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私たちは『人類の富』をいかに守り育て、分かち合えるか──労働が「余剰」になる時代の生存戦略

 シリーズ: 書架逍遥



  • 邦訳:『デジタルエコノミーはいかにして道を誤るか――労働力余剰と人類の富』(東洋経済新報社、2017年)


「AIが仕事を奪う」という不安が世界中で広がっています。でも、技術の進歩は本当に私たちの敵なのでしょうか。


エコノミスト誌の編集者ライアン・アヴェントは、2016年の著書『The Wealth of Humans』で、まったく違う視点を示しました。問題は技術そのものではなく、技術が生み出す富をどう分かち合うかにある、と。


彼の議論の核心は明快です。デジタル革命は確実に人類全体の富を増やしている。しかし、その恩恵が一部の人々に集中し、多くの人が取り残されている。これは技術の宿命ではなく、私たちの制度設計の失敗なのだと。


今回は、この希望と警告に満ちた本を、富良野とPhronaが読み解きます。出版から約10年、ChatGPTの登場でAI革命が現実となった今、アヴェントの提言はどこまで有効なのか。そして私たちは、技術がもたらす豊かさを、すべての人が享受できる社会をどう築けるのか。

単なる悲観論を超えて、人類の繁栄への道筋を探る対話が始まります。



汎用技術がもたらす地殻変動


富良野:この本が面白いのは、技術革新の話をしているようで、実は分配の話をしているということですね。アヴェントは、技術悲観論者ではなく、むしろ技術による富の創出を確信している。


Phrona:でも「労働の余剰」とか、暗い話に聞こえますけど。


富良野:そこが誤解されやすいところです。彼が言いたいのは、情報処理のコストが劇的に下がったことで、人類全体としては豊かになれる条件が整った、ということなんです。


Phrona:じゃあ、何が問題なの?


富良野:分配のメカニズムが、技術の進歩に追いついていない。市場に任せていると、富は一部に集中してしまう。でもこれは、適切な制度設計で解決できる問題だと彼は主張しています。


Phrona:つまり、悲観的な宿命論ではなく、解決可能な課題として捉えているんですね。


富良野:その通りです。実際、彼は経済学者ロバート・ゴードンの「技術停滞論」に反論して、デジタル革命の可能性を強く支持しています。問題は技術ではなく、私たちの選択なんです。


10年後の現実 - 予測と実際のギャップ


Phrona:そういえば、最近の統計を見ると、アメリカの成人の約23%がChatGPTを使っているとか。しかも企業の92%が何らかの形でAIを活用しているって。


富良野:ええ、普及速度が驚異的です。インターネットが人口の50%に達するのに17年かかったのに、ChatGPTは10ヶ月ですから。ただ面白いのは、アヴェントが予測した「労働力余剰」と同時に、一部では深刻な人手不足も起きている点です。


Phrona:技術が仕事を奪うかと思いきや、話は単純ではなかった。


富良野:パンデミックと少子高齢化が重なったんです。特に2019年から2024年にかけて、アメリカでは低賃金層の実質賃金が15.3%も上昇した。労働供給が急減して、企業が人材確保に必死になったからです。


Phrona:つまり、技術による需要減少と、人口動態による供給減少が綱引きしてるってこと?


富良野:そうですね。アヴェントは世界全体での労働力過剰を予測しましたが、先進国の特定セクター、例えば介護や建設では逆に人手が足りない。グローバルな過剰とローカルな不足が同時進行している複雑な状況です。


都市という実験場の変貌


Phrona:都市の話も、この10年で大きく変わりましたよね。パンデミックでリモートワークが普及して。


富良野:ええ、アヴェントは都市への集積が重要だと強調していましたが、現実には一時的とはいえ逆の動きが起きました。アメリカでは都市の外縁部への人口移動が加速し、オフィス空室率が20%に達した都市もあります。


Phrona:でも結局、多くの人は都市に戻ってきていますよね?


