人類の「生態学的しなやかさ」が地球規模拡散の鍵だった
- Seo Seungchul
- 6月22日
- 読了時間: 9分
更新日:6月30日

シリーズ: 論文渉猟
著者:Emily Y. Hallett, Michela Leonardi, Jacopo N. Cerasoni, 他
掲載:Nature, 2025年6月
概要:アフリカ全土の479の考古学的遺跡から12万年前から1万4千年前までのデータを分析し、現生人類の生態学的ニッチの変化を定量的に追跡した研究
現生人類はなぜ地球上のあらゆる環境に適応できたのでしょうか。砂漠から熱帯雨林、極地から高地まで、他の動物では考えられないほど多様な環境で生活する私たちの能力は、一体いつ、どのようにして獲得されたのでしょうか。
Nature誌に発表された最新の研究が、この謎に新しい視点をもたらしました。現生人類がアフリカから世界各地へ拡散する約5万年前、実はその2万年も前からアフリカ大陸内で「生態学的ニッチの拡張」という重要な変化が起きていたというのです。つまり、世界征服の前に、まずアフリカで「適応力の革命」が起きていたのです。
富良野とPhronaが、この発見が示す人類の進化における転換点について、その意味を探ります。技術革新や認知能力の向上ではなく、環境への「しなやかな適応力」こそが、私たちの祖先を地球上で最も成功した種にした可能性について考察していきます。
富良野:これ、現生人類がアフリカから出て世界に広がったのは5万年前頃とされているけれど、その成功の鍵は実はもっと前のアフリカでの変化にあったという話です。なかなか興味深いですね。
Phrona:そうなんです。よく現生人類のアフリカからの拡散って、何か劇的な技術革新や認知革命があったからだって説明されがちじゃないですか。でもこの研究は違うことを言ってるんですよね。
富良野:ええ。研究者たちは「生態学的ニッチの拡張」という概念で説明してる。つまり、人類が生活できる環境の幅が7万年前頃から段階的に広がったと。具体的には、サバンナから熱帯雨林、そして砂漠まで、より多様な環境で生活できるようになった。
Phrona:その「しなやかさ」が印象的ですよね。普通の動物って、ある特定の環境に特化していくものじゃないですか。でも人類は逆に、より多くの環境に適応できるようになった。これって、生物学的にはかなり珍しいことなんですよね?
富良野:そう、この研究では「種分布モデル」という手法を使って、アフリカ全土の479の考古学遺跡のデータを分析してるんです。12万年前から1万4千年前までの長期間で、人類がどんな気候条件や植生の場所に住んでいたかを定量的に追跡した。
Phrona:数字で追えるようになったのが大きいですよね。感覚的には分かっていても、実際にデータで示されると説得力が違う。で、具体的にはどんな変化が見えたんでしょう?
富良野:面白いのは、7万年前を境に段階的な変化が始まって、5万年前頃にピークを迎えるということです。特に西アフリカや中央アフリカの森林地帯、それから北アフリカの乾燥地帯への進出が顕著になった。要するに、より湿潤な環境と、より乾燥した環境の両方に同時に適応していったんです。
Phrona:普通だったら、湿潤か乾燥か、どちらかに特化していきそうなものなのに。両極端に同時に適応するって、何か人類特有の戦略があったということでしょうか?
富良野:著者たちは「理想的自由分布」という生態学理論で説明してるんです。人口密度が上がると、より挑戦的な環境でも居住することが有利になる。つまり、人口圧が環境適応の幅を押し広げる原動力になったというわけです。
Phrona:ああ、なるほど。人が増えすぎたから新しい環境に挑戦せざるを得なくなったと。でも、そこで失敗しないで済んだのは、なぜなんでしょう?他の早期の人類拡散は失敗に終わったのに。
富良野:この研究によると、12万5千年前頃にも人類のアフリカからの拡散があったけれど、これは現在の人類には遺伝的に貢献していない。つまり失敗に終わった。違いは何かといえば、5万年前の拡散時には、人類が既にアフリカ内で多様な環境への適応力を身につけていたということです。
Phrona:準備期間があったということですね。アフリカという一つの大陸の中で、まず多様性への対応力を磨いて、それから外に出ていった。考えてみれば、アフリカってサハラ砂漠からコンゴの熱帯雨林まで、ものすごく多様な環境がありますものね。
富良野:そういうことです。研究では「生態学的柔軟性」という表現を使ってるけれど、これがユーラシア大陸の気候的に困難な環境に遭遇した時の適応成功の鍵になったと。森林での生活技術と砂漠での生活技術の両方を身につけていたから、シベリアでもインドでも生き抜けたのかもしれない。
Phrona:そう考えると、私たちが現在も持ってるこの適応力の源流が見えてくる気がします。現代でも、人類って他の動物では考えられないような環境で生活してますよね。都市から山間部、極地の研究基地まで。
富良野:実際、論文でも現在の「人類の比類のない生態学的可塑性」の起源がこの7万年前の変化にあると指摘してる。ただ、気をつけなければいけないのは、これは人口増加だけでは説明できないということです。
Phrona:というと?
