本が薬になる時代?──ビブリオセラピーの知られざる真実
- Seo Seungchul
- 6月25日
- 読了時間: 11分
更新日:7月1日

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事:Katarina Zimmer "How bibliotherapy can both help and harm your mental health" (BBC Future, 2025年6月17日)
本を読むことで心が軽くなった経験はありませんか?小説の主人公に自分を重ね合わせたり、自己啓発書からヒントを得たり。こうした読書体験を意図的に治療やケアに活用する「ビブリオセラピー」が、近年メンタルヘルス分野で注目を集めています。
特に新型コロナウイルス感染症以降、心理的なサポートへのニーズが高まる中、比較的手軽でコストが抑えられるこの手法は一見魅力的に見えます。英国のNHSでは書籍を処方する制度も始まり、カナダではうつ病や不安障害の治療選択肢として正式に認められています。
しかし、富良野とPhronaは、この現象の背後にある複雑さに気づきました。読書が持つ治癒力と同時に、それが生み出す可能性のある副作用や限界についても。科学的根拠はあるのか、どんな人には適さないのか、そして社会がこの手法に期待しすぎていないか―。
心理学とテクノロジーが交わる現代において、私たちが読書との関係をどう理解し、メンタルヘルスへの向き合い方をどう見直すべきか。その複雑な地形を、二人が対話を通じて探っていきます。
ビブリオセラピーって何だろう?
富良野: この「ビブリオセラピー」って、調べてみると思ったより奥が深いですね。単純に「読書が健康にいい」という話じゃなくて、きちんとした治療体系があるんだ。
Phrona: そうなんです。私も最初は「本を読んで気分転換」程度のイメージでしたけど、実際には第一次世界大戦の頃から本格的に発展した治療法で、兵士の苦痛やトラウマを和らげるために小説やノンフィクションが使われていたそうです。1916年にサミュエル・クローザースが正式に名付けたんですよね。
富良野: なるほど。僕が面白いと思ったのは、二つのアプローチがあることなんです。一つは認知行動療法のワークブックのような、いわゆる「処方的ビブリオセラピー」。もう一つは小説や詩を読んで、登場人物に自分を重ね合わせる「創作的ビブリオセラピー」。
Phrona: その二つの違いって、すごく本質的な問題を含んでいませんか?前者は「問題解決」、後者は「体験の共有」とでも言うか。でも実際の読書体験って、そんなにきれいに分けられるものでしょうか。
富良野: たしかに。僕らが普段本を読むとき、「これで治療しよう」なんて意識してませんからね。でも、結果的に心が軽くなることはある。その偶然性と、意図的な治療としての読書の間には、何かギャップがありそうです。
効果があるのは本当?
Phrona: 研究データを見ると、確かに効果は示されているんですよね。うつ病への効果では、中程度から大きな効果サイズが報告されています。ただ、私が気になるのは、どの研究も比較的短期間の観察なんです。
富良野: ああ、それは大事な視点ですね。長期的な効果についてはまだ十分な研究がない。それに、「効果がある」と言っても、誰にでも等しく効くわけではないでしょう。
Phrona: そうなんです。実際、精神病で現実と虚構の区別がつかない状態の人や、知的障害があって読解に困難がある人には推奨されていません。つまり、ある種の「読書能力」が前提になっている。
富良野: それって結構重要な限界ですよね。メンタルヘルスの支援が必要な人の中には、まさにそういう状況にある人も多いわけで。「読書で治療」と言われても、そもそも読書が困難な状況だったりする。
Phrona: ええ。しかも、文化的背景も影響しそうです。どんな物語に共感するか、どんな価値観で本を読むかは、育ってきた環境に大きく依存しますから。
素人療法の危険性
富良野: でも一番気になるのは、資格のない人が「ビブリオセラピスト」を名乗っているケースがあることなんです。特にイギリスの例で、エラ・ベルスードという人が1回100ポンドで本の推薦をしているという話がありました。彼女は『小説の処方箋』という本の共著者で有名なんですが、実際には心理学の正式な訓練は受けていないようです。
