「縫い目」から見える脱植民地化──ガーナ独立運動を支えた一人の仕立て屋の物語
- Seo Seungchul

- 1月24日
- 読了時間: 14分

シリーズ: 論文渉猟
◆今回の論文:Bright Gyamfi, "Uncovering Radical Histories: Anna Budu-Arthur’s Everyday Politics of Decolonization and Transnational Solidarity" (Radical History Review, 2025年10月1日)
概要: 本論文は、ガーナ独立運動において重要な役割を果たしながら公的な記録からほぼ消えていた女性、アンナ・ブドゥ=アーサーの生涯を、オーラルヒストリーと個人アーカイブを通じて復元する試みである。彼女の経験を通じて、脱植民地化が単なる政治的独立ではなく、日常的な実践と汎大西洋的な連帯のなかで形作られた複合的なプロセスであったことを明らかにしている。
アフリカ大陸で最初にヨーロッパの植民地支配から独立を勝ち取った国、ガーナ。1957年の独立は、世界史の大きな転換点として記憶されています。しかし、その輝かしい物語の主役として語られるのは、ほとんどが男性の政治家や活動家たちでした。
では、歴史の表舞台に名前が刻まれなかった人々は、本当に「いなかった」のでしょうか。
この記事で紹介するのは、アンナ・ブドゥ=アーサーという女性の人生です。彼女は中等教育を終えた後、仕立て屋として働きながら、独立運動の草の根活動に身を投じました。オックスフォードで留学生を支え、ロンドンでガーナ高等弁務官事務所の職員として働き、そしてマヤ・アンジェロウという作家と生涯の友情を結びます。
富良野とPhronaが今回取り上げるのは、ブドゥ=アーサーの人生を通じて見えてくる「脱植民地化」の別の姿です。それは政治演説や条約締結だけでなく、料理を作り、服を仕立て、友情を育むという日常の実践のなかにも宿っていました。「周縁」に置かれてきた人々の視点から歴史を見つめ直すとき、私たちは何に気づくのか。二人の対話を通じて、一緒に考えてみたいと思います。
なぜ「消えた」のかという問い
富良野:論文の著者は、ガーナ独立50周年の記念式典で、独立運動に貢献した女性が一人も公式に表彰されなかったという事実から議論を始めています。
Phrona:50年経っても、一人も名前が挙がらなかった。それは偶然の忘却ではないですよね。何かのプロセスがあって、意図的かどうかはともかく、排除が起きている。
富良野:そう、そこが重要なんですよ。論文ではagnotology(アグノトロジー)という概念が出てくる。これは「無知がいかにして生産されるか」を研究する分野で、知識の生産だけでなく、知識の消去も社会的・政治的なプロセスだという視点ですね。
Phrona:つまり、知らないことは自然状態ではなくて、作られるものだと。
富良野:そういうことです。アンナ・ブドゥ=アーサーという女性は、独立運動の中心人物の一人だった兄の妹で、彼女自身も草の根の政治組織者として活動し、オックスフォードで留学生のサポートをし、ロンドンで外交官として働いた。マヤ・アンジェロウの親友でもあった。
Phrona:それだけの経歴があって、なぜ歴史に名前が残らなかったんでしょう。
富良野:論文の著者は、国家の歴史叙述がほぼ男性中心で、文字記録に依存してきたからだと分析しています。彼女は政治的な文章を残さなかった。でも、口述の記憶、つまりオーラルヒストリーを丁寧に聞き取ると、まったく別の歴史が浮かび上がってくる。
Phrona:書かれたものだけが歴史ではない、ということですね。
分離された街で育つということ
富良野:ブドゥ=アーサーが生まれ育ったセコンディ=タコラディという街は、ガーナの沿岸部にある港湾都市です。植民地時代、この街は徹底的に人種によって区分されていた。
Phrona:地図を見ると一目瞭然らしいですね。「ヨーロッパ人居住区」「ヨーロッパ人病院」「ゴルフコース」と、「アフリカ人居住区」「アフリカ人病院」が明確に分かれている。
富良野:しかも、彼女の曾祖母は、港と鉄道の建設のためにヨーロッパ人居住区から強制退去させられている。補償もなく、歴史的な家屋も壊されて。
Phrona:空間そのものが支配の道具だったわけですね。どこに住めるか、どこを歩けるか、どこで治療を受けられるか。日常のあらゆる場面で、自分が「劣った存在」として扱われていることを思い知らされる。
富良野:そうなんです。彼女にとって「脱植民地化」とは、まずこの人種的な分離と差別を終わらせることだった。でも興味深いのは、彼女が単純な二項対立で考えていなかったことなんですよ。
Phrona:と言いますと?
