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600万人の静かな革命――アメリカ大移動が語る、故郷を離れることの意味

更新日:3 日前

 シリーズ: 書架逍遥


◆今回の書籍:『The Warmth of Other Suns』

  • 著者:イザベル・ウィルカーソン(Isabel Wilkerson)

  • 出版年:2010年


北の街で夜汽車に乗る母親、西の大地へひた走る医師、そして自由への切符を握りしめる青年。20世紀アメリカで600万人もの黒人が南部を離れた「大移動」の真実を、3人の主人公の人生を通じて描いたイザベル・ウィルカーソンの『The Warmth of Other Suns』。南北戦争で奴隷制が終わったはずなのに、なぜ人々は故郷を捨てなければならなかったのか。北部は本当に約束の地だったのか。


瀬尾とPhronaが、この壮大な人間ドラマについて語り合います。



奴隷解放という「フィクション」


瀬尾: 『The Warmth of Other Suns』を読み返していて、改めて第13修正条項の抜け穴の巧妙さに震えました。「奴隷制は廃止する、ただし犯罪の罰としての場合を除いて」っていう...


Phrona: ああ、コンビクト・リーシング(囚人貸出制度)の話ですね。私も読んでて背筋が寒くなりました。黒人を「浮浪罪」で逮捕して、刑務所から農場や炭鉱に貸し出す。まさに奴隷労働の需要に応えるための制度設計だった。


瀬尾: そうです。アイダ・メイがミシシッピを離れたのは1937年、ジョージ・スターリングがフロリダから逃げ出したのは1945年。奴隷解放から70年以上経っても、白人農園主に歯向かったら殺されるかもしれない恐怖があった。それは農場や炭鉱が安価な労働力を必要としていて、そのための「合法的な」供給システムが機能してたからなんですよね。


Phrona:デット・ピオネージ(債務奴隷制)もひどかった。借金を理由に永遠に働かせ続ける。ジョージの祖父も、毎年収支トントンにされて一銭も得られなかったって書いてありましたよね。帳簿は地主が管理してるから、反論もできない。


瀬尾:  そして4日に1人の割合で黒人男性がリンチされていた。これは単に法の不備じゃなくて、黒人を実質的な奴隷として使い続けたいという需要があったから、わざと守れないような法律を作っていたんですよね。ウィルカーソンはその構造を、声高に叫ぶんじゃなくて、静かに、でも確実に伝えてきます。


600万人の個人的な決断


Phrona:分かります。アイダ・メイが子どもたちを連れて夜汽車に乗る場面の、あの静けさ。お母さんが「主よ、この車に最初に乗り込み、最後に降りてください」って祈る...あれは単なる旅立ちじゃないんですよね。


瀬尾: まさに出エジプト記ですよね。でも興味深いのは、この大移動が組織的な運動じゃなかったってことです。一人ひとりが、それぞれの事情で、バラバラに故郷を離れた。


Phrona:そこが胸を打つんです。アイダ・メイは子どもたちのより良い未来のため、ジョージは命を守るため、ロバート・フォスターは医師として才能を発揮するため。みんな違う理由なのに、結果的に同じ北へ向かった。


瀬尾: その個人の選択の集積が、600万人という途方もない数字になった。でもPhronaさん、僕が一番衝撃を受けたのは、北部に着いてからの話なんです。


約束の地という幻想と、それでも残る希望


Phrona:ああ...約束の地のはずだった場所の現実ですね。


瀬尾: シカゴでアイダ・メイが最初に住んだのは、ネズミが這い回る地下室のアパート。彼女、「これなら南部の古い家の方がましだった」って嘆いてましたよね。


Phrona: でも、それでも彼女は南部に戻らなかった。なぜだと思います?