Phrona: それは微妙な問題ですね。読書って、表面的には害がなさそうに見えるけれど、間違った本を間違ったタイミングで読んだら、かえって症状が悪化する可能性もあるじゃないですか。実際、摂食障害の人が摂食障害をテーマにした小説を読むと、症状が悪化するという研究結果もあるそうです。
富良野: そうなんです。オックスフォード大学のエミリー・トロシアンコ研究者が900人近くを対象に行った調査では、摂食障害の経験がある人が摂食障害をテーマにした小説を読むと、気分や自尊心、食事習慣が悪化する傾向があったそうです。中には、意図的にそういう本を探し求める人もいたとか。
Phrona: それは深刻ですね。文学の「同一化」効果が、逆に働いてしまうケースということか。本来なら治癒的であるはずの「キャラクターとの共感」が、かえって病的な競争心や強迫観念を刺激してしまう。
富良野: 特に現代はネットで簡単に情報が手に入るから、「ビブリオセラピー用ブックリスト」みたいなものも出回ってますよね。でも、それを見て自己判断で選んだ本が、その人の状況に適しているかどうかは別問題です。
効果的な読書体験の条件
Phrona: ただ、きちんとした研究で効果が示されているケースもありますよね。サセックス大学のジュリア・ポエリオ研究者の実験では、高齢者94人にオーディオブックを聞いてもらったところ、2週間後でも幸福感が向上していたそうです。
富良野: でも、その効果があったのは「深く関与した」人だけだったんですよね。本に感情的に巻き込まれ、没入し、共鳴し、lasting impressionを受けた人。単に本を与えられただけでは効果がない。
Phrona: それって、とても大事な発見だと思います。ビブリオセラピーの効果は「本そのもの」にあるのではなく、「読者と本の関係性」にあるということですから。同じ本でも、人によって、タイミングによって、全く違う体験になる。
富良野: ロンドン学際学校のジェームズ・カーニー研究者も面白いことを言ってました。読書の後で、特に他の人と一緒に本について振り返ることで、wellbeingへの効果がずっと大きくなるって。つまり、読書という個人的体験を、対話という社会的体験に変換することの重要性ですね。
Phrona: 「本について語る」ことの力ということか。小説の登場人物は現実から隔離されているからこそ、安全に困難な社会的シナリオをリハーサルできる。そして、それを他者と共有することで、さらに深い学びが生まれる。
個人の体験と制度の狭間で
Phrona: 面白いデータがあったんですけど、アメリカの調査では、メンタルヘルスの自助手段として、人々はデジタル介入よりも印刷物を好む傾向があるそうです。これって意外じゃないですか?
富良野: 確かに。普通は「デジタルネイティブ世代は全部スマホで」って思いがちですが、こと心の問題となると、物理的な本に安心感を求めるのかもしれませんね。
Phrona: 本を手に取る、ページをめくる、そういう身体的な行為そのものが、治療的な意味を持つのかもしれません。デジタルだと、どうしても他の情報や誘惑にさらされやすいし。
富良野: それに、本って「完結性」がありますよね。一冊の中に始まりと終わりがある。ネットの情報は際限がないから、かえって不安を増大させる場合もある。ビブリオセラピーにおける本の物理性って、実は重要な要素なのかも。
Phrona: でも一方で、チャットボットを使った認知行動療法なんかも出てきていて、これはこれで一定の効果があるという研究もあります。結局、媒体の問題というより、その人に合った方法を見つけることが大切なのかな。
社会的な期待と現実のズレ
富良野: 僕が構造的に気になるのは、ビブリオセラピーが注目されている背景なんです。心理学者やカウンセラーの数が圧倒的に足りない、医療費を抑制したい、そういう社会的なニーズがあって推進されている面もありますよね。
Phrona: ああ、それは鋭い指摘です。本当に患者さんのためを思って勧めているのか、それとも制度の都合で「安上がりな代替手段」として位置づけられているのか。その境界は曖昧ですね。実際、イギリスのReading Wellプログラムは2013年から390万冊もの本を貸し出していて、確実にニーズはあるんでしょうけど。
富良野: コネティカット州の教師エリザベス・ラッセルの体験談は印象的でした。離婚の困難な時期に、エラ・ベルスードから推薦された本を読んで、「私の中で開かれる必要があった何かが開かれ、癒される必要があった」と語っている。個人の体験としては確実に価値があったということですよね。
