場所は、移動によって問われる――根付きと流れのネクサス
- Seo Seungchul

- 4月13日
- 読了時間: 16分

シリーズ: 論文渉猟
◆今回の論文:Iga Kołodynska et al., "Senses of place and mobilities nexus - a scoping literature review"(Journal of Environmental Psychology, 2025年8月)
概要:「場所の感覚(senses of place)」と「移動性(mobilities)」の相互関係を主題とするスコーピング・レビュー論文。163本の実証研究を体系的に分析し、両者の接続を研究するための分析フレームワークを構築。知識ギャップと今後の研究方向を提示する。
人は場所に意味や愛着を感じたりします。でもそれが意識にのぼるのは、たいてい、その場所を離れるときか、失われるときです。気候変動で沿岸の村が沈もうとしているとき、再開発で育った街が壊されるとき、移住先でふと故郷の木の匂いを思い出すとき。「場所の感覚(senses of place)」という研究領域が急速に主題化してきたのは、場所が当たり前でなくなった時代と重なっています。
ここで言う「場所の感覚」は、単純な愛着の強さの話ではありません。身体がその場所の空気や光の中で蓄積した感覚的な記憶(物理的な次元)、自分がどこの人間かという自己理解に場所が折り込まれていく経験(個人的な次元)、そしてその場所で共に暮らしてきた人々とのつながりが場所に宿っている感覚(コミュニティの次元)——この三つが絡み合って、複数の層をなしているものです。論文が「senses」と複数形を使うのも、その複数性を言葉の上で手放さないためです。
この論文は、その場所感覚と「移動性(mobilities)」の関係——nexus——を体系的に問い直そうとしたスコーピング・レビューです。163本の実証研究を分析して見えてきたのは、両者の相互構成的な関係を正面から扱った研究が、全体のわずか15%にとどまるという事実でした。
富良野とPhronaは、この論文が描いた「研究の地図」を手がかりに、根付きと流れは本当に対立するのか、身体は場所をどう知るのか、そして場所を定義する権力とは何かという問いへと、対話を重ねていきます。
nexusという問いの立て方
富良野: この論文、入口はすごく地味に見えますよね。163本の論文を整理しました、という。でも読み進めると、実はかなり根本的なことを問うている気がしてきた。
Phrona: どのあたりでそう感じましたか。
富良野: 「mobilities(移動性)」という概念の定義のところです。論文はわざわざ、mobilityの単数形とmobilitiesの複数形を区別している。単数形は交通や移動の物理的な計測の話で、複数形になると「移動が社会的・物質的な現実をつくる」という話になる、と。
Phrona: 移動を量として測るのか、意味として読むのか、という違いですね。そういえば「senses of place」も複数形ですよね。
富良野: そこ、大事なんですよ。論文が「sense」ではなく「senses」と複数形にしているのは、場所への感覚が一種類ではないということを概念の名前に込めているからで。身体的な記憶として蓄積された感覚、自分のアイデンティティに場所が入り込んでいる感覚、その場所に根付いたコミュニティを通じて感じる帰属感——これらは別々に動いていて、同じ場所に対して同時に複数の層として存在している。
Phrona: しかも論文は、これらを「place attachment」という一つの概念に収めようとしない。愛着・同一性・意味・根付き——いろんな言葉で呼ばれてきたものを、senses of placeという傘概念で包みながら、その多様性を切り捨てない設計になっている。
富良野: そこから「場所の感覚(senses of place)」との nexus、つまり相互構成の関係という問いが立ち上がってくる。移動が場所感覚をつくり、場所感覚が移動を方向づける。この双方向の関係を正面から研究した論文が実は少ない、というのがこのレビューの出発点なんです。
Phrona: 双方向、というのが意外と見落とされがちなんですよね。どちらか一方向で因果を立てるほうが研究としては扱いやすいから。
