あなたの衝動は誰のもの?──操作される欲望の経済学
- Seo Seungchul
- 6 日前
- 読了時間: 10分

シリーズ: 書架逍遥
◆今回の書籍:George Akerlof, Robert Shiller 『Phishing for Phools: The Economics of Manipulation and Deception』(2015年)
邦訳:『不道徳な見えざる手 自由市場は人間の弱みにつけ込む』
みなさんは最近、ネットで買い物をしていて「なんでこんなに買っちゃったんだろう」と後悔したことはありませんか。あるいは、クレジットカードの明細を見て「こんなに使ったっけ?」と首をかしげたことは。実はこれ、あなたの意志が弱いからではないんです。ノーベル経済学賞を受賞した2人の経済学者、ジョージ・アカロフとロバート・シラーが『Phishing for Phools』という本で明かしたのは、私たちが日々さらされている巧妙な「釣り」の仕組みでした。
彼らが「フィッシング均衡」と名付けたこの現象は、自由市場経済の中で必然的に生まれるものだといいます。売り手は利益を最大化するために、買い手の心理的な弱点や情報格差を狙い撃ちにする。それは悪意というより、競争の中で生き残るための「合理的」な戦略なのです。問題は、この釣り針が私たちの生活のあらゆる場面に仕掛けられていること。スーパーの商品配置から、SNSの広告、政治献金、さらには医薬品や食品の販売まで。
今回は、富良野とPhronaが、この本が描く現代社会の姿について語り合います。制度設計に詳しい富良野さんと、人間の感情や社会の周縁に注目するPhronaさん。お二人の視点の違いから、私たちがどう「釣られて」いるのか、そしてどうすれば釣られにくくなるのか、新しい気づきが生まれるはずです。
フィッシング均衡って何だろう
富良野:この本のタイトルですけど、経済学者がこんな直球な表現を使うのも珍しい。
Phrona:ほんとに。でも読んでみると、愚か者っていうより、誰もが持ってる弱さのことを言ってるんですよね。朝コーヒーを買うときの小さな衝動から、住宅ローンを組むときの大きな判断まで。
富良野:そうそう。著者たちが言う「フィッシング均衡」っていうのは、市場の中で売り手が買い手の弱点を突くのが当たり前になってる状態のことです。これ、個々の企業が悪いとかじゃなくて、競争の論理がそうさせるんだって。
Phrona:競争の論理、ですか。つまり、良心的にやってたら他社に負けちゃうから、みんな同じような手を使うようになる?
富良野:まさにそれです。例えばクレジットカード会社が、最初だけ金利ゼロ!とか言って客を集めるでしょう。で、後から手数料でがっぽり儲ける。一社がやり始めたら、他社も追随しないと顧客を奪われる。
Phrona:なんか悲しい連鎖ですね。でも私たち消費者も、最初の甘い条件に飛びついちゃう。後のことまで考えるのって、すごくエネルギー使うから。
富良野:行動経済学では、人間は将来の負担を過小評価する傾向があるって言われてます。今日の100円は明日の110円より価値があるように感じる。企業はその心理をよく研究してるんです。
Phrona:研究って言葉が出ると、なんだか私たちが実験動物みたいに聞こえますね(笑)。でも実際、ビッグデータとかAIとか使って、私たちの行動パターンを分析してるんでしょう?
デジタル時代の新しい釣り針
富良野:そこなんですよ。本が書かれた2015年から今まででも、状況はさらに進化してます。当時はまだA/Bテストとか言ってたけど、今はもっと精密な個人ターゲティングが可能になってる。
Phrona:A/Bテストって、同じ商品でも見せ方を変えて、どっちがよく売れるか試すやつですよね。今はそれどころじゃない?
