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3次元の外側を考える――量子もつれと環世界


シリーズ: 行雲流水


私たちが当たり前だと思っている3次元世界は、本当に世界そのものなのか。それとも、人間という観測者にとって安定して前景化した、一つの現実層にすぎないのか。


本稿は、量子もつれを「見えない糸」と説明することへの小さな違和感から出発し、0次元、スペクトルとしての次元、デコヒーレンス、環世界、情報的宇宙観という論点をたどりながら、この問いを考えていく試みです。量子力学の専門的解説ではありません。非専門家の立場から、現代物理が示す奇妙な事実を手がかりに、私たちにとっての「現実」とは何かを考え直してみたいと思います。




量子もつれは、見えない糸のようなものだ、という説明を何度か読んだ。そのたびに、どこか引っかかる。わかった気にはなる。だが、腑には落ちきらない。


糸には長さがある。張力がある。途中がある。切れることもある。けれど、量子もつれをめぐるベル型の相関は、そうしたイメージとうまく重ならない。距離が伸びるほど古典的な力のように弱まっていくわけではない。だから、糸という比喩は便利ではあっても、核心を外している気がする。


では、何として考えればよいのか。


私は量子力学の専門家ではない。物理を外から眺めながら、いくつかのレンズを手探りで組み立てている素人にすぎない。以下で使う言葉は、物理学の公式な記述ではなく、こう見ると少し輪郭がつかめるのではないか、という理解のための作業仮説である。物理学者から見れば不正確な箇所もあるだろう。それは承知した上で、非専門家なりに概念の感触を確かめてみたい。



「0次元」:距離のない関係


糸ではないなら、点ではないか。そこから考え始めてみる。


物理学者の村田次郎は、余剰次元を実験的に探る手がかりとして、光の拡散と次元の関係を説明している。点光源から出た光は、3次元空間では距離の二乗に反比例して弱まる。2次元なら距離に反比例する。1方向にしか進めない1次元なら、強度は距離に依存しない。次元が下がるほど、広がるという運動は弱くなる。


では、その梯子をさらに一段下りてみたらどうなるか。0次元では、そもそも広がる場所がない。離れているという概念そのものが成立しない。ただ、そこにあるという状態だけが残る。


量子もつれを、この感覚に重ねてみることはできないだろうか。もつれた二粒子のあいだに現れるベル型の相関は、空間距離に応じて古典的な力のように減衰するわけではない。1メートル離れていても、100光年離れていても、相関の性質そのものは変わらない。もちろん、現実の実験では、もつれの生成や保持にはデコヒーレンスが関わり、距離や媒質、装置条件の影響を受ける。だがそれは、相関の論理と実験の維持条件を分けて考えるべき話である。少なくとも直感のレベルでは、点と点が一本の糸で結ばれていると考えるより、空間的なあいだを持たない関係だと見た方が、もつれの奇妙さは捉えやすい。


量子もつれの奇妙さが深刻な問題として立ち現れたのは、1935年のアインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンの論文、いわゆるEPR論文においてだった。アインシュタインは、こうした振る舞いを遠隔での不気味な作用と呼び、量子力学はどこか不完全ではないかと考えた。その状況を動かしたのが、1964年のジョン・ベルである。彼は、量子力学の予測と、局所的な隠れた変数理論の予測が食い違うことを示す不等式を導いた。これは原理的に実験で検証できる。1970年代から80年代にかけてアラン・アスペらが検証を進め、2015年には抜け穴のない実験が複数の独立グループによって達成された。結果は、局所的な古典像よりも量子力学の側を支持した。


0次元という言葉そのものは作業仮説にすぎないとしても、そのレンズが照らしている対象、すなわち空間的分離に還元できない相関という事実は、EPR以来の理論と実験が確認してきたものである。


ここで一つ注意が要る。物理学には通信不可能定理があり、量子もつれを使って古典的情報を伝達することは原理的にできないとされる。一見すると、0次元の直結という見方と矛盾するようにも見える。直結しているのに通信できないとはどういうことか。


だが、この矛盾は見かけのものだと思う。私たちが直結と聞いて思い浮かべるのは、多くの場合、3次元的な絵である。点と点のあいだに一本の線が引かれ、その線の上を何かが移動していく。そう考えると、直結はそのまま通信路になる。だが、0次元という見方を徹底するなら、そもそも点と点のあいだという空間がない。あいだがない以上、線もない。線がなければ、その上を走る信号もない。