富良野: 論文の数字がそれを裏付けていて、分析した163本のうち、双方向の関係を扱っているのはわずか15%でした。「場所感覚が移動に影響する」が43%、「移動が場所感覚に影響する」が42%で、ほぼ拮抗している。でも互いが互いをつくっている、という問い方は少数派。
Phrona: 研究の設計が、現象の複雑さを先に切り取ってしまっているということですよね。
「場所に根付く」と「移動する」は対立しない
富良野: 論文が理論的な背骨として置いているのが、本質主義と進歩主義という二つの場所論の対立なんです。本質主義は、場所のアイデンティティはその歴史的継続性・物理的安定性・内部の同質性から生まれると見る。ここで長く暮らしているから、ここが自分の場所だ、という感覚です。
Phrona: それに対して進歩主義は、場所は外部との関係性の産物だ、という立場ですよね。Doreen Massey の「グローバルな場所感覚」がその代表で、場所を閉じた容器ではなく、様々な力やモビリティが交差する節点として見る。
富良野: Massey がそれを言ったのが1991年で、グローバル化が本格化していた時期ですね。「場所の純粋さ」という発想自体を疑った。でも論文が面白いのは、どちらかが正しいと言わないところで、実証データで見ると両方が人々の経験の中に共存しているんです。
Phrona: Lewicka たちの研究で、人々は歴史的安定性や同質性といった本質主義的な特性を持つ場所を「より意味深い」と評価する傾向があった。でも同時に、場所の意味は参加者の相互作用によっても形成される。
富良野: そこで Di Masso たちが提案するのが、Fixity と Flow のスペクトラムという枠組みで。完全な固定性——一つの場所に深く根付いて、離れることが自分を失うことと感じる——から、完全な流動性——常に移動していて、特定の場所に感情的な紐帯を持たない——まで、人々の場所関係はその中間のどこかに位置する。
Phrona: 「根付き」と「移動」を対立として置くのをやめて、連続体として捉える、ということですね。それだけで見える景色がかなり変わる気がします。
富良野: 論文はさらにその連続体を四つのモードに整理していて。Push(押し出す力)とPull(引き寄せる力)、そして Resist(留まる)と Move(動く)の組み合わせで。気候変動や戦争という外部的な強制力があっても、場所への愛着が強ければ人は留まろうとする。逆に、より良い条件に引き寄せられて自発的に動いた人は、複数の場所に並行して愛着を育てることができる。
Phrona: 非移動(immobility)が「ただ動かない状態」ではなくて、積極的な選択や能動的な抵抗として研究されているのも、この枠組みがあってこそですよね。
富良野: ただ、この Fixity-Flow の枠組みを使っても、説明しきれないことが一つあって。それが「なぜ場所感覚は代替不可能に感じられるのか」という問いなんです。
Phrona: 代替不可能、というのはどういう意味で?
富良野: 再開発で育った街が壊されるとき、気候変動で故郷の海岸線が変わっていくとき、人が感じる喪失感って、「同等の別の場所があれば補えるはず」じゃないですよね。その場所でなければならない、という感覚がある。でも本質主義は「場所に固有の本質がある」と言うだけで、なぜそれが代替不可能なのかの説明になっていない。進歩主義は「意味は社会的に構築される」と言うけれど、それだと論理的には仮想空間に同じ意味付与が行われれば代替できるはずで、でも直観的にそうじゃない気がする。
身体は場所をどう知るのか
Phrona: 論文が知識ギャップとして挙げている「物理的特性の軽視」が、その辺りの話と繋がっているのかもしれません。生物物理的な文脈を詳しく扱った研究が6%しかない、という。
富良野: 場所への愛着を測る研究で広く使われているのが、place attachment スケールという質問票なんです。「私はXが自分の一部だと感じる」というような項目で、場所への愛着の強さを数値で測る。でもそこでのXが森なのか、工場地帯なのか、下町の商店街なのかは問わない。愛着の「強度」は測れるけれど、「何への」愛着かが分析から抜け落ちる。
Phrona: 場所の中身を問わずに、場所への感情だけを測っている、ということですね。
富良野: そこに身体性の問題があると思っていて。場所感覚の根拠って、つまるところ身体的な経験の蓄積じゃないですか。その場所の空気のにおい、地面の固さ、特定の季節の光の入り方。それが繰り返されることで、場所が身体に染み込んでいく。
