top of page

「すべては数式で書ける」という夢は、なぜ危険なのか──世界を方程式に収めようとする人間の欲望

シリーズ: 知新察来


◆今回のピックアップ記事:Jobst Landgrebe et al., "Reality cannot be turned into mathematics" (Institute of Art and Idea, 2026年3月24日)

  • 概要:ライプニッツからLLM(大規模言語モデル)まで、「世界を数学的に完全記述できる」という夢が科学者・哲学者に繰り返し現れてきた。しかし著者たちは、自然システムのほとんどは「非エルゴード的」——つまり本質的に不規則で予測不能——であり、数学的モデル化が原理的に不可能な領域が広大に存在することを論じる。気候予測・遺伝子工学・AI意識論は、この限界を無視した「危険な幻想」であり、正しい科学の姿は完全記述ではなくヒューリスティクス(近似的な発見的手法)に依拠すべきだと主張する。



数学は、人類が手にした最強の道具のひとつです。惑星の軌道を予測し、橋を設計し、スマートフォンの通信を可能にした。その圧倒的な成功体験が、私たちに一つの信念を植えつけました——「いつかすべては数式で書けるようになる」という信念を。

でも、それは本当でしょうか?


哲学者のバリー・スミスと数学者のヨブスト・ランドグレーベは、この問いに真正面から向き合い、「それは幻想だ」と言い切ります。気候の100年予測も、脳のシミュレーションも、AIが意識を持つ日も——すべて、原理的に不可能だ、と。


富良野とPhronaが、その主張を手がかりに話し始めます。数学が「届く場所」と「届かない場所」の境界線とはどこにあるのか。そして、「すべてを測りたい」という欲望の奥に、人間の何が潜んでいるのか。



科学の成功が生んだ「錯覚」


富良野: ランドグレーベとスミスの論文を読んでいて、最初に思ったのは「ここまで断言するか」ということでした。気候の長期予測は不可能、AIが意識を持つことも不可能、遺伝子でバイオロジーをプログラミングするのも不可能、って。かなり強い言い方ですよね。


Phrona: 強いですね。でも私、その「断言の強さ」自体がすでに何かを語っていると思って。これだけ「できる」「なれる」「わかる」って話が溢れている時代に、わざわざ「できない」と言いに来るには、それなりの動機がいる。


富良野: それはそうですね。彼らの主張の出発点は、科学の成功体験が逆説的に「錯覚」を生んだ、というところにあって。ニュートンやライプニッツが微分積分を発明して、惑星の動きを方程式で書けるようになった。そこから「いつかすべてが書けるようになる」という信念が育っていった。


Phrona: 成功したから、次も成功するはずだ、という。


富良野: そう。でもこれって、認知バイアスとしてはかなり典型的なパターンですよね。ある文脈で有効だった手法が、「どこでも有効」に見えてしまう。


Phrona: 망치を持つと、すべてが釘に見える、って言いますよね。…あ、でも日本語だと「金槌を持つと何でも釘に見える」か。数学というハンマーを手に入れた瞬間、宇宙全体が釘の集合に見え始めた。


富良野: うまいな(笑)。ただ、その比喩だと数学を責めているみたいになる。彼らの主張はもう少し精緻で、「数学が使えるシステム」と「使えないシステム」の間には、原理的な違いがあるんだ、というものです。


Phrona: その「原理的な違い」のところが、この論文の核心ですよね。エルゴード性(ergodicity)、という概念。私、最初これを見たとき「また難しい言葉が……」と思ったんですけど、読み進めたらそこまで恐ろしい概念でもなくて。


富良野: どう理解しましたか?


Phrona: 「かき混ぜると均一になるかどうか」みたいなイメージで最初つかみました。ミルクをお茶に入れてかき混ぜると、全体が同じ色になる。それがエルゴード的な状態、って。


富良野: それ、論文そのままの例えですね(笑)。でも本質は抑えてると思います。要するに、システムの振る舞いがある程度「均一で、くり返しのある」ものかどうか、というのがポイントで。均一でくり返しのあるシステムは数式で書けるけれど、そうでないものは書けない。



不規則性という「名前のついた絶壁」


Phrona: でも、「不規則なら書けない」って、直感的には当たり前じゃないですか。なんで今さらそれを言う必要があるんだろう、というのが少し引っかかって。


富良野: そこが面白いところで。「不規則だから難しい」というのと「不規則だから原理的に不可能」というのは、全然違う話なんですよね。技術的な問題として「まだ計算能力が足りない」というのであれば、コンピュータが進化すれば解決するかもしれない。でも彼らが言っているのは、計算能力の問題じゃなくて、構造の問題だと。


