「打たれ強い国」の議論が飛ばしている問い──安全保障を、社会に残る選択肢の分布で測り直す
更新日:3 日前

シリーズ: 行雲流水
勝てる軍隊より、負けない国家をつくるべきだ。そういう主張を見かけることがある。圧倒的な相手と同じ土俵で競争するのではなく、基地や兵器を分散し、弾薬と燃料を備蓄し、指揮通信を冗長化する。初撃で機能停止しない状態をつくり、短期間では屈服させられないと相手に思わせることで、攻撃そのものの魅力を下げる。軍事戦略としては筋が通っている。
だが、この主張には飛ばされた問いがある。軍事的に持ち堪えたとしても、その過程で社会と経済が回復困難なまでに壊れるなら、戦い続けられること自体を成功と呼べるのか。
政府は残っている。軍隊もまだ戦える。弾薬もある。しかし都市機能は停止し、企業は倒れ、医療は崩れ、物流も教育も止まっている。この状態を負けていないと定義することはできる。定義はできるが、それが防衛の目的にかなっているかは別の話である。
防衛が守ろうとしているのは、軍隊という組織の存続ではない。少なくとも自由な社会において守られるべきものは、そこで暮らす人々の生命と生活、自由、政治的な自律、そして彼らが営んでいる社会そのものだろう。だとすれば、どれだけ長く戦えるかだけを問うのでは足りない。
本稿が立てたいのは、別の問いである。危機に直面したとき、その社会にはどれだけの選択肢が残るのか。この問いを軸に置くと、ベトナム戦争、大日本帝国の敗戦、制裁下のイラン、そして現代日本という一見ばらばらな事例が、一つの軸の上に並ぶ。
壊せたのに、止まらなかった
この観点から見ると、ベトナム戦争は興味深い。
ただし、社会の側に代替が多かったから米国に勝った、という単純な説明は成り立たない。戦争の帰結には、北ベトナムの国家能力、南ベトナム政府の政治的な脆弱性、中国とソ連からの支援、米国の国内政治、エスカレーションへの制約、ラオスやカンボジアを含む地理など、多数の要因が絡んでいる。どれか一つに帰することはできない。
それでも、取り出せる論点が一つある。米国側が当時行っていた分析そのものに、それが記されているからである。ホリデーとガーフィールドが1968年にランド研究所へ提出した南ベトナムにおける反政府側の兵站に関する報告は、輸送、建設、食料生産、負傷者の後送、兵器関連の作業などを含む兵站支援の四分の三以上を民間人が担っており、拠点は数が多く、よく分散していたと述べている。
戦争遂行能力が、正規軍という一つの組織に閉じていなかった。この差は小さくない。組織に閉じている能力は、その組織を破壊すれば失われる。社会の中に広く埋め込まれている能力は、同じ論理では失われない。運ぶ人、隠す人、作る人が軍の名簿に載っていないとき、どこを壊せば止まるのかという問いの立て方自体が成立しなくなる。
ここから抽出すべきなのは、ゲリラ戦の優位という話ではない。戦術的に破壊できることと、戦略的に機能を止められることは同じではない、という原理である。
一つ一つの破壊は成功している。基地は壊れ、部隊は失われ、経路は断たれている。それでも全体は止まらない。相手に物理的な損害を与えることはできても、その損害を政治的な服従へ変換できない。その間に、時間と費用だけが積み上がっていく。
破壊と服従の間には、変換の工程がある。社会の構造は、この変換の効率を下げることがある。
閉ざされるたびに、別の経路が生まれる
同じことが、まったく違う形で起きている場所がある。現在のイランである。
手段は異なる。爆撃ではなく、貿易と金融の経路を閉じる。しかし相手の社会を機能停止へ追い込もうとしている点では共通している。そして、それが数十年続いている。
イランについて報じられるのは、弾道ミサイル、地下施設、核開発、代理勢力といった軍事の側面が中心である。その一方で、長期の外圧のもとで経済と社会がどのような代替経路を形成してきたかという問題は、あまり注目されない。
エスファンディヤール・バトマンゲリジが2024年に発表した制裁下のイランの貿易構成に関する研究は、2009年から2018年の貿易データを分析し、イランの経済主体が世界経済との関わりを放棄したのではなく、取引する地域と商品の構成を変化させ、より複雑な貿易構造を形成したと論じている。その結果として重要な輸出入が継続し、製造業の生産と雇用を支える一因になったという。制裁への耐性は、世界経済との関わりを減らすのではなく増やすことで獲得された、というのがこの研究の結論である。
