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「あの頃は良かった」に、人はなぜ票を入れるのか――元独裁者とその子どもが民主選挙に勝つ理由


シリーズ: 論文渉猟


◆今回の論文: James Loxton, "Why We Elect Former Dictators and Their Children" (Journal of Democracy, 2026年4月)

  • 概要:1974年以降に民主化した国の約5分の1で、元独裁者本人またはその子どもが民主選挙で大統領・首相に選ばれているという事実を出発点に、その現象を「ディクトクラート(元独裁者)」と「ディクトブラット(独裁者の子ども)」として類型化し、なぜ彼らが選ばれるのかを「権威主義的相続」と「権威主義的重荷」という枠組みで分析する。彼らが唯一使える戦略——過去の独裁を堂々と称揚すること——がなぜ機能するのか、「黄金時代の誤謬」という概念で解き明かしつつ、民主主義が権威主義ノスタルジーにどう向き合うべきかを論じる。



民主主義を取り戻したはずの国で、かつての独裁者が再び権力の座に選ばれる。その子どもたちが、父の名前を旗に掲げて選挙に勝つ。そんな話が、世界のあちこちで起きています。


「民主主義が危ない」と言われるとき、多くの場合イメージされるのは「選ばれた指導者が独裁者に変質していく」経路です。でも富良野とPhronaが今回取り上げる論文が追いかけているのは、もう一つの経路——「元独裁者やその子どもが、民主選挙そのものによって選び直される」という逆向きの動き。


なぜ人は、かつて自分たちが追い出した独裁の記憶に、票を入れるのでしょうか。「あの頃は良かった」という感覚はどこから来るのか。そしてその感覚に、事実で反論することはできるのか。


二人の対話は、選挙戦略の話から始まりながら、記憶の政治という、もっと根深い問いへと踏み込んでいきます。




民主主義の名のもとに召喚される独裁者の亡霊


富良野: 1974年以降に民主化した国の約5分の1で、元独裁者本人か、その子どもが、民主選挙で大統領か首相になっているという話、どう思いますか。


Phrona: 5分の1。それは例外的な事例が積み重なった、というより、一定のパターンがあるということですよね。


富良野: そのパターンを整理しようとしているのが、シドニー大学のジェームズ・ロクストンという比較政治学者の論文です。元独裁者本人が選ばれるケースを「ディクトクラート」——英語で独裁者を意味するdictatorとdemocratをくっつけた造語です——子どもが選ばれるケースを「ディクトブラット」と呼んで分類している。


Phrona: 名前からしてだいぶ皮肉が効いていますね。なぜそんなことが起きるんでしょう。独裁者を追い出して民主化したのに、その人をまた選ぶというのは、逆説的に見えます。


富良野: 論文が使っている概念が「権威主義的相続」と「権威主義的重荷」の対比です。相続というのは、独裁体制が民主化後に残す資産——ブランドとしての人気、組織、資金のこと。重荷というのは、弾圧や人権侵害の記録、民主的正統性の欠如という負債です。


Phrona: 資産と負債が両方あって、どちらが上回るかで結果が変わる、という整理ですね。


富良野: 通常の「権威主義的後継政党」は、この重荷を薄める戦略を使えます。過去の行為を公式に批判する、党名を変える、「悪い指導者」をスケープゴートにする——色々な手が使える。でもディクトクラートとディクトブラットには、それができない。


Phrona: 本人であるか、血縁であるかが、消せない刻印になっているから。


富良野: だから彼らが使える戦略は一つしかない、と論文は言うんです。過去を否定せず、誇りを持って抱擁する——その一択だと。


Phrona: 抱擁が機能するということは、受け取る土壌がある、ということですよね。なぜ独裁の記憶が肯定的に残りうるのか、という問いが出てきます。



血筋か、選択か


富良野: その問いに入る前に、論文が対抗策を検討する場面で少し気になる記述があって。出馬禁止という選択肢を「ただし、これはディクトブラットには不公平だ」と明記しているんです。


Phrona: 親の行いで子が罰せられる、という問題ですね。


富良野: 刑事法では当然のこととして扱われる原則です。親が犯罪者でも子は無罪、というのは、法の支配の根幹にある考え方で、それを政治の文脈でも無視することはできない。