Phrona: あ、それは大事な区別ですね。量の問題か、質の問題か。


富良野: そう。非エルゴード的なシステムというのは、「状態のくり返しパターンがない」ということで。くり返しがなければ、過去のデータから未来を予測するための足場がそもそも存在しない。


Phrona: 足場がない、か。……天気の話が出てきたとき、私なんとなく「あ、そういうことか」と思ったんですよ。気象予報って、どんなに精度が上がっても、1週間先が限界と言われるじゃないですか。あれは技術の問題じゃなくて、大気というシステムの構造的な問題だったんだ、というのが。


富良野: 論文の言い方だと、天気は「高度に駆動されたシステム」なんですよね。太陽エネルギーが気圧、気温、水、地形と複雑に絡み合って、エネルギーが絶えず形を変えていく。そういうシステムには、「長期にわたる規則性」がほぼ存在しない。


Phrona: しかも規則性があるように見えても、それが地域ごとに違ったり、期間ごとに変わったりする。


富良野: そうなんです。あるところでは成り立つ近似が、少し離れると全然使えなくなる。そういう状況で「100年後の気候を予測できる」という主張は、根拠がおかしい、というわけです。


Phrona: ……聞いていて思ったんですけど、これって気候だけの話じゃないですよね。市場経済もそうじゃないですか。金融モデルって精緻になり続けているのに、リーマンショックみたいな出来事は全然予測できなかった。


富良野: それ、まさに同じ構造の問題だと思う。経済システムも、無数の人間の行動と感情と制度が絡み合った、高度に非エルゴード的なシステムで。そこに適用できる数学的モデルは、断片的な近似に過ぎない。


Phrona: でも経済学者たちは、長い間それを「完全なモデルに近づく途中」だと思ってた。


富良野: そこが「錯覚」の怖いところで。部分的な成功が、全体の到達可能性への信念を強化し続けるんですよね。



ミツバチは数式を拒む


Phrona: 論文の中で、私が一番「えっ」と思った箇所が、ミツバチのところでした。遺伝的に同一の蜂でも、行動パターンを数式で統一的に記述することはできない、って。


富良野: あれは確かに驚きますよね。「遺伝的に同じ」ということは、いわば同じプログラムで動く機械のはずなのに、それでも行動の不規則性が支配的で、数学的なモデルが作れない、と。


Phrona: 「生き物」というのはそもそも、均一化できない何かを持っている、ということなのかな。


富良野: 少なくとも、「生き物らしさ」に関わる部分は、非エルゴード的なんですよね。呼吸や心拍のように規則的な部分もあるけれど、それは生命現象の一部に過ぎない。蜂が飛ぶ軌跡、人間が判断を下すプロセス——そういうところには、くり返しのパターンがない。


Phrona: そう考えると、「生命とは何か」という問いの答えの一部が、ここにある気がしませんか。生命であることの条件として、数学が届かない不規則性がある、というような。


富良野: 面白い見方ですね。エントロピー的に言えば、生命はずっと平衡から遠い状態を維持しようとするシステムで。平衡から遠いということは、エルゴード的でないということとも近い。


Phrona: 乱れを維持することで生きている、みたいな。


富良野: 詩的な言い方だけど、あながち外れていないと思う(笑)。だとすれば、生命を完全に数式に収めようとすることは、生命をある意味で「殺す」ことになるのかもしれない——そういう比喩も成り立つ。


Phrona: 標本にする、みたいな感じ。ピンで留めた蝶は測れても、飛んでいる蝶の次の動きは測れない。



意識と感情は「計算外」


富良野: で、この議論の行き着く先が、人間の意識と感情の話なんですよね。論文はここで相当強い言い方をしていて、「意識や感情がどのように神経系から生まれているのか、私たちには全くわからないし、永遠にわからないだろう」と。


Phrona: あの断言、なかなかきましたよね。「永遠に」ですよ。


富良野: "will never find out" ですからね。哲学的な留保をつけずに言い切ってる。


Phrona: 私はあそこを読んで、少し複雑な気持ちになったんです。一方では「そうかもしれない」と思うし、もう一方では「それは諦めの言葉じゃないか」とも思って。


富良野: どちらの意味で?


