top of page

敗北を超えて、問いは続く──『What Happened』から考える民主主義の行方

更新日:2 日前

 シリーズ: 書架逍遥


◆今回の書籍:Hillary Rodham Clinton 『What Happened』 (2017年)

  • 概要:2016年アメリカ大統領選挙での敗北について振り返った回顧録。個人的な感情、政治的分析、選挙戦の舞台裏を詳細に描き、アメリカの民主主義、女性の政治参加、現代政治の課題について深い洞察を提供している。



2016年の大統領選挙でヒラリー・クリントンが敗北してから9年。トランプ大統領が再選を果たした2025年の今、彼女の回顧録『What Happened』を読み返すと、そこに書かれていたのは過去の記録ではなく、現在進行形の警告だったことがわかります。


感情が政策を圧倒する政治、女性政治家への執拗な攻撃、フェイクニュースの蔓延、そして民主主義の制度そのものへの不信。クリントンが指摘した問題は、一時的な現象ではなく、アメリカ政治の構造的な特徴になってしまいました。


この本には、政策への執着と有権者の感情とのギャップに苦悩する政治家の姿と、運動のエネルギーを制度変革につなげる難しさが描かれています。今回は、架空の対話を通じて、この複雑な政治状況をひも解いていきましょう。経験豊富なコンサルタントの富良野と、人文知性の探究者Phronaが、お茶を飲みながら『What Happened』について語り合います。



選挙の夜から始まる物語


富良野:冒頭の選挙の夜の描写が印象的でした。ジャビッツ・コンベンションセンターのガラスの天井が、文字通り破れなかったという皮肉...


Phrona:ええ、あのガラスの天井のメタファーは痛烈でしたね。最初の楽観的な雰囲気から、だんだんと会場の空気が重くなっていく様子が生々しく描かれていて。でも私が気になったのは、彼女がベッドでビルと手をつないで天井を見つめていたという部分なんです。


富良野:ああ、確かに。政治家としての顔の裏にある、一人の人間としての喪失感が伝わってきますよね。


Phrona:そうなんです。でもね、富良野さん、この本を2025年の今読むと、まるで違う読み方ができません? 当時は敗北の記録だと思われていたけど、実は...


富良野:予言の書だった、ということですか。確かに、ロシアの選挙介入についての警告とか、民主主義の脆弱性についての指摘とか、その後の展開を考えると驚くほど的確でしたね。


Phrona:トランプを「プーチンにとって完璧なトロイの木馬」って表現していたでしょう? 当時は陰謀論みたいに言われてたけど。


富良野:その後の4年間、そして今回の再選を見ると、彼女の懸念は杞憂ではなかったということになりますね。でも僕が興味深いのは、彼女自身の限界についての自己分析なんです。


政策への執着という落とし穴


Phrona:ああ、「不満を飛ばして直接解決策に向かってしまう」っていう部分ですね。


富良野:そうです。雇用創出について語る前に「ここは我慢してください」って読者に謝るくらい、政策の詳細に執着していた。でもそれが有権者との距離を生んでしまった。


Phrona:面白いのは、彼女がそれを自覚していながら「単純に自制できない」って書いていることよね。まるで政策オタクの告白みたい。


富良野:実際、僕も仕事でよく経験するんですが、クライアントは解決策より、まず自分たちの痛みを理解してもらいたがるんです。


Phrona:そう! 感情の承認が先なのよね。でもクリントンさんは、感情を政策で解決しようとした。それ自体は間違ってないけど...


富良野:順番が逆だったのかもしれませんね。トランプは逆に、怒りと憤りをかき立てることだけに集中して、解決策はほとんど示さなかった。


Phrona:「伝統的な大統領選挙キャンペーン対リアリティTVショー」って彼女が表現してたけど、結果的にショーが勝っちゃった。


BLMとの緊迫した対話


富良野:そういえば、Black Lives Matterの活動家たちとの対話も興味深かったですよね。


Phrona:ああ、あれは本当に象徴的なエピソードだったわ。「心を変えるだけでは不十分、法律と政策を変えなければ」っていうアドバイス。


富良野:活動家たちからは「上から目線」って受け取られたらしいですけど。


Phrona:でもね、2020年のジョージ・フロイド事件後の運動を見ると、彼女の指摘は当たってたのかも。あれだけの怒りのエネルギーがあったのに、実際の制度変革は限定的だった。


富良野:「Defund the Police」のスローガンも、具体的な政策提案として機能しなかったですしね。


Phrona:ただ、私が思うのは、クリントンさんのアプローチも、活動家たちのアプローチも、どちらも必要だったんじゃないかって。


富良野:というと?


