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理想は遠いけど、現実は変えられる──『隷属なき道』が示すもうひとつの選択肢

 シリーズ: 書架逍遥


◆今回の書籍:Rutger Bregman 『Utopia for Realists: How We Can Build the Ideal World』 (2017年)

  • 邦題:『隷属なき道――AIとの競争に勝つ ベーシックインカムと一日三時間労働』



現代社会は豊かになったはずなのに、なぜか幸せを実感できない。そんな違和感を抱いている人は多いのではないでしょうか。仕事に追われ、将来への不安を抱え、社会の分断も深まるばかり。でも、もしこの現実を根本から変える方法があるとしたら?


ルトガー・ブレグマンの『隷属なき道』(原題:Utopia for Realists)は、まさにそんな問いに答えようとする野心的な本です。ベーシックインカム、週15時間労働、国境開放……一見すると夢物語のような提案ですが、著者は豊富なデータと歴史的事例を駆使して、これらが決して荒唐無稽な理想論ではないことを示します。


今回は、富良野とPhronaが、この刺激的な本について語り合います。二人の対話を通じて、私たちが当たり前だと思っている社会の仕組みを、もう一度見つめ直してみませんか。




お金を配れば貧困は解決する?


富良野:この本の「現実主義者のためのユートピア」ってタイトルって、面白いですね。著者のブレグマンはただの理想主義者じゃない。むしろデータと実証研究で武装した現実主義者という印象を受けました。


Phrona:そうですね。特に印象的だったのは、貧困の解決策はシンプルに「お金を配ること」だという主張。普通は、貧しい人にお金をあげたら怠けてしまうって考えがちじゃないですか。でも実際のデータは逆を示している。


富良野:カナダのドーフィンで行われた実験が興味深かったですね。1970年代に約1000世帯にベーシックインカムを支給したら、労働時間は1〜5%しか減らなかった。しかも高卒率は上昇し、病院の入院率や家庭内暴力は減少した。


Phrona:人間って、基本的には働きたいんですよね。意味のあることをしたい、誰かの役に立ちたいって。お金の心配がなくなると、むしろその本来の欲求が解放されるのかもしれません。


富良野:経済学的に見ても合理的なんです。貧困を放置すると、犯罪対策費、医療費、教育の機会損失などで社会全体のコストが膨大になる。それなら最初から現金を配った方が安上がりだという。


Phrona:でも、なんだか人間を数字でしか見ていないような気もして……。貧困って、お金だけの問題じゃないですよね。尊厳とか、社会とのつながりとか。


富良野:たしかに。でもブレグマンが面白いのは、現金給付こそが尊厳を守る方法だと言っている点です。複雑な条件付き福祉は、受給者を監視し、プライバシーを侵害し、常に「本当に困っているか」を証明させ続ける。それより無条件でお金を渡す方が、人としての尊厳を保てるって。


Phrona::ああ、なるほど。信頼されているという感覚が大事なんですね。疑われ続けるより、信じてもらえる方が人は前向きになれる。


週15時間労働は夢物語か


富良野:もう一つの大きなテーマが労働時間の短縮です。ケインズは1930年に「2030年には週15時間しか働かなくなる」と予測したけど、現実は逆行している。なぜだと思います?


Phrona:うーん、私たちが「もっと豊かに」を追い求め続けているからでしょうか。洗濯機や掃除機で家事が楽になったはずなのに、その分外で働く時間が増えちゃった。


富良野:僕は分配の問題が大きいと思うんです。生産性向上の果実が一部の人に集中して、多くの人は相変わらず長時間働かないと生活できない。もし利益がもっと公平に分配されれば、みんなが労働時間を減らせるはずです。


Phrona:でも正直、週15時間って想像できますか? 私、暇を持て余しちゃいそう……。


富良野:そこがポイントなんですよ。僕たちは仕事に依存しすぎているのかも。オスカー・ワイルドの「仕事とは他に何もすることがない人々の避難所だ」という皮肉な言葉を、ブレグマンも引用していましたね。


Phrona:痛いところを突かれた感じ(笑)。でも実際、余暇が増えたら何をしたらいいんでしょう。創造的な活動とか言われても、みんながアーティストになれるわけじゃないし。


富良野:そこは徐々に学んでいくものかもしれません。産業革命前の人々は、今よりずっと少ない労働時間で生活していました。祭りや社交、工芸、音楽……生産性とは関係ない活動に時間を使っていた。


Phrona:現代人は「生産的でなければ価値がない」って刷り込まれちゃってるのかな。でも、ただぼーっとする時間だって、人間には必要ですよね。


富良野:面白いのは、労働時間短縮が環境問題の解決にもつながるという指摘です。通勤や オフィス運営のエネルギー消費が減れば、CO2排出量も大幅に削減できる。


Phrona:へえ、そんな効果も。でも企業は嫌がるでしょうね。みんなが週3日しか働かなくなったら。


富良野:歴史を見ると、週5日制だって最初は「非常識」と言われていたんです。ヘンリー・フォードが導入した時は批判されたけど、結果的に休養した労働者の方が生産的だと証明された。同じことが起きるかもしれません。


