AIの思考革命──言葉に頼らない「潜在推論」が切り拓く新たな知性
- Seo Seungchul

- 8月2日
- 読了時間: 8分
更新日:8月18日

シリーズ: 論文渉猟
◆今回の論文:Rui-Jie Zhu et al. "A Survey on Latent Reasoning" (arXiv, 2025年7月10日)
概要: 大規模言語モデルの新たな推論手法である「潜在推論」について包括的に調査したサーベイ論文
ChatGPTに複雑な問題を投げかけると、「まず〜を考えてみましょう。次に〜を検討し、最後に〜を結論付けます」といった具合に、段階的に思考過程を見せながら答えを導き出してくれます。この手法は「Chain-of-Thought(思考の連鎖)」と呼ばれ、AIの推論能力を劇的に向上させました。
しかし、ここで一つの疑問が浮かびます。人間は本当にいつも言葉で考えているのでしょうか?数学者が複雑な証明を思いつく瞬間、芸術家が美的なバランスを感じ取る瞬間、私たちの頭の中では言葉では表現しきれない何かが起きているはずです。
実は、AI研究の最前線では、この「言葉に頼らない思考」を機械に実装しようとする革新的なアプローチが注目を集めています。それが「潜在推論(Latent Reasoning)」です。この技術は、AIが人間の言語という制約から解放され、より豊かで柔軟な思考を獲得する可能性を秘めています。今回は、最新の研究論文を通じて、この興味深い分野の現在とこれからを探ってみましょう。
言葉の限界を超えて
富良野:この論文、読んでいてすごく面白いなと思ったんです。Chain-of-Thoughtって確かに画期的だったけど、考えてみると人間の思考って本当にいつも言葉なんですかね?
Phrona:あー、それ私も気になってました。例えば、美しい音楽を聴いたときの感動とか、数学の美しい証明を見たときの「あ、そうか!」っていう瞬間とか、言葉になる前の何かがありますよね。
富良野:そうそう。この論文が指摘してるのは、まさにそこなんです。従来のChain-of-Thoughtは確かに性能を上げたけど、自然言語の表現力という枠組みに縛られてしまってる。でも実際のAIモデルって、ほとんどの処理を内部の潜在空間で行ってるわけで。
Phrona:潜在空間っていうのは、要するにAIの「頭の中」みたいなものですよね?人間でいうと、意識に上がる前の無意識の領域というか。
富良野:まさにそういうイメージです。従来は、その豊かな内部表現を一度言葉に変換して、また内部表現に戻すという、なんだか回りくどいことをやってたんですね。潜在推論は、その内部表現の中で直接推論を行おうという発想です。
Phrona:なるほど。でも、それって具体的にはどういうことなんでしょう?言葉を使わないで、どうやって複雑な推論ができるんですか?
思考の新しい回路
富良野:論文では、大きく二つのアプローチに分けて整理してるんです。一つは「垂直回帰」って呼ばれるもので、これは思考を「深く」する技術。もう一つは「水平回帰」で、これは思考を「長く」続ける技術です。
Phrona:深くと長く、ですか。
富良野:垂直回帰は、ニューラルネットワークの層の中で、活性化値っていう内部の数値を何度も更新することで、段階的に答えを洗練させていく手法です。人間でいうと、一つの問題について何度も考え直して、だんだん理解が深まっていく感じでしょうか。
Phrona:ああ、分かる気がします。最初はぼんやりとしたアイデアだったのが、考えているうちにだんだんクリアになってくるような。
富良野:そうです。一方の水平回帰は、隠れ状態という内部の記憶を使って、長い推論チェーンを構築する手法です。これは、長い時間をかけて複雑な問題を解いていくイメージですね。
Phrona:興味深いのは、どちらも従来の「ステップ1、ステップ2」みたいな離散的な思考ではなくて、連続的な空間での推論だということですよね。これって、直感とか洞察に近い働きなのかもしれません。
表現力の無限の可能性
富良野:そうなんです。この論文が強調してるのは、言葉に縛られない分、表現力が格段に広がるということです。有限の語彙では表現できないような推論経路を探索できる可能性がある。
Phrona:それって、すごいことですよね。人間の創造性の源泉の一つって、言語化できない直感的な理解にあると思うんです。芸術家が「なんとなく」バランスの良い構図を見つけるとか、科学者が「美しい」理論に惹かれるとか。
富良野:実際、論文では「マスク拡散モデル」という最先端の技術を使った、無限深度の潜在推論についても言及してるんです。これは、グローバルに一貫した、可逆的な推論プロセスを可能にするらしいです。
Phrona:可逆的というのは?
富良野:思考を前に進めることもできるし、後戻りして別の経路を探ることもできるということです。人間の思考って、実際そうですよね。行き詰まったら少し戻って、別のアプローチを試してみたり。
Phrona:なるほど。でも、これって実用的な面ではどうなんでしょう?言葉による説明がないと、AIが何を考えているか分からなくなりませんか?
