世界の穀倉地帯が最も危険?──気候変動で覆る「食料安全保障の常識」
- Seo Seungchul
- 6月24日
- 読了時間: 8分
更新日:6月28日

シリーズ: 論文渉猟
◆今回の論文:Andrew Hultgren et al. "Impacts of climate change on global agriculture accounting for adaptation" (Nature, 2025年1月)
地球の気温が1℃上がると、世界の主要作物が生産する総カロリー量はどれくらい減少するのか。この問いに対して、従来の研究では相反する結論が出されてきました。一方で「農家の適応策で被害は小さく抑えられる」とする楽観論があり、他方で「適応には限界があり深刻な損失は避けられない」とする悲観論が存在していたのです。
Nature誌に発表された最新研究は、世界54カ国12,658の地域における6つの主要作物のデータを活用し、現実の農家が実際にどのように気候変動に適応しているかを初めて体系的に分析しました。その結果明らかになったのは、適応策を講じても気温上昇1℃あたり全世界で年間約5.5兆kcalという膨大なカロリー損失が生じ、これは推奨摂取量の4.4%に相当するという驚くべき事実でした。
興味深いことに、最も深刻な影響を受けるのは気候の厳しい貧困地域ではなく、現在農業生産の中心となっている温帯地域だということです。富良野とPhronaは、この新たな知見が私たちの食料安全保障に対する理解をどう変えるのか、そして人類がこの課題にどう向き合うべきなのかを語り合います。
富良野:今回のNature論文、これまでの農業×気候変動の研究とは一線を画すアプローチで分析してますね。従来は実験室レベルの知見をもとにモデルを組んでいたのが、今回は現実の農家の行動データから適応策の効果を推計している。
Phrona:とても興味深いです。研究者が「こうすれば適応できる」と決めるのではなく、世界中の農家さんが実際にやっている工夫や対策を丸ごと数値化したというか。現場の知恵を科学的に評価したような感じですね。
富良野:ただ結果を見ると、その現場の知恵をもってしても、気温1℃上昇で世界の主要作物カロリーが年間5.5兆kcal減る。これ、一人当たりで計算すると1日121kcalの減少になるんですよ。
Phrona:121kcalって、りんご半個分くらい? 数字だけ見ると大したことないように思えるけど、これが世界規模で起きるとなると話は別ですよね。特に、すでに栄養状態が厳しい地域の人たちにとっては。
富良野:そうなんです。ただ、この研究で僕が一番驚いたのは被害の地理的分布です。てっきり赤道近くの暑い地域が最も影響を受けると思っていたら、実は中緯度の温帯地域、つまり現在の穀倉地帯で損失が最も大きい。
Phrona:アメリカの穀物ベルトとか、中国東部とか?
富良野:まさにそこです。逆に熱帯地域は既に暑い気候に適応しているから、追加の温暖化の影響は相対的に小さい。それに熱帯では降水量も増える傾向にあって、それが温度上昇の悪影響を部分的に相殺しているんです。
Phrona:なるほど、既に過酷な環境で暮らしている人たちの方が、かえって変化への対応力があるということでしょうか。逆に、今まで恵まれた気候で大規模農業をやってきた地域の方が、変化に対して脆弱だと。
富良野:はい、研究では「現在の気候が穏やかで、これまで適応の必要性が低かった地域ほど、将来の気候変動で大きな損失を被る」と結論づけています。つまり、豊かで効率的な農業地域が実は最も危険にさらされている。
Phrona:それって、すごく皮肉な話ですよね。世界の食料生産を支えてきた場所が、気候変動で一番打撃を受ける。しかもそういう地域は、少数の大規模農場が膨大な量を生産している構造だから、そこでの減産は世界全体に波及する。
富良野:それがこの研究の重要なポイントなんです。所得水準で見ると、最も深刻な影響を受けるのは最高所得層の地域。平均41%の損失が予測されています。一方、低所得地域は18%程度。
Phrona:でも、これは数字上の話で、実際の影響の重さは全然違いますよね。高所得地域の18%の損失と低所得地域の18%では、生活への打撃が全く違う。
富良野:その視点は重要ですね。確かに相対的損失率では高所得地域の方が大きいけれど、実際の食料安全保障への影響を考えると、もともと栄養状態が厳しい地域での損失の方が深刻かもしれない。
Phrona:研究では、適応策が将来的にどれくらい効果を発揮するかも分析してますよね。2050年で23%、2100年で34%の損失軽減って。
富良野:はい。ただし、これは高排出シナリオでの話です。穏やかな排出シナリオだと、軽減効果はもっと小さくて2050年で6%、2100年で12%程度。適応策の効果は、気候変動がより深刻になればなるほど大きくなるという、なんとも複雑な関係になっています。
Phrona:つまり、気候変動が激しくなればなるほど、農家さんたちも必死に対応せざるを得なくなるということでしょうか。でも、そういう適応にもコストがかかるわけですよね。
富良野:そう、この研究の優れた点は、適応策のコストも計算に入れていることです。従来の研究では適応の便益だけを考えがちでしたが、実際には新しい品種を導入したり、灌漑設備を変更したりするのに費用がかかる。