本当に価値ある仕事とは何か


Phrona:この本で一番心に刺さったのは、「ブルシット・ジョブ」の話です。自分の仕事が社会的に無意味だと感じている人が驚くほど多いって。


富良野:ニューヨークのごみ収集労働者のストライキの例が印象的でしたね。彼らがいなくなったら1週間で街がスラム化した。一方で、高給取りの金融ディーラーが消えても、社会への影響はそこまで顕著じゃないかもしれない。


Phrona:でも金融だって必要でしょう? お金の流れを作らないと経済が回らない。


富良野:必要な部分はもちろんあります。でもブレグマンが批判しているのは、実体経済に貢献しない投機的な取引です。富を生み出すのではなく、ただ移し替えているだけ。しかもそういう仕事の方が高給だったりする。


Phrona:確かに変ですよね。看護師さんとか保育士さんとか、本当に社会を支えている人たちの給料が安くて。でも市場原理だから仕方ないのかな……。


富良野:そこで思考停止しちゃダメなんです。ブレグマンは「価値を決めるのは市場じゃなく社会だ」と言っています。僕たちが何に価値を認め、どこに資源を配分するかは、社会全体の選択なんです。


Phrona:じゃあ、もっと教育や医療、介護に投資すべきってこと?


富良野:そうですね。ハーバード大学の研究では、研究者が1ドル稼ぐごとに5ドル以上の価値が経済にもたらされるけど、銀行が1ドルの利益を上げるごとに0.6ドル相当が経済の他の場所で破壊されているという試算もあるそうです。


Phrona:えっ、マイナスなの? それはちょっと極端な気も……。


富良野:確かに単純化しすぎかもしれません。でも、優秀な人材が金融業界に集中しすぎている現状は問題でしょう。もっと研究や教育、社会的な課題解決に人材が向かえば、長期的には社会全体が豊かになる。


Phrona:私、思うんですけど、意味のある仕事って人それぞれ違いますよね。誰かにとっては無意味でも、本人にとっては大切だったり。


富良野:もちろんです。ただ、多くの人が「これって本当に必要?」と疑問を感じながら働いているのも事実。そういう状況を変える必要はあるでしょう。


AIと人間の未来


Phrona:AIの話も出てきましたね。将来、多くの仕事が自動化されるって。


富良野:オックスフォード大学の研究では、20年以内にアメリカの全職種の47%が自動化のリスクにさらされているとか。これは避けられない流れでしょうね。


Phrona:じゃあ、みんな失業しちゃうの?


富良野:だからこそベーシックインカムが必要だとブレグマンは主張しています。全員がフルタイムで働かなくても生活できる仕組みを作る。仕事が機械に奪われても、人間らしい生活は保障される。


Phrona:でも仕事って、お金のためだけじゃないですよね。アイデンティティとか、社会とのつながりとか。それがなくなったら……。


富良野:新しい形の活動が生まれるんじゃないでしょうか。ボランティアとか、芸術活動とか、コミュニティ活動とか。賃金労働だけが価値ある活動じゃない。


Phrona:うーん、理屈はわかるけど、やっぱりピンとこない。私たち、仕事に縛られすぎてるのかな。


富良野:そうかもしれません。でも変化は徐々に起きるものです。在宅勤務だって、コロナ前は「無理だ」と言われていたのに、今では当たり前になりつつある。


Phrona:確かに。意外と適応できるものなんですね、人間って。


国境は必要なのか


富良野:最後の大きなテーマが国境開放です。これは相当ラディカルな提案ですよね。


Phrona:正直、一番抵抗感があります。文化の違いとか、治安の問題とか……。


富良野:でも経済学的には、人の移動が自由になれば世界のGDPは倍増するという試算があるんです。途上国の労働者が先進国で働けば、生産性が飛躍的に上がるから。


Phrona:数字だけ見ればそうかもしれないけど、実際に一緒に暮らすとなると話は別じゃないですか。言葉も通じないし、習慣も違うし。


富良野:ブレグマンはそういう懸念にもデータで答えています。移民が増えてもテロは増えない、犯罪率も上がらない、むしろ経済に貢献する。多くは偏見に基づく誤解だと。


Phrona:でも、なんか寂しくないですか? それぞれの国の文化や伝統が薄まっちゃいそうで。


富良野:文化は混ざり合うことで豊かになるという見方もありますよ。日本だって、外来文化を取り入れて独自に発展させてきた歴史がある。


Phrona:それはそうですけど……。でも、生まれた場所で人生が決まっちゃうのは不公平ですよね。たまたま貧しい国に生まれただけで、チャンスが限られるなんて。


富良野:そこなんです。ブレグマンは現在の世界を「グローバルなアパルトヘイト」と呼んでいます。商品や資本は自由に動けるのに、人だけが閉じ込められている。これは一種の差別だと。


Phrona:うーん、言われてみれば……。でも急に国境をなくすのは現実的じゃないですよね。


富良野:もちろんです。でも少しずつ寛容になることはできる。偏見を減らし、データに基づいて冷静に議論する。それだけでも大きな前進です。


理想を語る勇気


Phrona:この本を読んで思ったのは、私たち、いつの間にか理想を語ることを恐れるようになってませんか?


