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カースト制度という見えない重力――アメリカの差別構造を読み解く

更新日:6月30日

 シリーズ: 書架逍遥



  • 著者:イザベル・ウィルカーソン(Isabel Wilkerson)

  • 出版年:2020年

  • 概要:アメリカの人種差別を「カースト制度」として捉え直し、インドやナチス・ドイツとの比較を通じて、その構造的な不公正を明らかにした社会学的考察


「なぜアメリカでは、これほどまでに人種差別が根深いのか?」この問いに対して、イザベル・ウィルカーソンは意外な答えを提示します。それは「人種」ではなく「カースト制度」という枠組みで捉え直すことでした。


2020年に出版された『Caste: The Origins of Our Discontents』は、アメリカ社会に深く根を下ろす差別の構造を、インドやナチス・ドイツとの比較を通じて浮かび上がらせた画期的な論考です。著者は、私たちが「人種差別」と呼んでいるものの本質は、実は目に見えない身分制度、つまりカーストなのだと主張します。


この本を読み解きながら、富良野とPhronaが対話を通じて、なぜ「カースト」という言葉が選ばれたのか、アメリカの人種主義はどのように特殊なのか、そしてその影響が世界にどう広がったのかを探っていきます。二人の視点の違いから、制度と感情、構造と人間性の間を行き来しながら、私たちの社会に潜む「見えない重力場」について考えを深めていきましょう。



なぜ「カースト」なのか


富良野:この本を読む前にあったのは、著者がなぜわざわざ「カースト」という言葉を使ったのか、という疑問でした。アメリカには公式にはカースト制度なんてないはずなのに。


Phrona:そうですよね。でも、だからこそ意味があるんじゃないでしょうか。普段使わない言葉で語ることで、慣れ親しんだ風景が違って見えてくる。まるで赤外線カメラで見るように、普段は見えない熱の分布が浮かび上がってくるような。


富良野:ウィルカーソンは前作『The Warmth of Other Suns』で、600万人もの黒人が南部から北部や西部へ移住した大移動を描いていますよね。彼女はそこで既に、人々が構造的な抑圧から逃れようとする姿を追っていた。


Phrona:前作では人々が物理的に移動することで差別から逃れようとしたけど、『カースト』では、逃げても逃げても追いかけてくる見えない構造に焦点を当てたということでしょうね。


富良野:なるほど、第2章の「古い家と赤外線ライト」という比喩がまさにそれですね。著者は、人種という概念自体が実は社会的に作られたもので、肌の色は単なる視覚的マーカーに過ぎないと言っています。本質は、その下にある固定的な序列、つまりカーストだと。


Phrona:「カーストは骨、人種は肌」という表現が印象的でした。骨格のように社会を支える見えない構造があって、肌の色はその表面的な現れにすぎないって。でも富良野さん、これってちょっと怖くないですか?骨って簡単には変えられないじゃないですか。


アメリカの人種主義の特殊性とその影響


富良野:確かに。でも著者が面白いのは、このカースト制度をアメリカ独自のものとして描いていないことです。インドの伝統的なカースト、ナチス・ドイツの人種政策と並べて比較している。特に驚いたのは、ナチスがアメリカの人種隔離法を参考にしていたという事実です。


Phrona:ああ、第8章の話ですね。1934年にナチスの法律家たちがアメリカの法制度を研究していたって。でも結局、アメリカの「一滴でも黒人の血が混じれば黒人」というワンドロップ規定は過酷すぎるとして採用を見送ったという...皮肉というか、ゾッとする話です。


富良野:つまりアメリカの人種主義の特殊性は、その徹底性にあるということですね。南アフリカのアパルトヘイトですら、混血の一部を白人に編入する余地があったのに、アメリカは「懲罰的モデル」として上位層を厳格に狭く保つ道を選んだ。


Phrona:でも私、そこに人間の心理の歪みを感じるんです。純血への執着って、実は自分たちの不安の裏返しじゃないかって。第21章に出てくる、黒く縮れた髪を持つドイツ人少女の話、覚えてます?


