デジタル通貨が変える金融政策の新しい世界──中央銀行は適応できるのか?
- Seo Seungchul
- 12 分前
- 読了時間: 13分

シリーズ: 論文渉猟
◆今回のレポート:Lennart Ante et al. "The Stablecoin Discount: Evidence of Tether's U.S. Treasury Bill Market Share in Lowering Yields" (arXiv, 2025年5月18日)
デジタル通貨の急速な普及が金融システムの根本を揺さぶっています。特に、米国議会が先月通過させたGENIUS法により、ステーブルコインが7倍の成長で1.6兆ドル市場に膨らむと予測される中、従来の金融政策はどう変わっていくのでしょうか。
この変化は単なる技術革新ではありません。金融政策の根幹、中央銀行の役割、そして私たちが普段使うお金の概念そのものを再定義する可能性を秘めています。従来の金融システムと新しいデジタル技術が融合していく中で、どのような課題と機会が生まれるのか。富良野とPhronaの対話を通じて、この複雑で興味深いテーマを深掘りしていきます。
GENIUS法が開く新しい金融の扉
富良野:GENIUS法の通過は相当な転換点ですね。ステーブルコインが1対1の流動資産担保を義務付けられ、その市場が今後5年で7倍の成長って、数字だけ見ても凄まじい。
Phrona:でも富良野さん、数字の裏にある質的な変化の方が興味深くないですか?これまで暗黙のうちに「政府が発行するお金」が当たり前だった世界に、民間が発行する「ドルペッグ通貨」が堂々と参入してくる。
富良野:まさにその通りです。テザーの現在の市場シェアは高インパクト領域にあり、1カ月物利回りを仮定的なケースと比較して約24ベーシスポイント押し下げています。絶対的な金額で言うと、テザーの短期国債需要は米国政府にとって年間約150億ドルの利払い節約に相当するんです。
Phrona:150億ドルの節約!それって、民間企業が政府の財政負担を軽減してくれているってことですね。でも裏を返せば、テザーが方針を変えて短期国債から撤退したら、政府の借入コストが急上昇する可能性もある。
富良野:そこが重要なポイントですね。ステーブルコイン発行体が1兆ドルもの米国債を購入するとなると、これはもう民間セクターによる事実上の国債引受けみたいなものですから。
Phrona:そうそう。しかも面白いのは、この変化が「お金とは何か」っていう根本的な問いを浮き上がらせることです。政府発行の通貨と民間発行の通貨の境界が曖昧になってきている。
富良野:境界の曖昧化は政策運営にも影響するでしょうね。ステーブルコインの流出は流入の2〜3倍も利回りを押し上げるという非対称性は、従来の金融政策の想定を超えています。
Phrona:非対称性といえば、人々の行動パターンも変わりそうです。パニック時にステーブルコインから一斉に逃避する動きって、従来の銀行取り付けとは違うスピード感で起こりそう。論文の閾値効果を考えると、一定規模を超えた影響力を持つと、市場への衝撃も非線形的に大きくなるのかもしれません。
中央銀行の新しい挑戦
富良野:ニューヨーク連銀と国際決済銀行が開発したプロトタイプシステムは、様々な市場条件下で中央銀行の意図した流動性環境と一致する形で、成功裏に、瞬時に操作を実行したそうです。
Phrona:瞬時にって、すごいスピード感ですね。でもそれって、従来の金融政策の「じわじわと効いてくる」感覚とは全然違う世界な気がします。
富良野:そうですね。スマートコントラクトを使えば中央銀行が新しい制度を簡単かつ迅速に作ったり、既存の制度を調整したりできるから、不確実な状況でより機敏になれるし、政策発表から実施までの摩擦も減らせる。
Phrona:機敏になれるのは魅力的だけど、逆に言うと、市場に「考える時間」を与えなくなるってことでもありますよね。従来は政策変更の予告から実施まで時間があって、その間に市場が徐々に調整していく余裕があった。
富良野:重要な観点ですね。研究では「現在のところ、中央銀行が金利を設定し市場流動性を管理するための市場介入に脅威はない」としているけれど、分散化と新技術の台頭によって、いずれは状況が変わる可能性があるとも言っている。
Phrona:いずれは変わるって、ちょっと曖昧な表現ですけど、裏を返せば中央銀行側も「いつ変化が起こるか分からない」から準備しているってことですね。
富良野:そう、民間金融セクターがホールセール市場で大規模にトークン化を採用すれば、中央銀行は効果的な金融政策実施を続けるために、新しい金融市場インフラに参加し、デジタルトークンと相互作用する必要が出てくる。
Phrona:中央銀行の方が新しいインフラに「参加する」って、なんだか立場が逆転している感じがします。これまでは中央銀行が金融インフラの中心にいたのに、今度は分散化されたシステムの一参加者になる?