Phrona: 「永遠にわからない」というのを、「だから考えなくていい」という免罪符にしてしまう人が出てくるんじゃないか、というか。科学的限界の主張が、知的怠慢の言い訳に使われることって、ありますよね。


富良野: それは鋭い懸念で。でも彼らの意図はむしろ逆で、「限界を正確に知ることが、本当の進歩の条件だ」というものだと思う。どこが届かないかを知った上で、届く場所に力を集中する。


Phrona: 届かない場所を「届かない」と名指しすることで、エネルギーが正しく分配される、と。


富良野: タイヤのブレーキという例えが出てきましたよね。「タイヤが路面に接触した際の摩擦を完全に数式で記述するのは不可能だけれど、実際には車を上手く止めることができる」という。完全なモデルがなくても、うまくやる方法はある。


Phrona: ヒューリスティクス、ですね。「厳密な公式じゃないけど、だいたいうまくいく経験則」みたいな。


富良野: そう。そしてこれ、実は科学者たちが常にやってきたことで、優れた科学者はいつもヒューリスティクスと数学の間を行き来してきた。それを自覚せずに「いつか完全な数式にたどり着く」という幻想を持ち続けるのが問題だ、ということかな。


Phrona: ……そこまで聞いたら、AIの話を避けて通れないですよね。



AIには「向いている領域」がある


富良野: ええ。論文の結論部分が、LLMの話に来るんですよね。要は「LLMはエルゴード的なパターンを扱う限りにおいては機能する、しかしそれが失われた領域では失敗し続ける」という。


Phrona: 「エルゴード的なパターン」というのは、たとえばどういうものですか?


富良野: くり返しが多くて、過去の例から未来を推測できるようなもの、と言えばいいかな。言語の文法パターン、よくある質問への回答、既存の知識の整理と検索——こういうことはLLMが得意で、それは入力と出力の間に「学習可能な規則性」があるから。


Phrona: でも、その外側に出たとたんに怪しくなる。


富良野: そう。まだ起きていない出来事への対応、個人の感情の細かいニュアンスを読む、真に新しい発見をする——こういうことには、エルゴード的なパターンが存在しない。だから原理的に苦手なんです、という話になる。


Phrona: これって、今AIに期待されていることの多くが、後者に属している気がしませんか。癌の新薬を発見する、気候変動を解決する政策を提案する、人間の悩みに本当に寄り添う……。


富良野: まさに。そして「AIが得意なこと」と「AIに期待されていること」がずれているという問題は、論文の外の話でもありますよね。


Phrona: 投資が集まっているのは、幻想の方に対してかもしれない。


富良野: そこはかなり辛辣な見方になるけれど、そういうことになる可能性はあるな、と思って読みました。巨額の資源が「原理的に達成不可能なこと」に向かっていたとしたら、それは科学的な問題であると同時に、経済的・社会的な問題でもある。


Phrona: 「害のある幻想」という言い方を論文はしていましたよね。そこに込められている怒りみたいなものが、少し見えた気がして。



「測れないもの」を抱えて生きるということ


Phrona: ……ちょっと視点を変えていいですか。この話全体を聞いていて、私が気になっているのは、「数学で書けないものを、人間はどう扱ってきたのか」ということで。


富良野: というのは?


Phrona: 意識も感情も、気候の細部も、ミツバチの飛び方も——測れない、書けない。でも人間は、それらと何千年も共存してきた。どうやって?


富良野: ヒューリスティクスもそうだし、直観、経験則、物語、宗教的な枠組みも含めて——「完全に理解しなくても機能する知」の形を作ってきた、ということじゃないかな。


Phrona: そう。で、それって「劣った知」じゃないですよね。「まだ数学化できていない、未完成の知」でもなくて。それはそれで、固有の論理と価値を持った知の形だと思う。


富良野: それが今、「いつかは数式になる途中段階のもの」として格下げされている、という見立てですね。


Phrona: 格下げというか、見えなくされている、という感じかな。「測れないものは扱えない」という前提が広がると、測れないものへの感受性が落ちてきませんか。


富良野: ……それは重い問いですね。指標化できないものへの注意力が落ちる、ということは、制度設計でも感じることがあって。「測定できること」だけが管理と評価の対象になっていくと、測定できない価値——たとえばケアとか、信頼とか——が少しずつ空洞化していく。