富良野:ええ。今は個人の検索履歴、購買履歴、SNSでの行動、全部つなげて、その人が一番弱い瞬間を狙い撃ちできる。夜中に甘いもの検索してたら、翌日スイーツの広告が増えるとか。
Phrona:あー、それ私だ(笑)。でも気持ち悪いですよね。自分でも気づいてない癖まで見透かされてるみたいで。
富良野:プライバシー規制も進んでますけど、データを断片化して組み合わせれば、結局プロファイリングはできちゃう。規制と技術のいたちごっこです。
Phrona:私が気になるのは、そういう環境で育つ子どもたちのことなんです。生まれた時からターゲティング広告に囲まれて、自分の欲望が本当に自分のものなのか分からなくなりそう。
富良野:深い指摘ですね。欲望の真正性っていうか、自分が本当に欲しいものと、欲しいと思わされてるものの区別がつかなくなる。
Phrona:そうなんです。私たちの世代はまだ、広告のない時代を知ってるから比較できるけど。これからの人たちは、操作されてない欲望なんてあるの?って感じになるかも。
政治もまた釣り堀になっている
富良野:本の中で特に印象的だったのが、政治の話です。選挙も一種の市場で、票という通貨を巡る競争がある。
Phrona:政治献金とかロビー活動の話ですよね。お金を持ってる人たちが、自分たちに都合のいい政策を通すために影響力を行使する。
富良野:そうです。でも単純な賄賂とかじゃなくて、もっと巧妙なんです。研究資金を出したり、雇用を生み出したり、一見すると社会貢献に見える形で。
Phrona:あぁ、だから見抜きにくいんですね。表向きは立派なことしてるように見えるから。
富良野:さらに言うと、有権者の側も感情的なメッセージに弱い。政策の中身より、候補者のイメージとか、分かりやすいスローガンに反応しちゃう。
Phrona:最近のSNSを見てると、本当にそう思います。複雑な問題を単純化して、敵と味方に分けて煽る。冷静に考える時間なんてくれない。
富良野:僕が懸念してるのは、AIがこれをさらに加速させることです。個人の政治的傾向を分析して、一番響くメッセージを自動生成できるようになったら。
Phrona:一人一人に違うメッセージを送るんですか?それって、もう共通の現実がなくなっちゃいますよね。
食べ物と薬:命に関わる釣り
富良野:健康に関わる分野の話も衝撃的でした。加工食品メーカーが、糖分と脂肪の黄金比率を研究してるって。
Phrona:ブリスポイントっていうんでしたっけ。これ以上でも以下でもダメな、一番やみつきになる配合。なんか麻薬みたい。
富良野:実際、脳の報酬系への作用は似てるらしいです。で、医薬品の方も問題があって、効果ばかり宣伝して副作用は小さく書く。
Phrona:私の知り合いで、痛み止めを長期間飲んでて胃を壊した人がいます。医者も製薬会社の情報に頼ってるから、リスクを過小評価しがちなんですって。
富良野:規制当局もあるんですけど、業界のロビー活動がすごくて。研究資金を出したり、天下り先を用意したり。
Phrona:結局お金の力なんですね。でも、健康って取り返しがつかないじゃないですか。他の商品なら損するだけで済むけど。
富良野:だからこそ、この分野では特に慎重であるべきなんです。でも現実は、利益優先の論理が健康を脅かしてる。
Phrona:子どもの肥満とか糖尿病が増えてるのも、こういう構造のせいなんでしょうね。親が気をつけてても、学校の自販機とか、友達との付き合いとか、防ぎきれない。
イノベーションの光と影
富良野:本の中で面白い指摘があって、技術革新は新しい釣りの手法も生み出すって。
Phrona:あー、なるほど。便利になると同時に、騙す方法も進化する。
富良野:金融工学なんかがいい例です。デリバティブとか仕組み債とか、一般人には理解不能な商品を作って、リスクを見えなくする。
Phrona:最近だと暗号資産とかNFTとかもそうかも。みんな、よく分からないけど儲かりそうだから飛びつく。
富良野:そうそう。で、規制が追いつく頃には、もう次の商品が出てる。イタチごっこなんです。
Phrona:でも、イノベーション自体は必要ですよね。新しい技術が生活を豊かにしてくれることもあるし。
富良野:著者たちも全否定はしてません。ただ、新技術を評価するときは、社会的な便益だけじゃなくて、フィッシングに使われる可能性も考慮すべきだって。
