文学は「心の技術」だった?――物語が脳を変える25の発明
- Seo Seungchul
- 6月18日
- 読了時間: 9分
更新日:6月30日

シリーズ: 書架逍遥
著者:アンガス・フレッチャー(Angus Fletcher)
出版年:2021年
概要:文学作品を「心理的技術」として分析し、古代から現代まで25の画期的な物語技法を脳科学・認知心理学の観点から解説
火を起こす技術、舟を作る技術、そして……物語を紡ぐ技術?
私たちは普段、文学を芸術や娯楽として捉えがちです。でも、もし物語が人類最古の「心を操作する技術」だったとしたら? アンガス・フレッチャーの『Wonderworks』は、まさにそんな興味深い問いかけから始まります。
紀元前2300年頃、古代メソポタミアの女流詩人エンヘドゥアンナは自らの詩集を「私が世界で初めて創り出したもの」と宣言しました。彼女は詩を「発明」と呼んだのです。フレッチャーはこの言葉を手がかりに、文学史を「失われたテクノロジーの連続発明史」として読み直していきます。
ホメロスの叙事詩が勇気を奮い立たせ、シェイクスピアの悲劇が悲嘆を癒やし、ジェイン・オースティンの小説が失恋から心を守る――これらは偶然ではなく、物語が人間の脳や感情に直接働きかける「装置」として機能している証拠だというのです。
今回は、文学研究と脳科学を横断するこの野心的な試みについて、富良野とPhronaが語り合います。物語は本当に私たちの心を「技術的に」変えることができるのでしょうか?
富良野:この本、かなり大胆な主張から始まりますね。文学を「テクノロジー」として捉えるって。
Phrona:ええ、最初はちょっと違和感がありました。でも、読み進めていくうちに、なるほどと思わされる部分も多くて。特に印象的だったのは、物語が単に感動を与えるだけじゃなくて、具体的に脳の働きを変えるという視点です。
富良野:たとえば第1章の「アルマイティ・ハート」ですよね。『イリアス』が交感神経とオキシトシン系を同時に稼働させて、恐怖を勇気に転化するメカニズムを持っているという。これ、現代の神経科学の知見を古典に当てはめているわけですが……正直、どこまで実証的なんだろうって思いません?
Phrona:たしかに、そこは気になりますよね。でも私、この本の面白さって、必ずしも科学的な厳密さだけじゃない気がするんです。むしろ、私たちが何となく感じていた物語の力を、新しい言葉で説明し直してくれるところにあるんじゃないかな。
富良野:ああ、それは面白い見方ですね。つまり、厳密な因果関係というより、物語体験を理解するための新しいフレームワークを提供している、と。
Phrona:そうそう。たとえばサッフォーの詩が「秘密の告白者」として機能するという説明。これって、恋愛詩を読むときの、あの独特の親密さをうまく言語化してますよね。まるで詩人が自分だけに秘密を打ち明けてくれているような感覚。
富良野:なるほど。でも僕が興味深いと思ったのは、むしろ第6章の「ヴィジランス・トリガー」のような概念です。ダンテの『神曲』が既成概念の檻を外すという。これって、文学が持つ批判的機能、つまり社会を揺さぶる力を技術として捉え直しているわけでしょう?
Phrona:ええ、そこは重要なポイントですよね。文学を単なる癒やしや感動の装置としてだけじゃなく、思考を解放する道具としても位置づけている。でも、ちょっと待って。これって、文学の持つ複雑さや曖昧さを、あまりにも機能主義的に還元しすぎてないかしら?
富良野:その懸念、よくわかります。たとえば『ハムレット』を「ソロウ・リゾルバー」、つまり悲しみを解決する装置として読むとき、あの作品の持つ解釈の多様性とか、答えの出ない問いかけの部分はどこに行っちゃうんだろうって。
Phrona:そう! ハムレットって、むしろ悲しみを「解決」なんてしないで、ずっと悩み続ける物語じゃないですか。その宙吊り感こそが魅力なのに。
富良野:ただ、フレッチャーの擁護をするなら、彼は必ずしも作品を一つの機能に還元しているわけじゃないんですよね。むしろ、これまで見過ごされてきた物語の「効果」の側面に光を当てようとしている。
Phrona:ああ、それはそうかも。私たちって、文学を語るとき、つい内容の解釈とか象徴の分析に偏りがちだけど、読書体験が実際に読者に何をもたらすかって視点は案外抜けてたりしますもんね。
富良野:そうそう。第17章の「意識の川辺」なんて、まさにその好例です。ヴァージニア・ウルフの意識の流れを、瞑想効果を生む技術として読み解く。これ、モダニズム文学の難解さを、むしろ積極的な機能として捉え直してるんですよ。
Phrona:なるほど、難解さにも意味があるってことね。でも私、第18章の「アナーキー・ライマー」の説明がすごく腑に落ちたんです。『不思議の国のアリス』のナンセンスが創造性を養うって。子供の頃、意味不明な言葉遊びにワクワクした記憶が蘇ってきて。
富良野:ああ、規則を破ることで、かえって新しい可能性が開けるという。これ、制度設計の観点からも興味深いんですよ。既存のシステムを揺さぶることで、イノベーションが生まれるという発想と通じるものがある。
Phrona:そういえば、この本全体を通して感じたんですけど、フレッチャーって結構楽観的ですよね。文学の力を信じているというか。第7章の「フェアリーテール・ツイスト」とか、まさにそう。シンデレラ的な逆転が悲観主義を払拭するって。