富良野:ああ、家族が必死に彼女の顔に定規を当てて「アーリア人の理想的顔面」と照合していたという...。


Phrona:そう。支配する側も実は恐怖に支配されているんですよね。自分たちが作り上げた神話に縛られて、お互いを監視し合って。これって、勝者も敗者もいない悲しいゲームみたい。


富良野:第9章の「沈黙の悪」で紹介されていた話も衝撃的でしたね。リンチで殺された黒人の遺体の写真が絵葉書として売られ、人気の土産物になっていたという。フロリダでは、白人女性を怯えさせただけでリンチされた黒人男性の遺体と一緒に、白人の少女たちが微笑んでいる写真が出回ったとか。


Phrona:想像を絶する残酷さですよね...。暴力を娯楽にして、それを記念品として交換し合うなんて。郵政当局が取り締まったほど流通していたのに、人々は封筒に入れてまで送り続けたって。どれだけ日常化していたんだろう。


富良野:これこそカーストの恐ろしさですよね。下位の人間を完全に「モノ」として見ているから、その死さえも見世物にできる。


Phrona:ウィルカーソンが前作で描いた大移動の人々も、結局は新天地でもそうした差別に直面したわけですよね。物理的な移動だけでは、心に刻まれたカーストからは逃れられなかった。だから本作では「カースト」という概念そのものに向き合う必要があったのかも。移動じゃなくて、構造そのものを解体しないと。


富良野:第11章の「支配集団の地位不安」もまさにそれを扱っていますね。上位カーストの人々も「常に勝者であれ」という持続不能な期待に苦しんでいる。2008年のオバマ大統領誕生が引き起こした白人層の危機感は、その典型例でしょう。


Phrona:オバマさんの当選って、富良野さんの言う「筋書きの変更」だったんですね。長年続いた白人中心の物語が書き換えられそうになって、それを元に戻そうとする力が働いた。2016年のトランプ当選は、その反動だったと。


富良野:著者の分析では、トランプに投票した白人労働者は「自分の利益に反する投票をした」のではなく、むしろ「長期的な集団的利益」つまり白人支配の維持を優先したということになります。経済的な損得より、アイデンティティの問題だったと。


カーストがもたらす代償と、そこからの解放


Phrona:なんだか切ないですね。お互いを信じられない社会って。第29章で紹介されていた、ノーベル賞受賞者が医療費に困って賞のメダルを売ったという話...アメリカが国民皆保険を実現できない背景に「下層の人々に恩恵を与えるくらいなら自分も放棄する」という心理があるって。


富良野:まさに「カーストの代償」ですね。差別を維持することで、結局は全員が損をしている。第18章のサチェル・ペイジの例も象徴的でした。黒人だからという理由でメジャーリーグでプレーできず、42歳でようやく参加できた時には全盛期を過ぎていた。


Phrona:みんなが彼の全盛期の投球を見る機会を失ったんですよね。才能が無駄になるって、社会全体の損失...。でも私、第22章の「ストックホルム症候群」の話がすごく心に残っていて。


富良野:被支配カーストの人々が、生き延びるために支配者に同情的になってしまうという...。


Phrona:黒人の法廷職員が、黒人男性を射殺した白人女性警官を慰めるためにハグした話とか。被害者側が加害者を慰めなきゃいけないなんて、どれだけ心をすり減らしているんだろうって思うと...。


富良野:構造的な問題ですよね。個人の善意や悪意の問題じゃなくて、システムそのものが人々にそういう役割を演じさせている。第5章の「容器」の比喩がまさにそれで、カーストは各人に「入れ物」を用意して、そこから出ることを許さない。


Phrona:でもね、富良野さん。希望もあると思うんです。第30章で紹介されていた、バラモンの男性が聖なる紐を外した話。上位カーストの人が自ら特権を手放すって、すごく勇気がいることだと思う。


富良野:そうですね。著者も言っているように、カーストからの覚醒は一人ひとりの内省から始まる。法制度を変えるだけじゃなくて、心の中の偏見を打ち破ることが「最後のフロンティア」だと。