Phrona: 論文に出てくるポーランド難民の話がまさにそれで。オーストラリアに移住した後、故郷と同じ種類の木を植えて、同じ植生のパターンを再現しようとした。単なる懐古じゃなくて、身体が覚えている感覚的な環境を、物質的につくり直そうとしているんですよね。
富良野: 場所への愛着は概念として頭の中に記憶されているわけじゃなくて、感覚として身体に刻まれている。だから離れた後も、その感覚の型を探し続ける。それを抽象的な「愛着の強度」に還元してしまうと、なぜ特定の木の種類にこだわるのかが見えなくなる。
Phrona: movement-space の話もここと繋がりませんか。移動って、たんに場所から場所へ移ることじゃなくて、その経路を身体が感覚的に経験していくプロセスですよね。毎日同じ道を歩くことで、その石畳の感触や、途中の公園の匂いが、だんだん身体に馴染んでいく。
富良野: 経路そのものが、一種の場所になっていくわけですね。論文の移動類型で「日常的移動(daily movement)」が研究全体の10%しかないのは、この意味でかなり大きなギャップだと思う。最も身体的で、最も日常的な移動が、最も研究されていない。
Phrona: さっきの「代替不可能」という問いに戻ると、ここに答えの糸口がある気がするんです。身体と物理的な場所が、長い時間をかけて関わり合ってきた——その堆積が、場所のユニークさの根拠になっているんじゃないか。
富良野: 場所そのものに固有の本質があるわけでもなく、人間が意味を付与するからでもなく、この身体がこの場所で積み重ねてきた経験の不可逆性、ということですよね。同じ浜辺に戻っても、「あの夏にあそこで足を濡らした」という経験は取り戻せない。場所が変わっていなくても、身体が変わっているから。
Phrona: それは本質主義にも進歩主義にも収まらない話ですよね。場所の側にあるのでも、人間の意味付与の側にあるのでもなく、両者が関わり合ってきた時間そのものに具象性が宿っている。
富良野: 論文が「物理的特性を背景情報として扱うな」と言いたいのは、おそらくその意味で、物理的特性は身体との関係の歴史が刻まれる素材だから、それを抜いてしまうと、場所感覚の代替不可能性が説明できなくなる。
仮想空間は場所感覚を持てるか
Phrona: 論文がもう一つ大きなギャップとして挙げているのが、仮想的・想像的な移動の研究が全体の6%しかない、という点ですよね。
富良野: インターネットの偏在性を考えたら、確かに少なすぎる。しかも論文のデータが2022年時点なので、生成AIが本格的に登場する前なんですよ。今はVRだけじゃなくて、AIが場所の視覚的な再現や物語化を行えるようになっている。テレイグジステンスという技術——触覚や力覚も含めた身体感覚をリモートで伝達する——も少しずつ現実に近づいている。
Phrona: そうなってくると、「物理的空間でしかできないこと」はどんどん減っていく。仮想空間と物理的空間の差異が、グラデーション化されていく。
富良野: ただ、そのグラデーション化は「類似性の増大」であって、「同一性の達成」ではないと思うんですよ。さっき話した「身体がその場所と関わってきた時間の堆積」は、どれだけ精緻に再現されても、仮想空間には移せない。不可逆性はコピーできない。
Phrona: そうか。仮想空間がどれだけリアルになっても、「あの場所で、あのとき、あの身体で経験した」という事実は変わらない。再現できるのは感覚の形だけで、その感覚が積み重なってきた時間の経緯は再現できない。
富良野: だから論文が残した「仮想移動の研究が少ない」というギャップは、これから技術が進むにつれて、量的な補完の問題ではなく、もっと根本的な問いに変わっていく気がします。仮想空間での経験は場所感覚を「生む」のか、それとも既存の場所感覚を「想起させる」だけなのか。その違いは、身体とその場所が関わってきた時間の堆積があるかどうかに、かかっているんじゃないかと。
Phrona: 本質主義でも進歩主義でもなく、「関係の不可逆性」という切り口でないと立てられない問いが、そこにある、ということですね。論文のフレームワークがまだ言葉を持っていない場所に、問いが生まれつつある。
場所を定義する権力
Phrona: 論文が最後に挙げている研究課題に、「権力ダイナミクスと不平等」があるんです。Motility という概念で——移動する潜在的能力の差異、という意味で使われていて。
