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なぜ「善い人」同士が対立するのか?──道徳心理学が解き明かす分断の構造

 シリーズ: 書架逍遥


  • 著者:Jonathan Haidt

  • 邦題:『社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学』

  • 出版年:2012年


SNSを開けば、日々どこかで誰かが激しく言い争っています。環境問題、ジェンダー、移民政策、経済格差……。議論の相手を「愚か」「邪悪」と決めつける声も珍しくありません。でも、ちょっと立ち止まって考えてみると、不思議じゃないですか?なぜ「より良い社会を作りたい」という同じ願いを持つはずの人たちが、これほどまでに対立し、理解し合えないのでしょうか。


心理学者ジョナサン・ハイトの『The Righteous Mind』(邦題『社会はなぜ左と右にわかれるのか』)は、この謎に真正面から取り組んだ一冊です。進化心理学や道徳心理学の知見を駆使して、人間の道徳判断がどのように形成され、なぜ政治的・宗教的な分断が生まれるのかを解き明かしています。


今回は、この本の洞察を瀬尾とPhronaの対話を通じて探っていきます。二人の視点の違いから、道徳の多面性と、異なる価値観を持つ人々が共存する可能性について考えてみましょう。



象と騎手の物語


瀬尾:Phronaさん、この本で一番衝撃的だったのは、僕たちの道徳判断って実は理性的じゃないってところですね。まず直感があって、理屈は後付けだっていう。


Phrona:ええ、象と騎手のメタファーが印象的でしたよね。巨大な象が直感で、その上に乗っている小さな騎手が理性。騎手は象をコントロールしているつもりでも、実際は象が行きたい方向に連れて行かれてる。


瀬尾:普段、僕たちは自分の判断を論理的だと思いたがりますけど、実験結果を見ると、どうも違うみたいですね。例えば、誰も傷つかないけど道徳的に違和感のあるシナリオを見せると……


Phrona:人は即座に「それは間違ってる!」って感じるんですよね。でも、なぜダメなのか説明しようとすると、しどろもどろになっちゃう。理由を後から必死に探してる感じ。


瀬尾:これ、日常でもよくありますよね。ニュースを見て瞬間的に「これはおかしい」と感じて、その後で自分の感覚を正当化する論拠を探す。ネットで自分の意見を支持する記事ばかり読んでしまうのも、この仕組みのせいかもしれません。


Phrona:そうそう。しかも面白いのが、IQが高い人ほど自分の直感を正当化するのが上手いだけで、必ずしも真実に近づけるわけじゃないっていう……。賢い人ほど、自分の思い込みを守る理屈を見つけるのがうまいんですね。


なぜ議論は平行線をたどるのか


瀬尾:この視点から見ると、なぜ政治的な議論が平行線になりがちなのか、よく分かりますね。データや論理を示しても、相手の考えが変わらない理由が。


Phrona:相手の「象」に話しかけないと、心は動かないんですよね。理屈で「騎手」を説得しようとしても、象が動かなければ意味がない。でも、私たちってつい論理で攻めちゃいますよね。


瀬尾:確かに。でも、じゃあどうすれば相手の「象」に届くんでしょう?


Phrona:ハイトさんによると、感情や人間関係を通じたアプローチが重要みたいです。友人から新しい視点を示されたり、信頼できる人から別の見方を聞いたりすると、はじめて心が動く可能性がある。


瀬尾:なるほど。単に正しいことを言うだけじゃダメで、どう伝えるか、誰が伝えるかも大事なんですね。これ、実務の現場でもすごく実感します。


WEIRDな道徳観の限界


Phrona:瀬尾さん、この本でもう一つ重要なのが、私たちの道徳観がいかに狭いかっていう指摘ですよね。特に西洋の高学歴層の道徳観。


瀬尾:WEIRD(Western, Educated, Industrialized, Rich, Democratic)な人々ですね。確かに、僕も含めて、現代の日本の都市部に住む人の多くはこのカテゴリーに入りそうです。


Phrona:WEIRDな文化では、道徳の中心が「他者を傷つけない」「公平に扱う」という個人の権利と福祉に限定されがち。でも、世界の多くの社会では、もっと幅広い道徳的関心があるんですよね。


瀬尾:ハイト自身、インドでの経験で初めてそれに気づいたって書いてましたね。自分の道徳観が特殊な「島」の上に成り立っていたことを実感したと。


Phrona:そう、そこから生まれたのが「道徳基盤理論」。人間の道徳感覚を味覚になぞらえて、複数の「受容体」があるって考え方。


六つの道徳の基盤


瀬尾:具体的には、ケア、公正、自由、忠誠、権威、神聖さの六つでしたね。これ、味覚に例えているのが秀逸だと思いました。


Phrona:甘味、酸味、塩味みたいに、人によって敏感さが違うっていう。ある人にとって重要な道徳的価値が、別の人にとっては全然ピンとこないことがある。


瀬尾:リベラル派は主にケアと公正、それに自由を重視する。一方、保守派は六つすべてをバランスよく使う傾向がある。この違いが政治的対立の根っこにあるんですね。


Phrona:例えば、国旗への敬意とか、伝統の尊重とか。リベラルな人には「そんなの形式的なことでしょ」って感じるかもしれないけど、保守的な人にとっては大切な道徳的価値なんですよね。


瀬尾:逆に保守派から見ると、リベラル派の主張する平等や弱者救済が「現実を無視した理想論」に見えることもある。お互いに、相手の重視する価値が「道徳的に見えない」んです。


Phrona:この非対称性も興味深いですよね。保守派の方がリベラル派より相手を理解しやすいっていう。広い道徳基盤を持つ分、狭い基盤の考え方も理解できるけど、逆は難しい。


