「解決不可能な問題」の正体を探る──政策分析におけるウィキッド・プロブレム論
- Seo Seungchul

- 9月28日
- 読了時間: 12分

シリーズ: 論文渉猟
◆今回の論文:B. Guy Peters "What is so wicked about wicked problems? A conceptual analysis and a research program" (Policy and Society, 2017年8月31日)
概要:ウィキッド・プロブレム概念の理論分析と実証研究プログラムの提案。現代政策分析において頻繁に使用される「ウィキッド・プロブレム」概念が過度に拡張されている問題を指摘し、厳密な定義に基づく分析の必要性を論じている。
現代社会では、気候変動や貧困、格差などの問題に対して「これは複雑すぎて解決できない」という言葉をよく耳にします。学術の世界では、こうした問題を「ウィキッド・プロブレム」と呼んで議論が活発化していますが、果たして本当にすべての難しい問題がそれほど特別なのでしょうか。
政策研究の専門家B・ガイ・ピーターズは、この概念が安易に使われすぎているのではないかと問題提起しています。確かに政府が直面する課題は複雑になっていますが、「ウィキッド」という特別な分類に本当に該当するものは意外に少ないかもしれません。一方で、普通の政策問題にも似たような特徴が見られることも多いのです。
今回は、富良野とPhronaとの対話を通じて、この興味深い概念の本質と限界について考えてみましょう。複雑な問題をどう理解し、どう向き合うべきなのか。その答えを探る旅に、一緒に出かけませんか。
ウィキッド・プロブレムの正体
富良野: Phronaさん、最近よく「ウィキッド・プロブレム」って言葉を耳にするんですが、これって一体何なんでしょうね。
Phrona: ああ、それ面白い概念ですよね。1970年代に都市計画の分野で生まれた考え方で、従来の政策分析では対処できないような複雑な問題を指すんです。気候変動とか貧困とか、そういう「悪い」問題という意味ではなくて、「手強い」という意味での「ウィキッド」なんですよ。
富良野: なるほど。でも今回読んだピーターズの論文では、その概念が濫用されているんじゃないかって指摘してますね。
Phrona: そうなんです。彼が言うには、本当にウィキッドな問題って実は思っているより少ないかもしれないって。10個の特徴があるんですが、すべてを満たす問題ってそんなに多くないんじゃないかと。
富良野: その10個の特徴って、具体的にはどんなものなんですか?
Phrona: 例えば、問題の定義が困難で、解決の終了ルールがなくて、解決策に正解・不正解がなく、すべての解決試行が不可逆的な影響を与える...といった感じです。さらに明確な解決策が存在せず、すべての問題が本質的に唯一無二で、他の問題の症状である可能性もある。
富良野: 確かにそれ、すべて満たす問題ってそうそうないかもしれませんね。僕たちが普段「複雑だ」って思っている問題も、よく考えてみると部分的にはクリアできる要素があったりしますもん。
食糧政策を例に考えてみる
Phrona: ピーターズさんも食糧政策を例に挙げて説明してますよね。一見ウィキッドに見えるけど、実はそうでもないかもって。
富良野: ああ、それ興味深い例でした。確かに「十分な栄養価の高い安全な食べ物を、増え続ける人口に提供する」って問題設定は、意外とクリアじゃないですか。
Phrona: そうそう。GMOの安全性とか地産地消とか、いろんな論点はあるけれど、根本的な問題は「みんなが食べられるようになること」で、これって案外明確な目標設定ですよね。
富良野: それに、「人々が十分食べられている」っていう状態は、ある意味で「真の解決」と言えるかもしれない。もちろん質と量のバランスとか、持続可能性とか、いろんな課題は残るけど。
Phrona: でも私、ちょっと気になるのは、そういう技術的・機能的な見方だけで片付けていいのかなって。食べ物って、文化とか感情とか、人間の根源的な部分とも深く関わってますよね。
富良野: なるほど、そこがまさにピーターズさんが指摘している測定の難しさかもしれませんね。客観的な判定基準がないから、人によって「これはウィキッドだ」「いや、そうでもない」って判断が分かれちゃう。
概念の拡張と限界
Phrona: 結局、学術的な「流行」になってしまったということなんでしょうか。何でもかんでも「ウィキッド・プロブレム」って言っちゃう。
富良野: そういう面はありそうですね。サルトーリの言う「概念の拡張」の典型例かもしれません。概念を広げすぎると、分析的な価値が薄れちゃう。
Phrona: でも逆に言えば、それだけ現代の政策課題が複雑になっているということの表れでもありますよね。昔のような単純な問題解決の時代は終わって、みんなが「なんか手強いな」って感じている。
