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「国」は誰が決めるのか――法の言葉は、なぜ力を持つのか

更新日:2 分前

シリーズ: 知新察来


◆今回のピックアップ記事:Ian Hurd, "There Is No Such Thing as a Country"Institute of Art and Ideas, 2026年4月15日)

  • 概要:「世界に国はいくつあるか」という問いから出発し、国家の存在が客観的事実ではなく他国による「承認」という社会的行為によって成立することを論じる。国際法は国家を拘束する絶対的規範でも単なる建前でもなく、政治的選択を正当化するための語彙と論法の体系として機能するという独自の権力論を展開。承認を求める行為が逆説的に脆弱性を示すこと、そして覇権国が法的正当化を真剣に行い続けることで国際法の権威が再生産されてきたことを明らかにする。



「193」という数字を聞いたことがあるでしょうか。国連の加盟国数です。「では世界の国の数は?」と聞かれれば、多くの人はこの数字を答えると思います。でも、パレスチナは?台湾は?コソボは?それぞれ「国」と呼べる実態を持ちながら、国連には加盟していません。


この問いを突き詰めると、奇妙なことに気づきます。「国の数」に正解がないのは、計算が難しいからではなく、「国とは何か」が決まっていないからです。そしてそれは、法律や地理の問題というより、純粋に政治の問題です。


ノースウェスタン大学のイアン・ハード教授は、この問いを入口にして、国際法が実際にどういう力を持っているのかを論じます。国際法は世界秩序を守る盾なのか、それとも強国の言い訳を包む包み紙なのか。どちらでもない、というのがハードの答えです。


富良野とPhronaは、この記事を読みながら、やがてもう一つの問いへとたどり着きます。ルールを正当化するための言葉は、どのようにして力を持ち、そしてその力はどうやって失われるのか、という問いへ。


 


「国」は、誰かに認めてもらうことで存在する


富良野: ハードがまず壊しにかかるのは、「国には客観的な定義がある」という思い込みなんですよね。1933年に結ばれたモンテビデオ条約というのがあって、国家の定義として、領域・人口・政府・他国との外交関係の四つを挙げている。


Phrona: 教科書的な定義ですよね。でも富良野さん、ちょっと待って。それって、私の家も全部満たしますよね。


富良野: そう、ハードもまったく同じことを言っていて。敷地という境界線、住んでいる人、家の中のルールと意思決定、近所付き合いという対外関係——四条件、全部そろっている。


Phrona: じゃあ何が「国」を家と違うものにするのか、という問いになりますよね。


富良野: そこでハードが持ち込む区別が、物理的な事実と社会的な事実の違いです。石が重いのは誰が見ても重い。でも、「この土地はA国の領土だ」というのは、他の国々がそう認めているから成立している。承認がなければ、その事実は消える。


Phrona: お金に似ていますよね。一万円札が一万円の価値を持つのは、みんなが一万円として扱うからで、誰も受け取らなくなった瞬間にただの紙になる。


富良野: まさしく。ハードはそれを「社会的事実(social fact)」と呼んでいます。国家の存在は、他国が「あれは国だ」と認める集合的な行為に依存している。


Phrona: で、その承認を誰がどう決めるか、というのが次の問いになるわけですね。


富良野: そこが面白いところで、モンテビデオの四条件を満たしていれば承認されるか、というとそんなことはない。ハードは「承認の決定は、対象の客観的条件よりも、承認する側の政府の利益によって決まる」とはっきり書いています。


Phrona: つまり、「あの土地は国家として十分な条件を持っているか」という問いへの答えが承認を決めるんじゃなくて、「承認することが今の自分たちにとって得か」という計算が先にある、ということですね。


富良野: 2025年に英国がパレスチナを承認した話が出てきます。パレスチナの実態が変わったわけじゃない。それどころかハードは、イスラエルの侵攻で状況は悪化していたとさえ言っている。変わったのは英国政府の政治的な計算だけ、と。


Phrona: 承認しなかった側の方が、場合によってはもっと雄弁ですよね。トルコが国際社会で孤立しているキプロス北部の政権だけを承認しているのも、北朝鮮と日本が今も互いを認めていないのも、それぞれの歴史と利害が詰まっている。



法は「道具」だ——しかしその道具性こそが力の源泉


富良野: ここから、ハードの議論の核心に入っていくんですけど。国際法は役に立つのか、という問いに対して、彼は二つの極論をどちらも退けている。


Phrona: 二つというのは?


