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技術と知識と秩序の話──トランプ政権によるハーバード攻撃の奥にあるもの 《その4》


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シリーズ: 行雲流水


技術と知識と秩序の話──トランプ政権によるハーバード攻撃の奥にあるもの

と題し、トランプ政権の言動を通じて浮かび上がった「反知性主義」というテーマをめぐって、富良野とPhronaが展開してきた仮想対話。


前回は、Web2.0以降の状況が、近代社会の知識秩序に対する「揺り戻し」として読み解けることを確認しました。


今回は、いままさに私たちの社会を根本から揺さぶりつつあるAIを題材に、「知識」と「真実」のあり方がどのように再編されつつあるのか、二人がさらに掘り下げていきます。



富良野:これまで私たちは、情報技術の革新が「知」や「真実」のあり方を変えてきた歴史を見てきましたが、いよいよAIの話に入りましょう。


Phrona:AIって、これまでの技術革新とは何か根本的に違うような気がしています。


富良野:まさにそうなんです。口承から文字、印刷、電信、マスメディア、そしてインターネットに至るまで、これらはすべて、人間が情報を生産し、伝達し、解釈するための「手段」に過ぎませんでした。


Phrona:でも、AIは違うということでしょうか?


富良野:ええ。AIの場合は、情報の生産や解釈そのものを機械が自律的に行います。しかも、その過程が私たちにとってブラックボックスになっているんです。


Phrona:「ブラックボックス」というのは、具体的にどういう意味ですか?


富良野:例えば、最近私もChatGPTを使っていますが、いかにも「それらしい」回答が返ってくるじゃないですか。でもその情報がどのように導き出されたのか、どうしてそれが正しいのか、私たちにはまったく見えないわけです。


Phrona:ああ、わかります!私も論文の下調べなどで使っていますが、「本当に正しいのかな?」と不安になることがあります。AIが生成する情報も出典や根拠を示してもらえば検証できるとは思いますが、実際には出典が曖昧だったり、論理の過程が不透明だったりして、簡単には確かめられないことが多いですよね。


富良野:その通りです。さらに厄介なのは、AIが提示する答えが「平均的な正しさ」の範囲を出ないという点です。大量のデータから学習しているため、AIは一般的で多くの人に無難に受け入れられる回答を出しがちです。それは統計的には「正しい」と言えるかもしれませんが、必ずしも本質的な意味での「真実」ではありません。


Phrona:つまり、異端的だけれど重要な視点や、まだ未成熟ながら革新的なアイデアといったものが、ますます見えにくくなってしまうということですね。


富良野:さらに問題を深刻化させているのが、AIの開発や運用がごく一部の巨大企業に集中している現状です。OpenAIやGoogleのような企業が、世界の「知」の生産と流通を事実上支配しつつある状況は、かつての教会や国家による知識管理より、ある意味でさらに強力かもしれません。


Phrona:「さらに強力」というのは、具体的にどういうことでしょうか?


富良野:教会や国家は、少なくとも建前上は公共的な存在であり、一定の説明責任がありました。しかし、AIを支配するこれらの企業は、純粋な利潤追求を目的とする私企業です。しかも、彼らが提供するサービスはあまりにも便利で魅力的です。


Phrona:だから、もう手放すのが難しくなっているんですよね。誰かに強制されているわけではなく、自分の意志で使っているはずなのに、実際にはなかなか離れられない。正直、私自身も頻繁にChatGPTを使っていますが、どこか罪悪感があります(笑)。


富良野:私もです(笑)。でも、そこにこそ罠がある気がするんですよね。私たちは便利さを享受する代わりに、知らず知らずのうちに知的な自律性を少しずつ手放してしまっている。


Phrona:確かに、これまでの技術革新と違って、私たちは今、思考や判断そのものをAIに委ね始めているわけですから…。歴史的に見ても、これほど深刻で危険なことはなかったんじゃないでしょうか。このまま進んだら、社会や個人のあり方はどうなってしまうんでしょうね?


富良野:実はその点に関して、最近ちょっと考えていることがあるんですけど。ジョージ・オーウェルとオルダス・ハクスリーは、ご存知ですよね?