もちろん、物理学的には、相関はあるが通信はできないという事実は、0次元という比喩から導かれるのではなく、no signaling という量子力学の結果として独立に示される。0次元という見取り図は、その事実にあとから整合するレンズとして機能しているにすぎない。もつれた二粒子は、3次元空間の中では確かに離れた場所にある。しかし、その量子状態は分離できない一つの状態として記述される。3次元での位置の分離と、状態としての非分離が同時に成り立っている。0次元というレンズは、そのうち後者を強調するためのものだと理解すればよい。



「スペクトルとしての次元」:固定された棚ではなく、複数の層としての世界


私たちはふつう、次元を整数で考えている。点は0次元、線は1次元、面は2次元、立体は3次元。これは直感的で便利だが、同時に、世界はそうした固定的な棚にきれいに収まっているという前提も含んでいる。ここで言う次元は、ひとまず空間的広がりの意味で使っている。情報の自由度としての次元とは、あとで区別して扱う。


だが、その前提はいつでも自明とは限らない。フラクタル幾何学では、次元は連続値を取りうる。量子重力の研究では、極小スケールでの有効次元がマクロな領域とは異なって見える可能性が論じられている。余剰次元を含む理論では、追加の次元は単純にあるかないかではなく、スケールによって見え方が変わるものとして扱われる。


もちろん、これらは同じ概念ではない。フラクタル次元は自己相似性の記述であり、スペクトル次元は拡散過程から定義される有効次元であり、余剰次元は理論の幾何学的自由度の話である。一つの存在論としてまとめてしまうことはできない。


ただ、ここで重要なのは、それらを無理に統合することではない。共通して示唆されているのは、世界の広がりや構造を、固定された整数の棚としてではなく、スケールや記述の仕方に応じて異なる相を見せるものとして捉えた方がよい場合がある、ということだ。


ここで言う次元のスペクトルとは、その弱い意味での見取り図である。世界は一枚の平板な3次元ではなく、切り取り方や記述の単位によって、異なる層を見せるかもしれない。ある層では非分離な相関が前景化し、ある層では3次元的な対象世界が安定し、さらに別の層では、私たちの日常的直観を超える記述が必要になるかもしれない。


この見取り図を受け入れると、量子から古典への移行も、単なる断絶ではなく、複数ありうる現実層のうち、どの層が前景化するかという問題として考えやすくなる。そう読むと、次のデコヒーレンスの話は、量子的な非分離から古典的な3次元世界への単純な移行というだけではなく、観測者にとって安定した一つの層が前景化する過程として見えてくる。



古典化で完了しない「デコヒーレンス」:情報の拡散と、現実層の前景化


デコヒーレンスの標準的な説明は明確だ。系が環境と相互作用することで、ある基底で干渉項が抑制され、局所的には古典的に見える振る舞いが現れる。これは環境誘起スーパーセレクションとして整理されてきた物理学の議論である。


その上で、前節の見取り図を重ねてみたい。ただし、ここで言いたいのは、デコヒーレンスが物理学の正式な意味で次元移動だということではない。そうではなく、デコヒーレンスを、複数ありうる現実層のうち、どの層が観測者にとって安定した現実として前景化するかを決める過程として読むと、理解の輪郭が少しはっきりするのではないか、ということだ。

量子もつれにおける情報とは、二粒子の相関の記述全体のことだと考えればよい。もつれた状態がわかっているとき、一方を測定すれば他方がどう現れるかが決まる。この決まり方のパターン全体が、ここで言う量子情報である。デコヒーレンスは、そのコヒーレンスが環境との相関の中へ拡散していく過程として理解できる。


もつれた二粒子は、完全な真空の中に孤立しているわけではない。周囲には光子が飛び交い、空気分子があり、熱の揺らぎがある。粒子Aが環境中の光子と相互作用すると、その光子の状態はAの状態に応じてわずかに変わる。Aの情報の一部が環境側に刻み込まれる。こうした相互作用が繰り返されることで、もともとAとBのあいだだけにあった特別な相関は、環境全体へと広がっていく。情報の消滅というより、情報の漏出と拡散である。


局所的観測者の立場から見れば、ここで起きているのは古典化である。非分離な量子的相関は見えにくくなり、代わって、3次元空間の中で独立した対象が安定して存在しているかのような振る舞いが前景化する。デコヒーレンスは、この意味では、私たちにとっての古典的世界を立ち上げるメカニズムとして理解できる。


だが、話はそこで終わらない。3次元的で古典的な見え方が前景化したからといって、その瞬間にデコヒーレンスが終了し、世界の変換が完了するわけではない。系の情報はその後も環境へと広がり続ける。局所的には古典性が強まる一方で、全体の記述はより大きく、より複雑なものになっていく。