富良野:インタビューで彼女はこう言っているんです。独立とは「白人から解放されること、彼らから学べる良いものは取り入れ、良くないものは手放すこと」だと。例えば、植民地時代の衛生管理の仕組みは評価していた。
Phrona:なるほど。抑圧者を全否定するのではなく、何が自分たちの役に立つかを見極める。それは被支配者としての知恵でもありますし、同時に主体性の表れでもある。
富良野:まさにそこが論文の重要な論点で。アフリカの人々は植民地主義を受動的に受け入れたわけでも、全面的に拒絶したわけでもなく、自分たちの目的のために選択的に取り入れた。その能動性を見逃してはいけない、と。
母系社会と女性たちのネットワーク
Phrona:彼女の家族背景も興味深いですね。母方の系譜を重視するアカン社会の出身で、母も祖母も曾祖母も、市場の女性リーダーだった。
富良野:そう、特に母親は魚売りの組合の長で、不公正な植民地税に対して声を上げていた。彼女はそういう女性たちに囲まれて育ったんです。
Phrona:反植民地主義の思想は、高尚な理論書から学んだわけじゃなくて、日常の会話や母系の女性たちの実践から吸収していったんですね。
富良野:家庭という空間が、植民地当局の監視の目を逃れて反植民地的な議論ができる場所だった、という指摘も論文にあります。いわば私的空間が政治的空間になる。
Phrona:でも、その貢献は公的な歴史に残りにくい。
富良野:そうなんですよね。彼女は兄のクワメ・ンクルマや他の指導者たちが家に来て議論するのに同席していた。でも議事録を取ったわけでも、演説をしたわけでもないから、記録に名前が残らない。
Phrona:「記録に残らないこと」と「存在しなかったこと」は全然違うのに、歴史叙述ではしばしば同一視されてしまう。
オックスフォードでの「見えない労働」
富良野:1955年、彼女はイギリスに渡ります。兄がオックスフォード大学で学んでいたので、そこで仕立ての技術を学びながら、留学生たちの生活を支えた。
Phrona:料理をして、掃除をして、服を縫って。
富良野:ええ。論文は、こうした労働が男性留学生たちを学業に専念させ、彼らが帰国後に政府や大学の要職に就くことを可能にした、と指摘しています。兄のンケツィアは後にガーナ大学の初代アフリカ人副学長になるんですが、彼女のサポートがあってこそだった。
Phrona:でも、その功績は彼女の名前では記録されない。
富良野:ここで面白いエピソードがあって。彼女はイギリス人の学者や学生のためにガーナ料理を作ったんですよ。すると彼らは喜んで食べた。彼女は「白人は私たちの食べ物が嫌いだと思っていたけど、一番たくさん食べたのは彼らだった」と回想している。
Phrona:食という文化的な交流を通じて、ステレオタイプを崩していく。それも一種の脱植民地化の実践ですね。
富良野:そうなんです。論文はこれを「日常の政治」と呼んでいます。大きな政治演説や条約ではなく、料理や服といった日常的なものを通じて、アフリカの文化的誇りを示し、人種間の理解を促進する。
ケンテという「文化外交官」
Phrona:服の話が出ましたが、ケンテ(kente)という布地がこの論文の重要なテーマになっていますね。
富良野:ケンテは、もともとアシャンティ王族が着用していた手織りのシルクと綿の布です。独立運動の時期に、これがガーナのナショナリズムとパン・アフリカ主義のシンボルとして再解釈された。
Phrona:伝統的な素材を、新しい政治的メッセージを込めて使う。
富良野:ンクルマが独立式典でケンテを着たのは有名ですが、実はその着方にも政治的な意味があった。アシャンティの伝統的な柄を使いつつ、南部沿岸部の着こなしをした。つまり、特定の民族ではなく、ガーナ全体を象徴するものとして着たんです。
Phrona:国民統合のための衣服選択ですね。
富良野:で、ブドゥ=アーサーは仕立て屋として、このケンテを現代的なファッションに仕立て直す仕事に関わっていた。それだけでなく、後にマヤ・アンジェロウとの友情を通じて、ケンテをアフリカ系アメリカ人コミュニティに広める役割も果たした。
Phrona:今ではアメリカの大学の卒業式で、アフリカ系の学生がケンテのストールを着けるのが一般的になっていますよね。あれはどこから始まったんでしょう。
