生命はなぜ予測不可能なのか?――スチュアート・カウフマンが描く「物理学を超えた世界」
- Seo Seungchul
- 1 日前
- 読了時間: 11分

シリーズ: 書架逍遥
著者:スチュアート・カウフマン(Stuart Kauffman)
出版年:2019年
なぜ天体の動きは数百年先まで予測できるのに、来年どんな新種の生物が発見されるかは誰にもわからないのでしょうか。理論生物学者スチュアート・カウフマンの著書『A World Beyond Physics』は、この素朴な疑問から始まって、生命の本質に迫る壮大な議論を展開します。
カウフマンは、生命の進化が物理法則だけでは説明できない創発的なプロセスであると主張します。その核心にあるのは、生命が自分自身を作り続ける「自己組織化」の仕組み。細胞が自らの境界を作り出し、代謝を維持し、情報を複製するという三つの循環が相互に支え合うとき、そこには予測不可能な創造性が生まれる。そして同じ原理が、生物圏から経済圏にまで貫いているというのです。
本書は、生命とは何かという根本的な問いに、従来の機械論的世界観とは全く異なる視点から答えを提示します。瀬尾とPhronaの対話を通じて、その革新的なアイデアを探ってみましょう。
機械論的世界観への挑戦
瀬尾:この本を読んで一番驚いたのは、カウフマンが「宇宙は機械ではない」って断言してるところでした。ニュートン以来、物理学は宇宙を巨大な時計のような機械として捉えてきたけれど、生命が存在する宇宙はそんな単純なものじゃないと。
Phrona:そうですね。惑星の軌道なら何百年先まで計算できるのに、明日どんな突然変異が起きるかは予測できない。この違いって、すごく根本的な何かを物語ってる気がします。
瀬尾:まさにそこがポイントで、カウフマンは生命の世界を「非エルゴード的」って表現してるんです。エルゴード的っていうのは、十分時間をかければシステムが可能な状態をすべて探索するという意味。例えば、箱の中の気体分子は時間をかければあらゆる配置を取りますよね。
Phrona:ああ、なるほど。でも生物の世界は違うと。
瀬尾:そうなんです。理論的には、アミノ酸を組み合わせて作れるタンパク質の種類は天文学的な数になる。でも実際に地球上に現れたタンパク質は、その中のほんの一握り。38億年という長い時間があっても、可能性の大部分は未開拓のまま残されている。
Phrona:つまり、生命の歴史は偶然と選択によって作られた、唯一無二の物語だということですね。もし地球の歴史をもう一度やり直したら、全く違う生物たちが生まれるかもしれない。
生物学特有の「機能」という概念
瀬尾:その通り。そして、そこから「機能」という概念の重要性が見えてくる。物理学では「なぜ」という問いに意味がない。重力はただ存在するだけで、何かの目的があるわけじゃない。でも生物学では違う。
Phrona:心臓が血液を送るのは「なぜ」かと聞かれたら、「生物が生きるため」って答えられますもんね。でも「石が落ちるのはなぜか」って聞かれても、「重力があるから」としか言えない。
瀬尾:まさに。カウフマンはそれを「カント的全体」って呼んでる。部分が全体のために存在し、同時に全体によって部分が存在するという関係。心臓は体全体のために働き、体全体があるから心臓も存在意義を持つ。
Phrona:物理学にはそういう「ために」という発想がないんですね。すべては因果関係の連鎖でしかない。
制約閉包:生命の自己組織化メカニズム
瀬尾:で、ここからカウフマンの核心的なアイデアが登場する。「制約閉包」という概念です。生命体では、制約を作り出す活動が新たな制約を生み、それがまた新しい活動を可能にするという循環が起きている。
Phrona:ちょっと抽象的ですね。具体的にはどういうことでしょう?
瀬尾:例えば細胞を考えてみてください。細胞膜は細胞の内外を分ける制約を作る。その制約があるから、内部で特定の化学反応が維持できる。その反応が新しい分子を作り、それがまた細胞膜を強化したり、新しい機能を生み出したりする。制約が制約を生む循環です。
Phrona:なるほど、自分で自分を作り続けるシステムなんですね。でも、そんな複雑なシステムが最初からあったわけじゃないですよね。どうやって生まれたんでしょう?