このとき、二つの見え方が同時に成り立っている。局所的には、量子的な非分離から、3次元的で古典的な現実層が前景化する。他方で、全体的には、その古典的現実層は、環境まで含めたより大きな相関構造の上に乗っている。つまり、私たちにとっての3次元的古典世界は、世界の終点というより、私たちのアクセス条件のもとで安定して読める一つの層にすぎない。


ここで言うその先の高次元とは、まずは環境まで含めた全体系を記述するための自由度の増大を指している。デコヒーレンスの文脈で直接問題になっているのは、系のコヒーレンスが環境との相関の中へ拡散し、その結果として局所的には古典的な見え方が安定していく一方で、全体の記述はより大きく、より複雑なものになっていくということだ。したがって、ここでただちに、物理空間そのものに新たな軸が現れると言うことはできない。


ただし、だからといって、物理空間の追加次元と完全に無関係だと断言できるわけでもない。余剰次元理論では、追加の空間次元の幾何は、4次元から見たときの許される状態のスペクトルや励起の塔として現れうる。逆に、ホログラフィーの文脈では、量子状態の側の構造、特にエンタングルメントのあり方から、時空の幾何が立ち上がる可能性が真面目に論じられてきた。両者は同じ概念ではないが、別々の世界に属する無関係な話とも言い切れない。ここでは、その連動可能性を開いたままにしておきたい。


この意味で、デコヒーレンスは世界を3次元に変えるというより、私たちにとって3次元的古典世界を前景化する過程だと言った方がよい。そこで次に問われるのは、私たちが見ている3次元世界は世界そのものなのか、それとも人間という観測者に固有の環世界なのか、ということである。



「環世界」:3次元は、だれにとっての現実か


ここから先は、量子論の理解というより、人間の認知が世界をどう切り取っているかという問いへ重心を移す。


私たちが経験している3次元空間は、世界そのものなのだろうか。それとも、人間という生物がそう認知するようにできているという制約の結果なのだろうか。


ヤーコプ・フォン・ユクスキュルは、環世界という概念を提示した。ダニにはダニの、鳥には鳥の、人間には人間の世界がある。生物はそれぞれ、自らの感覚と行動の構造に応じた世界に住んでいる。単一の客観世界が、そのまま透明に与えられているわけではない。生物ごとに切り取られた世界があり、それぞれにとってはそれが現実の全体である。


この考え方を踏まえると、前節のデコヒーレンスの話も、認識論的に読み返すことができる。私たちにとって3次元的古典世界が安定した現実として前景化しているのは、それが世界の唯一の姿だからではなく、人間という観測者にとって、その層が最も安定して読めるからではないか。そうだとすれば、3次元世界は客観的世界そのものというより、人間に固有の環世界として現れている可能性がある。


前節で見たように、デコヒーレンスは、量子的な非分離から私たちにとっての古典的現実層を前景化する。しかし、それは世界の全体像を与えるわけではない。私たちが現実だと思っているものが、より大きな相関構造の中から、人間に読めるかたちで立ち上がった一つの層にすぎない可能性を示している。


ここで、観測者の条件が違うならどうなるか、という問いが自然に出てくる。もし私たちより広い環境自由度や相関構造にアクセスできる観測者がいるなら、その観測者にとっては、私たちにとって古典的に見えている世界そのものが、なお量子的な全体状態の一部として見えるかもしれない。言い換えれば、私たちが現実そのものだと思っている層は、別の観測条件のもとでは、まだ確定しきっていない一つの断面にすぎない可能性がある。


ここで問題にしているのは、単純に空間次元が何本あるかという話ではない。どの相関にアクセスできるか、どの記録を安定した現実として読めるか、どの層を生の足場として経験するか、という条件の違いである。その意味で、環世界とは、種ごとに異なる感覚器官の話にとどまらず、どの層が現実として前景化するかをめぐる一般的な問いとして読み替えることもできる。


ただ、ここで一歩先へ進むためには、もう一つ考えなければならないことがある。仮に人間にとっての3次元世界が、複数ありうる現実層のうちの一つにすぎないとして、その向こう側を私たちはなぜこれほど自然に、情報的で高自由度な構造として思い描いてしまうのか、ということである。