富良野:確かに。「現実的に考えて」という言葉で、可能性を最初から否定してしまうことが多い。


Phrona:でも歴史を見ると、奴隷制の廃止も女性の参政権も、最初は「非現実的」と言われていたんですよね。


富良野:ブレグマンが引用していたフリードマンの言葉が印象的でした。「危機が起きた時に取られる行動は、周囲に転がっているアイデア次第だ」って。だから平時から理想を温めておく必要がある。


Phrona:コロナ禍で、まさにそれを実感しました。急に在宅勤務が当たり前になったり、各国が大規模な給付金を配ったり。危機になると「できない」と言っていたことが急にできるようになる。


富良野:そうそう。だから今、ベーシックインカムや労働時間短縮について真剣に議論しておくことが大切なんです。次の危機が来た時に、より良い選択ができるように。


Phrona:でも、どうやって始めればいいんでしょう。個人でできることって限られてるし。


富良野:まずは想像力を広げることからじゃないでしょうか。今の社会が唯一の形じゃないって認識する。そして、小さくても行動する。労働時間を減らしてみるとか、地域活動に参加するとか。


Phrona:自分の生活から変えていけばいいんですね。完璧じゃなくても、少しずつ。


富良野:ブレグマンも言っていましたね。ユートピアは遠い理想じゃなく、現実的な選択肢の一つなんだって。僕たちが選べば、実現できる。


Phrona:なんだか希望が湧いてきました。理想を語ることは、決して無駄じゃないんですね。




ポイント整理


  • 貧困の解決策は複雑な福祉制度ではなく、シンプルに現金を配ること。実証研究では、受給者は怠けるどころか生産的になり、社会全体のコストも削減される

  • 週15時間労働は荒唐無稽ではない。生産性向上の果実を労働時間短縮に振り向ければ実現可能で、環境問題の解決にも寄与する

  • 現在の労働市場では、社会的に重要な仕事ほど低賃金で、富の移転に過ぎない仕事が高給という矛盾がある。価値の再定義が必要

  • AIによる自動化は避けられないが、ベーシックインカムと労働時間短縮で対応可能。人間らしい活動の時間を確保できる

  • 国境開放は世界経済を大幅に成長させる。移民への偏見の多くはデータに反しており、冷静な議論が求められる

  • 社会変革には理想(ユートピア)が必要。歴史的に見て、非現実的と思われたアイデアが後に常識となることは多い

  • 現在の新自由主義的な枠組みも、かつては周縁的なアイデアだった。次の危機に備えて、オルタナティブな構想を準備しておくことが重要



キーワード解説


【ユニバーサル・ベーシックインカム(UBI)】

すべての国民に無条件で一定額の現金を定期的に給付する制度。従来の複雑な福祉制度と異なり、受給条件や資産調査なしに支給される。労働意欲を損なうという批判があるが、実証実験では逆に生産性向上や健康改善が確認されている


【スカースティ(欠乏)の心理】

貧困状態にある人々が陥る特有の心理状態。常に目先の生存に追われることで心理的な帯域幅が消耗され、長期的な計画や合理的判断が困難になる。睡眠不足と同程度に認知能力を低下させるという研究結果もある


【ブルシット・ジョブ】

人類学者デヴィッド・グレーバーが提唱した概念で、社会的に無意味だと従事者自身が感じている仕事のこと。皮肉なことに、こうした仕事ほど高給であることが多く、本当に社会に必要な仕事(教育、医療、清掃など)は低賃金という矛盾がある


【GDP以外の豊かさ指標(GPI、HPI等)】

国内総生産(GDP)では測れない真の豊かさを評価する指標。GPI(真の進歩指標)は環境や健康を考慮し、HPI(幸福度指数)は生活満足度を重視する。経済成長だけでなく、人々の幸福や持続可能性を測る試み


【第二の機械時代】

AIやロボット技術の急速な発展により、人間の労働が大規模に自動化される時代。第一次産業革命が肉体労働を機械化したのに対し、現在は知的労働も含めて幅広い職種が代替されるリスクがある


【オープンボーダー(国境開放)】

人の移動を自由化し、移民制限を大幅に緩和または撤廃する政策。経済学的には世界GDPを67-147%増加させる可能性があるとされるが、文化的・政治的な抵抗も大きい


【外部性(外部経済・外部不経済)】

市場価格に反映されない経済活動の影響。例えば、広告業が過剰消費を促し社会的損失を生む(外部不経済)一方、清掃作業員は公衆衛生に貢献する(外部経済)など、見えない価値とコストのこと


【スピーナムランド制度】

18世紀末のイギリスで実施された救貧制度。労働者の賃金を補填する仕組みだったが、労働意欲を損なう失敗例として語り継がれた。しかし後年の研究では一定の成功があったことが示唆されており、福祉政策への偏見を生んだ「神話」とされる



本稿は近日中にnoteにも掲載予定です。
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