ここでイランを理想化するべきではない。制裁は生活水準を悪化させ、投資と技術の流入を妨げてきた。代替の経路が存在することと、損失が小さいことは、まったく別である。船便が使えなければ陸路へ切り替えるという迂回は、輸送費と時間の増加を伴い、その費用は国内の価格へ反映される。
したがって、ここで確認できるのは耐えたという事実ではなく、もう少し限定された事実である。主要な経路を閉ざされるたびに、別の経路が作られてきた。
この事例は、選択肢という概念の内容を正確にしてくれる。選択肢とは、損失を消す能力ではない。壊滅的な二択へ追い込まれることを避け、より悪くない別の経路へ移れる能力である。効率が百の経路が失われたあとに、六十と四十の経路しか残らないのは当然である。問うべきは、六十が残るのか、それとも何も残らないのかである。百と六十の差より、六十とゼロの差の方がはるかに大きい。
社会的オプショナリティという見方
ベトナムとイランは、時代も手段も体制も異なる。共通するものに名前を与えなければ、二つを並べた意味がない。
本稿では、社会的オプショナリティ (social optionality) という分析上の言葉を使う。確立された一つの学術概念をそのまま借りているわけではない。ここでは、主要な行動経路が失われたあとでも、国家、地方政府、企業、地域社会、家庭、個人が、目的を達成するための別の実行可能な経路を保持している状態を指す。
レジリエンスと似ているが、焦点が違う。レジリエンスという概念は、吸収、適応、回復、変容といった広い範囲を含み、結果としての機能維持や回復の程度を問う。社会的オプショナリティが見るのは、ショックのあとに何通りの次の手が残っているかという集合である。
電力供給が八割維持されている二つの国を考えればよい。一方は、一つの巨大なシステムが辛うじて八割を維持している。他方は、全国系統に加えて地域電源や自家発電など複数の経路によって八割を維持している。現在の供給量は同じでも、次の障害に対する脆弱性は同じではない。この差を捉えるために、概念を分ける意味がある。
もう一つ、選択肢そのものと、それを生み出す条件を区別しなければならない。冗長性、分散、モジュール性、備蓄、地方の裁量、複数の供給者、技能、社会関係資本は、それ自体が選択肢なのではない。発電所が複数あること自体が選択肢なのではなく、全国系統が落ちたときに地域の電源へ切り替えられることが選択肢である。近隣住民の信頼が厚いこと自体ではなく、行政サービスが止まったときに住民同士で食料や情報を融通できることが選択肢である。この区別を省くと、危機に強くしそうなものをすべて同じ名前で呼ぶことになり、概念としての識別力が失われる。
そして、ここに決定的な制約が加わる。社会的オプショナリティを、一国全体の一つの点数として表すことはできない。
国家にとっては、資本移動を規制し、情報を遮断し、企業や人員を強制的に動員することも、危機対応の選択肢である。しかしその同じ措置によって、市民の移動、情報へのアクセス、所得、政治的自由は失われる。同じ出来事が、一方には手札の追加であり、他方には手札の消失である。足し合わせれば打ち消し合い、変化なしと出てしまう。
したがって問うべきは、厚いか薄いかではない。誰が、どの選択肢を持っているのか、である。国家には外交と財政の選択肢がある。地方自治体には独自の判断と資源配分の選択肢がある。企業には供給者、生産地、決済、物流を切り替える選択肢がある。地域社会には相互扶助と情報共有の選択肢がある。家庭には食料、所得、介護、移動の代替手段がある。個人には技能、人的ネットワーク、情報源がある。
社会全体の強さは、これらの平均値ではない。どこに選択肢が集中し、どの層が動けなくなったときに別の層がどこまで代われるか、という分布の問題である。
ただし、筆者はここに未解決の問題が残ることを認めておきたい。分布を調べ、配り直せる立場にいるのは、たいてい最も上の層である。平時に自らの手札を手放す設計を、その層がなぜ選ぶのか。この問いには、本稿は答えを持っていない。
動員できることと、代わりが利くこと
分布という軸を立てると、その反対側にある事例が見えてくる。戦時中の日本である。
