もしも手で味わえたら、あなたは何を触りたいですか?──タコの「味わう触覚」が解き明かす微生物との対話
- Seo Seungchul
- 6月24日
- 読了時間: 7分
更新日:6月30日

シリーズ: 論文渉猟
◆今回の論文:Nicholas W. Bellono et al. "Environmental microbiomes drive chemotactile sensation in octopus" (Cell, 2025年6月)
私たちの身の回りのすべての表面は、目に見えない微生物のコミュニティに覆われています。壁も、机も、スマートフォンも、そして海底の岩や貝殻も。この微生物たちは、ただそこに存在しているだけなのでしょうか、それとも何らかの意味のあるメッセージを発信しているのでしょうか。
2025年、『Cell』誌に発表された最新の研究により、タコが持つ特殊な感覚システムを通じて、驚くべき答えが明らかになりました。タコは「味わう触覚」を使って、環境中の微生物が発する化学的なシグナルを読み取り、それを生存に欠かせない行動の指針にしているのです。この発見は、生き物同士のコミュニケーションの複雑さと、私たちがまだ理解していない自然界の言語の存在を示唆しています。富良野とPhronaの対話を通じて、この興味深い発見の意味を探ってみましょう。
富良野: タコが触手で「味わう」っていう発想自体がまずユニークじゃないですか!僕らだと、手で触って分かるのはせいぜい温度とか硬さとか表面の質感程度ですけど。
Phrona: そうですね。私たちの感覚世界とは全く違う世界を生きてるんですよね、タコって。論文を読んでいて印象的だったのは、タコの腕に5億個もの神経細胞が分散していて、それぞれが半自律的に働いているという部分。まるで8本の腕がそれぞれ小さな脳を持っているみたい。
富良野: ええ、それで興味深いのは、その触覚システムが単純に物理的な情報を集めているだけじゃないってことなんです。微生物が出す化学物質を感知して、それが獲物なのか、卵なのか、ただの岩なのかを判別している。これって、ある意味で環境の情報をデコードしてるわけですよね。
Phrona: デコード、まさにそんな感じですね。微生物たちが発する化学的なメッセージを、タコが読み取っている。でも不思議なのは、なぜ微生物がそんなシグナルを出すのかってことです。タコのために発信してるわけじゃないでしょうし。
富良野: そこが面白いところで、微生物は別にタコとコミュニケーションを取ろうとしてるわけじゃないんでしょうね。単に代謝の過程で化学物質を分泌している。でもタコの方が、長い進化の過程でそれを利用するシステムを発達させた。偶然の産物を巧妙に活用してるって感じです。
Phrona: 進化って、そういう偶然の積み重ねから生まれるものなんでしょうけど、ちょっと不思議な気持ちになりますね。微生物は自分たちが無意識のうちに情報を発信していて、それをタコが盗み聞きしている、みたいな構図。
富良野: 盗み聞きって表現、面白いですね。研究では、獲物のカニに付いている微生物と、タコの卵についている微生物では、出す化学物質が違うということも分かってるんです。しかも、同じ受容体でも、異なる化学物質が結合すると通すイオンの種類が変わって、結果的に行動も変わる。
Phrona: それって、同じ受容体が複数の「言語」を理解できるってことですね。人間で言えば、同じ耳で日本語も英語も聞き分けられるようなもの?でも、タコの場合はもっと複雑で、化学物質の違いによって神経の電気信号自体が変わっちゃう。
富良野: まさに。論文によると、カニ由来の微生物が出すH3Cという物質と、卵由来の微生物が出すLUMという物質では、同じ受容体CRT1に結合しても、受容体の構造的な変化が微妙に違って、通すイオンの種類も変わるんです。これが母性行動と捕食行動の違いを生み出している。
Phrona: 分子レベルでの構造の違いが、行動の違いにまで影響するなんて。生き物の精密さって、本当に驚かされますよね。でも、これってタコだけの特殊な能力なんでしょうか?