富良野:確かに構造的な変化ですよね。ただ、研究結果では分散化金融システムの下でも中央銀行の金融政策がより良く機能する可能性すら示されているから、必ずしも権威の低下を意味するわけじゃない。
Phrona:より良く機能するって興味深いです。でも一方で、分散化金融システムは中央銀行が作り出すお金にとって新たな課題を生み出すとも言ってますよね。
自動化と人間の判断のはざまで
富良野:中央銀行業務の複雑性の増大により、タスクやプロセスを自動化する技術使用へのインセンティブが高まっている一方で、人間の判断を必要とするプロセスとの統合という課題に直面しています。
Phrona:自動化と人間の判断の統合って、まさに現代のあらゆる分野で起こっている問題ですね。金融政策の場合、どこまでを機械に任せて、どこから人間が介入するべきかの線引きが特に重要になりそう。
富良野:線引きといえば、この研究は複数の中央銀行からの意見を取り入れて、特定の中央銀行の運営や目標に合わせるのではなく、汎用的な方向性で設定されているのも注目点ですね。
Phrona:汎用的なアプローチって、つまり「どの国の中央銀行でも使える共通の枠組み」を目指しているってことですか?
富良野:そういうことだと思います。将来の金融市場の変化に中央銀行が確実に対応できるよう準備する取り組みの一環だから、国や地域を超えた共通基盤の構築が念頭にあるんでしょう。
Phrona:でも現実には、各国の金融政策って経済状況も違えば政治的な背景も違うから、本当に汎用的なシステムで対応できるものなのかしら。
富良野:たしかに各国固有の事情はあります。ただ、技術的な基盤部分は共通化して、その上で各国の政策目標に応じたカスタマイズを行うという二層構造なら現実的かもしれない。
CBDCという対抗策の可能性
富良野:金融政策の主権が脅かされる可能性は確かにある。ただ、研究では興味深い対抗策も示されています。中央銀行デジタル通貨、つまりCBDCの話です。
Phrona:CBDCって、要するに「政府発行のデジタル通貨」ですよね。ステーブルコインに対抗するために、中央銀行が自前のデジタル通貨を作るってこと?