国家が社会の資源を動員する能力という意味では、あの体制はかなり強力だった。軍需生産、人員、企業、地方行政、家庭生活に至るまで、国家の目的に向けて深く組織化されていた。
ところが、動員能力が高いことと、代替経路が厚いことは同じではない。
1946年に公表された米国戦略爆撃調査の太平洋戦争に関する要約報告は、原材料に関してこれほど自給から遠い国はなかったと記し、商船の喪失を戦争経済の中心的な要因として扱っている。開戦時に約六百万総トンあった商船に対し、八百九十万トンが沈没するか、戦争の終わりまでに稼働不能となった。その約五割五分が潜水艦によるもの、約一割六分が空母艦載機によるものである。日本から送り出された陸軍物資の喪失率は、1943年に一割七分、1944年に三割、1945年に五割へ上昇した。南方からの石油輸入は1943年8月に減り始め、1945年4月には消滅している。1945年7月の工業生産は、前年のピークの約四割の水準にあった。
空襲による直接的な工場の破壊だけではない。原材料が届かず、輸送とエネルギーが失われることで、生産の系全体が縮んでいった。
ここで注意すべきは、戦時日本を中央集権、ベトナムを分散と対比する単純化である。戦時日本にも、地域社会、疎開、闇市、家庭内の生産、地方行政といった代替の機能は存在した。逆に北ベトナムも強い党国家によって統治されていた。集中か分散かという二分法では、この違いを捉え損ねる。
より正確に言えば、問われているのは接続の向きである。戦時日本は、社会に存在する資源を国家の目的へ吸い上げる方向の接続を極めて強く持っていた。一方、中央の機構が損なわれたときに、地方や企業や家庭が自律的に機能を代替する方向の接続は、それほど強くなかった。闇市が存在したことは、この見方と矛盾しない。闇市は、国家の目的のためには動いていないからである。
総動員された社会は、必ずしもレジリエントな社会ではない。一つの目的、一つの指揮系統、一つの物流構造へ社会全体を高度に統合するほど、正常に機能している間は強力でも、その主要部分を失ったときに多数の機能を同時に失う。
存在する経路と、実行可能な経路
では、分散させておけばよいのか。そう結論する前に、一つの事例を置きたい。
資源エネルギー庁が公表している北海道の全域停電に関する説明によれば、2018年9月6日午前3時7分の地震のあと、同3時25分に国内で初めてエリア全域におよぶ大規模停電が発生した。検証委員会が明らかにした経過は、苫東厚真火力発電所の二号機と四号機の停止が百十六万キロワット、続いて風力の停止が十七万キロワット、水力の停止が四十三万キロワット、さらに苫東厚真一号機の停止が三十万キロワットというものである。
注目すべきは、停止の理由がそれぞれ異なる点である。火力は震源に近く機器が損傷した。水力は、接続する複数の送電線がすべて切断された。風力は、周波数の低下によって自ら停止した。種類も立地も異なる複数の電源が、一つの地震という共通の原因のもとで、別々の理由により十八分のうちに相次いで失われている。
水力の事例が示すものは重い。送電線は複数あった。一本切れても供給が続くように作られていた。それでも、すべて切れた。複数あることと、独立していることは違う。風力の事例はさらに示唆的である。設備は壊れていない。周波数が基準から外れたため、設計どおりに自ら止まった。個別には正しい挙動が、全体としては供給の喪失になっている。
ここから導かれるのは、経路の数ではなく経路の独立性を問うべきだという条件である。名目上の代替設備があっても、人員、燃料、権限、通信のいずれかを欠けば、実行可能な選択肢としては機能しない。社会的オプショナリティを評価するときに数えるべきは、存在する経路ではなく、その時点で実際に選べる経路である。
なお、この停電では最大約二百九十五万戸が影響を受け、約二日で九割九分が復旧した。復旧そのものは速い。しかしその後も、地震前日の最大需要三百八十三万キロワットに対して約一割の供給が不足し、平日の日中に約二割の節電が要請された。復旧したという言葉が何を指すかも、測り方の問題である。
効率化は、選択肢をどこへ預けるのか
ここまでの議論は、非効率を残せという主張に読まれかねない。その読み方を避けておきたい。
たしかに、平時に使わない在庫、複数の供給者、余剰の病床、分散電源、小規模な物流にはコストがかかる。経済合理性だけを考えるなら、一つの巨大な物流網、一つの決済システム、最小限の在庫、高い設備稼働率へ向かう方が効率的である。