Phrona:第31章の配管工の話も印象的でした。最初は適当に仕事をしようとしていた白人男性が、著者との対話を通じて心を開いて、きちんと修理してくれるようになった。人と人として向き合えば、カーストの壁も少しずつ崩せるのかも。


富良野:ただ、僕はもう少し構造的なアプローチも必要だと思います。ドイツの例を見ると、ナチスの過去と徹底的に向き合い、教育や補償を続けている。アメリカも奴隷制の歴史ときちんと向き合う必要があるのでは。


Phrona:南軍の銅像問題もそうですよね。1700体以上も残っているなんて。ドイツではナチスを称える碑なんて一つもないのに。過去を美化して残すことで、カーストの記憶も生き続けてしまう。


富良野:結局、カースト制度って誰も幸せにしないシステムなんですよね。下層の人々が苦しむのは当然として、上層の人々も地位を守るプレッシャーに苦しみ、社会全体が不信と分断で疲弊していく。


Phrona:著者の言う「ラディカル・エンパシー」って、そこから抜け出す鍵なのかもしれません。単なる寛容じゃなくて、相手の立場を本当に想像して、心から理解しようとすること。難しいけど、それしかないのかも。


富良野:「カーストのない世界は皆を解放する」という結びの言葉、重いですね。差別がなくなることで得をするのは被差別者だけじゃない。みんなが本来の自分を発揮できる社会になるという。


Phrona:うん。見えない重力から解放されて、やっと自由に動けるようになるんでしょうね。まだ道のりは長いけど、まずはその重力の存在に気づくことから始まるのかな。



ポイント整理


  • アメリカの人種差別は単なる偏見ではなく、ヒエラルキーを維持するために設計された「カースト制度」である

  • このカースト制度は、インドの伝統的カーストやナチス・ドイツの人種政策と共通する8つの柱(神の意志、遺伝性、内婚制、清浄と汚染、職業序列、非人間化、恐怖支配、生来的優越性)によって支えられている

  • ナチス・ドイツは1930年代にアメリカの人種隔離法を研究し、参考にしていた。ただし、アメリカの「ワンドロップ規定」は過酷すぎるとして採用を見送った

  • カースト制度は被支配者だけでなく支配者も苦しめる。上位カーストの人々も「常に優位であれ」というプレッシャーに苦しんでいる

  • 2008年のオバマ大統領誕生は「筋書きの変更」であり、2016年のトランプ当選はそれに対する反動(カーストの復権)だった

  • アメリカが国民皆保険などの公共福祉政策を実現できない背景には、下層カーストへの恩恵を拒む心理がある

  • カースト制度の維持は社会全体に莫大なコストを強いている(才能の浪費、社会的不信、健康・教育・治安の悪化など)

  • 真の変革には法制度の改革だけでなく、一人ひとりの心の中の偏見を打ち破る「ラディカル・エンパシー」が必要


キーワード解説


【カースト】

生まれによって決まる固定的な身分制度。努力や才能では覆せない社会的序列


【ワンドロップ規定】

アメリカで用いられた「一滴でも黒人の血が混じれば黒人」とする人種分類法


【支配カースト/被支配カースト】

上位身分と下位身分を指す用語。アメリカでは白人/黒人に対応


【カーストの8つの柱】

カースト制度を支える共通原則

  • 神の意志と自然法則(宗教的・疑似科学的な正当化)

  • 遺伝性(血統による身分の固定と継承)

  • 内婚と結婚・交配の管理(異なるカースト間の結婚禁止)

  • 清浄と汚染(上位の純潔性と下位の穢れという観念)

  • 職業の序列(カーストごとに定められた労働の階層化)

  • 非人間化と烙印(下位カーストの人間性否定とスティグマ)

  • 恐怖と残虐による支配(テロルと見せしめによる秩序維持)

  • 生来の優越性と劣等性(支配層の本質的優位という信念)


【ラディカル・エンパシー】

根源的共感。相手の立場を真摯に想像し理解しようとする積極的な共感


【ストックホルム症候群】

被害者が加害者に同情的になる心理現象。カースト下での生存戦略


【カーストのナルシシズム】

支配カーストが自己を特別視し、その優越性に執着する集団的自己愛


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