なぜメディアは嘘をつくのか?──ゲーム理論で読み解く「偽情報の軍拡競争」
- Seo Seungchul
- 6月24日
- 読了時間: 8分
更新日:7月1日

シリーズ: 論文渉猟
◆今回の論文:Arash Amini et al. "How media competition fuels the spread of misinformation" (Science Advances, 2025年6月18日)
世論をめぐる競争が激化する中、メディアは時に「偽情報」という禁じ手に手を出してしまいます。短期的には注目を集められるかもしれないが、長期的には信頼性を損ない、結局は読者を失ってしまう。それでもなぜ、メディアは偽情報を流すのでしょうか。
2025年6月、Science Advances誌に掲載された論文が、この問いに数理モデルを用いて迫りました。メディア間の競争をゲーム理論で分析し、偽情報の拡散メカニズムを解明しようとします。
富良野とPhronaが、この研究の意味を探ります。二人の対話を通じて、私たちの情報環境をどう守り、どう育てていけばいいのか、その手がかりが見えてくるかもしれません。
ゲーム理論で読み解くメディアの本音
富良野:この論文、メディア間の競争を「ゼロサムゲーム」として捉えているところが面白い。つまり、一方が得をすれば、もう一方は必ず損をする構造だと。
Phrona:ええ、でも現実のメディアって、そんなに単純じゃないですよね。協力したり、時には同じニュースソースを共有したりもする。ゼロサムって前提、ちょっと殺伐としすぎてません?
富良野:確かにそうなんですが、世論の奪い合いという側面だけを切り取れば、このモデルも一理あるかなと。特に二大政党制の国では、支持者の取り合いが激しいですから。
Phrona:なるほど。でも私が気になるのは、このモデルが「偽情報を流すと短期的には注目を集められる」って前提を置いているところなんです。人間って、そんなに簡単に嘘に飛びつくものかしら。
富良野:論文では「偽情報には本質的なニュース価値がある」って表現してますね。センセーショナルで、感情に訴えかける内容が多いから、つい見てしまうという。
Phrona:ああ、それは分かる気がします。怒りや恐怖って、人を動かす強い感情ですものね。でも同時に、騙されたと気づいた時の反動も大きいはず。
信頼性と影響力のジレンマ
富良野:そこがまさにこのモデルの核心部分ですよ。信頼性という概念を、メディアが真実を伝える確率として定義している。偽情報を流せば流すほど、この信頼性スコアが下がっていく。
Phrona:メディアにとっては痛し痒しですね。短期的な利益と長期的な信頼、どちらを取るか。でも富良野さん、現実には信頼性が低くても影響力を持ち続けるメディアもあるじゃないですか。
富良野:ああ、それは「感受性」という概念で説明してるんです。論文では、個人の感受性によって、低信頼性メディアへの反応が変わるとしている。感受性が高い人は、信頼性に関係なく影響を受けやすい。
Phrona:つまり、批判的思考力の問題ってこと?でも、それだけじゃない気がするんです。自分の信念に合う情報なら、怪しくても信じたくなる心理もあるでしょう?
富良野:まさにその通りで、論文でも「ホモフィリー」、つまり似た者同士が集まる傾向を組み込んでます。自分と意見が近いメディアからの情報は受け入れやすいという。
偽情報が生むエコーチェンバー
Phrona:そうすると、エコーチェンバーができやすくなりますよね。同じような意見ばかり聞いて、異なる視点が入ってこない空間。
富良野:シミュレーション結果を見ると、まさにそうなってます。最初は全員が高い信頼性を持っていても、競争が始まると過激なメディアほど偽情報を流すようになる。
Phrona:そして、その過激なメディアの周りに、感受性の高い人たちが集まってくるわけですね。でも、なぜ中道的なメディアは偽情報を流さないの?