しかし、効率とレジリエンスを二項対立に置くのも正確ではない。集中的な情報基盤は特定事業者への依存を生む一方で、地域の設備が失われてもデータを維持できるようにする。物流の規格化は大規模化を促す一方で、輸送の手段や事業者を切り替えやすくする。デジタル決済は通信への依存という弱点を抱える一方で、物理的な金融インフラが停止した地域へ遠隔から送金できる。どの技術も、片方で弱点を作り、もう片方で経路を足している。
問題は効率化そのものではない。特定の環境、特定の経路、特定の目的関数だけに合わせた過剰な最適化である。
平時のコスト最小化を唯一の基準にすれば、平時に使われない経路は例外なく無駄と判定される。判定の物差しに危機時の価値が含まれていないからである。そして、帳簿に載らない価値は、失われたことも記録に残らない。
言い換えるなら、効率化とは、自分が持っていた選択肢を外部のシステムへ預けることでもある。料理をしなくなった分、食事の選択肢は外食と配達に預けてある。ふだんは預けておいた方が便利で、質も高い。しかし預けた先が止まったとき、預けたものは同時に使えなくなる。預かり証はあっても、窓口が閉まっている。
したがって、考えるべきは、どれだけ非効率を残すかではない。平時の効率を維持しながら、どこに低いコストで選択肢を保存するか、である。
つながりの形と、選択肢の値札
制度と設備だけでなく、人のつながりも危機時の行動可能性を左右する。ただし、絆が強ければ強いほどよい、という話にはならない。
趙冠虎らが2025年に公表した地域の災害レジリエンスと社会関係資本に関する系統的レビューは、実証研究二十四件を整理し、結束型、橋渡し型、連結型のいずれも地域の災害レジリエンスに正の影響を持つと報告している。災害時に働いた社会関係資本として最も多く確認されたのは結束型で、二十四件中十五件を占めた。
同時に、このレビューは負の側面にも言及している。救援物資の横領のような負の外部性が生じうること、感染症の流行下では社会的距離の確保を妨げ、結果として地域の災害レジリエンスを下げた場合があることが指摘されている。
身近な人の間の結束は、迅速な対応と情緒的な支えに向く。しかしそれだけが強い状態は、外部者を排除し、必要な資源や情報へ到達できない閉じた回路にもなりうる。危機のあとに選べる道を増やすという観点からは、結束型に加えて、異なる集団への横の接続と、行政や専門組織への縦の接続が併存していることが要件になる。これもまた、一つの経路に依存しないという意味で選択肢の問題である。過去の共同体への回帰を説く議論とは、ここで分かれる。
そして、もう一つ落としてはならないのが費用である。
備蓄には保管と廃棄の費用がかかる。重複したインフラには維持費がかかる。地方への権限移譲は調整の費用を生む。複数の調達先は調達効率を下げる。家庭の備蓄は空間と資金を使う。選択肢を無限に増やすことはできず、社会は平時の効率と危機時の選択肢の間で資源を配分している。
そこで、何を優先すべきかという基準が要る。筆者の考えでは、平時にも価値を生むこと、維持の費用が低いこと、複数の種類の危機に転用できること、の三点を満たすものから選ぶのが合理的である。戦争にしか使えない巨大な予備設備よりも、地震、台風、感染症、通信障害、経済の混乱に横断して使える能力の方が有利になる。地域医療、分散電源、歩いて生活できる都市の形、複数の通信手段、地域の人的ネットワーク、応急処置や基礎的なデジタルの技能などが、その候補である。
ただし、この基準は誰が費用を負うのかという問いを解かない。都市の形を変える不便を引き受けるのは現在そこに暮らす人々であり、便益を受け取るのは将来の不特定の誰かである。しかも危機が起きなければ、便益は観測されないまま終わる。何を優先すべきかには答えを出せても、誰が払うべきかには別の正当化が必要になる。
平時から設計できるのか
イランやベトナムをそのままモデルにすることはできない。両者の適応能力は、戦争、制裁、貧困、強制的な動員、政治的抑圧といった巨大な社会的費用と切り離せない。その費用を払えと言うのは、守ろうとしているものを壊せと言うに等しい。
だとすれば、問いは逆向きになる。そうした費用を経験せずに、危機時に必要な能力だけを平時から作ることはできるのか。