この問いは偶然には出てこない。現代物理学の一部は、実際にその空白を情報の語彙で埋めようとしてきた。量子力学そのものが、まず状態と相関の理論であり、古典的な物体像より先に、状態空間とエンタングルメントの記述を置く。さらに、ブラックホール熱力学、ホログラフィー原理、AdS/CFT、エンタングルメントと時空の連結性を結びつける議論は、空間や物体の背後に、より根本的な情報的、相関的構造を想定する流れを強めてきた。つまり、環世界の向こう側を多次元の情報構造として思い描くことには、単なる空想以上の理論的動機がある。


だが、それでもなお、次の問いは残る。私たちがそのような像を描きやすいのは、世界そのものがそうだからなのか。それとも、私たち自身の認知装置が、そのような仕方で世界を捉えやすいからなのか。



「ハンマー」:手にしている道具


ここで、もう一度立ち止まらなければならない。


環世界の背後を、なぜ私たちは多次元、情報、構造といった語で埋めたくなるのか。それは、それらが世界の真の姿だからというより、私たち自身の認知装置が、そのように世界を切り取り、整理し、操作することを得意としているからではないか。


ハンマーとは、まず「情報処理への志向性が高い形で発達した」人間の脳である。より正確には、その脳、およびその延長として作られた数理的・技術的・制度的道具一式である。量子状態、ヒルベルト空間、エンタングルメント、エントロピー、双対性、ベクトル空間といった現代の形式道具も、その延長上にある。私たちは、環世界の向こう側を考えるときでさえ、このハンマーを通してしか世界に触れられない。


このハンマーで叩かれている釘は、環世界の向こう側にある世界の構造である。だが、その構造は、それ自体として直接与えられるわけではない。私たちは、自分たちの認知装置が得意とする仕方、すなわち、離散化し、座標化し、数式化し、情報として表現する仕方でしか、それに迫ることができない。


世界の背後を情報的な構造として描こうとする発想自体は、周縁的な思いつきではなく、現代理論物理のかなり大きな研究潮流と言って良い。ホイーラーの it from bit という構想は、その方向を象徴的に言い表したものだったし、その後、ブラックホール熱力学、ホログラフィー原理、AdS/CFT、さらにエンタングルメントと時空の連結性を結びつける議論が積み重なることで、空間や物体の背後に、より根本的な情報的、相関的構造を想定する発想は、有力な研究プログラムの一つになった。


つまり、環世界の向こう側を多次元の情報構造として思い描くことには、単なる空想以上の理論的動機がある。量子力学そのものが、まず状態と相関の理論であり、古典的な物体像より先に、状態空間とエンタングルメントの記述を置く。そこで使われる情報とは、日常語の意味での情報ではない。量子状態、ヒルベルト空間、エンタングルメント、エントロピー、相関構造といった、高度に数理化された記述の束である。そしてそれらはたいてい、私たちの日常的直観をはるかに超える高自由度の空間で扱われる。だから私たちは、環世界の向こう側を考えるとき、それを自然に多次元の情報構造として思い描きやすい。


ただし、ここで慎重である必要がある。情報的宇宙観は、十分にメジャーで、理論的にも強い動機を持つ見方ではあるが、宇宙の究極の姿は情報の集合である、という命題がすでに最終的に証明されたという意味ではない。研究プログラムとして強いことと、唯一確定した世界像であることは別の話である。


だから、ここで本当に問うべきなのは、その見方が正しいか間違っているかを即断することではない。なぜ私たちは、環世界の向こう側を、そのような情報的、高自由度的、構造的なものとして思い描きやすいのか、ということだ。そこで初めて、ハンマーの問いが立ち上がる。


私たちがそのように思い描きやすいのは、世界そのものがそうだからかもしれないし、私たちの脳やそれをつかって発達させてきた認知装置が、そうした記述を得意としているからかもしれない。おそらく現実には、その両方が重なっている。世界の側にそうした構造があるからこそ、その道具は強い予測力を持つ。だが同時に、その道具の形が、私たちに特定の世界像を描かせやすくしていることも否定できない。


もちろん、だからといって、この道具で得られた知見が無効になるわけではない。ハンマーが人間的であることと、そのハンマーで捉えられた規則性や予測が空虚であることは、別の話である。ニュートン力学は最終理論ではなかったが、それでも物体の運動を強力に記述した。同じように、情報という語彙や高次元の数理構造も、最終形ではないかもしれないが、現時点では非常に強い説明力を持っている。


だから、こういう態度がよいのだと思う。ハンマーを持っていることは認める。そのハンマーで釘を打つこともかまわない。ただ、打つ前に一度、そのハンマー自体を見る。それがどういう性質を持ち、どのような世界像を生みやすいのかを自覚する。その上でなお必要なら、もう一度握り直して使う。そして、また歩きだす。思考を進めるとは、たぶん、こういうことなのだとも思う。