Phrona:二つの軸で評価するんですね。これは役に立つか、これは人を騙すのに使われないか。でも、そんな予測って可能なんでしょうか。
富良野:完璧には無理でしょうね。でも、少なくとも意識することが大事かなと。技術は中立だ、使う人次第だ、って言い訳で終わらせないで。
抵抗する人たち、希望の物語
Phrona:暗い話ばかりじゃなくて、抵抗してる人たちの話もありましたよね。内部告発者とか、消費者団体とか。
富良野:そうです。第11章は希望の章でした。フィッシング均衡に対抗する英雄たちの物語。
Phrona:英雄って大げさかもしれないけど、でも確かに勇気がいりますよね。大企業や政府に立ち向かうんだから。
富良野:成功例を分析すると、三つの要素があるそうです。透明性、連帯、制度化。情報を公開して、仲間を集めて、仕組みとして定着させる。
Phrona:なんか、運動論みたいですね。一人じゃ無理だけど、みんなでやれば変えられる。
富良野:実際、消費者運動の歴史を見ると、地道な活動が規制につながった例はたくさんあります。たばこの警告表示とか、食品の成分表示とか。
Phrona:でも最近は、SNSで炎上させれば一瞬で変わることもありますよね。それはそれで怖い気もするけど。
富良野:両刃の剣ですね。正当な告発が広まるのは良いけど、誤解や偏見も一瞬で拡散する。だからこそ、冷静に事実を確認する文化が大事。
私たちにできること
Phrona:結局、この本を読んで、私たちはどうすればいいんでしょうね。
富良野:著者たちは、教育の重要性を強調してます。行動経済学とか心理学の基礎を学んで、自分の弱点を知る。
Phrona:自分の弱点かぁ。私は深夜のネットショッピングと、期間限定って言葉に弱いです(笑)。
富良野:僕は新しいガジェットですね。必要ないのに、つい。でも、弱点を自覚してるだけでも違うと思うんです。
Phrona:あと、疑うことも大事ですよね。この広告は何を隠してるんだろう、この政治家は誰の利益を代表してるんだろう、って。
富良野:疑いすぎても疲れちゃいますけどね。でも、健全な懐疑心は必要です。特に、感情に訴えかけてくるメッセージには要注意。
Phrona:私が思うのは、余裕を持つことかな。時間的にも精神的にも。追い詰められてると、どうしても短期的な判断になっちゃう。
富良野:それは本質的な指摘ですね。フィッシングが成功するのは、人々が余裕をなくしてる時が多い。
Phrona:だから、社会全体で余裕を作ることも大事なのかも。みんながカツカツで生きてたら、釣られやすくなる。
富良野:格差の問題にもつながりますね。お金や時間に余裕がない人ほど、高金利ローンとか、体に悪い安い食品とかに頼らざるを得ない。
Phrona:フィッシング均衡って、結局は社会の歪みが現れてる気がします。市場だけじゃなくて、もっと大きな仕組みの問題。
富良野:その通りだと思います。だからこそ、個人の自衛だけじゃなくて、制度や文化を変えていく必要がある。長い道のりですけど。
ポイント整理
自由市場では、売り手が買い手の心理的弱点や情報格差を突く「フィッシング均衡」が必然的に生まれる
デジタル技術の発展により、個人の行動データを分析し、最も脆弱な瞬間を狙い撃ちする精密なターゲティングが可能に
政治においても、資金力を持つ者が有権者の感情を操作し、政策決定に影響を与える構造が存在
食品・医薬品業界では、依存性や健康リスクを軽視した販売戦略が横行
技術革新は利便性と同時に新たな「釣り」の手法を生み出すという両面性を持つ
内部告発者や消費者団体など、透明性・連帯・制度化を通じて抵抗する動きも存在
個人レベルでは行動バイアスの自覚と健全な懐疑心が、社会レベルでは教育・規制・文化の変革が必要
キーワード解説
【フィッシング均衡】
市場競争の中で売り手が買い手を釣ることが常態化した状態
【行動バイアス】
将来を過小評価するなど、人間の非合理的な判断傾向
【ブリスポイント】
食品で最も中毒性が高くなる糖分と脂肪の配合比率
【レピュテーション・マイニング】
信頼や評判を短期利益に変換する行為
【A/Bテスト】
同じ商品の見せ方を変えて効果を比較する手法
【ロビー活動】
企業や団体が政策決定に影響を与えるための活動
【デフォルト設定】
初期設定。これを操作することで選択を誘導できる