この問いについて、フィンランドが一つの参考になる。フィンランド政府は2025年1月16日、社会の安全保障戦略を政府決定として採択した。この戦略は、社会の重要な機能が、行政、企業、諸団体、市民の協力によって、あらゆる状況とあらゆる階層で守られるものだと定めている。重要な機能として挙げられるのは、指導、国際および欧州連合に関する活動、防衛力、国内の安全、経済とインフラと供給の保障、人々の機能する能力とサービス、心理的レジリエンスの七つであり、図では菱形の中心に個人が置かれる。
興味深いのは、個人の位置づけである。戦略の本文は、個人の機能する能力と、知識、技能、安全を高めようとする態度が、社会のレジリエンスの土台を成すと明記している。非常時に国民を総動員するという発想とは異なる。平時の制度、企業間の関係、市民社会の活動、個人の能力そのものが、そのまま危機対応の基盤として扱われている。
さらにこの戦略は、脅威の多様さと状況の複雑さのために、個々の事態へ別々に備えることが常に可能とは限らないと認め、長期にわたる準備を通じて構築される一般的なレジリエンスに重点を置くと述べている。予測できない状況でも柔軟かつ効果的に行動できることを目標に据える、という考え方である。これは前節で述べた、複数の危機に転用できる能力を優先するという基準と重なる。
困難への適応の結果として生まれた能力と、平時から意図的に設計された能力は、由来において区別される。前者は大きな社会的費用を払って形成される。後者は、その費用を払う前に能力を用意しようとする。
戦争が始まった瞬間に強い社会を作ることはできない。危機のときに使える能力の多くは、危機の前の日常の中にすでに存在していなければならない。
日本で、いま何を問うべきか
この視点から現代日本を見ると、問いの立て方が変わる。防衛費を国内総生産の何パーセントにするか、どの装備を何基配備するかだけではない。
有効なのは、主要なシステムを一つずつ落としてみる思考である。全国の送電網が落ちたら。インターネットが止まったら。決済網が停止したら。輸入が半減したら。中央政府との通信が途絶したら。そのたびに、そこで終わるのか、それとも次の方法があるのか。
数字で見える領域もある。経済産業省が2026年3月31日に公表した2025年のキャッシュレス決済比率は58.0%、金額にして162.7兆円であった。中間目標は2030年に国内指標で65%、将来的な目標は80%とされている。なお2025年の公表分から国民経済計算の改定基準が適用され、国内指標と国際比較指標が併用されているため、過去に公表された比率とそのまま並べることはできない。
比率を上げること自体を止めよという話ではない。効率と利便の面で、これは合理的な方向である。問われているのは、その比率が上がっていく速さと同じ速さで、停止したときの代替を誰が持つのかが議論されているか、である。
家庭の層についても手がかりがある。内閣府が2025年8月21日から9月28日にかけて実施した防災に関する世論調査は、有効回収1,707人の結果として、三日分以上備蓄しているものに飲料水69.8%、食料品59.8%、衛生用品38.4%、食品加熱用熱源27.7%、携帯トイレ・簡易トイレ27.2%を挙げている。
この差は示唆的である。水と食料は六割から七割の家庭にあるのに、それを温める手段と、排泄を処理する手段は三割を切る。備蓄しているという一語でまとめると消えてしまう差であり、集合住宅で水道が止まった場面を想定すれば、飲み水があることと暮らし続けられることの間には距離がある。
同じ調査で、自助、共助、公助のどれに重点を置くべきかという問いには、バランスを取るべきが40.7%、自助が29.2%、共助が17.9%、公助が9.5%という回答が得られている。この数値から、行政への期待が失われたと読むことはできない。三つを組み合わせるべきだという答えが最も多いからである。読み取れるのは、どの層にどれだけの選択肢を置くかという配分の問題が、すでに人々の意識の中にあるということである。
必要なのは、昔の共同体や自給生活へ戻ることではない。高度な社会システムの下に、もう一層の代替を残すことである。ふだんは全国送電網を使う、しかし地域電源も動く。ふだんは大規模物流を使う、しかし地域内にも最低限の流通能力が残る。ふだんは専門医療を使う、しかし家庭と地域にも基本的な対応能力がある。ふだんは中央政府の方針に従う、しかし通信が切れても地方が一定の範囲で判断できる。