富良野:そうなんです。東京でも2020年に一時的に転出超過になったけど、2023年には転入超過が復活しました。アヴェントが言った「社会資本の集積する都市の重要性」は、形を変えて維持されている。ただし、物理的な居住だけでなく、オンラインでのネットワーク構築も重要になった。


Phrona:なるほど。でも富裕層が都市の一等地を投資対象として買い占める問題は、むしろ悪化してません?


富良野:その通りです。位置財への投資集中は加速していて、普通の人はますます都心に住めなくなっている。皮肉なことに、労働力を吸収すべき都市が、逆に人を排除する装置になってしまっている面があります。


プラットフォーム経済の光と影


Phrona:プラットフォーム企業の話も気になります。UberとかDoorDashとか、この10年ですごく大きくなりましたよね。


富良野:2024年のデータでは、Uberの売上が439億ドル、時価総額は1694億ドルです。でも、そこで働く運転手の約4割は無保険で、3割近くが仕事中に負傷経験があるという調査結果もあります。


Phrona:企業は巨大な利益を上げているのに、働く人たちは保護されていない。


富良野:アヴェントが指摘した「富の社会的性質が強まるほど、それを他者と共有したくないという心理が高まる」という構造が、まさにプラットフォーム経済で顕在化しています。


Phrona:でも、各国で規制の動きも出てきてますよね?


富良野:ええ、イギリスではUberドライバーに労働者としての権利を認める判決が出ましたし、ニューヨーク市では配達員に最低賃金を保証する条例もできました。ただ、包括的な解決にはまだ遠い。


社会政策の実験と挫折


Phrona:アヴェントさんは、かなり具体的な制度提案をしていましたよね。フレキシキュリティとか、賃金補助とか。


富良野:ええ、彼の提案の中核は北欧型のフレキシキュリティでした。解雇規制は緩やかにしつつ、手厚い失業給付と積極的な再訓練プログラムを組み合わせる。デンマークでは実際、失業率を低く保ちながら労働市場の流動性も確保しています。


Phrona:日本では難しそうですね。


富良野:文化的な壁は大きいです。でも興味深いのは、アヴェントが提案した「賃金税控除」や「負の所得税」に近い政策が、アメリカのEITC(勤労所得税額控除)として実現していることです。低賃金労働者の手取りを政府が補助する仕組みですね。


Phrona:それって効果あるんですか?


富良野:実際、2019年から2024年にかけてアメリカの低賃金層の実質賃金が15.3%も上昇した背景には、こうした政策の拡充もあります。アヴェントが言った通り、最低賃金引き上げより効果的かもしれません。


制度改革の具体的な障壁


Phrona:でも、なぜもっと大胆な改革が進まないんでしょう?


富良野:アヴェント自身が本書で分析していますが、いくつもの構造的障壁があるんです。まず政治的には、位置財を保有する富裕層の抵抗。住宅規制緩和や累進課税強化に、彼らは強力なロビー活動で対抗します。


Phrona:プラットフォーム企業もそうですよね。


富良野:ええ、独占的地代への課税や規制強化には、巨額の資金を使って抵抗します。そして皮肉なことに、労働余剰がもたらすポピュリズムは、往々にして移民排斥のような分かりやすい標的に向かい、根本的な再分配改革から目をそらしてしまう。


Phrona:国際協調も難しそうです。


富良野:その通りです。OECDは2021年にグローバル法人税の最低税率15%で合意しましたが、実効性には疑問符がつきます。各国が企業誘致のために税率引き下げ競争をする「底辺への競争」は続いています。


ベーシックインカムの理想と現実


Phrona:ベーシックインカムについて、アヴェントさんはどう考えていたんですか?