富良野: それは確かにそうですね。ピーターズさんも、概念自体を完全に否定しているわけではなくて、もっと慎重に使おうよって言っているだけで。
Phrona: そうそう。それぞれの特徴を個別に見れば、政策分析にとって有用な視点がたくさん含まれているんですよね。例えば「複数の説明が可能」とか「明確な解決策がない」とか。
富良野: 確かに。フレーミングの問題なんて、薬物政策一つとっても、医療問題として見るか、犯罪問題として見るか、社会問題として見るかで全然アプローチが変わってきますからね。
政治的複雑性という要素
Phrona: あと面白いのが、ウィキッド・プロブレムの特徴として「多くの関係者が関わる政治的・社会的複雑性」が挙げられていることです。
富良野: それ、現代の「ガバナンス」志向と関係してそうですね。昔みたいに政府が一方的に決めるんじゃなくて、いろんなステークホルダーが関わるようになった。
Phrona: でもピーターズさんは、参加者が増えたからといって問題自体がウィキッドになるわけではないって指摘してますよね。むしろ意思決定が難しくなっただけかもしれないって。
富良野: シャルプフの議論ですね。関係者が多くなればなるほど、それぞれに拒否権があればあるほど、現状維持以外の決定を下すのが困難になる。
Phrona: そう考えると、問題の性質が変わったというより、問題を扱う仕組みや環境が変わったということなのかもしれませんね。
スーパー・ウィキッド・プロブレムという概念
Phrona: ところで、最近は「スーパー・ウィキッド・プロブレム」なんて概念も出てきてるんですってね。
富良野: ああ、それは気候変動を念頭に置いた概念ですね。時間が切迫していて、中央権威が弱くて、問題を引き起こしている当事者が解決もしなきゃいけなくて、将来が過度に割り引かれる。
Phrona: 確かに気候変動は特別感がありますよね。不可逆的な変化の危険性とか、地球規模での協調が必要とか。
富良野: でも気をつけなきゃいけないのは、気候変動の特殊性を他の問題にも当てはめちゃうことかもしれません。貧困問題に時間的切迫性はあるけど、気候変動ほど明確な「タイムリミット」があるわけではないですし。
Phrona: それに、中央集権的な解決が必要っていう前提も、もしかしたら思い込みなのかもしれませんね。エリノア・オストロムの多中心性の研究なんかを見ると、分散的なアプローチの可能性もありそう。
富良野: そうですね。一つの成功モデルを他の問題にも適用しようとする傾向があるけど、まさにウィキッド・プロブレムの定義では「すべての問題は本質的に唯一無二」とされているわけですから。
複雑性理論との関係
Phrona: この話を聞いていて思うのは、結局「複雑性理論」との関係なんですよね。
富良野: ああ、確かに。非線形性とか、システム内の相互作用とか、小さな変化が大きな結果を生むとか、複雑性理論の特徴とウィキッド・プロブレムの特徴って重なる部分が多いですね。
Phrona: もしかすると、ウィキッド・プロブレムって複雑性理論の一種の応用形態なのかもしれません。特に時間的要素が強調されたバージョンとして。
富良野: そう考えると、概念整理がしやすくなりますね。複雑性という大きなカテゴリーがあって、その中の特殊なサブセットとしてウィキッド・プロブレム、さらにその中にスーパー・ウィケッドがある。
Phrona: でもそうすると、結局のところ「複雑性」で十分なんじゃないかという気もしてきます。わざわざ「ウィキッド」という特別な概念を作る必要があるのかなって。
実証研究の必要性
富良野: ピーターズさんが提案している研究プログラムも面白いですよね。実際に政策関係者がどう思っているかを調査するって。
Phrona: そうそう、予備調査では環境問題も社会政策問題も、専門家たちはそれほど「ウィキッド」だと思ってないっていう結果が出たんですよね。
富良野: 7段階で4.5程度でしたっけ。学者が思っているほど、実務家は「解決不可能だ」なんて悲観的に考えてないのかもしれません。
Phrona: それって希望的な話でもありますよね。現場の人たちは、困難ではあるけれど何らかの改善は可能だと思っている。学術的な議論と実感とのギャップがあるのかも。
富良野: ただ、概念の浸透度の問題もありそうです。「ウィキッド・プロブレム」という用語自体を知らない人にとっては、単に「難しい問題」という意味で捉えられてしまう可能性もある。
Phrona: だからこそ、概念の定義をしっかりした上での調査が必要なんでしょうね。そして、個別の特徴がどの程度当てはまるかも細かく見ていく。
解決手法への示唆
富良野: 結局、政策手法についてはどう考えたらいいんでしょうね。
Phrona: ピーターズさんは、従来の政策手段で対応できるのか、それとも特別な手法が必要なのかという問いを立ててますよね。
富良野: 確実性を前提とした従来の手法より、より開放的で手続き的な手法の方が適しているかもしれないって話でしたね。
