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解離性同一性障害を起こしている社会──分断を理解する新しい視点

更新日:7月1日

 シリーズ: 行雲流水


解離性同一性障害(DID:Dissociative Identity Disorder)は、かつて「多重人格障害」とも呼ばれていた重度の精神障害だ。


一見突飛に思えるかもしれないが、現代の社会で起きている深刻な分断は、解離性同一性障害とのアナロジーというレンズで見てみると、興味深い示唆が得られるのではないか、と考えている。


個人の心理的症状と社会現象を同じ枠組みで語ることに違和感を覚える人もいるだろう。しかし、両者の構造を見比べていくと、そこには無視できない共通性が浮かび上がってくる。



心を守るための究極の防衛


DIDは、慢性的な強いストレスや耐え難いトラウマ(心理的外傷)から心を守るための防衛機制だ。特に幼少期に慢性的な虐待を受けた子どもは、その苦痛があまりに大きくて処理しきれないとき、記憶や感情、意識を切り離すことで生き延びようとする。これが「解離」だ。


興味深いのは、これが単なる「分裂」ではないということ。記憶や感情が複数の人格に分散され、それぞれが特定の役割を担う。守護者的な人格、日常を営む人格、怒りを引き受ける人格。すべては、その人が崩壊せずに生き延びるために必要だったのだ。


そして各人格は、自分こそが「本当の自分」だと信じている。お互いの記憶を共有できず、時には存在すら認識していない。同じ身体の中に、まったく異なる現実を生きる複数の自己が存在する。


社会という患者


今の社会で起きていることは、これとよく似ている。


もちろん、健全な社会にも多様な意見や立場があるのは当然だ。中間層や無関心層、さまざまな政治的立場が存在することは、民主主義の正常な姿である。これは健常な人が仕事では真面目な顔をして、家では優しい親になるような、自然なペルソナの使い分けに似ている。


しかし今起きているのは、それを超えた何か別のものだ。健常な多元性と病理的な解離の境界線は、「相互否定」にある。健全な社会では、意見が対立しても、相手の存在する権利は認める。「あなたの意見には反対だが、あなたがそれを言う権利は守る」という有名な言葉があるように。


ところが解離が起きると、相手の存在そのものを否定し始める。「あいつらは社会の癌だ」「向こうは人間じゃない」「奴らがいなくなれば問題は解決する」。このような言説が飛び交うとき、社会は健常な多元性から病理的な解離へと移行している。


極端な立場の人々が、もはや同じ現実を共有していない。同じ出来事を見ても、まったく異なる世界として認識する。相手の記憶や経験を理解しようとすることすら拒絶する。これはまさに、DIDで人格同士が断絶している状態と同じではないか。


集団的ストレスとしての経済変動


では、なぜ社会はこんなふうに「解離」してしまったのか。DIDが慢性的な強いストレスやトラウマから生まれるように、社会的分断にもその原因となるストレスやトラウマがあると考えるべきだろう。


その最大の要因は、おそらく経済的現実ではないだろうか。グローバル化による産業構造の転換は、多くの人々にとって適応限界を超えた体験となった。工場の閉鎖、職の喪失、コミュニティの崩壊。これらは単に「お金がなくなる」という話ではない。


仕事を失うことは、収入だけでなく、アイデンティティも、社会的つながりも、世代を超えて受け継いできた技能や誇りも、子どもに継承できる何かも、すべてを失うことを意味する。しかも、これは一度きりの出来事ではなく、何十年にもわたってじわじわと続く慢性的なストレスだ。


製造業で栄えた街が、工場が一つずつ閉鎖されていく中で徐々に死んでいく。住民たちは、グローバル経済という巨大な力の前で、まったく無力だ。DIDを引き起こす「逃げ場のない虐待状況」と、構造的に似ているではないか。


それぞれの人格が担う役割


このストレスがあまりに巨大で処理しきれないとき、それは社会にとってのトラウマとなり、解離を引き起こす。異なる社会層が、ストレスの異なる側面を引き受ける「人格」として機能し始める。


ある「人格」は過去の栄光にしがみつき、「昔は良かった」と繰り返す。別の「人格」は新しい経済に適応しようと必死になる。また別の「人格」は、不公平への怒りを爆発させる。そして多くの「人格」は、現実から目を背けて日常に埋没する。


重要なのは、これらすべてが社会の崩壊を防ぐための防衛的適応として捉えることができるということだ。極右的な言説も、過激なリベラリズムも、政治的無関心も、すべては耐え難い現実から社会を守るための必死の試みなのかもしれない。


現代のデジタル環境は、この解離をさらに深刻化させている。SNSのアルゴリズムは、私たちが見たいものだけを見せ、信じたいことだけを信じられる環境を作り出す。


それぞれの「人格」は、自分専用の情報エコシステムの中で生きている。同じ事件についても、まったく異なる「事実」が流通し、それぞれが「これこそが真実だ」と信じて疑わない。人格間の記憶の共有がますます困難になり、解離は深まるばかりだ。しかし、こうしたエコーチェンバーは社会的分断の原因ではなく、助長要因でしかない。