富良野:彼は「ユートピア的」としつつも、真剣に検討していました。ただし単純な現金給付には懐疑的で、「人々は自分が社会に貢献している実感を求める」と指摘していました。


Phrona:パンデミックで実質的な実験が行われましたよね。


富良野:ええ、興味深いことに、アメリカの現金給付や失業給付の上乗せ、子ども手当の拡充などは、期せずしてベーシックインカムの大規模実験になりました。結果として、貧困率は大幅に低下し、就労意欲の大幅な低下も見られなかった。


Phrona:じゃあ、続ければよかったのに。


富良野:でも結局、多くは打ち切られました。財政負担もありますが、やはり「働かざる者食うべからず」という文化的規範が根強い。アヴェントが懸念した通り、危機時には可能でも平時には社会的合意が得られないんです。


労働時間短縮と技能形成の新しいアプローチ


Phrona:週4日労働の実験はどうなりました?


富良野:アヴェントは週30時間労働を提案していましたが、実際にアイスランドでは2015年から2019年にかけて大規模実験が行われ、現在では労働者の86%が週32-36時間労働を選択できるようになりました。


Phrona:すごい!生産性は?


富良野:維持されたか、むしろ向上したという報告が多いです。スペインやベルギーでも試験的導入が進んでいます。マイクロソフトジャパンも2019年に週休3日制を試して、生産性が40%向上したと発表しました。


Phrona:技能形成についてはどうですか?


富良野:アヴェントは企業・行政が再訓練を「コスト」ではなく「基盤インフラ」とみなすべきだと提案しました。実際、シンガポールのスキルズフューチャーのように、全国民に生涯学習口座を設ける試みも出てきています。


Phrona:日本でも似たような動きがあるんでしょうか?


富良野:リスキリング支援は始まっていますが、アヴェントが提案した「技能モジュール単位での資金拠出」のような体系的アプローチには至っていません。企業も四半期決算に追われて、長期的な人材投資を躊躇しがちです。


都市政策と公共サービスの再設計


Phrona:都市政策についての提案も具体的でしたよね。


富良野:ええ、住宅供給規制の緩和と公共交通投資を組み合わせて、都市の労働吸収力を回復させるという提案です。実際、東京では2020年代に入って容積率緩和が進み、オフィスビルの住宅転換も始まっています。


Phrona:でも家賃は下がってないですよね。


富良野:そこが問題です。アヴェントが指摘した通り、富裕層が投資対象として不動産を買い占めるため、供給増が価格低下につながらない。ウィーンのような大規模な公共住宅供給や、シンガポールのような公的住宅制度の検討が必要かもしれません。


富良野:公共サービスの無償化も重要な提案でした。実際、いくつかの国で大学無償化が進んでいます。ドイツ、ノルウェー、フィンランドなどは留学生も含めて授業料無料ですし、アメリカでも州立大学の無償化を進める州が出てきています。


Phrona:それって財源はどうなるんでしょう?


富良野:そこでアヴェントの「市民の配当」という発想が生きてきます。国が保有する資産の運用益を市民に分配する。実際、アラスカ州では石油収入を原資にした配当が40年以上続いていますし、ノルウェーの政府系ファンドも似た発想です。


AIと労働者の新しい関係


Phrona:ところで、労働者の53%がAIを使うことで自分が交換可能に見えることを恐れているって統計を見ました。


富良野:皮肉なことに、43%の専門職がAIを使っているけど、68%は上司に報告していないんです。便利だけど、使っていることを知られたくない。


Phrona:複雑な心理ですね。AIに仕事を奪われる恐怖と、AIを使わないと競争に負ける恐怖の板挟み。


富良野:そうなんです。アヴェントは技術自体より分配の問題だと言いましたが、現実にはもっと心理的・文化的な側面も大きい。人々は単に職を失うことだけでなく、自分の価値や尊厳を失うことを恐れている。


Phrona:でも、創造的思考が最も重要なスキルになってきているという話もありますよね。


富良野:ええ、73.2%の組織がそう答えています。AIが定型的な作業を代替する分、人間には創造性や共感力といった、機械にはない能力が求められるようになっている。


人間の富とは何か - 10年後の視点から


Phrona:結局、アヴェントさんの言う「人間の富」って、今も有効な概念なんでしょうか?