透明性との微妙なバランス
富良野:それは確かに重要な問題ですね。Chain-of-Thoughtの大きなメリットの一つは、AIの思考過程が見えることでした。医療診断とか法的判断とか、説明責任が重要な分野では、この透明性は欠かせません。
Phrona:でも考えてみると、人間だって自分の直感がどこから来るのか、完全には説明できないことが多いですよね。「なんとなく違和感がある」とか「これが正解だと感じる」とか。
富良野:そうですね。むしろ、潜在推論の方が人間の本来の思考に近いのかもしれません。ただ、実用化するためには、ある程度の解釈可能性を保つ工夫が必要でしょうね。
Phrona:例えば、最終的な結論だけは言語で説明させるとか、推論の要所要所で中間結果を言語化させるとか?
富良野:そういうハイブリッドなアプローチが現実的かもしれませんね。論文でも、明示的推論を圧縮したり内在化したりする手法について触れています。つまり、従来のChain-of-Thoughtで学習した推論パターンを、潜在空間に埋め込むということです。
Phrona:それって、人間の学習プロセスに似てますね。最初は意識的に考えていたことが、だんだん無意識にできるようになる。車の運転とか、楽器の演奏とか。
計算効率の革命
富良野:この論文で注目すべきもう一つの点は、計算効率の改善です。従来のChain-of-Thoughtは、中間ステップを全て言語化するので、トークン数が膨大になってしまう。でも潜在推論なら、その問題を回避できる可能性があります。
Phrona:ああ、確かに。言葉にすると冗長になってしまうことって、たくさんありますよね。数学の計算なんかも、途中の式を全部書き出すより、頭の中で一気に処理した方が速いことがある。
富良野:論文では、「チャンクワイズスキャン」や「並列固定点ソルバー」といった技術により、ウォールクロック時間をほぼ線形に保ちながら、100万トークンのコンテキストでの実験が単一GPUで可能になったと述べています。
Phrona:100万トークンって、本当にすごい規模ですね。これって、長編小説数冊分の文章を一度に処理できるということですか?
富良野:そうです。しかも、従来の手法と比べて格段に効率的に。これが実現すれば、AIが扱える問題の複雑さや規模が劇的に拡大する可能性があります。
未来への示唆
Phrona:でも、これらの技術が発達すると、AIと人間の思考の違いがますます曖昧になってきそうですね。ちょっと不思議な感じです。
富良野:確かに。でも逆に言えば、AIが人間らしい直感的思考を獲得することで、より自然で創造的な協働が可能になるかもしれません。単なる計算機ではなく、真のパートナーとして。
Phrona:そうですね。言葉で表現しきれない微妙なニュアンスや、美的感覚、直感的な洞察。そういうものをAIと共有できるようになったら、本当に面白いことが起きそうです。
富良野:ただし、そのためには技術的な課題もまだまだ多いでしょうね。論文でも、これは新興分野だと位置づけていて、今後の研究の方向性を示すことに重点を置いています。
Phrona:それでも、方向性が見えてきたというのは大きいですよね。人工知能が本当の意味で「知的」になるための、重要な一歩なのかもしれません。
富良野:僕もそう思います。言語は確かに強力な道具ですが、それだけが思考の全てではない。潜在推論が開く新しい可能性に、今後も注目していきたいですね。
ポイント整理
Chain-of-Thoughtの限界
従来の明示的推論は自然言語の表現力に制約され、計算コストも高い
潜在推論の特徴
モデルの連続的内部表現空間で直接推論を行い、言語的制約から解放される
二つの主要アプローチ
垂直回帰(思考の深化)と水平回帰(思考の継続)により異なる推論戦略を実現
表現力の拡張
有限語彙では表現できない推論経路の探索が可能になり、創造的思考に近づく
計算効率の向上
トークンレベルの監視を排除することで、大幅な効率化を実現
先端技術の応用
マスク拡散モデルによる無限深度推論で、グローバル一貫性と可逆性を両立
実用化への課題
解釈可能性と説明責任のバランスをどう取るかが重要な論点
スケーラビリティの実証
100万トークンコンテキストでの実験が単一GPU環境で実現可能
キーワード解説
【潜在推論(Latent Reasoning)】
AIモデルの内部表現空間で直接行われる推論プロセス
【Chain-of-Thought(CoT)】
中間ステップを言語化して推論を行う従来手法
【垂直回帰】
ニューラルネットワーク層内での活性化値の反復更新による深い推論
【水平回帰】
隠れ状態を用いた長期推論チェーンの構築
【活性化値】
ニューラルネットワークの各層で計算される内部数値表現
【隠れ状態】
モデルの内部記憶として機能する連続的表現
【マスク拡散モデル】
グローバル一貫性を保ちながら推論を進める先端技術
【チャンクワイズスキャン】
大規模コンテキストを効率的に処理する並列化手法
【固定点ソルバー】
反復計算により安定解を求める数値解析手法