90%チンパンジー、10%ミツバチ


瀬尾:本の後半では、人間の集団性についても深く掘り下げていましたね。「90%チンパンジー、10%ミツバチ」という表現が印象的でした。


Phrona:基本的には利己的だけど、時として集団のために自己犠牲もできる。この二面性が人間の本質だっていう。確かに、普段は自分のことで精一杯なのに、災害時とかには見ず知らずの人を助けたりしますもんね。


瀬尾:「ミツバチスイッチ」っていう概念も面白かったです。特定の状況で、個人モードから集団モードに切り替わる。


Phrona:音楽フェスとかスポーツ観戦で、みんなと一体になる感覚ってありますよね。あれがまさにミツバチスイッチが入った状態。自他の境界が薄れて、集団の一部として振る舞う。


瀬尾:これ、良い面もあれば危険な面もありますよね。適度なら強い連帯感や幸福感をもたらすけど、極端になると狂信的な排他主義にもつながる。


Phrona:そうなんです。だから道徳や宗教の役割も複雑なんですよね。集団を結束させる接着剤として機能する一方で、外部への盲点も生み出してしまう。


宗教は個人の信念以上のもの


瀬尾:宗教についての章も、新しい視点でしたね。「宗教はチームスポーツだ」っていう。


Phrona:新無神論者たちが宗教の非科学性ばかり批判するけど、それは宗教の社会的機能を見落としてるっていう指摘。確かに、宗教って個人の信念体系である以上に、共同体を作る仕組みなんですよね。


瀬尾:超正統派ユダヤ教徒のダイヤモンド取引の例が興味深かったです。宗教的な絆があるから、契約書なしでも信頼関係が成り立つ。


Phrona:現代のビジネスでも、何らかの共通の価値観や文化があると、取引コストが下がりますよね。完全に合理的な契約だけじゃ、社会は回らない。


瀬尾:そう考えると、宗教を単に「迷信」として切り捨てるのは、人間社会の重要な側面を無視することになりますね。


対立は機能である


Phrona:最終章で、ハイトさんは興味深いことを言ってましたよね。社会に多様な道徳的視点があるのは、バグじゃなくて機能だって。


瀬尾:確かに。リベラル派は社会の良心として、不公平や差別に異議を唱える。保守派は伝統や制度を守って、急激な変化から社会を守る。どちらも必要なんですね。


Phrona:まるで生態系みたい。多様性があるからこそ、全体としてバランスが取れる。単一の価値観だけだと、かえって脆弱になっちゃう。


瀬尾:問題は、その多様性が対立や分断として現れてしまうことですよね。お互いを「理解不能な敵」として見てしまう。


Phrona:でも、この本を読むと、相手も自分と同じように「善い社会を作りたい」と思ってるんだって分かりますよね。ただ、何を「善い」と感じるかが違うだけで。


建設的な対話への道


瀬尾:じゃあ、どうすれば建設的な対話ができるんでしょうか?


Phrona:まず、相手の道徳的基盤を理解することから始めるのが大事かもしれませんね。相手が何を大切にしているのか、なぜそう感じるのかを知ろうとする。


瀬尾:単に「論破」しようとするんじゃなくて、相手の「象」がどこから来ているのかを理解する。それができれば、共通点も見つけやすくなるかもしれません。


Phrona:あと、自分の道徳観も絶対じゃないって認識することも大切ですよね。私たちも、特定の文化や環境の中で形成された価値観を持っているだけ。


瀬尾:謙虚さが必要ですね。でも、それって言うは易く行うは難しで……。特に感情的になりやすい話題だと。


Phrona:そうですね。でも、少なくともこういう知識があれば、一歩引いて考えることができるかも。「ああ、今、私の象が反応してるな」って気づけたら、少し冷静になれるかもしれない。


瀬尾:それに、完全に分かり合えなくても、「異なる意見を持つ善良な人」として認め合うことはできるかもしれませんね。


Phrona:ええ、それだけでも大きな前進だと思います。分断を完全になくすことはできなくても、対立を創造的なものに変えていくことはできるかもしれない。



ポイント整理

  • 人間の道徳判断は、まず直感(象)があり、理性(騎手)は後からその判断を正当化する役割を果たす。このため、論理だけでは人の考えを変えることは難しい。

  • 道徳には六つの基盤(ケア、公正、自由、忠誠、権威、神聖さ)があり、文化や個人によってどの基盤を重視するかが異なる。この違いが政治的・宗教的対立の根源となっている。

  • リベラル派は主にケア、公正、自由を重視し、保守派は六つすべてをバランスよく用いる傾向がある。この非対称性により、リベラル派は保守派を理解しにくい。

  • 人間は「90%チンパンジー、10%ミツバチ」であり、基本的には利己的だが、状況により集団のために行動する側面も持つ。道徳や宗教は集団を結束させる機能を果たす。

  • 社会における多様な道徳観の存在は欠陥ではなく、それぞれが重要な役割を果たす機能である。建設的な対話のためには、互いの道徳的基盤を理解し、「異なる意見を持つ善良な人」として認め合うことが重要。


キーワード解説

【社会的直感主義】

道徳判断において直感が先行し、理性的推論は後付けであるという理論


【道徳基盤理論】

人間の道徳感覚を六つの基盤から説明する理論


【WEIRD】

Western, Educated, Industrialized, Rich, Democraticの略。西洋の高学歴層に特有の文化的特徴


【ミツバチスイッチ】

個人が集団の一部として振る舞うモードに切り替わる心理的メカニズム


【群選択】

進化が個体レベルだけでなく集団レベルでも働くという仮説


本稿は近日中にnoteにも掲載予定です。
ご関心を持っていただけましたら、note上でご感想などお聞かせいただけると幸いです。
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