生命の起源:分子の多様性から代謝の誕生
瀬尾:そこでカウフマンは面白い思考実験を持ち出してくる。「ジェームズ」という名前のRNA分子の話です。38億年前の熱水噴出孔で、ジェームズは一生懸命自分のコピーを作り続けている。でも代謝がないから、栄養は周りから漂ってくるのを待つしかない。
Phrona:それじゃあ効率悪そうですね。どうやって代謝を手に入れたんでしょう?
瀬尾:カウフマンの答えは「分子の多様性」にある。十分に多様な有機分子が集まった環境では、お互いを触媒する反応のネットワークが自然に形成される。ある閾値を超えると、突然、自己維持的な代謝システムが出現する。
Phrona:まるで分子たちが偶然出会って、気がついたらコミュニティを作ってたみたいな感じですね。運命的な出会いから始まる恋愛小説みたい。
瀬尾:いい例えですね(笑)。そして、そこにデイマー・ディーマーモデルという具体的なシナリオが加わる。火山性の池で乾湿サイクルが繰り返されると、脂質が自然に小さな袋を作る。その中にランダムな分子の組み合わせが閉じ込められて、無数の「プロトセル」が一度に実験される。
Phrona:自然の実験室ですね。成功した組み合わせだけが生き残って、失敗したものは消えていく。
進化の予測不可能性:隣接可能領域の拡大
瀬尾:そう。そして遺伝的な変異が加わると、本格的な進化が始まる。ここでカウフマンは「パトリック」「ルパート」「スライ」「ガス」といったキャラクターを登場させて、進化のダイナミクスを物語風に描いてる。
Phrona:パトリックが岩にくっつく能力を偶然手に入れて、それで濾過摂食ができるようになった話でしたっけ。そうしたら今度はパトリックを狙うルパートが現れて、さらにルパートを狙う別の生物が現れて…
瀬尾:まさに。一つの新しい能力が新しい「ニッチ」を開いて、それがまた新しい進化の機会を生む。カウフマンはこれを「隣接可能領域」の拡大と呼んでる。現在の状態から一歩で到達できる新しい可能性の空間のことです。
Phrona:生物圏って、可能性がどんどん広がっていくシステムなんですね。でも、それって予測できないってことでもありますよね?
瀬尾:そこが重要なポイント。カウフマンはスクリュードライバーの例を使って説明してる。スクリュードライバーの使い道を全部リストアップできますか?ネジを回すのはもちろん、缶詰を開けたり、護身用にしたり、電気の実験に使ったり…
Phrona:無限にありそうですね。映画のアクションシーンで主人公が思いもよらない使い方をしたりして。
エクサプテーションと非アルゴリズム的な未来
瀬尾:それと同じで、生物の器官や能力も、将来どんな用途に使われるかは予測できない。恐竜の羽毛は最初は体温調節のためだったのに、後に飛行に使われるようになった。こういう転用を「エクサプテーション」と呼ぶ。
Phrona:だから進化の未来は読めないんですね。今ある部品がどんな組み合わせで、どんな新機能を生み出すかわからない。
瀬尾:カウフマンはこれを「非アルゴリズム的」と表現してる。どんなに高性能なコンピューターでも、生物圏の未来を計算することはできない。なぜなら、部品の使い道は文脈によって無限に変わるから。
Phrona:物理学の世界とは根本的に違うんですね。物理学では「位相空間」という、可能な状態の全体を最初に定義できるけれど、生物圏では可能性の空間自体が進化とともに変化し続ける。
経済圏への拡張:創造的破壊と隣接可能領域
瀬尾:その通り。そして、これは生命だけの話じゃない。カウフマンはエピローグで、同じ原理が人間の経済にも当てはまると論じてる。
Phrona:経済も進化するシステムだと。5万年前の人類の「経済」は数千の基本的な道具だけだったのに、今のニューヨークには10億を超える商品やサービスがあるという話でしたね。
瀬尾:経済を「経済ウェブ」として捉える視点が面白い。商品同士の関係を、一緒に使われる「補完財」と、代わりに使われる「代替財」のネットワークとして見る。新しい商品が生まれるたびに、そのネットワーク全体が変化する。
Phrona:自動車の例がわかりやすかったです。車の発明は馬車産業を絶滅させたけれど、同時に石油、高速道路、モーテル、郊外住宅、ドライブスルーなど、無数の新産業を生み出した。
瀬尾:そして、それぞれがまた新しい機会を生む。郊外ができればショッピングモールが生まれ、ショッピングモールができれば新しい物流システムが必要になる。経済も生物圏と同じで、隣接可能領域が自己拡大していく。