富良野: 誰が移動でき、誰が移動できないか、という問いですよね。それは経済的・制度的な条件の差異であると同時に、場所感覚そのものの差異でもある。
Phrona: 気候変動で海面が上昇している地域の住民と、富裕層の環境移住は、物理的には同じ「移動」でも全く違う経験です。前者は場所との切断が強制されて disruption になる。後者は新しい場所に複数の愛着を育てられる integration になる。
富良野: そこにガバナンスの問いが入ってくる。気候適応政策でリスクゾーンからの移住を促進しようとするとき、住民の場所愛着が最大の障壁になることがある。「合理的に考えれば移住すべき」という政策設計が、場所感覚という次元を無視している。
Phrona: 「なぜ人は危険な場所に留まるのか」を非合理性として片付けるのではなく、場所への深い愛着——身体的な記憶の層、自分が「どこの人間か」というアイデンティティの層、そして共に暮らしてきたコミュニティとの紐帯の層——が重なった問題として理解することが、政策の前提になっていないといけない。
富良野: ただ、これは別の方向にも開くんですよ。誰が場所を定義するか、という問いとして。都市再開発でも、気候適応政策でも、「この場所はどんな意味を持つか」を決める権限が誰かに集中している。
Phrona: 計画する側が持っている場所の定義と、そこに住んでいる人が身体で覚えている場所の感覚は、ほとんど別物になっていることがある。
富良野: 参加型の都市計画が求められる理由の一つはそこで、住民のsense of placeを計画に統合しないと、計画の正当性が崩れる。でも「統合する」というのが実際どういうことか、は相当難しい問いで。場所感覚は言語化しにくいし、個人差も大きい。
Phrona: 身体で知っていることを、政策の言葉に翻訳するプロセスには、必ず何かが失われる。その「失われた何か」がむしろ場所感覚の核心だったりするんですよね。
富良野: そう考えると、nexus の研究が問うているのは最終的には、「場所に関する知識はどのように生産され、誰のものになるか」という認識論的な問いでもある、と思います。
Phrona: 論文が「研究の地図を描いた」と言うとき、その地図は誰が読み、誰のために使われるのか、という問いが残る。フレームワークはニュートラルではない、ということですね。
富良野: 論文が丁寧に残した空白——仮想移動・時間性・物理的特性・モバイルメソッド——は、埋めるべきギャップとして示されていますが、その空白の形そのものが、何が「研究に値する」とみなされてきたかの歴史を映している気もします。
ポイント整理
nexusとは「相互構成の問い」
場所感覚と移動性は、一方が他方の原因になるのではなく、互いを構成し合う。この双方向性を正面から扱った研究はわずか15%にとどまる。因果の方向を決めることで見えなくなるものが、研究の大部分で切り捨てられてきた。
senses of placeは複数の層からなる
「場所の感覚」は単一の愛着の強度ではなく、身体的記憶(物理的次元)・自己アイデンティティへの場所の折り込まれ(個人的次元)・共同体への帰属感(コミュニティ的次元)が同時に作動する複層的な経験だ。論文が「sense」ではなく「senses」と複数形を使うのは、その複数性を概念の名前に込めるためで、place attachmentという一語に収めることで失われるものを意識している。
Fixity-Flowスペクトラムの意義
「根付き」と「移動」を対立として置くのをやめ、連続体として捉える枠組み。人々の場所関係は完全な固定性と完全な流動性のあいだのどこかに位置し、push・pull・resist・moveの組み合わせで変動する。非移動(immobility)は受動ではなく能動的な選択として再定位される。
身体性は場所感覚の生成基盤
場所への愛着は抽象的な認知ではなく、身体的経験の反復と蓄積から生まれる。物理的特性を問わない研究設計は、「誰が」「どんな感覚で」場所を知っているかを分析から排除してしまう。場所論から身体を抜くと、場所は概念の容器になる。
場所のユニークさは「関係の不可逆性」に宿る
場所感覚が代替不可能に感じられる根拠は、場所そのものの固有の本質(本質主義)にも、意味付与する人間の側(進歩主義)にも単純には還元されない。この身体がこの場所と関わってきた時間の堆積——その不可逆性——が具象性の核心だ。同じ場所に戻っても身体が変わっているから「同じ経験」はできない。この「関係論的な具象性」という視点は、論文が知識ギャップとして挙げる物理的特性の軽視問題の、より深い層にある。