富良野:1963年に、W.E.B.デュボイスがガーナ大学から名誉学位を受けたとき、ンケツィアからケンテのストールを贈られた。その写真が広まって、アフリカ系アメリカ人の卒業式での慣習になったと言われています。
マヤ・アンジェロウとの姉妹的友情
Phrona:アンジェロウとの関係は、どういう経緯で始まったんですか。
富良野:アンジェロウは1962年から65年までガーナに住んでいたんです。当時、約200人のアフリカ系アメリカ人がガーナに移住していて、新生国家の建設とパン・アフリカ主義の理想に惹かれていた。
Phrona:アフリカへの「帰還」という夢を追って。
富良野:そう。アンジェロウはンケツィアと親しくなって、ロンドンを訪れたときに彼の紹介で妹のブドゥ=アーサーの家に滞在した。そこで二人の友情が始まり、生涯続いた。
Phrona:アンジェロウが最初の自伝『歌え、翔べない鳥たちよ』を書き始めたのも、ブドゥ=アーサーの家だったとか。
富良野:はい。アンジェロウは後に著書で「アンナに感謝する、変わらぬ姉妹でいてくれて」と謝辞を書いています。二人はケンテを贈り合い、毎年サンクスギビングにはアンジェロウの家でブドゥ=アーサーが過ごした。
Phrona:「シスター・フレンド」という言葉がありますね。人種的な連帯と、家族のような親密さが重なり合う関係。
富良野:論文はこの友情を、単なる個人的なつながりを超えて、汎大西洋的な黒人連帯の具体的な実践として読み解いています。ケンテという布がその連帯の物質的なシンボルになった。
希望と失望のあいだで
Phrona:でも、ガーナの独立後の歴史は、希望だけでは語れないですよね。
富良野:そうなんです。ンクルマは次第に権威主義的になっていく。1964年には一党独裁体制を敷き、反対派を弾圧した。アンジェロウも居心地の悪さを感じて1965年に離れています。
Phrona:アンジェロウの言葉で「ガーナは私にとって、合わない上着のように居心地が悪くなり始めた」というのがありましたね。
富良野:ブドゥ=アーサーにとっても、これは複雑な経験だった。1966年のクーデターでンクルマが追放されたとき、彼女はロンドンで「みんな喜んだ」と言っている。なぜなら、晩年のンクルマは良くなかったから、と。
Phrona:独立運動を支えた人が、その指導者の失敗を認める。それは辛い経験だったでしょうね。
富良野:しかも、彼女の兄はンクルマと対立して大学での地位を追われているんです。ンクルマが「国家に害をなす」と見なした教授たちを解雇するよう求めたのに、ンケツィアが拒否したから。
Phrona:理想のために戦った仲間同士が、権力をめぐって袂を分かつ。脱植民地化の物語には、そういう苦い側面もあるんですね。
歴史に「声」を返すということ
富良野:論文の著者がブドゥ=アーサーにインタビューしたのは2021年で、彼女は99歳だった。2024年に102歳で亡くなっています。
Phrona:ぎりぎりのタイミングで、彼女の声が記録されたわけですね。
富良野:そう。彼女は政治的な文章を一切残していない。でも、口述の記憶を丁寧に聞き取ることで、まったく別の歴史が浮かび上がった。論文が強調しているのは、アフリカの女性たちは「歴史から消された」のではなく、「歴史の語り方」が彼女たちを見えなくしていた、ということです。
Phrona:問いの立て方を変えれば、見えてくるものがある。
富良野:ブドゥ=アーサー自身、最後にこう言っているんです。「腐敗と賄賂が私たちの一部になってしまった。とても悪いことだ。あなたにも見えるでしょう?」と。そして、「次の世代はもっと良くなるかもしれない。教育を受けて、何が良くて何が悪いかを判断できるようになるから」と。
Phrona:100歳を超えてなお、批判的な視線と希望を両方持っている。
富良野:彼女にとって脱植民地化は完了したプロジェクトではなく、今も続く課題なんですよね。西洋の支配だけでなく、自国の腐敗した指導者たちによる搾取も含めて、より公正な社会を作るための闘いだと。
Phrona:歴史を振り返ることは、未来を考えることでもある、ということでしょうか。
