主体的な存在にはなれない、ということなんでしょうね。真の意味での人工的な主体を作るには、全く違うアプローチが必要かもしれません。
合理性の再定義
富良野:この議論は、合理性という概念の見直しも迫っています。論文では、合理性を「適切なことを知っている」と定義し直しています。論理的であることと、合理的であることは必ずしも同じではない。
Phrona:それは興味深い視点ですね。私たちが日常的に「合理的」だと感じる判断って、必ずしも論理的に完璧ではないことが多いですものね。
富良野:そうです。むしろ、その状況で適切な行動を選択できることが合理性の本質だと。そして、これは人間だけでなく、すべての生物に共通する能力だと論じています。
Phrona:バクテリアも合理的、という考え方ですか。確かに、彼らも環境に応じて適切な行動を選択していますもんね。
富良野:まさにそうです。人間の合理性は、この基本的な生物学的合理性の洗練された形なんです。だから、完全に論理的でなくても、その場その場で「うまくいく」ことを選択できれば、それは十分に合理的だと。
Phrona:それって、日常生活の知恵に近いかもしれませんね。完璧な情報がなくても、経験と直感で適切な判断をする。そういう知性も、ちゃんと価値のあるものなんですね。
富良野:そして、これは倫理的な判断にも関わってくると思います。何を大切にするかという価値判断は、論理だけでは決められない。私たちが何を「重要」と感じるか、それ自体が関連性実現のプロセスなんです。
ポイント整理
関連性実現は生物固有の能力である
すべての生物は「大きな世界」と呼ばれる無限で曖昧な現実の中で、自分にとって重要な要素を見つけ出す能力を持つ。これは事前に定義されたルールに従って動くアルゴリズムとは本質的に異なる。
自己製造が関連性実現の基盤となる
生物は自分自身を作り続けることで、内発的な目標を設定し、それに基づいて環境の中から関連性を見つけ出す。この過程は階層的で自己言及的であり、完全に形式化することは不可能である。
生物は予測システムとして機能する
期待される結果に基づいて現在の行動を決定する。これは意識的な計画ではなく、進化によって獲得された自動的な能力だが、真の意味での予期を可能にする。
隣接可能性が進化の創造性を説明する
生物は既存の可能性の空間内で変化するのではなく、新しい可能性の空間を創造しながら進化する。これにより根本的に新しい適応戦略や生存方法が生まれる。
人工知能の本質的限界が明らかになる
現在のAIはどんなに高度でも小さな世界の中でしか機能せず、真の意味での関連性実現はできない。一般的な人工知能の実現には根本的に異なるアプローチが必要となる可能性がある。
合理性の概念が再定義される
真の合理性とは論理的完璧性ではなく、その状況で適切な行動を選択できる能力である。これは人間だけでなく、すべての生物が持つ基本的な能力の表れである。
キーワード解説
【関連性実現】
生物が無限の可能性を含む環境の中から、自分にとって重要な要素を見つけ出すプロセス
【大きな世界】
未定義で曖昧、無限の可能性を含む現実の世界(小さな世界:事前にルールが定義された限定的な環境)
【自己製造(オートポイエーシス)】
生物が自分自身の構成要素を作り続けることで、自己を維持する能力
【対立処理】
複数の競合する戦略を同時に試し、相互に競わせながら最適解を見つけ出すプロセス
【予期システム】
期待される結果に基づいて現在の行動を決定する、生物の予測能力
【隣接可能性】
進化過程で新しく開かれる可能性の空間(事前に定義されない創発的な可能性)
【形式化の逆説】
関連性実現は形式化のプロセスそのものであり、完全に形式化することは不可能という矛盾
【エージェント-アリーナ関係】
生物(エージェント)とその活動領域(アリーナ)の相互構成的な関係
【制約構築】
生物が物理化学的プロセスに制約を課すことで、特定の機能を実現する仕組み
【体現された合理性】
論理的完璧性ではなく、状況に応じた適切な行動選択能力としての合理性