Phrona: ただ実際のディクトブラットたちは、単に「その家に生まれた」だけじゃないですよね。マルコスJr.が「父は天才だった」と公言して、父の路線の継承を誓ったのは、彼自身の選択です。


富良野: そこが分岐点で、「血筋ゆえの排除は不正義」という原則と、「自らの言動・選択への政治的評価は正当」という原則は、矛盾しません。問題は血筋ではなく、その人が何を語り、何を選んだかという話になる。


Phrona: 血筋に生まれたことは責められない。でも、その血筋を旗として掲げて独裁の神話を再生産することは、選択であり、政治的な行為です。


富良野: 韓国の朴槿恵が当選翌日に父・朴正煕の墓参りをしたとき、それは私的な行為であると同時に、明確なメッセージを持つ政治的なシンボル行為でもあった。しかも選挙スローガンが「また、よく生きよう」で——父の代のスローガン「よく生きよう」をそのまま継承していた。


Phrona: そのシンボル行為が機能するのは、受け取る側の記憶があるからですよね。父が何をしたか、それをどう記憶しているか——その地盤がなければ、シンボルは空振りに終わる。


富良野: そこで問いが変わってくる。選挙戦略の話から、記憶の政治の話に。なぜある独裁の記憶は「黄金時代」として形成され、別の独裁の記憶は「暗黒時代」として残るのか。


Phrona: ちょっと横道ですけど、これって現代に固有の現象なんでしょうか。ヨーロッパ近代の民衆革命の後に王党派が勢いを取り戻したり、ナポレオンの後にナポレオン三世が選ばれたりというのも、広く見ると同じ系統の話に見えてきて。


富良野: ナポレオン三世は特に近いと思います。1848年の大統領選挙で74%を獲得したのは、ほぼ純粋に「ナポレオンの甥」というブランドだけで動いた選挙で、農村部の有権者の多くは政策より名前に投票したという記録がある。ディクトブラットの原型として読めます。


Phrona: 旧体制の利益ネットワークが生き残っていて、ノスタルジーと重なって動く、という構造も似ていますよね。王党派の復古運動も、感情だけじゃなくて貴族・教会・地方名士のネットワークが裏にあった。


富良野: ただ決定的な違いが一つあって、ナポレオン三世はその後クーデターで皇帝になった。つまり民主選挙を入口として使いながら、出口で民主主義を捨てた。王党派の復古も、民主主義の手続きを通じてではなく列強の圧力で起きた。


Phrona: 現代のディクトブラットたちとの差は、そこですね。民主主義の外から来るのでもなく、民主主義を破壊するわけでもなく——民主主義の内側に居続けながら、その記憶を静かに書き換えていく。


富良野: そこに固有の不気味さがある気がします。可視化しやすい脅威じゃないから。問いを記憶の政治に移すと、なぜその書き換えが起きるのかが次の核心になってくる。



黄金時代という名の空白


Phrona: フィリピンのケースが、論文の中でいちばん不思議な事例として出てきますよね。マルコスは客観的に見れば腐敗・弾圧・経済失政の独裁者だったのに、「あの頃は良かった」という記憶が広まって、息子が59%の得票で当選した。


富良野: 論文はそれを「黄金時代の誤謬」と呼んでいます。でも「誤謬」という言葉で片付けると、なぜその誤謬が広がるのか、なぜ事実で反論しても効きにくいのか、が見えにくくなる気がして。


Phrona: 「間違っているのに信じている」という説明だけでは、構造が見えない、ということですよね。


富良野: アルゼンチンの政治哲学者エルネスト・ラクラウが「空虚なシニフィアン」という概念を使っているんですが——シニフィアンというのは記号の「表の形」のことで、言葉やシンボルが持つ形式のことです——それが「黄金時代の記憶」の機能を説明するのに使えると思って。


Phrona: 空虚な、という形容詞が面白いですね。何が空虚なんでしょう。


富良野: 内容が空虚なんです。「マルコス時代は良かった」という言葉は、具体的に何が良かったかを規定しない。だからこそ、治安への不満を持つ人も、経済格差に怒る人も、腐敗したエリートへの嫌悪を持つ人も、それぞれ全く別の理由で「あの頃」というシンボルに集まれる。