富良野:対抗というより、バランスを取り戻すツールとして機能すると思います。CBDCが他の決済手段を容易に代替できるなら、中央銀行はCBDCの供給を変更することで全体の流動性を調整し、標準的な金融政策の伝達メカニズムを実質的に回復できます。
Phrona:でも実際問題として、人々がCBDCとステーブルコインをどれくらい「同じもの」として扱ってくれるかって、未知数ですよね。すでにドル化が進んでいる経済では、国内のCBDCよりもドル完全裏付けのステーブルコインの方を信頼する可能性もある。
富良野:代替可能性は多くの絡み合った要因、たとえば設計や普及度合いに依存します。既にドル化した経済では、国内CBDCでドル完全裏付けのステーブルコインを代替するのは困難かもしれない。
Phrona:通貨の競争って、結局は人々の信頼の競争でもありますもんね。技術的に優れていても、信頼されなければ普及しない。
富良野:そう考えると、ステーブルコインを完全に現金で裏付けることを義務付ける厳格な規制は、標準的な金融政策の伝達メカニズムを保持する上で重要な役割を果たします。この場合、ステーブルコインの供給がマネーサプライの変化に一対一で調整される。
Phrona:GENIUS法での短期国債のみの担保制限も、そういう狙いがあるってことですね。でも逆に言えば、規制が緩い国や地域で発行されるステーブルコインが優位に立つ可能性もある。いずれにしても、実際は相当な試行錯誤が必要でしょうね。GENIUS法でも短期国債のみの担保制限(3ヶ月以内)とか、かなり保守的な設定から始まっている。
富良野:保守的なスタートは合理的だと思います。ステーブルコイン発行体への国債集中が、最終的に連邦準備制度の短期金利操作能力を阻害する可能性を考えると、慎重にならざるを得ない。
Phrona:慎重さは大切だけど、規制が革新を萎縮させてしまう可能性もありますよね。特に、デジタル資産の世界って技術革新のスピードが早いから、規制が追いつかないうちに既成事実が積み重なっていく。
富良野:そこが難しいところですね。僕は規制のタイミングと内容の両方が重要だと思う。早すぎると革新を阻害するし、遅すぎるとリスクが蓄積する。GENIUS法は「既に存在する技術を後追いで規制する」アプローチだけど、これが正解かどうかはまだ分からない。
Phrona:後追い規制って、結局は「すでに起こってしまった変化」への対応ですもんね。でも逆に考えると、技術の可能性を最大限引き出してから枠組みを作るという発想もある。
金融システムの構造変化
富良野:構造変化という点では、国債への需要増加が利回りを押し下げ、政府の借入コストを削減する効果は見逃せない。これまで政府は借金の利払いの増大に悩んでいたわけですから。
Phrona:利払い負担の軽減は魅力的だけど、それって民間のステーブルコイン需要に依存するってことですよね。政府の財政が民間のデジタル通貨の動向に左右されるって、ちょっと奇妙な構図です。
富良野:これまでにない依存関係ですよね。しかも長期国債(10年債や30年債)への影響は限定的だから、住宅ローンや企業融資には直接影響しないとしても、短期金融市場の構造は確実に変わる。
Phrona:変化といえば、普通の人たちの「お金」に対する感覚も変わっていきそうです。これまで現金や銀行預金が主流だったのが、ステーブルコインも選択肢として普通になっていく。
富良野:選択肢が増えること自体は良いことだと思うけど、銀行以外の金融機関にとって安全資産が不足するリスクは気になります。保険会社とかが運用先に困るようになると、間接的に保険料や年金にも影響が出かねない。
Phrona:そうか、全体のパイが限られている中で、ステーブルコイン発行体が大量に国債を買い占めるようになると、他の機関投資家は何を買えばいいか分からなくなる。
金融政策の有効性と新しい課題
富良野:その中で中央銀行がどう舵取りするかが肝心ですね。Project Pineの実験ではプロトタイプシステムが様々な市場条件下で意図された操作を成功裏に、瞬時に実行したとあるけど、これは実験室レベルの話だから。
Phrona:実験と現実の間には大きな溝がありそうです。特に、人間の心理とか市場の感情みたいな要素は、スマートコントラクトでは扱いきれない部分がある。
富良野:感情の部分は確かに重要です。金融政策って、結局は期待に働きかける側面が大きいですからね。中央銀行総裁の発言一つで市場が動くような世界で、自動実行システムがどこまで人間の微妙なニュアンスを再現できるか。
Phrona:それに、トークン化されたシステムだと、従来のように「段階的に」政策を変更するのではなく、コードの変更として「一気に」変わってしまう可能性もありますよね。