movement-spaceは場所になる
移動は場所と場所の間を通過することではなく、経路そのものが感覚的に積み重なる経験だ。毎日の通勤経路、繰り返す移動の道すじが、独自の場所感覚を形成する。日常的移動が研究の中で最も少ない類型の一つであることは、この次元の見落としを示している。
仮想移動のグラデーション化は同一性の達成ではない
VR・テレイグジステンス・AIが物理的空間との差異を縮めていくとき、それは「類似性の増大」であって「同一性の達成」ではない。身体がある場所と関わってきた時間の堆積は仮想空間には移せない。論文が残した仮想移動の知識ギャップは、量的な補完の問題ではなく、「不可逆性なき場所感覚は何を失っているか」という概念的な問い直しを要する。
ガバナンスは場所の定義権の問い
誰が移動でき誰が移動できないかは権力構造の反映だ。気候適応・都市計画において、住民の場所感覚を「非合理な抵抗」と見るか、身体と歴史に根付いた知識と見るかで、政策設計の倫理的前提が変わる。場所感覚を政策言語に翻訳するプロセスには必ず何かが失われ、その「失われたもの」こそが当事者にとっての場所の核心かもしれない。
キーワード解説
【場所の感覚(Senses of place)】
人と特定の場所との間に形成される認知的・感情的な結びつきの総称。場所愛着(Place attachment)、場所同一性(place identity)、場所の意味(place meaning)などを包摂する傘概念として使われる。複数形を使うのは、同一の場所に複数の異なる感覚が同時に成立しうることを示すため。
【移動性(Mobilities)】
単なる移動の計測(mobility)を超えて、移動が社会的・物質的現実をどのようにつくるかを問う概念。身体的移動(通勤・観光・移住)、仮想的・想像的移動(デジタル通信・VR)、非移動(immobility)の三類型を含む。「新モビリティパラダイム(new mobilities paradigm)」として社会科学の横断的研究領域を形成している。
【連接(Nexus)】
二つの現象が単なる相関関係ではなく、互いを構成し合う相互依存関係にあることを示す概念。Senses of place と mobilities の nexus とは、場所感覚が移動を方向づけ、移動が場所感覚を再構成するという双方向のプロセスを指す。
【Fixity-Flow スペクトラム】
Di Masso et al.(2019)が提案した分析軸。一方の極に「固定性(Fixity)」——一つの場所に根付いた安定的な場所関係——を、他方の極に「流動性(Flow)」——複数の場所を移動しながら複数の愛着を持つ状態——を置き、人々の場所関係はこの連続体上のどこかに位置すると考える。
【本質主義(Essentialism)と進歩主義(Progressive perspective)】
場所をめぐる二つの理論的立場。本質主義は場所のアイデンティティをその歴史的継続性・物理的安定性・内部の同質性から生まれるものとして捉える。進歩主義は場所を多様なアクターの相互作用と外部との関係性の産物として捉え、場所は「あるもの(being)」ではなく「なるもの(becoming)」だとする。
【移動潜在力(Motility)】
移動する潜在的能力の差異を指す概念。経済的条件・制度的許可・身体的能力・情報へのアクセスなど、移動を可能にする条件の不平等な分配を問題化する。誰が移動でき誰が移動できないかは、社会的権力構造の反映であり、場所感覚の形成にも根本的な差異をもたらす。
【スコーピング・レビュー(Scoping review)】
特定のテーマに関する既存研究の「地図を描く」ことを目的とした文献レビューの手法。系統的レビュー(systematic review)が特定の問いへの答えを求めるのに対し、スコーピング・レビューは研究の全体的な分布・概念の使われ方・知識ギャップの所在を明示することを目的とする。
【アサンブラージュ理論(Assemblage theory)】
場所を「物質性・表象・パフォーマティブな実践の複雑で動的な配置」として捉える理論的立場。固定した実体としての場所ではなく、異質な要素が一時的に結びついて形成される動的な配置として場所を理解する。場所感覚と移動性の相互構成を分析する概念的基盤の一つとして論文が援用している。