富良野:そうですね。「周縁」に置かれてきた人々の声を聞くことは、過去を書き直すだけでなく、今の私たちがどんな問いを立てるべきかを教えてくれる。彼女の人生は、そのことを静かに、でも力強く示しているように思います。
ポイント整理
アンナ・ブドゥ=アーサーは、ガーナ独立運動において草の根の組織者、オックスフォード留学生の支援者、ロンドンでの外交官、そしてマヤ・アンジェロウの生涯の友人として重要な役割を果たしたが、公式の歴史記録にはほとんど登場しない。 彼女の経験は、オーラルヒストリーと個人アーカイブを通じて初めて明らかにされた。
セコンディ=タコラディという港湾都市の人種的に分離された都市空間が、彼女の脱植民地化への理解を形作った。 「ヨーロッパ人居住区」と「アフリカ人居住区」の明確な区分、強制退去、経済的搾取を目の当たりにした経験が、独立運動への参加の動機となった。
彼女は脱植民地化を単純な二項対立ではなく、選択的な継承と拒絶のプロセスとして理解していた。 植民地支配を終わらせることを求めながらも、有益と判断した制度や慣行は取り入れるという実践的な姿勢を持っていた。
母系社会のアカン文化と、市場の女性リーダーとしての母・祖母・曾祖母の影響が、彼女の政治意識を育てた。 家庭空間が植民地当局の監視を逃れて反植民地的議論を行う政治的空間として機能していた。
オックスフォードでの「見えない労働」——料理、掃除、裁縫——が男性留学生の学業専念を可能にし、彼らの帰国後の指導的地位への登用を支えた。 しかし、この貢献は歴史記録には残らない種類の労働だった。
ケンテ(手織りの布)が、ガーナのナショナリズムとパン・アフリカ主義を物質的に体現するシンボルとして機能した。 仕立て屋としてのブドゥ=アーサーは、伝統的な王族の衣装を現代的なファッションとして再解釈する過程に関わった。
マヤ・アンジェロウとの「シスター・フレンド」関係は、汎大西洋的な黒人女性の連帯の具体的な実践例である。 ケンテの交換は二人の友情を象徴するとともに、ガーナ人とアフリカ系アメリカ人の文化的つながりを強化した。
ンクルマの権威主義化とその後のクーデターは、脱植民地化の複雑な帰結を示している。 ブドゥ=アーサーは独立運動を支えた指導者の失敗を批判的に見つめ、脱植民地化を未完のプロジェクトとして捉え続けた。
論文は「無知の生産」(agnotology)という視点から、女性たちが歴史から「消された」のではなく、男性中心・文字記録依存の歴史叙述が彼女たちを見えなくしてきたことを指摘する。 オーラルヒストリーと非伝統的アーカイブの活用が、異なる歴史を浮かび上がらせる。
キーワード解説
【脱植民地化(Decolonization)】
植民地支配からの政治的独立だけでなく、経済的・文化的・心理的な植民地主義の影響を解消するプロセス全体を指す。ブドゥ=アーサーの事例は、日常的実践の中での文化的脱植民地化を示している。
【オーラルヒストリー(Oral History)】
口述による歴史の記録・保存方法。文字記録に残りにくい周縁化された人々の経験を歴史に組み込む手法として重要。
【ケンテ(Kente)】
ガーナのアシャンティ地方発祥の手織り布。独立期以降、アフリカの誇りとパン・アフリカ連帯のシンボルとして世界的に広まった。
【パン・アフリカ主義(Pan-Africanism)】
アフリカ大陸およびアフリカ系ディアスポラの連帯と統一を目指す思想・運動。1945年のマンチェスター会議などで理論化された。
【アグノトロジー(Agnotology)】
無知がいかに社会的・政治的に生産されるかを研究する分野。知識の生産だけでなく、知識の消去や忘却も意図的なプロセスであることを明らかにする。
【母系制(Matrilineality)】
血統や相続を母方の系譜で辿る社会システム。ガーナのアカン社会に見られ、女性の社会的地位に影響を与えた。
【シスター・フレンド(Sister-Friend)】
アフリカ系アメリカ人コミュニティで使われる表現で、人種的連帯と家族的親密さを兼ね備えた黒人女性間の関係を指す。
【日常の政治(Everyday Politics)】
大規模な政治行動ではなく、料理・衣服・会話といった日常的実践を通じて行われる政治的働きかけ。