富良野:ニッチ拡張があったからといって、必ずしも全体の人口が増えたわけではないんです。砂漠のような環境は、そもそも大きな人口を支えることができない。むしろ重要なのは、異なる環境間を移動する能力、つまり「流動性」が高まったということかもしれません。
Phrona:ああ、それは興味深い視点ですね。定住するのではなく、状況に応じて移動する能力。それによって、異なる集団同士の接触頻度も上がったでしょうし。
富良野:そうです。そして研究者たちは、10万年前から5万年前の間に現代人的特徴が固定化されたという他の研究とも整合性があると指摘している。多様な環境での生活が、集団間の交流を促進し、結果として人類全体の特徴の統合につながった可能性があります。
Phrona:それって、多様性が統一性を生んだという、ちょっと逆説的な話ですよね。いろんな環境に散らばったからこそ、かえって一つの種としてのまとまりができた。
富良野:興味深い点ですね。そして気候変動も重要な役割を果たしていたようです。この7万年前という時期は、ハインリッヒイベント6という大規模な気候変動があった時期で、アフリカ全体で乾燥化と湿潤化が不規則に繰り返された。
Phrona:不安定な気候が、かえって適応力を鍛えたということでしょうか。安定した環境だったら、特化した方が有利だったかもしれないけれど。
富良野:まさに。気候の不安定性が、より広範囲なニッチを持つことを有利にした。そして一度そうした能力を身につけると、それがアフリカを出た後の成功につながったということですね。
Phrona:この研究を読んでいて思ったのは、技術や文化の革新よりも、環境への関わり方の変化の方が根本的だったということです。石器の技術や象徴的行動は、この時期より前にも見つかってるわけですし。
富良野:そうなんです。この研究の著者たちも、従来の「認知革命」や「技術革命」説には懐疑的で。むしろ、すでに持っていた能力を、より多様な環境で活用できるようになったことが重要だったのではないかと。
Phrona:そうすると、人類の成功って、何か一つの大きな発明や発見によるものではなくて、もっと漸進的で、環境との相互作用の中で生まれたものだったのかもしれませんね。
富良野:その通りです。そして現在でも、私たちは基本的には同じ戦略を使っているのかもしれません。新しい環境に対して、既存の知識や技術を組み合わせて適応していく。都市という人工環境も、ある意味では新しいニッチへの拡張と言えるかもしれない。
Phrona:考えてみれば、現代の私たちも常に新しい環境に適応し続けてますよね。デジタル空間なんて、7万年前の人には想像もできない環境だったでしょうし。でも基本的な適応のメカニズムは同じなのかも。
富良野:そうですね。ただ、現代では環境変化のスピードが格段に速くなっている。7万年前の気候変動は数千年単位でしたが、今は数十年、数年単位で大きな変化が起きる。果たして私たちの適応力がそのスピードについていけるかどうか。
Phrona:それは確かに大きな課題ですね。でも、この研究が示してくれたのは、人類の適応力って思った以上に深いところに根ざしているということでもある。7万年という時間をかけて培われた柔軟性は、そう簡単には失われないのかもしれません。
富良野:最後に一つ気になるのは、この「ニッチ拡張」が、必ずしもポジティブな意味だけではないということです。より多くの環境を利用できるようになったということは、環境への影響力も増大したということでもある。
Phrona:ああ、それは現代にも通じる重要な視点ですね。適応力の高さが、同時に環境への負荷の増大をもたらす。7万年前の人類は、まだその影響が限定的だったかもしれませんが、現在では地球規模での影響力を持ってしまった。
富良野:この研究が示しているのは、人類の成功の源泉でもあり、同時に現在の課題の根源でもあるものなのかもしれません。環境への適応力をどう使っていくかが、これからの人類の課題なんでしょうね。
ポイント整理
7万年前からアフリカ内でニッチ拡張が開始
現生人類は7万年前頃から、森林から砂漠まで多様な環境への適応を段階的に拡大し、5万年前にピークを迎えた
技術革新ではなく生態学的柔軟性が鍵
従来説の認知革命や技術革新よりも、多様な環境での生活能力の獲得が世界拡散成功の主因である
人口圧と気候変動が推進要因
人口密度の増加と不安定な気候変動が、より困難な環境への進出を促進した
段階的適応プロセス
アフリカという多様な環境を持つ大陸内で「練習」を積んでから、ユーラシアへの拡散に成功した
現代への示唆
7万年前に獲得した生態学的可塑性が、現在の人類の環境適応力の基盤となっている
キーワード解説
【生態学的ニッチ】
生物が生存・繁殖できる環境条件の組み合わせ
【種分布モデル(SDM)】
環境データから生物の分布を予測する統計手法
【理想的自由分布】
個体が最適な生息地を選択する際の生態学理論
【ハインリッヒイベント】
北大西洋の急激な冷却による地球規模の気候変動
【海洋酸素同位体ステージ(MIS)】
過去の気候変動を区分する地質学的時間単位
【生態学的可塑性】
異なる環境条件に適応する生物の能力
【ニッチ拡張】
生物が利用可能な環境の範囲が広がること
【考古学的年代測定】
放射性炭素年代測定等による遺跡の年代決定手法