富良野: 一つは「国際法は国家を縛る絶対的な規範だ」という楽観論。もう一つは「国際法なんて強い国の言い訳に過ぎない」という虚無論。どちらでもない、という立場です。


Phrona: 楽観論が外れているのはわかる気がします。現実に条約を破る国はあるし、国連決議を無視する大国もある。でも虚無論も、何か大事なものを見落としている感じがしますよね。


富良野: ハードが注目するのは、「なぜ国家は、やりたいことをやるにしても、わざわざ法的な理由をつけようとするのか」という点です。ただ力でやるんじゃなくて、必ず正当化の言葉を探す。


Phrona: 確かに。「欲しいから取る」とは言わないですよね。「自衛のため」「人道的な理由」「条約の解釈上」——何かしら言葉を用意する。


富良野: その言葉の体系を、ハードは法的な「道具」と呼んでいます。国際法は、政治的な選択を正当化したり説明したりするための語彙と論法の集まりとして機能している、という見方です。


Phrona: なるほど。道具として使うということは、目的に合わせて選んで使える、ということでもある。


富良野: そう。モンテビデオの定義という語彙があることで、「なぜパレスチナは承認するのにソマリランドは承認しないのか」という問いへの答えを組み立てられる。同時に批判する側も、同じ語彙を使って「その適用は矛盾している」と反論できる。


Phrona: 支配する側だけじゃなくて、批判する側にも語彙を提供するというのが面白いですね。法は強者だけの道具じゃない。


富良野: そしてここに逆説があって。なぜ国際法はその力を持てるのか、という問いに対するハードの答えは——「ほとんどの人が、ほとんどの場合、法的な議論を真剣に受け取るから」なんです。


Phrona: 信じているから力がある、という話ですね。お金と同じで。


富良野: そう。誰も国際法を真剣に受け取らなくなった瞬間に、その力は消える。逆に言えば、今力があるのは、国家も市民も研究者も、このゲームに参加し続けているから、ということになる。



「精巧な言い訳」が秩序を支えていた


Phrona: その「法的な議論を真剣に行う」ということの意味を、もう少し掘り下げたくなりますね。真剣度、というか、どれくらい本気で法的な語彙を動員するか、ということが問題になってくる気がして。


富良野: そこが今の話に繋がってくるんですよ。冷戦からここ数十年の米国を見ると、何かやましいことをやるときでも、法的正当化に相当のコストをかけていた。

Phrona: たとえば?


富良野: イラク侵攻(2003年)の時なら、大量破壊兵器の脅威、自衛権の解釈、安保理決議の読み方——複数の法的根拠を積み上げた。グアンタナモ収容所の問題では、「敵性戦闘員」という新しい法的カテゴリーをゼロから発明して、通常の戦争捕虜の保護を受けない空間を作り出した。


Phrona: 法の穴を突くにしても、法の語彙を使って穴を作っているわけですね。手が込んでいる。


富良野: そのコストの高さ自体が、法への一種の敬意の表れだった、とも言える。「このゲームのルールは守りませんが、ゲームへの参加は続けます」という態度。


Phrona: で、近年のある種の政権を見ると、その態度自体が変わってきている、ということですよね。


富良野: 「条約を取り消す」「国際機関から脱退する」という行動もそうですが、それ以上に気になるのは、法的正当化の「精巧さ」が落ちてきていることで。一応は法律の名前を持ち出すけれど、その解釈が極限まで引き延ばされていて、批判に対して再反論を試みることもなく、開き直る。


Phrona: ゲームの外側から「このゲームは意味がない」と言い始めた感じがしますよね。参加しているふりはしながら。


富良野: そこが「単にルールを破る」こととの違いだと思うんですよ。ルールを破る人はまだゲームの中にいる。でも、ゲームそのものに対する集合的な信頼——「このゲームには意味がある」という共有された感覚——を侵食し始めると、話が別の次元になってくる。


Phrona: ハードが言った「人々が法的議論を真剣に受け取るから法は力を持つ」という命題が、前提から崩れ始める。


富良野: そう。個別のルール違反じゃなくて、ルールを正当なものとして成り立たせていた信頼の土台への侵食です。



法の語彙は「資源」だ——使い方で枯渇する


Phrona: 「道具」というハードの言葉を、もう少し別の角度から見てみたいんですけど。道具って、使い方によって消耗しますよね。


富良野: 言語資源、という整理が助けになるかもしれないです。国際法が提供しているのは、語彙・概念・論法の体系——つまり「正当化のための言葉の蓄え」で、それを資源として見ると、いくつかのことが見えてくる。


Phrona: 資源だとすると、有限ですよね。無尽蔵には使えない。


富良野: そう。しかもこの資源には面白い特性があって、蓄積はとてもゆっくり起きるけれど、消耗は速い。判例が積み重なり、外交の慣行ができ、「こういう時はこう言う」という共有の語彙が育つのに、何十年もかかる。でも、その語彙を粗雑に使い続けると、信用が損なわれるのは早い。