富良野:たしかに。でも、現実はそんなに甘くないぞって言いたくなる部分もありますよね(笑)。ただ、面白いのは、彼が単純な楽観主義じゃなくて、むしろ文学という技術を使いこなすことで、人生をより良くできるって提案している点です。
Phrona:ああ、つまり文学を「処方箋」として使うってことですか。勇気が欲しいときは英雄譚を、孤独なときは長編小説を、みたいな。
富良野:そう、まさにそれです。でも、ここで気をつけたいのは、これが機械的な処方じゃないってことなんですよね。読者と作品の出会いには、やっぱり予測不可能な化学反応がある。
Phrona:そうそう! 私、第25章の「チャイルドフッド・オペラ」の説明を読んで思ったんです。エレナ・フェッランテの『ナポリの物語』が孤独を和らげるって書いてあるけど、あの作品って、友情の美しさだけじゃなく、嫉妬とか裏切りとか、すごくドロドロした部分も描いてるじゃないですか。
富良野:ええ、そこなんですよ。フレッチャーの面白いところは、単純な癒やしじゃなくて、複雑な感情体験を通じて、逆に深い繋がりを感じられるって指摘している点です。孤独が和らぐのは、きれいごとじゃない人間関係の真実に触れるからかもしれない。
Phrona:なるほど……。そう考えると、この本が提示している「技術」って、単純な因果関係じゃなくて、もっと複雑で豊かなものなのかも。物語と読者の間で起こる、予測できない何か。
富良野:そうですね。最終章でフレッチャーが言っている「物語の発明は今なお続いている」という言葉も、そういう意味で理解できるかもしれません。新しい物語は、新しい心の動かし方を発明し続けている。
Phrona:ええ。そして私たち読者も、物語を読むたびに、自分なりの使い方を発明してるのかもしれませんね。この本を読んで、改めて思いました。物語って、やっぱり不思議な力を持ってる。それを「技術」と呼ぶかどうかは別として。
富良野:同感です。少なくとも、この本は文学について考える新しい視点を提供してくれた。それ自体が、ある種の「発明」なのかもしれませんね。
ポイント整理
文学作品を「心理的技術」として分析する新しいアプローチ
読書体験の「効果」に着目し、文学の実用的側面を再評価
単純な機能主義ではなく、複雑な感情体験を通じた変容を重視
文学を人生の様々な局面で活用できる「道具箱」として提案
古代から現代まで25の物語技法を、脳科学・認知心理学の観点から解説
アルマイティ・ハート(『イリアス』)- 恐怖を勇気に転化する壮大な感情ポンプ
シークレット・ディスクローザー(サッフォーの詩)- 秘めた思いを代弁し恋心を再燃させる
エンパシー・ジェネレーター(『ヨブ記』)- 他者の苦痛への共感で怒りを鎮める
セレニティ・エレベーター(イソップ寓話)- 悩みを俯瞰し心を上空に浮かせる
未来から語られる物語(『スンジャータ』)- 結末を先取りして好奇心を爆発させる
ヴィジランス・トリガー(『神曲』地獄篇)- 既成概念の檻を外し思考を解放する
フェアリーテール・ツイスト(シンデレラ)- どん底と奇跡の反転で悲観を払拭
ソロウ・リゾルバー(『ハムレット』)- 悲劇的浄化による悲嘆からの癒やし
マインド・アイ・オープナー(ジョン・ダンの詩)- 奇抜な比喩で絶望の霧を払う
バタフライ・イマーサー(『紅楼夢』)- 夢幻的体験で自己受容を促進
バレンタイン・アーマー(『エマ』)- 愛とアイロニーで失恋から心を守る
ストレス・トランスフォーマー(『フランケンシュタイン』)- 恐怖を活力に変換
バーチャル・サイエンティスト(ポーの推理小説)- 謎解きで論理的思考を刺激
ライフ・エヴォルバー(『告白』)- 自己の変容プロセスで成長を促す
グラティテュード・マルチプライヤー(『ミドルマーチ』)- 失敗を感謝に転換
セカンド・ルック(『羅生門』)- 多視点で固定観念を解除し思考をクリアに
意識の川辺(ウルフ作品)- 内的独白の流れで瞑想効果を生む
アナーキー・ライマー(『不思議の国のアリス』)- ナンセンスで創造性を解放
ヒューマニティ・コネクター(『アラバマ物語』)- 共感と倫理判断を同時起動
レボリューション・リディスカバリー(『百年の孤独』)- 魔術的リアリズムで変革を再発見
ダブル・エイリアン(『闇の左手』)- 二重の異郷体験で賢明な判断力を養う
チューズ・ユア・オウン・アカンプリス(『歌え、翔べない鳥たちよ』)- 物語の伴走者と自己信頼を構築
クリニカル・ジョイ(ベケット作品)- 絶望の中の微細な喜びで心を解凍
ウィッシュ・トライアンファント(『30 ROCK』)- コメディと空想で夢を実現可能にする
チャイルドフッド・オペラ(『ナポリの物語』)- 長大な人間ドラマで孤独を和らげる
キーワード解説
【失われたテクノロジー】
文学を技術として捉え直す基本概念
【エンヘドゥアンナ】
紀元前2300年頃の女流詩人、詩を「発明」と呼んだ
【脳科学と物語論】
本書の分析の基盤となる学際的アプローチ
【カタルシス】
悲劇による感情の浄化作用
【交感神経とオキシトシン系】
物語が作動させる生理的メカニズム
【意識の流れ】
モダニズム文学の技法、瞑想効果を生む
【自由間接話法】
オースティンが駆使した二重視点の語り
【魔術的リアリズム】
現実と幻想を交錯させる物語技法
【メタ視点】
物語を物語として意識させる技術
【デフォルトモードネットワーク】
創造性と関連する脳の状態