Phrona:研究の手法として、農家の行動から適応コストを推定するというアプローチも興味深いですね。「利益を最大化する農家は、便益がコストを上回る適応策だけを実行する」という前提で、逆算的にコストを算出している。
富良野:経済学でいう顕示選好の考え方ですね。観察できない適応コストを、実際の農家の行動から推定する。この方法なら、研究者が机上で考えた適応策ではなく、現実に実行可能な適応策だけを評価できる。
Phrona:でも、この研究でも限界はありますよね。例えば、作物の植え付け時期を大幅に変えるとか、全く違う作物に転換するといった抜本的な適応策は捉えきれていない。
富良野:その通りです。また、この研究が対象としているのは主要6作物だけで、畜産業や特産作物は含まれていない。さらに、気候変動が食料システム全体に与える間接的な影響、例えば病害虫の分布変化や水資源への影響なども考慮されていません。
Phrona:それでも、これまでで最も包括的な分析だと思います。特に、作物別に見た将来予測が具体的で分かりやすい。小麦は28%減、大豆は36%減、トウモロコシは28%減...米だけは比較的影響が小さいんですね。
富良野:米の場合、主要生産地であるインドや東南アジアで影響が少ないことが大きいです。ただし、アフリカやヨーロッパの米生産地では50%を超える減収が予想されている。地域差が非常に大きいのが特徴です。
Phrona:この研究が示している未来って、けっこう厳しいものですよね。でも同時に、何もしなければもっと悪い結果になっていたということでもある。適応策の重要性を科学的に証明したという意味では、希望を感じる部分もあります。
富良野:ただ、忘れてはいけないのは、この分析結果は現在の作付け地域での生産量変化だけを見ているということです。実際には、気候変動で北方の地域が新たに農業に適するようになったり、作物の分布が大きく変わったりする可能性もある。
Phrona:なるほど、つまりこの研究は「現在の農業システムが気候変動にどれだけ脆弱か」を示しているけれど、人類全体の食料生産能力の将来については、また別の議論が必要ということですね。
富良野:そういうことです。研究者たちも「革新的な技術開発、作付け地の拡大、さらなる適応策が食料安全保障には不可欠」と結論づけています。現状の延長線上では厳しいけれど、根本的な変革があれば道筋は見えてくる。
Phrona:でも、その変革を実現するには時間がかかりますよね。特に、最も影響を受ける可能性が高い穀倉地帯は、既に高度に最適化されたシステムだから、変化への余地が限られているかもしれない。
富良野:その点は確かに課題ですね。効率性を追求してきた現代農業の裏返しとも言える。多様性を犠牲にして効率を得てきたシステムが、変化に対して脆弱になっている。
Phrona:この研究を読んでいて思ったのは、気候変動への対応って、技術的な解決策だけじゃなくて、社会システム全体の柔軟性が問われているんだなということです。農家さん一人一人の創意工夫も大切だけど、それを支える制度や市場の仕組みも変わっていかないといけない。
富良野:同感です。この研究が示しているのは、適応策にはコストがかかるということでもあるので、そのコストを誰がどう負担するかという社会的な合意も必要になってくる。食料安全保障は、もはや農業セクター内だけの問題ではなくなっているんです。
ポイント整理
現実的な適応策の効果を初評価
世界54カ国の実際の農家データから、気候変動への適応策の効果とコストを包括的に分析した初の研究
予想以上の深刻な影響
適応策を考慮しても、気温1℃上昇で世界の主要作物カロリーが年間5.5兆kcal減少(推奨摂取量の4.4%相当)
地理的影響の逆転
最も深刻な影響を受けるのは貧困地域ではなく、現在の主要穀倉地帯(アメリカ中西部、中国東部など)
適応策の限定的効果
2100年時点で適応策と経済発展により損失を34%軽減できるが、大幅な損失は残存
作物別の影響格差
小麦・大豆・トウモロコシで28-36%の減収、米は相対的に軽微だが地域差大
従来研究との相違
プロセスベースモデルによる楽観的予測と対照的に、現実的な農家行動を考慮した悲観的結果
社会コストの定量化
農業分野のみで炭素1トンあたり1-49ドルの社会的コストを算出
キーワード解説
【適応策コスト】
気候変動に対応するための新技術導入や栽培方法変更にかかる費用
【顕示選好アプローチ】
農家の実際の行動から、観察できない適応コストを逆算的に推定する経済学的手法
【度日(Degree Days)】
作物成長に必要な温度と実際の気温の差を積算した農業気象指標
【減形式アプローチ】
複雑なメカニズムを個別にモデル化せず、全体の効果を統計的に推定する分析手法
【炭素の社会的コスト】
CO2を1トン追加排出することで将来的に発生する経済損失の現在価値
【プロセスベースモデル】
作物の生理学的プロセスを詳細にモデル化した従来の農業影響予測手法
【穀倉地帯】
大規模で効率的な農業が展開される主要生産地域
【クロスバリデーション】
機械学習で用いられる、モデルの予測精度を客観的に評価する統計手法