社会疫学で読み解くストレスと炎症の見えない連鎖──個人から社会、地球規模へ
- Seo Seungchul
- 6月18日
- 読了時間: 7分
更新日:6月30日

シリーズ: 論文渉猟
著者:Yoram Vodovotz et al.
掲載:Frontiers in Science(2024年3月)
内容:ストレス、炎症、認知機能の関係を個人から社会レベルまで拡張したマルチスケール理論の提案と数理モデルによる検証
私たちが今、感じている漠然とした不安や疲労感。SNSを見るたびに押し寄せる情報の波、気候変動への不安、終わらないパンデミックの影響—これらすべてが、実は体の奥深くで炎症反応を引き起こしているとしたら、どうでしょうか。そして、その炎症が脳の働きを変え、判断力を鈍らせ、さらなる社会の混乱を生み出す悪循環を作っているとしたら。
今回取り上げる研究は、ストレスと炎症が個人レベルから社会レベル、さらには地球規模まで影響を与える「マルチスケール炎症マップ」という革新的な仮説を提示しています。富良野とPhronaの対話を通じて、この複雑な現象の本質を探っていきましょう。現代社会の抱える多重危機の背景に隠れた、科学的なメカニズムが見えてくるかもしれません。
富良野: この論文を読んで、まず驚いたのは炎症という生物学的現象を社会現象にまで拡張して考えているところなんです。普通、炎症って体の中の話じゃないですか。
Phrona: そうですね。でも言われてみると、社会も何かに反応して「炎上」するって言いますよね。比喩として使ってた言葉が、実は本質を突いていたのかもしれません。
富良野:まさにそこが面白い。論文によると、ストレスを受けた個人の炎症反応が、デジタル媒体を通じて他の人に伝播していく。SNSのアルゴリズムがそれを加速させて、社会全体が炎症状態になるって仮説なんです。
Phrona: 恐ろしいような、でも納得できるような話ですね。私たちの感情って、確実にネット越しに伝染しますから。特に怒りや不安って、すごく感染力が強い。
富良野:そうなんです。ここで重要なのは、彼らが「中枢炎症マップ」という概念を提示していることです。脳が体中の炎症状態を統合的に把握して、それが認知機能や判断力に影響を与えるという仮説。
Phrona: つまり、体のどこかで炎症が起きると、脳がそれを感知して、全体的な思考パターンが変わってしまうということですか?
富良野:その通りです。そして炎症が起きている脳は、正常な判断ができなくなる。これが個人レベルで起きれば個人の問題ですが、社会の多くの人で同時に起きれば...
Phrona: 社会全体の判断力が低下して、合理的な政策決定ができなくなったり、極端な選択に走ったりする。なるほど、最近の政治情勢を見ていると、思い当たることがたくさんありますね。
富良野:論文では「学習性無力感」にも言及していて、これがパンデミックや気候変動への対応を見ていると、確かに当てはまる部分があります。問題が大きすぎて、もう何をしても無駄だって感じになってしまう。
Phrona: でも一方で、炎症って本来は治癒のための反応ですよね。体が何かの脅威に対処しようとして起こる、自然な防御メカニズム。
富良野:そこがポイントなんです。論文では「ユーストレス」と「ディストレス」を区別している。適度なストレスは実際に免疫システムを強化して、レジリエンスを高める。問題は、現代社会では慢性的で過度なストレスにさらされ続けていることなんです。
Phrona: デジタル社会の24時間365日のストレス環境。昔なら一時的だった脅威への反応が、今は常に続いている状態。
富良野:まさに。彼らの数理モデルでは、ストレスレベルがある閾値を超えると、制御機能が逆に有害に働き始めるティッピングポイントがあることが示されています。つまり、システム自体が壊れてしまう。
Phrona: それって、社会レベルでも起こりうるということですよね。民主主義の制度とか、法の支配とか、そういう社会の制御機能が逆効果になってしまう...