Phrona: そこまで話が来ると、「現実は数学化できない」というテーゼが、単なる科学哲学の話ではなくなる気がして。


富良野: 生活の設計の話、になってくるんですよね。「何を可視化し、何を可視化しないか」という選択は、社会の何を大事にするかという価値の問題と、切り離せない。


Phrona: ライプニッツが「計算しよう」と言ったとき、そこには相違を解消したいという気持ちがあった。でも、もし解消できない相違の中にこそ、大事な何かが宿っているとしたら——


富良野: 「計算」で解決しようとすることが、大事なものを消してしまうかもしれない。



 

ポイント整理


  • 成功体験が生む「過剰な一般化」

    • 17世紀の数学的物理学の成功が、「すべてを数式で記述できる」という広範な信念を生んだ。しかし特定の領域で有効な手法が、あらゆる領域に適用可能とは限らない。

  • エルゴード性——数学化できるか否かの分岐点

    • エルゴード的なシステムとは、時間が経てば要素がすべての状態をほぼ均等に経験するような、規則性のあるシステム。こうしたシステムだけが、数学的モデル化に適している。

  • 自然システムのほとんどは非エルゴード的

    • 気候、生物、脳——これらは多くの力が絡み合い、エネルギーが絶えず形を変える「駆動されたシステム」で、本質的に不規則。統一的な数学モデルで捉えられる部分は一部に過ぎない。

  • 「難しい」と「原理的に不可能」は別問題

    • 計算能力の不足であれば技術進歩で解決できる。しかしエルゴード性の欠如は構造的な問題であり、いくらコンピュータが発達しても予測可能性の壁は消えない。

  • ヒューリスティクスの知的価値

    • 完全なモデルがなくても、人間は「だいたいうまくいく経験則」で多くのことを成し遂げてきた。タイヤのブレーキ設計も、優れた医療判断も、厳密な数式ではなくヒューリスティクスに依拠している。

  • LLMの限界はエルゴード性の限界

    • LLMはくり返しのある規則的なパターン(語彙、文法、既知の知識)には強い。しかし真に新しい出来事、個人の感情の細部、前例のない問題解決には、学習可能な規則性がなく、原理的に弱い。

  • 「測れないもの」への感受性という問題

    • 測定可能なものだけを扱おうとする姿勢が広がると、ケア、信頼、直観のような数値化しにくい価値が制度や評価から見えなくなるリスクがある。



キーワード解説


【エルゴード性(Ergodicity)】

熱力学から来た概念で、もともとは「システムの要素が、時間をかけてすべての可能な状態を等しい頻度で経験するかどうか」を表す。エルゴード的なシステムは規則性があり、数学的なモデル化や予測が可能。非エルゴード的なシステムは不規則でくり返しがなく、過去のデータから未来を正確に予測することが原理的に困難。


【非エルゴード的システム(Non-ergodic system)】

くり返しのパターンが成り立たない、根本的に不規則なシステムのこと。天気、生物の行動、人間の感情など、自然界の多くの現象がここに属する。「まだ解析できていない難しいシステム」ではなく、「そもそも数学的に完全記述できない構造を持つシステム」という点が重要。


【ヒューリスティクス(Heuristics)】

厳密な証明や公式に基づかず、経験や直観から導かれる「だいたいうまくいく手法・経験則」のこと。完全な正確さは保証されないが、現実的な場面で効率よく機能する。医療診断、工学設計、日常の意思決定など、科学と実践の多くの場面で、数学的モデルよりもヒューリスティクスが主役を担っている。


【LLM(大規模言語モデル / Large Language Model)】

膨大なテキストデータを学習し、言語を生成・処理するAIシステム。ChatGPTやClaudeなどがこれにあたる。語彙のパターンや知識の整理には優れるが、論文の観点からは「エルゴード的なパターンを扱う機械」であり、前例のない状況や感情の細部には原理的に限界があるとされる。


【ライプニッツの推論機械(Leibniz's reasoning machine)】

17世紀の哲学者・数学者ゴットフリート・ライプニッツが構想した、「すべての人間的思考を記号で表現し、機械が計算することで真理に到達できる」という思想実験。現代のAIや計算論的認知科学の遠い先祖にあたる発想で、「世界は計算可能だ」という信念の原点の一つとして語られる。



本稿は近日中にnoteにも掲載予定です。
ご関心を持っていただけましたら、note上でご感想などお聞かせいただけると幸いです。
bottom of page