Phrona: 互いに矛盾していてもいい不満を、一つのシンボルの下に束ねる機能がある。内容が曖昧だからこそ、包摂力が大きい。


富良野: ラクラウが言うには、ポピュリズムとは異質な要求の束を「等価の連鎖」——ここでの等価というのは、「どれもひっくるめて今の体制への不満」という形で括ること——でつないで、空虚なシンボルに収斂させる運動だ、と。


Phrona: 通常のポピュリズムは「偉大な未来」を空虚なシンボルにしますよね。でも黄金時代ノスタルジーは、過去を参照点にする。「再び」という方向性が、未来のビジョンとは少し違う力を持っている気がします。


富良野: そこなんです。未来のビジョンは曖昧で検証しにくいけれど、「過去の記憶」は情動的なリアリティを持ちながら、しかも実際には検証しにくい。体験した人の感情と、記録された事実が、食い違っていても両方が「本物」として存在する。


Phrona: 「あの頃を知っている」という感覚は、事実でなくても本物の感情ですよね。記憶が可塑的であればあるほど、そのリアリティは作り変えられやすい。



記憶は書き換えられる


富良野: 論文がフィリピンについて「SNSが政治的な嘘の生態系になっていた」と書いているんですが、これは単純なフェイクニュース問題というより、記憶の再構築の話として読める気がします。


Phrona: YouTubeやFacebookで「マルコス時代の豊かさ」を描くコンテンツが大量に流通して、それが特に若い世代の「記憶」を形成していった。体験していない世代が、体験した記憶を持つようになる。


富良野: 本人が体験していない出来事についての「記憶」が、感情的に本物のリアリティを持って形成される。記憶の移植、とでも呼べるような現象ですよね。


Phrona: 怖いのは、その記憶が「誰かに植え付けられた」という感覚を伴わないことで。自分が自然に抱いた感慨として内面化されていく。


富良野: それと、空虚なシニフィアンの話に戻ると——内容が空虚だからこそ、事実で反論することが構造的に難しい、という点が気になっています。


Phrona: 「具体的に何が良かったのか」が規定されていないから、「実際はこうだった」と反論しても、シンボルの機能自体は壊れない。


富良野: それどころか、反論すること自体が「既得権益が隠蔽しようとしている」という新しい物語を生んでしまう可能性がある。攻撃が逆説的にシンボルを強化する構造です。


Phrona: 空虚だからこそ、頑丈なんですね。穴がないのではなくて、穴がどこにあるかわからないから攻められない。


富良野: 「ピノチェト後の民主化こそがチリの奇跡だった」という事実を示しても、それを受け取るかどうかは、その人がどんな記憶の地盤を持っているかによって決まる。論文の著者も気づいているように見えますが、事実の提示だけでは届かない層が確実にいる。


Phrona: ただ、届かない理由がノスタルジーの構造だけとも言い切れないんじゃないかと思っていて。


富良野: どういう意味ですか。


Phrona: 「信じるかどうか」以前の問題として動いている人たちがいる気がするんですよね。マルコス家がイロコス地方の地盤を民主化後もずっと握り続けていたのは、記憶の話というより、地方ボスを通じた票と利益の交換ネットワークの話で。


富良野: クライアンテリズムですね——票を投じることと引き換えに、公共事業や雇用や保護を得るという、組織化された利益交換の仕組みのこと。実はロクストンも「権威主義的相続」の中にそれを含めていて、独裁体制が民主化後に残す資産として、ブランドと並んでネットワークと資金を挙げています。ただ論文の本体ではノスタルジーの分析に比重が置かれていて、ネットワークの話は少し薄い。


Phrona: 感情で動く層と、利益計算で動く層が、同じ票として積み上がる。ノスタルジーに共鳴する人と、ネットワークに組み込まれている人では、そもそも反論が届く回路が違う。


富良野: 二つの層が補完的に機能しているとすれば、対抗策の難しさも二重になりますよね。記憶の神話を解体しても、ネットワークの利益構造には届かない。



処方箋は効くのか


Phrona: 論文が示す対抗策は三つありますよね。出馬禁止、決選投票制度の導入、そして神話の解体と根本的な不満への対処。


富良野: 出馬禁止の問題は先ほど話した通りで、ディクトブラットには適用できないし、禁止そのものが不正義になりうる。決選投票は制度的にかなり有効で、バンセルは22%、バラゲールは42%で当選していますから、決選投票があれば落ちていた可能性が高い。