「0次元」、「次元のスペクトル」、「デコヒーレンス」、「環世界」、「ハンマー」。五つのキーワードを手繰りながら、ここまで来た。最初は抽象的に見えた言葉が、通り過ぎてみると、それぞれ別の役割を持つ足場だったことがわかる。


量子もつれは、少なくとも糸ではない。0次元という語で捉えてみると、その奇妙さが少し見えやすくなる。3次元は世界の全景ではないかもしれないが、私たちにとって安定して前景化した現実層ではある。情報的宇宙観は、現代理論物理の有力な流れの一つではあるが、それでもなお、情報処理への適性を発達させてきた人間の脳とその延長としての数理的・技術的・制度的道具一式が強く支えている世界像でもある。




キーワード解説


【量子もつれ】

二つ以上の粒子の量子状態が切り離せず、一つの全体としてしか記述できない状態。離れた場所にあっても、片方を測定したときの結果がもう片方と強く相関する。ただし、その相関を使って古典的情報を超光速で送ることはできない。



【ベル型の相関】

量子もつれによって現れる、古典的な局所隠れ変数理論では説明できない種類の相関。ジョン・ベルが示した不等式と、その後の実験によって、量子力学の予測が強く支持された。


【0次元】

本稿での作業仮説であり、物理学の正式用語ではない。量子もつれを、長さのある糸ではなく、空間的なあいだを持たない関係として捉えるためのレンズとして使っている。


【通信不可能定理】

量子もつれがあっても、それだけで古典的情報を相手に送ることはできない、という量子力学の結果。相関はあるが通信はできない、という点が重要になる。


【次元のスペクトル】

本稿で使った見取り図。フラクタル次元、スペクトル次元、余剰次元などを一つの理論にまとめるという意味ではない。世界の広がりや構造が、固定された整数の棚としてではなく、スケールや記述の仕方に応じて異なる相を見せるかもしれない、という視点を指している。


【デコヒーレンス】

量子系が環境と相互作用することで、重ね合わせや干渉の効果が局所的には見えにくくなり、古典的に見える振る舞いが前景化する過程。この記事では、情報が環境との相関の中へ拡散していく過程としても捉えている。


【環境誘起スーパーセレクション】

デコヒーレンスの代表的な考え方。環境との相互作用によって、ある種の状態が安定し、観測者にはそれが古典的な現実として見えやすくなる。


【現実層の前景化】

世界にただ一つの見え方があるのではなく、複数ありうる層のうち、観測者にとって安定した一層が現実として前に出てくる、という本稿が提示する捉え方。


【環世界】

ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提起した概念。生物はそれぞれ、自分の感覚と行動の構造に応じた世界に住んでいる、という考え方。この記事では、人間にとっての3次元世界もまた、人間に固有の環世界かもしれない、という文脈で使っている。


【ホログラフィー原理】

ある空間領域の情報が、その体積ではなく境界面に対応づけられるかもしれない、という考え方。ブラックホール熱力学を背景に発展した。


【AdS/CFT】

反ドジッター空間における重力理論と、その境界上の共形場理論が等価だとする理論的枠組み。現実の宇宙をそのまま記述していると確定したわけではないが、空間と情報の関係を考えるうえで重要な理論である。


【情報的宇宙観】

宇宙の背後に、物質や空間そのものよりも根本的な情報的、相関的構造を想定する見方。周縁的な発想ではなく、現代理論物理の有力な研究潮流の一つだが、唯一確定した世界像というわけではない。


【ヒルベルト空間】

量子状態を記述するための数学的空間。ここでの次元は、物理空間の方向の数ではなく、状態を記述するための自由度の数を指す。記事中で言う高次元の多くは、まずはこちらの意味で使っている。


【ハンマー】

アブラハム・マズローの言葉として広く知られる、「ハンマーを持つ者にはあらゆる問題が釘に見える」という発想を踏まえて、本稿で用いられている比喩。ここで言うハンマーとは、まずは情報処理への志向性が高い形で発達した人間の脳であり、より正確には、その延長として作られた数理的・技術的・制度的道具一式を含む。私たちは、このハンマーを通してしか世界に迫れない。



本稿を素材として対話形式で再構成した記事も、近日中にnoteに掲載予定です。
ご関心を持っていただけましたら、note上でご感想などお聞かせいただけると幸いです。

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