Phrona:ああ、『1984年』と『すばらしい新世界』を書いた作家ですよね。


富良野:そうです。オーウェルは、権力が暴力的な監視や統制によって人々を支配する未来を恐れました。一方のハクスリーは、人間自身が快楽や情報の氾濫に溺れ、自ら進んで自由を放棄することを恐れたんです。現代社会を見ていると、この両者が同時に、しかも互いに強化し合うようにして起きているような気がするんですよ。


Phrona:ああ、確かに。SNSやAIが提供する「楽しさ」や「便利さ」を通じて、私たちは自発的に個人情報を提供し、進んで監視されている状態ですね。


富良野:まさにそうです。批評家のニール・ポストマンが興味深い指摘をしています。「オーウェルは、人間が憎むものによって破壊されることを恐れ、ハクスリーは逆に、人間が愛するものによって破壊されることを恐れた」と言うんです。


Phrona:私たちが愛するものというと…便利さや快適さ、エンターテインメントですよね。それって、まさに現代社会そのものじゃないですか。


富良野:そうなんです。SNSのフィルターバブルやエコーチェンバーといった問題は、自分と異なる意見に触れる機会が減り、思考が極端化する現象としてすでによく知られていますよね。でもAIは使い方を誤ると、それをさらに深刻にする可能性があると思います。


Phrona:分かります。現在のAIは基本的にユーザーの考えや感情を否定したり、批判的なフィードバックを与えたりしないよう設計されているので、私たちの意見を肯定的に受け止め、それをさらに論理的に補強してくれるようなところがありますよね。


富良野:まさしく。フィルターバブルやエコーチェンバーには、一応他者との相互作用があるけれど、AIとの対話は「他者との対話」のようでいて、実は単なる自分の独り言が肯定的に強化されて戻ってくるだけ、という構造になりかねません。謂わば「マイク・トゥ・ヘッドホン」、自分がマイクに向かって話している声を、そのままヘッドホンで聴いているような状況ですね。


Phrona:それって危険ですよね。本来は個人的で主観的な考えや感情なのに、それがまるで客観的かつ合理的な対話のように錯覚されてしまい、社会的な承認や共感を得ているかのように誤解してしまうことになりますから。


富良野:その通りです。そうした仕組みが、図らずも私たち一人ひとりを「匿名的大衆化」へと加速させているのではないかと、私は強く懸念しています。


Phrona:「匿名的大衆化」…それは具体的にはどういう状態を指すんでしょうか?


富良野:近代的な個人というのは、本来、自分自身の頭で考え、自律的に判断する主体だったはずです。でも、アルゴリズムに思考を委ねたり、感情的な反応に依存しすぎたりすると…。


Phrona:個人としての輪郭が曖昧になってしまい、大衆の中に埋もれてしまう、ということでしょうか?


富良野:その通りです。自分自身で考えたり、批判的な判断をしたりする力が弱まり、提供される快楽や刺激にただ流されるだけになってしまう状況ですね。


Phrona:なるほど。それってスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットが『大衆の反逆』の中で警鐘を鳴らしていた状況とよく似ていますね。


富良野:そうです。オルテガは、大衆化が進むと文化や政治、社会そのものが衰退してしまうと警告しました。さらには、そういった環境の中ではポピュリズム的な政治や全体主義が台頭しやすいとも指摘しています。


Phrona:ただ、『大衆の反逆』が書かれたのって20世紀初頭です。AIが登場するずっと以前から、こうした問題自体はあったわけですよね?


富良野:その通りです。ただAIは、その危険性をさらに新しい次元へと引き上げているように感じます。これまでの情報技術は主に、情報をどのように受け取るか、または伝えるかというレベルで変化をもたらしました。しかしAIの場合は、主体性を支える思考や判断そのものを、直接的に肩代わりするような影響力を持っているわけですから。


Phrona:言いたいことはよく分かりますが、「大衆化」を危険視する議論には、なんだかエリート主義的な響きも感じますよね。「愚かな大衆」を上から見下しているようなニュアンスというか…。


富良野:ああ、その指摘はもっともです。実際、オルテガの議論にもそうした批判が寄せられました。ただ、彼の言う「大衆」というのは、特定の階級や集団を指しているわけではないんです。むしろ、「自分自身の弱さや無責任さを自覚できず、批判的精神を失い、安易に多数派や権威に流される人々」を指しています。オルテガが重視したのは、社会的地位や職業、学歴や資産とは関係なく、一人ひとりが自らの内にある「大衆性」を自覚し、それを乗り越えていこうとする責任感や倫理的態度だったんですよ。


Phrona:なるほど…。単純な「エリート対大衆」という構図ではなくて、知識人やエリートとされる人の中にも「大衆」はいるし、誰でも「大衆」になり得るということですね?