富良野:面白いことに、均衡状態では中道メディアは信頼性を保つ戦略を取るんです。なぜなら、彼らは両陣営に影響を与えられる位置にいるから。信頼性を失うと、その優位性も失ってしまう。
Phrona:ああ、なるほど。橋渡し役としての価値があるから、信頼性が資産になるんですね。でも現実では、中道メディアも時々怪しい情報を流すことがありますよ。
富良野:それは恐らく、このモデルが単純化しすぎている部分かもしれません。現実のメディアは、完全に真実か完全に嘘かの二択じゃなくて、グレーゾーンで勝負することも多い。
Phrona:誤解を招く見出しとか、文脈を無視した切り取りとか。嘘じゃないけど、真実でもない。そういう手法の方が、実は厄介かもしれませんね。
軍拡競争としての偽情報
富良野:論文で最も興味深いのは、偽情報の拡散を「軍拡競争」として捉えている点です。一方が偽情報を増やすと、もう一方も対抗して増やさざるを得ない。
Phrona:負のスパイラルですね。でも、なぜ対抗して偽情報を流す必要があるの?正確な情報で勝負すればいいじゃない。
富良野:モデルによると、偽情報には「注目を集める力」があるとされています。相手が偽情報で注目を集めているのに、こちらが地味な真実だけを伝えていたら、世論形成で負けてしまう。
Phrona:うーん、でもそれって、人々を馬鹿にしてません?真実にだって、十分魅力的なストーリーはあるはずです。
富良野:僕もそう思いたいんですが、論文のシミュレーションでは、均衡状態において過激なメディアの多くが偽情報を流すという結果が出てます。これは現実のデータとも一致するらしい。
限定合理性という視点
Phrona:悲しい現実ですね。でも私、思うんです。このモデルが前提にしている「合理性」って、本当に合理的なのかしら。
富良野:鋭い指摘ですね。実はこの論文、完全に合理的な意思決定じゃなくて、「限定合理性」を仮定してるんです。人間は時に非合理的な選択をするという。
Phrona:でも、その非合理性をランダムな行動として扱ってるんですよね?私には、偽情報を流すことこそ非合理的に思えるんですが。
富良野:確かに、長期的に見れば信頼を失うわけですからね。でも短期的な利益に目がくらむのも、また人間らしさかもしれません。
Phrona:そうね。でも、もしかしたら、メディアの人たちも苦しんでるのかも。競争に勝つためには偽情報も辞さない、でも本当はちゃんとした報道がしたい、みたいな。
富良野:制度設計の観点から言えば、そういうジレンマを解消する仕組みが必要なんでしょうね。例えば、偽情報のペナルティを重くするとか。
Phrona:でも論文によると、ペナルティを重くしても、必ずしも偽情報が減るわけじゃないんですよね。むしろ、別の形で歪みが出てくるとか。
介入策の可能性と限界
富良野:そうなんです。例えば、信頼性の低いメディアへのペナルティを強化すると、今度は中道メディアが偽情報を流し始める可能性があるという。
Phrona:えっ、どうして?中道メディアは信頼性が資産だって言ってたじゃないですか。
富良野:フェーズ転換というやつです。ペナルティが強すぎると、過激メディアは信頼性を高めて、代わりに中道メディアを使って世論操作を始める。戦略が逆転するんです。
Phrona:なんだか、いたちごっこですね。じゃあ、どうすればいいの?
富良野:論文では、コミュニティの「感受性」を下げることが一つの解決策として挙げられています。つまり、メディアリテラシー教育ですね。
Phrona:でも、それも一筋縄ではいかないみたい。感受性が下がると、今度はメディアがより過激な偽情報を流すようになるって。
富良野:ただし、全体的な偽情報への暴露は減るそうです。中央に批判的思考力の高い集団ができて、それが防波堤になる。
Phrona:なるほど、完璧じゃないけど、マシにはなるってことですね。でも私、もっと根本的な問題があると思うんです。
富良野:というと?
競争を超えて
Phrona:このモデルって、メディア同士が敵対関係にあることが前提じゃないですか。でも、本来ジャーナリズムって、権力の監視とか、真実の追求とか、もっと崇高な目的があったはず。
富良野:確かに、公共の利益という視点が抜けてますね。全てを競争原理で説明しようとすると、大事なものを見落とすかもしれない。
Phrona:そう、例えば協力の可能性。競合他社同士でも、ファクトチェックで協力したり、取材源を守るために連帯したり。そういう動きだってあるでしょう?
富良野:ああ、それは重要な指摘ですね。このモデルはゼロサムゲームを前提にしてるけど、実際にはウィンウィンの関係を作ることも可能なはずです。
Phrona:メディアの役割を「世論の奪い合い」だけに矮小化しちゃいけない。民主主義を支える大切なインフラとして、どう育てていくか。その視点が必要よね。
富良野:同感です。競争は避けられないにしても、その競争が社会全体の利益につながるような制度設計が必要でしょうね。
Phrona:そして何より、私たち読者の責任も大きいと思うんです。センセーショナルな情報に飛びつくんじゃなくて、地味でも正確な報道を支持する。そういう選択が、メディアの行動も変えていくはずです。
ポイント整理
メディア間の競争をゲーム理論で分析すると、偽情報の拡散は合理的な戦略として現れる
偽情報は短期的には注目を集めるが、長期的には信頼性を損なうというジレンマがある
過激なメディアほど偽情報を流しやすく、中道的メディアは信頼性を保つ傾向がある
一方が偽情報を増やすと、対抗して相手も増やす「軍拡競争」が起きる
メディアリテラシー教育は有効だが、完全な解決策ではない
競争原理だけでなく、公共の利益やメディアの社会的責任も考慮する必要がある
キーワード解説
【ゼロサムゲーム】
一方の利益が他方の損失になる競争構造
【信頼性スコア】
メディアが真実を伝える確率として定義される指標
【感受性】
個人が低信頼性の情報源や偽情報に影響される度合い
【ホモフィリー】
似た意見を持つ者同士が集まりやすい傾向
【エコーチェンバー】
同じような意見ばかりが反響する閉鎖的な情報空間
【限定合理性】
人間の意思決定における非合理的な側面を考慮した概念
【フェーズ転換】
システムの均衡状態が質的に変化する現象
【クオンタル反応均衡】
限定合理性を組み込んだゲーム理論の均衡概念