瀬尾: やっぱり...自由の重みじゃないですかね。貧しくても、環境が悪くても、少なくとも北部では人間として扱われる可能性があった。


Phrona:私、アイダ・メイが白人男性の誘いを断れたっていうエピソードが忘れられないんです。家政婦の仕事に行ったら、雇い主が卑猥な要求をしてきて、彼女は怒って家を飛び出した。


瀬尾: 南部だったら、それは命に関わることだったかもしれない。


Phrona:そうです。でも北部では、少なくとも「ノー」と言える。その違いがどれだけ大きいか...私たちには想像しきれないけど、彼女にとってはそれが「人間になれた」瞬間だったんじゃないかって。


瀬尾: 選択の自由...それ自体が解放だったんですね。でも、ジョージ・スターリングの話も印象的でした。ニューヨークに着いて最初に感動したのが、店に「白人専用」の看板がないってことだったって。


Phrona: 想像してみてください。生まれてからずっと、どこに行っても「お前はここに入るな」って言われ続けて、初めてそれがない街に来た時の感覚を。


瀬尾:  「誰もが対等に息をしている」って彼が感じたっていうのが...なんというか、息をすることさえ怯えていたんだなって。


それぞれの人生の結末と、歴史の中の意味


Phrona:でも、ジョージも苦労しましたよね。違法な賭博に手を出して失敗したり、家族関係がうまくいかなかったり。自由には責任も伴うっていうか。


瀬尾: そうそう。娘のソーニャが13歳で妊娠してしまったり、息子のジェラルドが麻薬中毒になったり。ジョージは自分への罰だと思ったって書いてありましたね。


Phrona:人間らしいですよね、その苦悩が。でも私、ジョージが晩年に怒りを手放したっていうところに希望を感じたんです。あれだけの苦労をして、それでも憎しみに囚われなかった。


瀬尾: 「怒りという毒を手放した」...確かに、それも一つの解放ですね。でも、ロバート・フォスターの物語もまた違った意味で印象的でした。


Phrona:ロバートは成功者ですもんね。ロサンゼルスで開業して、レイ・チャールズの主治医にもなって。でも...


瀬尾: でも、どこか満たされない感じがずっとあった。1970年のパーティーのエピソード、覚えてます? 盛大に自分の成功を祝うパーティーを開いたけど、友人は「なんでこんなに承認欲求に飢えてるんだ」って。


Phrona:南部で受けた屈辱が、どれだけ深く彼の中に残ってたかってことですよね。いくら成功しても、その傷は消えない。


瀬尾: でも、彼も最後には自分の選んだ道に満足できる境地に達した。「南部に留まっていたらこれほどの人生はなかった」って。


Phrona:三人三様の人生ですけど、共通してるのは、みんな最後まで南部に戻らなかったことですよね。


瀬尾: そうなんです。貧困も差別も家族の問題もあったのに、それでも戻らなかった。それだけ南部での記憶が...


Phrona:トラウマと言ってもいいくらいの記憶だったんでしょうね。でも瀬尾さん、私、この本を読んで一番心に残ったのは、サチェル・ペイジの話なんです。


瀬尾:ああ、伝説の投手なのに、メジャーリーグが黒人を受け入れた時にはもう42歳だった。


Phrona:その間、彼の投球を白人も黒人も一緒に楽しむことができなかった。これって、差別が奪ったのは黒人の機会だけじゃなくて、社会全体の豊かさだったんだなって。


瀬尾: 確かに...誰も得をしていない。でも、そういう不条理な構造が100年近く続いた。


Phrona:そして600万人が、その構造から静かに抜け出していった。組織的な運動じゃなくて、一人ひとりの決断として。


瀬尾:ウィルカーソンは、彼らが自分たちの行動を「歴史的な大移動」だなんて思ってなかったって書いてますよね。ただ、自分と家族のより良い人生のために動いただけだって。


Phrona:でも結果的に、それがアメリカを変えた。ジャズもブルースも、公民権運動も、みんなこの大移動があったからこそ生まれた。


瀬尾: 個人の選択の積み重ねが、歴史を動かす...なんか、希望を感じますね。


Phrona:そして最後のアイダ・メイの姿。90歳近くなって、毎日を神様からのプレゼントだって感謝してる。あの境地...


瀬尾: 21世紀まで生きて、ひ孫の顔も見た。奴隷の子孫として生まれた女性が、自由な心で老後を迎えられた。これこそが本当の勝利なんじゃないかって思いました。


Phrona:しかも彼女、知らないうちに若き日のバラク・オバマの演説を聞いてたんですよね。まさに自分たちが蒔いた種が花開こうとしている瞬間に。


沈黙の歴史から現代へ、そして日本の私たちへ


瀬尾: 歴史の巡り合わせって不思議ですね。でも僕、この本を読んで一番衝撃だったのは、南北戦争の奴隷解放って、ある意味フィクションだったってことなんです。


Phrona:フィクション...確かに、第13修正条項の抜け穴を使って、実質的な奴隷制が100年も続いたわけですからね。


瀬尾: そう。僕も公民権運動には元々関心があったけど、その前提として何があったか、この本で初めて本当に理解できた気がします。キング牧師の「I Have a Dream」が、なぜあれほど切実で命がけだったのか。