富良野: 怖い話ですが、ありうると思います。論文では睡眠不足の影響についても詳しく書かれていて、炎症→睡眠障害→さらなる炎症という悪循環も指摘されています。
Phrona: 現代人の睡眠問題は深刻ですからね。でも、この研究の価値は問題を明らかにするだけじゃなくて、解決策も示しているところじゃないでしょうか。
富良野:そうですね。マルチスケールの問題には、マルチスケールの介入が必要だと。個人レベルでは運動や食事、睡眠の改善。社会レベルでは政策的な介入やデジタル環境の改善。
Phrona: 興味深いのは、薬物療法よりもライフスタイルの改善を重視している点です。抗炎症薬は有益な炎症まで抑えてしまう可能性があるから、根本的な解決にはならないと。
富良野:そこは実務的な視点からも納得できます。社会問題を薬で解決することはできませんから。むしろ、ストレスの源を減らしたり、レジリエンスを高めたりする方向性の方が持続可能です。
Phrona: でも、この理論を受け入れると、ちょっと怖くもありませんか。私たちの感情や判断が、炎症という生物学的プロセスに支配されているなんて。
富良野:確かに決定論的に聞こえるかもしれませんが、僕はむしろ希望を感じます。メカニズムが分かれば、対処法も見えてくる。無力感から抜け出すヒントになるんじゃないでしょうか。
Phrona: そうですね。自分の反応が生物学的な基盤を持っているって理解することで、かえって客観視できるようになるかもしれません。炎症が起きている時の自分の判断を、少し割り引いて考えることもできそうです。
富良野:ただ、この理論を社会政策に応用する時は慎重さが必要ですね。人々の反応を生物学的に説明することが、責任転嫁の口実に使われてはいけない。
Phrona: 大切な指摘ですね。結局のところ、私たちには選択の余地があるということを忘れてはいけません。炎症のメカニズムを理解することで、より良い選択ができるようになる—それがこの研究の真の価値かもしれませんね。
ポイント整理
マルチスケール炎症理論:
ストレスによる炎症反応が個人レベルから社会レベル、地球規模まで連鎖的に影響を与えるという包括的な仮説
中枢炎症マップ:
脳が体全体の炎症状態を統合的に把握し、それが認知機能と判断力に直接影響するメカニズム
デジタル時代の特殊性:
SNSやインターネットによる高速・大量の情報伝達が、ストレスの伝播を前例のないスケールで加速
ティッピングポイント:
ストレスが一定の閾値を超えると、制御機能が逆に有害になる不可逆的な状態への移行点
ユーストレス vs ディストレス:
適度なストレスは有益だが、慢性的・過度なストレスは炎症を通じて認知機能を損なう
睡眠との悪循環:
炎症→睡眠障害→さらなる炎症という自己強化的なループの形成
マルチスケール介入の必要性:
個人レベル(ライフスタイル改善)から社会レベル(政策・制度設計)まで包括的対策が必要
数理モデルによる予測:
ストレス、炎症、制御機能、治癒、介入の相互作用を定量的に分析し、介入効果を予測可能
キーワード解説
【炎症(Inflammation)】
生体の防御反応だが、慢性化すると組織損傷と機能障害を引き起こす
【アロスタシス】
環境変化に応じてホメオスタシス(恒常性)の設定値を調整する適応メカニズム
【DAMP分子】
組織損傷時に放出される内因性の危険信号分子
【学習性無力感】
制御不可能なストレスの継続的経験により、対処可能な状況でも無力感を示す状態
【エクスポソーム】
個人が生涯にわたって曝露される環境要因の総体
【ポリクライシス】
複数の危機が同時発生し、相互に影響し合って予測困難な状況を作る現象
【迷走神経】
炎症反応を神経系が制御する主要経路の一つ
【サーカディアンリズム】
約24時間周期の生体リズムで、ストレス耐性と密接に関連
【サイトカイン】
免疫細胞間の情報伝達を担う分子で、炎症反応の中心的役割
【レジリエンス】
ストレスや困難な状況への適応能力と回復力