疫学的な視点で見る社会の病


疫学的犯罪学(EpiCrim)という学際的な手法がある。これは、犯罪や暴力を個人の問題ではなく、公衆衛生の問題として捉えるアプローチだ。


たとえば銃乱射事件を考えてみよう。従来は犯人の異常性ばかりが注目されたが、EpiCrimでは「なぜその地域で、その時期に起きたか」を分析する。まるで感染症の発生パターンを調べるように、環境要因を重視するのだ。


実際、アメリカでは銃暴力を「感染症」として扱い、ホットスポットを特定して介入する政策が成果を上げている。シカゴの暴力介入プログラムでは、この手法で銃撃事件を大幅に減らすことに成功した。


社会的分断や過激化も、同じ枠組みで分析できる:

  • 曝露:偏向した情報、極端な言説への接触

  • 感受性:経済的困窮、社会的孤立、将来への不安

  • 発症:極端な思想への同一化、他者の非人間化


特に興味深いのは「複雑感染」という概念だ。一度や二度、極端な意見に触れただけでは「感染」しない。しかし、エコーチェンバーの中で繰り返し同じメッセージに曝露され、仲間内で相互に強化し合ううちに、極端な世界観が固定化されていく。


ただし、従来のEpiCrimには限界もある。リスク要因を特定して制御しようとするだけでは、対症療法に終わってしまう。最近提唱されている「ホリスティックEpiCrim」は、より包括的に社会の意味生成や関係性の問題にも踏み込もうとしている。これは、解離した社会の「治療」を考える上で重要な視点だ。


対話という治療の第一歩


DIDの治療で最も重要なのは、人格間の対話を始めることだという。統合を急ぐのではなく、まず各人格がお互いの存在を認め、なぜそれぞれが生まれたのか、何を守ろうとしているのかを理解し合うプロセスが大切なのだ。


社会も同じではないだろうか。「あいつらが間違っている」「向こうが先に攻撃してきた」という応酬を続けている限り、解離は深まるばかりだ。必要なのは、お互いが同じ社会的トラウマに、異なる方法で対処しようとしている「仲間」だと認識することかもしれない。


極右の人も、リベラルの人も、無関心を装う人も、みんな適応限界を超えた社会変化の中で、必死に心を守ろうとしている。その防衛の仕方が違うだけで、根底にある痛みは共通しているのかもしれない。


統合ではなく、包摂と共生へ


ただし、個人のDIDと社会的解離には決定的な違いがある。個人のDIDの場合は、人格の「統合」によって、生活に支障をきたす解離状態を克服することが目指されるが、社会の場合はややニュアンスが異なる。


社会における多様性は病理ではなく、健全な民主主義の証だ。だから目指すべきは闇雲な「統合」ではなく、「包摂」と「共生」だ。異なる立場や価値観を一つにまとめるのではなく、それぞれの存在を認めながら、同じ社会空間で共に生きていく道を探ることだ。


社会の解離を解消するということは、お互いの存在を否定しなくなること。相手も自分と同じように、この困難な時代を生き延びようとしている人間だと認めること。そこから始めるしかない。


構造と心、両方の改革が必要


もちろん、対話や相互理解だけでは不十分だ。解離を生み出した構造的要因、特に経済的不公正には、政策的に対処する必要がある。賃金格差を放置したまま「みんな仲良く」と言っても、それは欺瞞でしかない。


中間団体の役割も重要だ。国家でも市場でもない、NPOや地域組織、宗教団体などが、異なる背景を持つ人々が安全に出会える場を提供できる。ただし、現実には多くの中間団体が疲弊し、むしろ同質的な集まりになりがちなのが課題だ。


それでも、小さな一歩から始めることはできる。地域の子ども食堂で、異なる政治的立場の人々が一緒に活動する。そんな日常的な協働の中で、「敵」だと思っていた相手も、子どもの未来を心配する同じ親だと気づく。そういう体験の積み重ねが、解離した社会の「人格」間に細い橋を架けていく。


新しい物語を紡ぐ


過去のトラウマを共有し、処理することは大切だ。しかし同時に、新しい共通の記憶を作ることも必要だろう。分断された集団が協力して何かを成し遂げる経験。それは震災のような危機の時だけでなく、日常の中でも可能なはずだ。


私たちの社会は確かに病んでいる。しかし、それは誰かが悪いからではない。巨大な構造変化の中で、適応しきれずに解離を起こしているのだ。この認識から出発すれば、敵対ではなく、治癒への道が見えてくるかもしれない。


社会という患者は、今、バラバラになった自分自身と再び出会う必要がある。それは簡単な道のりではない。しかし、他に選択肢はないのだ。分断を深めて破滅に向かうか、痛みを分かち合いながら共生の道を探るか。


私たちは今、その岐路に立っている。


本稿は近日中にnoteにも掲載予定です。
ご関心を持っていただけましたら、note上でご感想などお聞かせいただけると幸いです。
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