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エピジェネティクスが語る、もうひとつの進化の物語

更新日:7月16日

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シリーズ: 論文渉猟


◆今回の論文: Alexandra Korolenko & Michael K. Skinner "Generational stability of epigenetic transgenerational inheritance facilitates adaptation and evolution" (Epigenetics, 2024年8月5日)

私たちは長い間、進化といえばDNAの変化だけが主役だと思い込んできました。ダーウィンの自然淘汰、メンデルの遺伝法則、そして20世紀の総合説。これらは確かに生命の変化を説明する強力な理論です。


でも、ちょっと考えてみてください。第二次世界大戦中、ナチスに封鎖されたオランダで、人々は一日800キロカロリーで生き延びなければなりませんでした。その冬を妊婦として過ごした女性たち。驚くべきことに、彼女たちの子どもだけでなく、孫の世代まで糖尿病や心臓病のリスクが高いことが分かったのです。DNAは変わっていないのに、飢餓の記憶が世代を超えて受け継がれている。これをどう説明すればいいのでしょうか。


今回は、進化生物学の新たな地平を開く「エピジェネティック継承」について、富良野とPhronaが語り合います。そして話は思わぬ方向へ。長らく否定されてきたラマルクの亡霊が、現代科学の中で静かに微笑んでいるかもしれない、そんな物語です。私たちの理解してきた進化論は間違っていたのか?それとも、まだ見ぬ全体像の一部だったのか?二人の対話を通じて、生命と環境が織りなす、もうひとつの進化の物語を追いかけてみましょう。




遺伝子のスイッチが語る物語


Phrona:富良野さん、ちょっと変な質問していいですか?私たちの身体って、祖父母が経験したことを覚えているんでしょうか。


富良野:なんでそんなこと思ったんです?


Phrona:いえ、この前テレビで見たんです。戦争で飢えた人の孫が、なぜか糖尿病になりやすいって。遺伝子は同じはずなのに。


富良野:ああ、それ、まさに今科学界を揺るがしている発見なんです。エピジェネティクスっていうんですけど。


Phrona:エピ...ジェネティクスって何ですか?


富良野:「エピ」はギリシャ語で「上に」とか「外側に」って意味です。つまり、遺伝子の上に乗っかってる何か、みたいな。DNAという楽譜は変わらないけど、どの音を鳴らすか鳴らさないか、そのスイッチの話なんです。


Phrona:楽譜と演奏の関係みたいですね。同じベートーヴェンの楽譜でも、演奏者によって全然違う音楽になる、みたいな。


富良野:まさにそれです!で、驚くのは、この「演奏の仕方」が子や孫に受け継がれるってことなんです。


Phrona:え、でも私たち、精子と卵子ができるときに、そういう情報はリセットされるって習いませんでした?


富良野:そう、僕もそう思ってました。でも、完全にはリセットされないんです。論文によると、CpGアイランドっていう、シトシンとグアニンが集まってる領域は確かにリセットされるんですけど...


Phrona:CpG...ちょっと待って、もう少しかみ砕いて説明してもらえます?


富良野:あ、すみません。えっと、DNAの中で、CとGという文字が並んでいる特定の場所があるんです。昔はこういう場所が全部きれいにリセットされると思われていたんですけど、実はゲノムの大部分では、メチル化っていう目印が維持されたり、むしろ増えたりすることが分かったんです。


環境が刻む、見えない遺産


Phrona:なるほど、つまりDNAの文字は変わらないけど、そこについている「付箋」みたいなものが残るんですね。で、その付箋が遺伝子の働き方を変える。


富良野:素晴らしい比喩です!そして、その付箋を貼るきっかけになるのが、環境なんです。


Phrona:さっきのオランダの話ですね。本当に衝撃的でした。戦争中の飢餓が、まだ生まれていない孫の健康にまで影響するなんて。


富良野:しかも、妊娠のどの時期に飢餓を経験したかで、影響が違うんです。初期だと乳がんリスク、中期だと腎臓や呼吸器の問題。まるで、発生のプログラムに環境が介入するタイミングで、違う付箋が貼られるみたいです。


Phrona:身体が未来の世代に警告を送っているみたい。「この世界は厳しいから、代謝を変えて備えなさい」って。でも、それが現代の豊かな環境では裏目に出て、糖尿病になりやすくなる...なんだか切ないですね。