富良野:むしろ重要性は増していると思います。時間の自由、学習機会、健康、社会的承認。これらは技術がいくら進歩しても、いや進歩すればするほど大切になる。


Phrona:でも現実は逆方向に進んでいるような。みんな忙しくて、AIに追いつくための学習に追われて。


富良野:だからこそ、意図的な制度設計が必要なんです。市場に任せていたら、技術の恩恵は一部の人だけのものになってしまう。


Phrona:パンデミックで可能だった大胆な政策を、平時にも実現できるでしょうか?


富良野:それが最大の課題です。危機時には「緊急避難」として受け入れられた政策も、平時には既得権益や文化的抵抗にぶつかる。でも、AIの進化を見れば、もう猶予はないかもしれません。


実現への道筋と残された課題


Phrona:これだけ具体的な提案があるのに、なぜ包括的な改革は進まないんでしょう?


富良野:アヴェントも認識していましたが、個別の政策では効果が限定的なんです。例えば、賃金補助だけでは格差は縮まらないし、職業訓練だけでは技術変化に追いつけない。包括的なパッケージが必要ですが、それには強力な政治的リーダーシップが不可欠です。


Phrona:でも、技術の進化は待ってくれませんよね。


富良野:そうなんです。ChatGPTの登場で、アヴェントが想定したより早く知的労働の自動化が進んでいます。政策対応の時間的猶予は、彼が考えたより短いかもしれません。


Phrona:希望はあるんでしょうか?


富良野:パンデミックが示したのは、危機時には従来不可能と思われた政策も実現できるということです。問題は、AIによる労働市場の激変を「ゆっくりとした危機」として認識し、平時から対応できるかどうかです。


Phrona:アヴェントさんの本からもうすぐ10年。私たちは今、分岐点にいるんですね。


富良野:ええ。技術による富の創出は疑いようがない。問題は、その富を社会全体で利用できる制度を設計できるかどうか。アヴェントが示した道筋は今も有効ですが、実現には私たち一人一人の選択と行動が必要です。



ポイント整理


  • デジタル革命により、労働は「希少な資源」から「余剰な資源」へと変化したが、同時に特定セクターでは深刻な人手不足も発生している

  • ChatGPTなど生成AIの登場により、ホワイトカラーを含む知的労働の自動化が現実のものとなり、アヴェントの予測を超える速度で進展

  • パンデミックによるリモートワークの普及は都市の役割を変化させたが、社会資本の集積地としての重要性は形を変えて継続

  • プラットフォーム経済の発展により、企業への富の集中と労働者の不安定化が加速し、新たな規制・保護の必要性が顕在化

  • ベーシックインカムや週4日労働など、アヴェントが提案した政策の一部は実験段階に入ったが、恒久的な制度化には社会的合意の壁

  • 「人間の富」(時間の自由、学習機会、健康、社会的承認)の概念は、AI時代においてむしろ重要性を増している


キーワード解説


【汎用技術(General-Purpose Technology)】

蒸気機関や電力のように、経済全体を変革する基盤的技術


【労働力余剰(Labor Glut)】

技術革新により労働需要が構造的に不足する状態(ただし現実には不足との共存)


【社会資本(Social Capital)】

信頼、規範、ネットワークなど、社会の協調行動を促進する無形資産


【プラットフォーム経済】

UberやDoorDashなど、デジタル基盤を通じて労働やサービスを仲介するビジネスモデル


【フレキシキュリティ(Flexicurity)】

柔軟な労働市場と手厚い社会保障を組み合わせた北欧型の政策モデル


【位置財(Positional Goods)】

土地や教育など、相対的な地位や希少性によって価値が決まる財


【生成AI(Generative AI)】

ChatGPTなど、文章・画像・音声・コードを生成できる人工知能


【人間の富(Human Wealth)】

物的・金融的富に代わる、時間・学習・健康・承認を重視した新しい繁栄概念


本稿は近日中にnoteにも掲載予定です。
ご関心を持っていただけましたら、note上でご感想などお聞かせいただけると幸いです。
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