Phrona:ローザ・パークスが座席を譲らなかったことが、なぜ革命だったのか。「解放された」はずの人々が、実は全然解放されていなかったんですよね。


瀬尾: それを思うと、現代のBLM運動への反発も...なんというか、歴史を知らないことから来てる部分が大きいんじゃないかって。


Phrona:ああ、分かります。「もう差別なんてないじゃない」とか「暴力的な抗議は共感できない」って言う人たち。でも、この本には叫び声が少ないんですよね。


瀬尾: そう!代わりにあるのは、黙って荷物をまとめて故郷を離れる人々の背中。600万人の沈黙の抗議。その蓄積があって、ようやく今声を上げられるようになった。


Phrona:BLMが「今ここで怒っている人たち」に見えるのは、その前の長い長い沈黙の歴史を知らないからなんですよね。


瀬尾:でも、この物語から日本人が学ぶことも多いと思うんです。差別って制度だけじゃなくて、構造と空気の中にあるっていうか。


Phrona:日本の「空気」「同調圧力」「村八分」...明文化されない排除の構造は、確かにありますね。


瀬尾: 部落差別とか、在日コリアンの人たちとか、あるいは地方から東京に出てくる若者への微妙な視線とか。見えない壁は、内面化されるっていうのも共通してる。


Phrona:出自を隠したり、カミングアウトしないことが「空気を読んだ配慮」とされたり。抑圧の終わりは、制度改革だけじゃなくて、内面の解放があって初めて実現されるんですよね。


瀬尾:  そして何より、この本が教えてくれるのは「選び直せる」っていうことかもしれない。たとえ完璧な場所じゃなくても、少なくとも選べる場所へ行くことに意味がある。


Phrona: アイダ・メイも、ジョージも、ロバートも、みんな不完全な新天地で、それでも自分の人生を生きた。その一人ひとりの選択が、積み重なって社会を変えた。


瀬尾: 移住者、マイノリティは社会の変化のエージェントなんですよね。日本でも、外国人労働者とか、性的マイノリティとか、変化の兆しを担う人たちがいる。


Phrona:「自分がマジョリティの中で見えなくしてきた人々は、何を見ていたか?」っていう視点...この本は、それを考えるきっかけをくれますね。


瀬尾: うん。そして何より、人生は決定じゃなくて、選び直しの連続だって。まだ間に合うんだって、そういう希望も。



ポイント整理

  • 南北戦争による奴隷解放(1865年)は形式的なもので、第13修正条項の抜け穴を使った実質的奴隷制が100年近く続いた

  • コンビクト・リーシング(囚人貸出制度)やデット・ピオネージ(債務奴隷制)により、黒人は合法的に再隷属させられた

  • 1915-1970年の「大移動」で約600万人の黒人が南部から北部・西部へ移住

  • 移住は組織的運動ではなく、個人的な決断の集積だった

  • 北部も理想郷ではなかったが、少なくとも「選択の自由」があった

  • 三人の主人公(アイダ・メイ、ジョージ、ロバート)はそれぞれ異なる理由と結果を持ちながら、最後まで南部に戻らなかった

  • BLM運動の背景には、600万人の沈黙の抗議という長い歴史がある

  • 日本社会の「見えない差別」や「空気の支配」を考える上でも示唆に富む

  • 個人の選択の積み重ねが、結果的に社会を大きく変革した


キーワード解説

【コンビクト・リーシング(convict leasing/囚人貸出制度)】

逮捕された黒人を州が民間企業に労働力として貸し出す制度


【デット・ピオネージ(debt peonage/債務奴隷制)】

借金を理由に労働者を事実上の奴隷状態に縛り付ける制度


【ベイグランシー法(vagrancy laws/浮浪罪法)】

職に就いていないことを犯罪とし、黒人を逮捕する口実に使われた法律


【シェアクロッパー】

小作農。収穫の一部を地主に納める農業形態


【レッドライニング】

黒人居住地域への金融サービス提供を拒否する差別的慣行


【ホワイト・フライト

黒人が転入してくると白人が郊外へ逃げ出す現象


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