富良野:ベトナム戦争の枯葉剤もそうです。40万人が亡くなったり、子どもに先天異常が出たり。DDTもビンクロゾリンも、直接曝露された世代は大丈夫でも、3世代目、4世代目になって初めて影響が現れることがある。


Phrona:私たちが今使っている化学物質の影響が、ひ孫の世代に現れるかもしれないってことですよね。ちょっと怖くなってきました。


ラマルクの予言、ダーウィンの真実


富良野:でも、この仕組みのおかげで、生物は環境の変化に素早く適応できるとも言えるんです。


Phrona:あ、そうか。DNAの突然変異を待っていたら、何万年もかかっちゃいますもんね。


富良野:その通りです。実際、ダーウィンフィンチの研究が面白くて。都市部と農村部のフィンチで、遺伝的な違いはほとんどないのに、エピジェネティックな違いは大きい。そして実際に、くちばしの形とか行動パターンも違うんです。


Phrona:それって...ラマルクが言ってたことに似てません?使う器官は発達するっていう。


富良野:鋭い!実は最近、ラマルクの用不用説が部分的に再評価されているんです。


Phrona:え、でもラマルクって、キリンが首を伸ばして高い葉っぱを食べようとしたから首が長くなったっていう、あの...


富良野:そう、長い間笑い者にされてきました。でも、彼の観察自体は間違っていなかったかもしれない。宇宙飛行士の筋肉が無重力で衰えるのは事実だし、ピアニストの指が訓練で器用になるのも事実です。


Phrona:問題は、それが子どもに遺伝するかどうか、でしたよね。


富良野:まさに。で、エピジェネティクスが示しているのは、使用による変化が、DNAを変えずに次世代に伝わりうるということなんです。


Phrona:つまり、ラマルクは現象を正しく見ていたけど、メカニズムを知らなかっただけ?


富良野:そういう見方もできます。ただし、これはラマルクの完全復活じゃないんです。エピジェネティックな変化も結局は自然選択を受けますから。有利な変化は残り、不利な変化は淘汰される。


Phrona:なるほど、ダーウィンとラマルクが握手しているような感じですね。対立じゃなくて、統合。


進化の迷宮:複雑性への跳躍


富良野:でも、ここでもっと深い問題があるんです。複雑な構造って、どうやって進化するんでしょう?


Phrona:というと?


富良野:例えば、目のような複雑な器官。レンズだけあっても見えないし、網膜だけあっても意味がない。全部そろって初めて機能する。でも、全部が同時に突然変異で現れる確率なんて、ほぼゼロですよね。


Phrona:でもそれ、なんだかインテリジェント・デザインの人たちの議論みたいに聞こえませんか。


富良野:そう、でも現代の進化生物学には、ちゃんとした答えがあるんです。まず、中立進化っていう考え方。


Phrona:中立?


富良野:つまり、有利でも不利でもない変化は、偶然によって集団に広がることがあるんです。で、複数の中立的な変化が蓄積した後で、最後の一押しで機能が生まれることがある。

Phrona:なるほど、階段を一段ずつ上るんじゃなくて、平らな道を歩いていたら、いつの間にか高いところにいた、みたいな?


富良野:いい表現ですね。それから「機能的曖昧性」っていう概念も重要で。


Phrona:また難しそうな言葉が...


富良野:簡単に言うと、一つのタンパク質が複数の弱い機能を持っているってことです。例えば、ある酵素が本来の基質以外にも、弱いけど別の物質も分解できるとか。


Phrona:あ、なんとなく分かります。器用貧乏みたいな?


富良野:まさに!で、環境が変わって、その「弱い機能」の方が重要になったら、そっちが強化されていく。元々あった可能性が、使われることで現実になるんです。


使うことが道を作る


Phrona:それって、さっきの用不用の話とつながりますね。使うことで、進化の方向が決まっていく。


富良野:その通りです。これをBaldwin効果って呼ぶんですけど、行動が先に変わって、それに合う形質が遺伝的に固定されていくんです。


Phrona:まるで、けもの道みたい。最初は誰かが偶然通っただけでも、みんなが使ううちに、本当の道になっていく。


富良野:素晴らしい比喩です!実際、進化って完全にランダムじゃないんです。突然変異はランダムでも、どの変異が選ばれ、どの機能が強化されるかは、生物がどう生きているかによって方向づけられる。


Phrona:でも、それって目的論的じゃないですよね?生物が意図的に進化の方向を選んでいるわけじゃない。


富良野:重要な指摘です。そう、意図はない。でも、生物と環境の相互作用の中で、ある種の方向性は生まれる。完全にランダムでもなく、完全に決定論的でもない。


Phrona:グレーゾーンですね。科学って白黒つけたがるけど、実際の自然はもっと...なんていうか、対話的?