Phrona:怒りのエネルギーがなければ変革は始まらない。でも、そのエネルギーを制度に落とし込む仕組みがなければ、変革は続かない。両方必要なのに、なぜか対立構造になってしまう。


富良野:確かに。感情と戦略、情熱と実務、理想と現実...これらを統合できる政治家が必要なのかもしれませんね。


女性であることの重荷


Phrona:本の中で最も情熱的になっているのが、女性の政治参加についての章よね。


富良野:「なぜ本当に大統領選に出馬するのか」って繰り返し聞かれたって書いてました。男性候補には聞かないような質問を。


Phrona:まるで女性が野心を持つこと自体が異常みたいな扱い。で、面白いのは「成功すればするほど好かれなくなる」っていうシェリル・サンドバーグの言葉を引用してるところ。


富良野:実際、カマラ・ハリス副大統領も似たような攻撃を受けてますよね。パターンが全く変わってない。


Phrona:そう考えると、ガラスの天井はまだそこにあるのかもしれない。ひび割れはたくさん入ったけど、破れてはいない。


富良野:でも、クリントンさん自身も認めてるように、女性候補者特有の課題と向き合いながら、同時に普遍的な政治家としても評価されなければならない。そのバランスは本当に難しい。


メディアとフェイクニュースの時代


Phrona:私用メールサーバーの問題についての章も、今読むと違う意味を持ちますよね。


富良野:「愚かな間違い。しかし、さらに愚かなスキャンダル」って表現してました。


Phrona:実際、あれほど大きく報道される必要があったのかしら。一方で、ロシアの選挙介入については当時あまり注目されなかった。


富良野:メディアの優先順位の問題ですね。センセーショナルで分かりやすい話題に飛びつく傾向がある。


Phrona:それに加えて、ソーシャルメディアでのフェイクニュースの拡散。トロール、ボット、そして本物のロシア人たちが作り出す情報の洪水。


富良野:「民主主義において、人々が正確な情報を持たなければ、どうやって積極的な市民になれるのか」という問いかけは、今でも...いや、今こそ重要ですね。


サンダースという「もしも」


Phrona:バーニー・サンダースとの確執についても率直に書いてましたね。


富良野:「永続的なダメージを与えた」って批判してました。かなり強い言葉です。


Phrona:でもね、もしサンダースが候補になっていたら、それはそれで面白い選挙戦になったと思わない?


富良野:左派ポピュリズム対右派ポピュリズムの対決ですか。確かに、全く違う構図になったでしょうね。


Phrona:どちらも「怒れる有権者」に訴えかけるスタイル。クリントンさんみたいに政策の詳細を語るタイプじゃない。


富良野:ただ、サンダースが「社会主義者」を自称していることは、一般選挙では大きなハンディになったでしょう。


Phrona:そうね。結局、民主党は分裂したまま選挙に臨んで、それが敗因の一つになった。でも、これって今も続いている問題よね。


前を向いて歩き続ける


富良野:最後の章のタイトルが「Onward Together(共に前へ)」なのが印象的でした。


Phrona:敗北の後も、同じ名前の政治活動組織を立ち上げて活動を続けている。諦めないのよね、この人は。


富良野:「私たちは仕事をしている」という締めくくりの言葉も力強い。


Phrona:でも、私が一番心に残ったのは、「戦いで鍛えられた希望」っていう表現。甘い期待じゃなくて、現実を見据えた上での希望。


富良野:トランプが再選された今、その希望はどこにあるんでしょうね。


Phrona:わからない。でも、だからこそ問い続けることが大事なんじゃないかな。「What Happened」じゃなくて「What's Happening」を。


富良野:過去形じゃなくて現在進行形で、ですね。


Phrona:そう。この本が教えてくれるのは、民主主義は完成品じゃなくて、常に作り続けなければならないものだってこと。失敗しても、傷ついても、前に進み続けなければならない。


富良野:クリントンさんの個人的な敗北の物語が、実はもっと大きな物語の一部だったということですね。


Phrona:ええ。そして、その物語はまだ終わっていない。




ポイント整理


  • 2016年の敗北についての詳細な記録であると同時に、アメリカ民主主義の構造的課題への警告書

  • 女性政治家が直面する二重基準と性差別的な扱いの実態

  • 政策重視のアプローチと有権者の感情的ニーズとのギャップ

  • ロシアの選挙介入とフェイクニュースがもたらす民主主義への脅威

  • 運動のエネルギーを制度変革につなげることの重要性と困難さ

  • 個人的な敗北を社会的な行動に転換するレジリエンスの必要性



キーワード解説


【ガラスの天井】

女性の社会進出を阻む見えない障壁


【私用メールサーバー問題】

国務長官時代の私的メール使用を巡るスキャンダル


【ロシアの選挙介入】

2016年選挙への外国勢力による干渉


【エスタブリッシュメント】

既存の政治支配層


【ポピュリズム】

大衆の感情に訴える政治手法


【Onward Together】

クリントンが設立した政治活動組織



本稿は近日中にnoteにも掲載予定です。
ご関心を持っていただけましたら、note上でご感想などお聞かせいただけると幸いです。
bottom of page