富良野: どうでしょうね。研究者たちは、この化学受容体システムがニコチン性アセチルコリン受容体から進化したって言ってるんですけど、これってタコ特有のイノベーションなんです。でも、微生物の化学的シグナルを利用する仕組み自体は、他の生き物にもあるかもしれない。
Phrona: そう考えると、私たちの周りにも、気づいていない化学的な会話がたくさんあるのかもしれませんね。植物だって、根っこの周りの微生物と何らかのやり取りをしてるって聞いたことがあります。
富良野: ええ、根圏微生物の話ですね。実際、微生物は地球上のほぼすべての環境に存在していて、それぞれが様々な化学物質を分泌している。この研究が示唆しているのは、生き物たちがそうした化学的な環境を、僕らが思っている以上に積極的に情報源として利用しているってことかもしれません。
Phrona: 考えてみると、私たち人間も腸内細菌との関係で、微生物が出す物質の影響を受けてますよね。でも、それって体の内側の話で、タコみたいに外の環境の微生物を積極的に感知して行動に活かすっていうのは、また別次元の話ですね。
富良野: そうなんです。この研究の面白いところは、微生物群集が生態学的に意味のある表面、つまり獲物や卵といった生物学的に重要な対象に特異的に集まっていて、その微生物が出すシグナルがタコの行動を直接的に駆動しているってことを実証した点なんです。
Phrona: つまり、微生物のコミュニティそのものが、環境の「意味」を表現してるんですね。タコにとって、微生物は単なる汚れとか付着物じゃなくて、環境を理解するための重要な手がかりになってる。
富良野: まさにそうです。そして、これって生態系の理解にも新しい視点を提供しますよね。従来は、動物同士の関係とか、動物と植物の関係に注目することが多かったけど、微生物も含めた三者関係、いやもっと複雑な多者関係として生態系を見る必要があるのかもしれない。
Phrona: 生き物たちが織りなすネットワークって、私たちが想像してるよりもずっと複雑で、微細なレベルでの相互作用で成り立ってるんですね。タコの話から始まったけど、なんだか生命全体の見方が変わりそうです。
富良野: 本当にそうですね。それに、この研究は技術的な応用の可能性も示唆してます。もしかしたら、将来的には微生物のシグナルを人工的に検出して、環境の状態を把握するセンサーを開発できるかもしれない。タコから学ぶバイオテクノロジーっていうのも、面白いアプローチですよね。
Phrona: タコの先生に教わる環境センシング技術。考えただけでワクワクしますね。でも、こういう発見って、私たち人間の自然に対する謙虚さも思い出させてくれます。まだまだ知らないことだらけなんだなって。
富良野: 微生物とタコっていう、一見関係なさそうな組み合わせから、こんな深い発見が生まれるんですから。自然界にはまだまだ隠された対話があるんでしょうね。
ポイント整理
タコの化学触覚受容体(CR)は、環境表面の微生物群集が分泌する化学物質を検出し、獲物や卵を識別する重要な感覚システムとして機能している
同一の受容体が異なる微生物由来の化学物質に対して構造的に異なる応答を示し、結果として通過するイオンの種類が変化し、母性行動と捕食行動という異なる行動パターンを誘発する
微生物群集は生態学的に意味のある表面(獲物、卵など)に特異的に分布しており、その代謝産物がタコの行動選択を直接的に決定する重要な環境情報として機能している
この化学受容体システムは、ニコチン性アセチルコリン受容体から進化したタコ特有のイノベーションであり、水中環境で拡散しにくい分子の接触依存的な感知を可能にしている
研究では具体的にH3C(カニ由来)とLUM(卵由来)という化学物質を同定し、これらが実際の環境中に存在し、タコの行動を誘発することを実証している
キーワード解説
【化学触覚受容体(Chemotactile Receptors, CRs)】
タコ特有の感覚受容体で、触覚と化学感覚を統合した「味わう触覚」を可能にする
【接触依存的化学感覚】
水中で拡散しにくい分子を直接接触によって感知する感覚メカニズム
【微生物群集(Microbiome)】
特定の環境や表面に生息する微生物コミュニティ全体
【イオン透過性】
受容体チャネルが特定のイオン(カルシウム、ナトリウムなど)を選択的に通す性質
【生態学的表面】
生物にとって生存上重要な意味を持つ環境中の表面(獲物、卵、巣など)
【種間相互作用】
異なる生物種間で起こる様々な相互作用(共生、寄生、競争など)
【H3C(1-acetyl-3-carboxy β-carboline)】
カニの微生物が産生する化学物質で、タコの捕食行動を誘発
【LUM】
卵の微生物が産生する化学物質で、タコの母性行動に関連