Phrona: 評判みたいなものですね。築くのに時間がかかるけれど、壊れる時は一気に。


富良野: もう少し踏み込むと、通貨に近い構造だと思うんですよ。お金が価値を持つのは、「これは価値があるものと交換できる」という信頼に依存している。かつて金と交換できた紙幣が、その兌換保証が外れた後も価値を持ち続けるのは、別の信頼体系に移行したから。


Phrona: 国際法の語彙でいうと、「この言葉を使う国は実際にその内容に縛られる」という保証が、語彙の価値を支えている、ということですね。


富良野: その保証が薄れていくと何が起きるか。「比例性」という言葉を使っても実際の行動と関係がない、「自衛権」と言っても定義が毎回変わる——語彙と実際の行動の間のつながりが切れていくと、その言葉を使うこと自体の意味が失われていく。


Phrona: 言葉が空洞化していく。それが積み重なると、語彙の体系全体の重みが落ちていく。


富良野: 怖いのは、その崩壊が段階的には起きないことで。長い時間をかけてじわじわ侵食されて、ある時点を超えると急に崩れる。銀行の取り付け騒ぎと似ていて、「みんなが信じているから大丈夫」という均衡が、「みんなが疑い始めた」という別の均衡に突然切り替わる。


Phrona: その切り替わりがどこで起きるか、超えてみるまでわからない。


富良野: そして、最大の皮肉は——国際法の語彙体系から最も多くを得てきたのが、その体系を今もっとも侵食している国だということです。


Phrona: 覇権国自身が、その秩序の最大の受益者だった。


富良野: 同盟関係、国際機関でのリーダーシップ、自国通貨の基軸性——これらは全部、「この国は約束を守る」という信頼に支えられた社会的事実ですから。その信頼を消費しながら、信頼の土台を削っているという構造になっている。



「国がない」ということの、もう一つの意味


Phrona: ハードの論考に戻ると、国家について面白い逆説を指摘していましたよね。承認を求めれば求めるほど、弱さが露わになる、という。


富良野: コソボが1992年に国際オリンピック委員会への参加を申請した話が出てきます。独立国として国際的に承認されるより、15年以上前のことです。少しでも「国として認められる場」を増やそうとする必死さが、逆に「まだ認められていない」という脆弱性を広告してしまっている。


Phrona: 承認を渇望すること自体が、承認に依存していることを示してしまう。個人でも同じことが起きますよね。強く見せようとする人ほど、実は不安定だったりする。


富良野: ハードはそれを「存在論的不安全性(ontological insecurity)」と呼んでいます。存在論的、というのは少し難しい言葉ですが、「自分が何者であるか」そのものへの不安、という意味です。軍事力を強化しても解決しない、もっと深いところにある不安全性。


Phrona: 国家も、他者の目に映る自分の姿によって、自分が何者かを確認している、ということですよね。


富良野: そして、承認を与える側は、その渇望を知っている。だから承認は、交渉の道具にもなる。イスラエルがソマリランドを承認したのも、紅海の港へのアクセスという実利との交換だったとハードは書いていて。


Phrona: 承認を「あげる・もらう」という関係の中に、権力の非対称性が埋め込まれているわけですね。


富良野: そう考えると、ハードが最初に立てた問い——「国の数は数えられない」——の意味も少し変わって見えてきます。数えられないのは、国家という概念の輪郭が政治によって絶えず動かされているからで、それは欠陥じゃなくて、国際政治という営みの本質だ、と。


Phrona: 答えがないことへの居心地の悪さを引き受けながら、その問いを見続けること自体が、この領域を学ぶということだ、という締め方をしていましたよね。


富良野: でも僕は、今の時代にこの論考を読むと、少し別のところで止まってしまうんですよね。「法的な議論を真剣に行い続けることが、法の力を支えてきた」というハードの命題は、その真剣度が下がったらどうなるか、という問いを内側に含んでいる。


Phrona: 語彙の体系が空洞化していった先に、何が残るのか、という問いですね。


富良野: ハードの論考は、その先を書いていない。書けなかったのかもしれないし、書くべき場所ではなかったのかもしれない。でも、その問いはここに残っています。


Phrona: 法の言葉が力を失ったとき、どんな言葉が代わりに秩序を語るのか。それとも、語る言葉そのものがなくなるのか。

 

 