Phrona: でもマルコスJr.は59%、オバサンジョは63%で当選していて、決選投票があっても結果は同じだった。制度的な歯止めは、支持が圧倒的な場合には効かない。


富良野: 最後の処方箋、「神話を解体しながら根本的な不満に応える」が最も本質的だというのは著者も認めていて、でも同時に最も難しいとも書いている。


Phrona: 難しさの構造が二重になっていますよね。一つは空虚なシンボルへの反論の難しさ。もう一つは、ノスタルジーを生んでいる不満が多様で、互いに矛盾していることもある、という点。


富良野: 治安への不満、腐敗への怒り、経済格差への疲弊——それぞれ別々の政策が必要で、一つの施策が別の不満を刺激することもある。等価の連鎖を解体するには、連鎖を構成していた個々の要求に個別に応えるしかない。それは気の遠くなるような作業です。


Phrona: 民主主義が「良い統治の実績」を積み上げることでしか、権威主義ノスタルジーの地盤を削れないとすれば——それ自体が民主主義に対する、かなり厳しい要求ですよね。


富良野: 民主主義は本質的にノイズが多くて、遅くて、泥臭い。その泥臭さと「あの頃の秩序と安定」が比べられるとき、後者が魅力的に見えるのは、ある意味で構造的な宿命かもしれない。


Phrona: 独裁の記憶は選択的で、現在の民主主義の失敗は具体的に目の前にある。比較の土台が最初からフェアじゃない、ということですよね。


富良野: それでも論文が「権威主義ノスタルジーを完全には消せないが、余地を狭めることはできる」と言って終わるのは、処方箋の限界を知りながら問いを捨てない、ということだと思います。


Phrona: できないことを認めた上で、できることを問い続ける。その構えそのものが、民主主義という制度の自己記述として読める気がします。泥臭く、遅く、それでも問い続ける、という。



 

ポイント整理


  • ディクトクラートとディクトブラットの広がり

    • 第三の民主化の波(1974年〜)以降、新興民主主義国の約5分の1で、元独裁者本人かその子どもが民主選挙で最高権力者に就いた。例外的な事例ではなく、一定のパターンを持つ現象として記述できる。

  • 彼らに許された唯一の戦略

    • 通常の権威主義的後継政党は、過去との距離を取ることで「重荷(負債)」を薄める手が使える。しかし元独裁者本人や血縁者にはその選択肢がない。彼らに残る戦略は、独裁の過去を誇りを持って称揚することだけだ。

  • 血筋か、選択か

    • 「親の行いで子が罰せられてはいけない」という原則は政治においても有効で、出馬禁止はディクトブラットには不公平になりうる。ただし、父の独裁を積極的に称揚し神話を再生産することは、血筋ではなくその人自身の選択であり、政治的評価の対象になる。

  • 空虚なシニフィアンとしての「黄金時代」

    • 「あの頃は良かった」というシンボルが強力なのは、具体的な内容を持たないからだ。治安への不満も、腐敗への怒りも、経済格差への疲弊も、互いに矛盾していても同じシンボルの下に集まれる。ラクラウが言うポピュリズムの「等価の連鎖」が、過去を参照点として機能している。

  • 記憶の可塑性とSNSによる再構築

    • 体験していない世代が、SNSを通じて「黄金時代の記憶」を情動的なリアリティとして内面化する。記憶の移植とも呼べる現象が、ノスタルジーの地盤を次世代にも作り出していく。

  • 事実による反論の構造的限界

    • 空虚なシンボルは内容が曖昧なため、具体的な事実で反論しても機能自体を壊せない。さらに反論が「隠蔽しようとする既得権益」という新たな物語を生み出す逆説が起きる。事実の提示だけでは届かない層が構造的に存在する。

  • ノスタルジーとネットワークの二層構造

    • 権威主義的相続には感情的な層(ノスタルジー)と構造的な層(クライアンテリズムネットワーク)の二つがある。前者は記憶への共鳴で動き、後者は票と利益の交換で動く。この二層が補完的に機能するとき、事実による反論は感情層にすら届きにくく、利益構造層にはそもそも別の回路が必要になる。

  • 処方箋の三層とその限界

    • 決選投票制度は有効だが、圧倒的多数の支持がある場合には効かない。「神話の解体と根本的な不満への対処」が最も本質的だが、最も困難でもある。民主主義が実績で応えることでしか、ノスタルジーの地盤を削る手段はない。