百から突然ゼロになる社会ではなく、百から八十へ、八十から六十へと機能を落としながら、それでも動き続けられる構造である。落ちていく途中に踊り場がなければ、一段目で底まで行く。
敵から一切破壊されない国家は作れない。あらゆる危機に備えることもできない。備蓄にも冗長設備にも社会関係資本の形成にもコストがかかり、誰がそれを負担するのかも決着していない。それでも、目標の置き方は変えられる。
目指すべきは、絶対に壊れない国家ではない。壊されたときに、一つの選択しか残らない状態へ追い込まれない社会である。安全保障とは、破壊されないことではなく、破壊を受けても他者に自分たちの選択を決められない能力を保つことだ、と言い換えてもよい。これは本稿が提案する見方であって、確立された定義ではない。
この見方を採るなら、防衛政策、エネルギー政策、都市政策、地域政策、産業政策、教育、社会関係資本は、別々の政策領域ではなくなる。いずれも、危機のただ中で、まだ別のやり方があると言える社会を作れるか、という同じ問題に関わっている。
戦える国家を作ることより先に考えるべきなのは、おそらくこちらである。
ポイント整理
継戦能力と社会の持続可能性の区別
軍が戦い続けられることと、守ろうとした社会が維持されることは、別の物差しで測られている。
同じ物差しで測っていないものを成功という一語でつなぐと、検証されない結論が成立する。
選択肢そのものと、それを生む条件
分散、冗長性、備蓄、技能、社会関係資本は、それ自体が選択肢ではなく、選択肢を生む条件である。
一つの経路が閉じたあとに、別の行動が実行可能になることに価値がある。
動員力と代替能力の非一致
社会の資源を国家目的へ吸い上げる接続と、中央を失ったとき各層が自律的に代替する接続は、別の能力である。
集中か分散かではなく、接続がどちら向きに作られていたかを見る。
存在する経路と、実行可能な経路
設備が複数あっても、独立していなければ共通の原因で同時に失われる。
人員、燃料、権限、通信のいずれかを欠く経路は、選択肢として数えられない。
過剰な最適化という問題設定
効率化は選択肢を減らすことも増やすこともあり、効率対レジリエンスの対立では捉えきれない。
問われるのは、特定の環境と目的関数だけに合わせた最適化の度合いである。
選択肢の分布と費用の負担者
国家の選択肢の増加が、市民の選択肢の減少である場合がある。一国の点数としては表せない。
何を優先すべきかには基準を立てられるが、誰が費用を負うべきかには別の正当化が要る。
キーワード解説
【社会的オプショナリティ (social optionality)】
主要な行動経路が失われたあとでも、国家、地方政府、企業、地域社会、家庭、個人が、目的を達成するための別の実行可能な経路を保持している状態を指す、本稿の分析上の言葉。確立された学術概念ではない。結果としての機能維持率ではなく、危機後に残る行動可能性の集合と、その分布に注目する。
【縮退運転】
本来の性能をすべて維持することを諦め、機能を段階的に落としながら動作を継続させる設計の考え方。工学の分野で用いられる。社会に適用すると、百の機能が一度にゼロになる構造ではなく、途中に踊り場を持つ構造を指す。完全な代替を用意できなくても、低い水準の経路が残ることに意味がある。
【結束型・橋渡し型・連結型】
社会関係資本の三つの類型。結束型は家族や親しい人など同質的な集団の内部のつながり、橋渡し型は異なる集団の間をつなぐつながり、連結型は行政や専門機関など権限の勾配を越えるつながりを指す。災害研究では、局面によって働く類型が異なることが確認されている。
【包括的安全保障】
フィンランドが用いる概念で、社会の重要な機能を、行政、企業、諸団体、市民の協力によって、あらゆる状況とあらゆる階層で守るという枠組み。2025年の社会の安全保障戦略では、個人の機能する能力、知識、技能、態度が社会のレジリエンスの土台と位置づけられている。非常時の総動員とは区別される。
【米国戦略爆撃調査】
第二次世界大戦中の航空作戦の効果を、米国が戦後に調査した一連の報告。太平洋戦争に関する要約報告は1946年に公表され、日本の商船喪失、原材料輸入の途絶、工業生産の低下を記録している。本稿では、工場の破壊だけでなく輸送とエネルギーの遮断が生産系全体を縮小させた点で参照した。