富良野:まさに。最近は「拡張進化的総合説」っていって、こういう要素を全部含めた新しい進化論が提案されているんです。


世代を超える安定性の謎


Phrona:ところで、エピジェネティックな変化って、どのくらい続くんですか?


富良野:それが驚くべきことに、ものすごく長く続く例があるんです。線虫では、piRNAっていう小さなRNAによる遺伝子の沈黙が20世代以上続いたり。


Phrona:20世代!結構長いんですね。


富良野:ワディントンっていう研究者の実験も有名で。ショウジョウバエにエーテル蒸気を嗅がせたり、熱ショックを与えたりすると、翼の形が変わるんです。で、刺激をやめても、その変化が16世代以上続いた。


Phrona:でも、永遠じゃないんですよね?


富良野:そこが重要なポイントです。エピジェネティックな変化は可逆的。環境が変われば、また変わる可能性がある。


Phrona:じゃあ、ある意味で生命って、環境との長い対話の中で、仮の答えを出し続けているのかも。DNAは辞書で、エピジェネティクスは今書いている文章、みたいな。


富良野:詩的ですね。そして的確です。


統一理論への道のり


Phrona:こうして聞いていると、私たちが学校で習った進化論って、すごく単純化されていたんですね。


富良野:単純化というより、当時分かっていたことの範囲内では正しかったんです。ダーウィンもメンデルも、見えていた風景を正確に描写した。ただ、風景の全体像はもっと大きかった。


Phrona:今は、その全体像が見え始めている?


富良野:統一進化理論っていう試みがあります。遺伝的変化、エピジェネティックな変化、環境の直接的影響、発生の制約、これら全部を統合しようという。


Phrona:パズルのピースが揃ってきた感じですね。でも、まだ見つかっていないピースもありそう。


富良野:間違いなくあるでしょうね。科学の面白さって、答えを見つけるたびに、新しい問いが生まれることですから。


Phrona:生命って、私たちが思っていたよりもずっと柔軟で、ずっと...賢いのかもしれませんね。賢いっていうのは変かもしれないけど。


富良野:いや、分かります。意識的な賢さじゃなくて、システムとしての賢さ。40億年かけて磨き上げられた、環境と対話する技術。


Phrona:そう考えると、進化って、生命が環境と一緒に紡いでいく物語なのかもしれませんね。




ポイント整理


  • エピジェネティクスは、DNA配列を変えることなく遺伝子の発現を制御し、その状態が世代を超えて受け継がれる仕組みである

  • 環境要因(化学物質、栄養状態、ストレスなど)がエピジェネティックな変化を引き起こし、それが数世代、時には20世代以上も安定して受け継がれることがある

  • オランダの飢饉やベトナム戦争の枯葉剤など、人間社会でもエピジェネティック継承の影響が確認されている

  • 複雑な形質の進化は、中立進化、機能的曖昧性、遺伝子重複などのメカニズムにより、同時多発的な突然変異なしに可能となる

  • ラマルクの用不用説は、エピジェネティクスの発見により部分的に再評価されている(ただしメカニズムは異なる)

  • 進化は完全にランダムではなく、生物の使用状況と環境との相互作用により部分的に方向づけられる(Baldwin効果)

  • 拡張進化的総合説(EES)は、これらすべての要素を統合した新しい進化理論として提案されている



キーワード解説


【エピジェネティクス

遺伝子発現の調節機構


【DNAメチル化

シトシンへのメチル基付加による遺伝子制御


【CpGアイランド

シトシンとグアニンが集中する領域


【中立進化

有利でも不利でもない変化が偶然により広がる現象


【機能的曖昧性

タンパク質が複数の弱い機能を持つ性質


【Baldwin効果

行動変化が遺伝的固定に先行する現象


【piRNA

遺伝子サイレンシングに関わる小さなRNA


【拡張進化的総合説(EES)

現代総合説を拡張した新しい進化理論



本稿は近日中にnoteにも掲載予定です。
ご関心を持っていただけましたら、note上でご感想などお聞かせいただけると幸いです。
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