Phrona: 要するに、「実験的」なアプローチですよね。一発で完璧な解決策を作るんじゃなくて、試行錯誤しながら少しずつ改善していく。
富良野: それって、実は多くの政策分野で既にやっていることかもしれませんね。社会保障制度なんて、何十年もかけて少しずつ調整を重ねてきたわけだし。
Phrona: そう考えると、「解決」という発想自体を見直す必要があるのかもしれません。完全な解決ではなく、継続的な改善とか緩和とか、そういう方向で。
富良野: 政府にとっても、国民にとっても、「すべて解決します」って約束するより、「継続的に改善していきます」っていう姿勢の方が現実的だし、信頼されるかもしれませんね。
ポイント整理
ウィキッド・プロブレム概念の現状と問題点
1970年代の都市計画分野で生まれた概念が、現在では政策分析において過度に使用されている状況にある。多くの困難な政策問題が安易に「ウィキッド」とラベル付けされているが、厳密な定義に照らすと該当しない場合が多い。概念の拡張により分析的価値が薄れる「概念ストレッチング」の典型例となっている。
ウィキッド・プロブレムの10の特徴
問題の明確な定義が困難、解決の終了ルールが存在しない、解決策に正誤の判定ではなく良悪の評価、即座または最終的な解決策のテストが不可能、すべての解決試行が不可逆的または忘却不可能な影響、明確な解決策の不存在、すべての問題の本質的唯一性、他の問題の症状である可能性、複数の説明の存在、政策立案者に誤りが許されないという特徴を持つ。
食糧政策を通じた概念検証
一見ウィキッドに見える食糧政策も、「十分な栄養価の高い安全な食品を成長する人口に供給する」という明確な問題設定が可能であり、「人々が十分に食べられる」状態は真の解決として定義できる。GMOや地産地消などの論点があっても、根本的な問題は比較的明確で、ウィキッド・プロブレムの厳密な定義には該当しない可能性が高い。
政治的複雑性と参加型政策決定の影響
現代の政策決定における多様なステークホルダーの参加拡大が、問題自体をウィキッドにするのではなく、単に意思決定プロセスを困難にしているに過ぎない可能性がある。シャルプフの指摘通り、関係者数と拒否権の増加は現状維持バイアスを強化し、根本的変化を困難にするが、これは問題の性質変化ではなく制度的制約である。
スーパー・ウィキッド・プロブレム概念の特殊性
気候変動を念頭に開発された概念で、時間的切迫性、中央権威の弱さ、問題創出者と解決者の同一性、将来の過度な割引という追加特徴を持つ。しかし気候変動の特殊性を他の政策問題に一般化することの危険性があり、分散的・多中心的解決アプローチの可能性も十分検討されるべきである。
複雑性理論との概念的関係
ウィキッド・プロブレムの特徴は複雑性理論の要素(非線形性、システム内相互作用、初期条件の敏感性)と重複が多く、より包括的な複雑性概念の特殊なサブセットとして位置づけることが可能である。この整理により概念の混乱を避け、より明確な分析枠組みの構築が期待できる。
実証研究による概念検証の必要性
学術界での理論的議論と実務家の認識との間にギャップが存在する可能性があり、政策関係者への調査では環境問題や社会政策問題の「ウィキッド度」は予想より低い評価となった。概念の浸透度や理解度の差異も考慮した systematic な実証研究により、概念の妥当性と適用範囲の検証が必要である。
政策手法への示唆と実践的含意
従来の確実性を前提とした政策手段よりも、不確実性を前提とした開放的・手続き的・実験的アプローチがより適している可能性がある。完全な「解決」ではなく継続的な「改善」や「緩和」を目標とする現実的な政策運営への転換が求められる。政府の過度な約束を避け、段階的改善への期待設定の重要性も示唆される。
キーワード解説
【ウィキッド・プロブレム(Wicked Problems)】
1970年代に都市計画分野で提唱された、従来の政策分析手法では対処困難な複雑な政策問題の概念
【概念ストレッチング(Conceptual Stretching)】
サルトーリが指摘した、概念を本来の定義から逸脱して過度に拡張使用することで分析的価値を損なう現象
【スーパー・ウィキッド・プロブレム(Super Wicked Problems)】
気候変動を念頭に開発された、通常のウィキッド・プロブレムよりもさらに困難な政策問題の概念
【複雑性理論(Complexity Theory)】
非線形的相互作用、創発特性、初期条件敏感性などを特徴とするシステム分析の理論的枠組み
【多中心性(Polycentricity)】
オストロムが提唱した、中央集権的ではない複数の意思決定中心を持つガバナンス構造
【政策フレーミング(Policy Framing)】
同一の政策問題を異なる視点や文脈で捉え直すことで解決アプローチが変化する現象
【実験的政策アプローチ(Experimental Policy Approach)】
確実性を前提とせず試行錯誤を通じて段階的に政策を改善していく手法