ポイント整理


  • 国家は「認められること」で存在する

    • 領域・人口・政府・対外関係という条件(モンテビデオ基準)を満たしても、他国に承認されなければ国家として機能しない。国家とは物理的な事実ではなく、承認という社会的な行為によって成立するものであり、その意味で「社会的事実」と呼ばれる。

  • 承認の決定は、対象の条件ではなく、承認する側の利益で動く

    • 国家の承認は客観的基準の適用ではなく、政治的計算の産物。承認する・しないのどちらも、その背後には承認する側の戦略的・歴史的な利害がある。

  • 国際法は「守るべき規範」でも「単なる建前」でもない

    • 国際法は、政治的選択を正当化・説明するための語彙と論法の体系として機能する。強国もそれを使い、批判者もそれを使う。法の「道具」としての性格が、逆説的に法の権力を生み出している。

  • 法の力は、人々が法的議論を真剣に受け取ることで維持される

    • 国際法に中央の執行機関はない。それでも力を持つのは、国家・市民・研究者がこのゲームに参加し続けているから。参加をやめた瞬間、その力は消える。

  • 法的正当化の「精巧さ」自体が、秩序への参加宣言だった

    • 冷戦以降、覇権国は不都合な行動をとる際にも、手の込んだ法的根拠を構築してきた。そのコストの高さ自体が、法という共通の語彙を使い続けるというコミットメントを示していた。

  • 語彙は使い方で枯渇する——蓄積は遅く、消耗は速い

    • 法的語彙は長年の慣行と判例の蓄積によって育つが、実際の行動との乖離が続くと急速に信用を失う。その崩壊は線形ではなく、臨界点を超えると突然起きる。

  • 承認を求めることは、弱さの広告でもある

    • 国家が必死に承認を求めるほど、自分の存在が他者の承認に依存していることが露わになる。これを「存在論的不安全性」と呼ぶ。軍事力では解消できない、より深い層の不安定性。



キーワード解説


【イアン・ハード(Ian Hurd)】

ノースウェスタン大学政治学部教授。国際法・国際機関・正統性の政治学を専門とし、著書に『How to Do Things With International Law』がある。国際法を規範としてではなく「政治的行為者が意味づけと正当化のために使う道具」として分析するアプローチで知られる。


【社会的事実(Social Fact)】

物理的な現実とは独立に、人々の集合的な信念や行為によって成立する事実のこと。哲学者ジョン・サールが整理した概念。一万円札が一万円の価値を持つのは「一万円として扱う」という集合的な行為があるから、というのが典型例。国家の存在も、他国が「あれは国だ」と認め続けることで成立している、という意味でこの類型に属する。


【モンテビデオ条約(Montevideo Convention, 1933年)】

国家の定義を定めた国際条約。国家であるための条件として、①一定の領域、②恒久的な住民、③有効な政府、④他国との外交関係の能力、の四つを挙げる。近代的な国家概念の法的な基礎として参照されるが、ハードが指摘するように、この基準を満たしても承認されない地域は多く、基準の適用自体が政治的判断に委ねられている。


【外交的承認(Diplomatic Recognition)】

ある国家・政府・領域を、独立した政治的実体として公式に認める行為。承認によって大使館の設置、国際機関への参加、条約締結などの権利が生じる。ハードはこの承認が客観的基準の確認ではなく、承認する側の政治的利益に基づく選択であることを強調する。


【言語資源(Linguistic Resources)】

政治的・法的行為者が自己の行動を正当化・説明するために動員できる語彙・概念・論法の総体。特定の制度的文脈の中で効力を持つ言葉の蓄え、と言い換えることもできる。「比例性」「自衛権」「核不拡散」などの国際法上の術語は、その意味でこれを使うこと自体がゲームへの参加を示す。資源には有限性・動員可能性・不均等な分布という特性があり、乱用すると価値が低下する。


【存在論的不安全性(Ontological Insecurity)】

「自分が何者であるか」という自己定義そのものへの不安のこと。国際関係論においてジェニファー・ミッツェンが用いた概念で、軍事的・経済的な安全保障とは別の次元の脆弱性を指す。国家がどれほど強力でも、他者に承認されなければ「国家として」存在することができないという構造が、この不安を生み出す。


【集合的信念と制度の安定性】

国際法の権威を支えているのは条約の文言や執行機関ではなく、「法的議論を真剣に受け取る」という各国・各行為者の集合的な態度。この信念は長期間かけてゆっくり形成されるが、主要な参加者——特に覇権国——が真剣度を下げると、他の参加者の参加インセンティブも連鎖的に低下し、均衡が崩れる可能性がある。崩壊は段階的ではなく、閾値を超えた時点で急激に起きやすい。



本稿は近日中にnoteにも掲載予定です。
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