Phrona: でも、だからといってビブリオセラピー自体を否定するのも違う気がします。きちんとした専門家の指導のもとで、他の治療法と組み合わせて使うなら、確実に価値はあると思うんです。NHS医師のアンドリュー・シューマンも「他の治療法と組み合わせれば、大きく治療効果を高める力がある」と言ってましたし。
富良野: そうですね。問題は「これだけで十分」という誤解や、「誰にでも効く万能薬」的な扱いをすることで。適切な位置づけと限界の認識があれば、有用なツールになり得る。
Reading Wellプログラムも、摂食障害については実体験を扱った小説は除外して、実用的なサポート本だけを推薦するようになったそうですし。
文学の持つ力と危険性
Phrona: でも、私気になっていることがあって。文学って本来、人間の複雑さや矛盾を描くものじゃないですか。それを「治療」という目的で読むとき、その豊かさが逆に損なわれないかって。
富良野: 面白い視点ですね。文学の「毒」みたいな部分―読者を不安にさせたり、既存の価値観を揺さぶったり―そういうものも含めて文学なのに、「癒し」だけを期待するのは一面的かもしれません。
Phrona: そうなんです。カフカの『変身』を読んで元気になる人もいれば、さらに落ち込む人もいる。でも、どちらも「正しい」反応だと思うんです。ビブリオセラピーが「正しい効果」だけを期待するようになったら、文学の本質を見失いそうで。
富良野: その意味では、ビブリオセラピーを実践する専門家には、文学の理解と心理学の知識の両方が必要なんでしょうね。単に「この症状にはこの本」というマニュアル的な対応では不十分で。
Phrona: 最終的には、読書という行為そのものが持つ複雑さを、私たち社会全体がもう少し理解する必要があるのかもしれません。万能薬でもないし、無害でもない。でも、適切に使えば確実に人を支える力がある。
富良野: ビブリオセラピーの議論を通じて見えてくるのは、結局、人間と文学の関係性の奥深さですよね。それを軽視せずに、でも過大評価もせずに、丁寧に扱っていく姿勢が大切なのかもしれません。
ポイント整理
ビブリオセラピーには二つの主要なアプローチがある
認知行動療法に基づく処方的アプローチと、文学作品を用いた創作的アプローチに分かれ、それぞれ異なる理論的背景を持つ
個人体験と科学的根拠の乖離
多くの人が個人的に読書の治癒効果を実感しているが、特定の精神疾患治療における高品質な科学的研究は不足している
読書の「害」も存在する
摂食障害患者が関連小説を読むと症状悪化、依存症患者が薬物使用を描いた作品で引き金が引かれるなど、マイナス効果のリスクがある
効果的な読書には条件がある
単に本を与えるだけでは不十分で、深い感情的関与と読後の振り返り(特に他者との対話)が重要である
Reading Wellプログラムの実績
イギリスで2013年から390万冊を貸し出し、81%の利用者が「自分の健康ニーズをよりよく理解できた」と回答
デジタル化への抵抗
メンタルヘルス領域では印刷物への選好が残っており、物理的な読書体験の重要性が示唆される
文学の本質との緊張関係
治療目的での読書が、文学本来の複雑性や多面性を単純化するリスクがある
キーワード解説
【ビブリオセラピー(Bibliotherapy)】
書籍や文学を治療的に活用する心理療法の一種
【処方的ビブリオセラピー】
自己啓発書やワークブックを用いた構造化されたアプローチ
【創作的ビブリオセラピー】
小説や詩などの文学作品を通じた感情的・認知的変化を目指すアプローチ
【深い関与(Deep Engagement)】
読書において感情的に巻き込まれ、没入し、共鳴する状態
【同一化・カタルシス・洞察・普遍化】
ビブリオセラピーの治癒過程における四つの段階
【Reading Wellプログラム】
イギリスの非営利団体The Reading Agencyが運営する書籍推薦制度
【トリガー効果】
特定の内容が症状悪化や問題行動の引き金となる現象
【効果サイズ】
治療効果の大きさを統計的に示す指標(中程度=0.5、大=0.8以上)
【認知行動療法(CBT)】
思考パターンと行動の変化を通じてメンタルヘルスを改善する心理療法
【NHS(国民保健サービス)】
イギリスの公的医療制度
【デジタル・メンタルヘルス介入】
アプリやウェブサイトを通じたメンタルヘルス支援