Phrona:東京のiPhone起業家の話も印象的でした。狭いアパートでiPhoneを使って本をデジタル化していた人が、それをビジネスアイデアに変えたという。こんな発想、誰も予測できませんよね。
予測不可能性と政策への示唆
瀬尾:だから経済の進化も「前もって述べることができない」プロセスだと。コイン投げなら確率を計算できるけれど、経済では「標本空間」つまり可能性の全体像がわからないから、確率的予測もできない。
Phrona:でも、生物圏と経済圏のアナロジーって、どこまで有効なんでしょう?生物の進化は無意識な過程だけれど、経済には意図や戦略を持った人間が関わってる。
瀬尾:確かにそこは違いますね。でも、個々の人間が計画していても、全体として何が起きるかは予測できない。インターネットを発明した人たちも、今のような社会変化は完全には予想していなかったでしょう。
Phrona:創発的な複雑さは同じということですね。政策への示唆も興味深くて、経済を生態系として扱うなら、最適解を計算するよりも、健全なイノベーション環境を整えることが重要になる。
瀬尾:まさに「庭師」のような発想です。植物一つ一つをコントロールするんじゃなくて、全体が健康に育つ土壌を作る。
物理学を超えた世界観
Phrona:カウフマンの議論の核心は、宇宙に物理法則とは違う種類の秩序があるということですよね。「物質から意味あることへ」という表現が印象的でした。
瀬尾:生命が現れることで、宇宙に初めて「大切なもの」が生まれた。自律的な存在にとって意味のある世界が始まったと。これは魂とか生命力とかの神秘的な話じゃなくて、物質の自己組織化から自然に現れる性質だと。
Phrona:最終的に、完全な還元主義は不可能だという結論になるんですね。「最終理論」の夢は叶わない。
瀬尾:生命が宇宙の一部である以上、そして生命の出現が物理法則だけでは決まらない以上、すべてを物理法則に還元する理論は原理的に存在し得ない。でも、これは科学の敗北じゃない。
Phrona:むしろ、物理学を補完する新しい概念が必要だということですね。機能、進化、歴史、可能化といった、生命の世界を理解するための言葉。
瀬尾:「世界は機械ではない」という出発点に戻ってくるわけですね。機械論的な宇宙観を否定するんじゃなくて、それを包み込む、より大きな創造的秩序があることを認める。
Phrona:そして、その創造的秩序は生命だけじゃなく、私たちの社会や文化にも流れているかもしれない。なんだか希望が湧いてくる話ですね。
ポイント整理
非エルゴード性
生物圏は理論的に可能な状態の一部しか実現せず、歴史依存的で予測不可能な道筋をたどる
機能の概念
生物学では「なぜ」「何のために」という目的論的説明が不可欠だが、物理学にはそうした概念がない
制約閉包
生命体では制約を作り出す活動が新たな制約を生み、それがまた新しい活動を可能にする自己強化循環が成立
自己触媒ネットワーク
十分に多様な分子環境では、互いを触媒する反応のネットワークが自然発生し、自己維持的な代謝が出現
隣接可能領域
現在の状態から一歩で到達可能な新しい可能性の空間。生物圏や経済圏の進化によって絶えず拡大
エクサプテーション
既存の器官や機能が予期しない新用途に転用される現象。進化の予測不可能性の主因
非アルゴリズム的進化
生物圏の未来は計算不可能。部品の使い道が文脈によって無限に変わるため
経済圏との類似
商品・サービスのネットワークとしての経済も、生物圏と同様の創発的多様化を示す
還元主義の限界
生命の存在により、すべてを物理法則に還元する「最終理論」は原理的に不可能
キーワード解説
【エルゴード性(ergodicity)】
十分な時間があればシステムが可能な状態をすべて探索する性質
【制約閉包(constraint closure)】
生命体が自らの存在を維持するために必要な制約を自ら生み出す循環プロセス
【カント的全体(Kantian whole)】
部分が全体のために、かつ全体によって存在するという相互依存的関係
【プロトセル(protocell)】
原始的な細胞様構造体。代謝と境界を持つが完全な複製機能は未発達
【隣接可能領域(adjacent possible)】
現在の状態から直接到達可能な新しい可能性の領域
【エクサプテーション(exaptation)】
既存の生物学的特徴が当初とは異なる機能に転用される現象
【経済ウェブ(Economic Web)】
補完財と代替財の関係で結ばれた経済システムのネットワーク構造
【可能化(enablement)】
直接的な因果関係ではなく、新たな可能性を開く間接的な影響力