富良野:そうなんです。そして歴史を振り返ってみると、「匿名的大衆化」が広がると、必ずそこにつけ込む者が現れることが分かります。


Phrona:トランプ現象も、まさにその典型ですよね。批判的な判断力を失った人々ほど、操作や誘導に簡単に流されてしまう。


富良野:さらに恐ろしいのは、現代の情報技術によって、個人の好みや弱点が完全に把握され、より精密で効果的な操作や誘導が可能になっているということです。


Phrona:しかも操作される側は、それを「パーソナライズされた快適なサービス」として歓迎してしまうわけですね…。


富良野:そうなんですよ。相手が抑圧や弾圧なら抵抗の仕方も分かりやすいですが、便利で楽しいサービスに対抗するのは、本当に難しい。


Phrona:それは結局、自分自身の欲望との戦いにもなるわけですね…。


富良野:さて、随分と長い話になりましたね。これまで情報技術が「知」のあり方をどう変えてきたのかを辿ってきましたが、そろそろ出発点に戻ってみませんか。


Phrona:ああ、トランプ政権によるハーバード大への攻撃の話ですよね。当初は単純に「反知性主義」の暴走だと思っていたんですが…。


富良野:ええ。でも私としては、その「反知性主義」という言葉そのものを、改めて問い直す必要があると思っているんです。英語だと「anti-intellectualism」ですよね。


Phrona:ええ、そうですね。それがどうかしました?


富良野:つまりこれは、「反・知性主義」なんですよ。知性そのものに反対する「反知性」の主義主張があるわけじゃなく、「intellectualism(知性主義)」という特定の態度や考え方への懐疑や反発だと捉える方が的確ではないかと思うんですよね。


Phrona: 「知性主義」というと、抽象的で普遍的な理論知を絶対視したり特権化したりする態度のことですかね。ただ、具体的に「知性主義」のどの部分が問題視されているのか、もう少し掘り下げて考える必要がありそうです。


富良野:普段あまり問題にされることが少ないですが、知性主義というのは、特定の種類の知性や知能だけを評価し、それ以外の知を排除するという、一種の差別的な構造を内包しています。


Phrona: 差別的な構造……?それは具体的にどういうことですか?


富良野: 例えばIQテストで測れるような抽象的思考能力を持つ人だけが「知的」であると評価され、それ以外の能力——感情的知性や身体的知性、実践的な問題解決能力など——は劣ったものとして扱われる。少し過激に聞こえるかもしれませんが、これはある種の「IQ差別」だと言えるかもしれません。


Phrona: なるほど。しかもその「抽象的思考能力」というもの自体、実際には特定の文化的背景や教育環境によって大きく左右されますよね。


富良野:まさにその通りです。本来は環境や教育の差でしかないものが、「生まれつきの知的能力の差」として評価されてしまう。その結果として、社会経済的な格差がまるで「能力差」によって生じたかのように正当化されてしまうんです。これはかつて人種差別や性差別が、生得的な差異を根拠に社会的不平等を正当化したのと、構造的には非常に似ていると思います。


Phrona: そう考えると、現代における「反知性主義」には、その差別的構造に抵抗する側面もあるということですね。


富良野:ええ、それを見落としてはいけないと思います。ただ一方で、反知性主義というものは知性主義の問題に「反対する」エネルギーは持っていても、そこから先の方向性を示せていないことも事実です。


Phrona: 批判はできても、代替案が提示できていない、ということですね。


富良野:そうです。だからこそ私たちは、反知性主義を感情的に拒絶したり、ただ切り捨てたりするのではなく、その批判の持つエネルギーを受け止めて、建設的な方向へと導いていく必要があるんじゃないでしょうか。


Phrona: 反知性主義はあくまで出発点であって、その先に、より豊かな「知」のあり方を構築していく必要がある、ということですね。ただ、実際にその建設的な方向性というのは、具体的にどのようなものになるのでしょうか?


富良野:私はそのヒントが、アリストテレスのいうフロネーシスにあるのではないかと思っているんですよ。


Phrona:フロネーシスというのは、具体的な状況において何が善いかを的確に判断する能力のことですね。理性だけでなく感情や身体性、倫理的な側面まで含んだ、もっと総合的な知のあり方だと理解しています。


富良野:はい。アリストテレスは知識を三種類に分類していました。理論的な知識であるエピステーメー、技術や技能に関わるテクネー、そして実践的な知恵であるフロネーシスです。近代以降の大学を中心とした知識秩序はエピステーメーを極端に重視する一方、企業社会やマスメディアは利益追求を目的としたテクネー中心の論理で動いていますよね。


Phrona:そうなると、フロネーシスがずっと見落とされてきたということになりますね。アリストテレス自身は、人が倫理的に善く生きるためにはフロネーシスこそが欠かせないと考えていたはずですが。


富良野:そうなんです。例えばある地域で問題が発生した場合を考えてみてください。その時必要なのは、目先の利益や数字だけで判断することではなく、地域の歴史や文化、人々がどのように感じているか、次世代にどんな影響を及ぼすかといった、広くて深い視点です。フロネーシスというのはこうした倫理的かつ総合的な判断力のことなのですが、残念ながら近代以降の知性主義は、このような実践的知恵を「主観的すぎる」「曖昧だ」という理由で軽視してきてしまったのだと思います。



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