キーワード解説


【ディクトクラート(Dictocrat)】

「独裁者(dictator)」と「民主主義者(democrat)」を組み合わせた造語。かつて独裁者だった人物が、民主選挙によって再び権力の座についた場合にこう呼ばれる。ボリビアのウーゴ・バンセルやナイジェリアのムハンマド・ブハリなどが代表例。


【ディクトブラット(Dictobrat)】

独裁者の子ども(多くは息子・娘)が民主選挙で当選した場合の呼称。フィリピンのフェルディナンド・マルコスJr.や韓国の朴槿恵などが代表例。2024年には、インドネシアでスハルト元大統領の元義息子プラボウォ・スビアントが大統領に選ばれている。


【権威主義的相続(Authoritarian Inheritance)】

独裁体制が民主化後に後継者へ残す「資産」のこと。大衆的な人気・知名度というブランド価値、組織ネットワーク、資金などが含まれる。すべての独裁体制が同量の相続を生むわけではなく、政権の実績や終わり方によって大きく異なる。


【権威主義的重荷(Authoritarian Baggage)】

裁体制に紐づく「負債」のこと。弾圧・人権侵害の記録、民主的正統性の欠如などが含まれる。アルゼンチンの軍事政権(1976〜83年)のように、重荷が圧倒的に大きい場合は、後継政党すら成立しにくい。


【黄金時代の誤謬(Golden Age Fallacy)】

過去の独裁体制を「平和・繁栄・清廉が実現していた時代」として誤って記憶・記述する現象。フィリピンのマルコス政権のように、実態として腐敗・弾圧・経済失政であった体制が、後に「黄金時代」として語り直される場合にこの言葉が使われる。


【空虚なシニフィアン(Empty Signifier)】

アルゼンチンの政治哲学者エルネスト・ラクラウが提唱した概念。シニフィアンとは記号の「表の形」——言葉や像の形式のこと。「空虚」とは具体的な内容を持たないという意味で、だからこそ互いに矛盾する多様な不満を一点に束ねる包摂力を持つ。「あの頃は良かった」という言葉は、何が良かったかを規定しないからこそ、様々な立場の不満を吸収できる。


【等価の連鎖(Chain of Equivalence)】

ラクラウのポピュリズム論における概念。本来は異質で互いに矛盾しうる要求(治安・経済・腐敗など)を、「現在の体制への不満」という括りで等価に扱い、一つのシンボルへと収斂させること。この連鎖によって、ポピュリズム運動は異質な支持層を一時的に統合する。


【記憶の可塑性(Malleability of Memory)】

記憶が固定されたものではなく、後から書き換えられ再構成されうる性質のこと。SNSによるコンテンツの流通は、体験していない世代が体験した「記憶」を情動的なリアリティとして持つことを可能にする。権威主義ノスタルジーの再生産において、この可塑性が重要な役割を果たす。


【クライアンテリズム(Clientelism)】

票を投じることと引き換えに、公共事業・雇用・保護などの利益を提供する、組織化された政治的交換の仕組み。独裁体制下で形成された地方ボスや利益ネットワークは、民主化後も生き残りやすく、権威主義的相続の重要な構成要素となる。ノスタルジーへの感情的共鳴とは異なり、利益計算として機能するため、事実による反論や記憶の修正では解体できない。


【ナポレオン三世と「名前の政治」】

1848年のフランス大統領選挙で74%の票を獲得し当選したルイ=ナポレオン・ボナパルトは、ナポレオン一世の甥にあたる。政策より「ナポレオンの血筋」というブランドへの投票であったとされ、ディクトブラット現象の19世紀的原型と見ることができる。ただし彼はその後クーデターで皇帝に即位しており、民主主義の手続きを入口として利用しながら出口で捨てた点が、現代のディクトブラットとは異なる。


【権威主義ノスタルジー(Authoritarian Nostalgia)】

過去の独裁体制を懐かしみ、その再来を望む心情・政治的傾向のこと。現在の民主主義への不満と表裏一体であり、治安・腐敗・経済格差などへの具体的な不満が根底にある。スペインのフランコ、ポルトガルのサラザール、チリのピノチェトへのノスタルジーを掲げる政党が近年欧州でも台頭している。



本稿は近日中にnoteにも掲載予定です。
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