富良野:段階的調整ができなくなるリスクは大きいですね。市場に政策変更のシグナルを徐々に送って反応を見ながら調整するという、これまでの中央銀行の芸当が難しくなるかもしれない。
Phrona:でも逆に考えると、政策発表から実施までの摩擦を減らし、不確実な状況でより機敏に対応できるメリットもある。特に危機対応では有効かもしれません。
未来の金融システムへの展望
富良野:危機対応といえば、大規模ステーブルコインの取り付け騒ぎが起きた場合の国債市場への火売りリスクは、新しいタイプのシステミックリスクだと思います。
Phrona:新しいリスクには新しい対処法が必要ですね。従来の金融危機対応マニュアルでは対応しきれない部分が出てきそう。
富良野:そこで重要になるのが、中央銀行がスマートコントラクトを使って新しい制度を簡単かつ迅速に作ったり、既存の制度を調整したりできるという柔軟性ですね。危機時の即座の対応が可能になる。
Phrona:柔軟性と安定性のバランスって、いつの時代も難しい問題ですけど、デジタル時代はそのバランス点が変わってきているのかもしれませんね。
富良野:バランスを取る手法自体が進化していると考えた方がいいかも。従来は制度の重みで安定性を確保していたけど、これからは技術の精密さで安定性を追求する側面が強くなる。
Phrona:技術の精密さで安定性を追求するって、なんだか工学的なアプローチですね。でもお金って、最終的には人間の信頼に基づくものだから、技術だけではカバーしきれない部分もある。
富良野:その通りです。結局、どんなに技術が進歩しても、人々が「これを価値保存手段として信頼できる」と感じられるかどうかが根本的な問題になる。ステーブルコインが普及するかどうかも、最終的にはそこにかかっている。
Phrona:中央銀行の権威も変化していくってことですね。これまでの「制度的な威厳」から、より「技術的な実力」や「適応力」が重視される方向に変わっていく。
富良野:中央銀行が将来の金融市場の変化に備えて準備を進める姿勢が重要でしょうね。受け身ではなく、能動的に新しい環境を形作っていく役割が期待される。
ポイント整理
GENIUS法の成立
ステーブルコイン市場の7倍成長予測と実際のテザーによる985億ドルの米国債保有(全短期国債の1.6%)が金融システムの構造変化を促進
利回りへの定量的影響
テザーの市場シェア1%増加により1カ月物利回りが14-16ベーシスポイント低下し、年間150億ドルの政府利払い節約効果を創出
閾値効果の発見
市場シェア0.973%を超えると影響が大幅に強化され、高インパクト領域では利回り押し下げ効果が6.3%に増大
中央銀行の技術対応
Project Pineの実証実験により、プロトタイプシステムが様々な市場条件下で中央銀行の意図した操作を成功裏に瞬時に実行することが確認された
政策運営の変化
自動化プロセスと人間の判断の統合という新しいバランスが求められ、政策発表から実施までの摩擦軽減が可能になる
システミックリスク
大規模ステーブルコインの取り付け騒ぎによる国債市場への影響という従来にない金融リスクの出現
国際協調の必要性
CBDCの国境を越えた利用や金融仲介への影響などの課題について国際レベルでの調査と協力が必要
金融政策効果の変動性
グローバルステーブルコインの供給反応性により、従来の金融政策効果が強化されたり減少したりする可能性がある
通貨代替リスク
外国発行のステーブルコインが広く採用されると、国内流動性への中央銀行の影響力が限定され、金融政策の有効性が低下する
CBDC対抗策
中央銀行デジタル通貨により他の決済手段を代替できれば、金融政策の伝達メカニズムを回復できる可能性がある
厳格な裏付け規制
ステーブルコインを完全に現金で裏付けることを義務付ける規制により、標準的な金融政策の伝達メカニズムを保持できる
キーワード解説
【ステーブルコイン】
法定通貨や商品にペッグされたデジタル通貨
【GENIUS法】
米国のステーブルコイン規制法案(Guiding and Establishing National Innovation for U.S. Stablecoins Act)
【Project Pine】
ニューヨーク連邦準備銀行とBIS(国際決済銀行)イノベーションハブによる共同研究プロジェクト
【スマートコントラクト】
ブロックチェーン上で自動実行される契約プログラム
【トークン化】
実物資産をデジタルトークンとして表現する技術
【短期国債】
満期が1年以内の国債
【グローバルステーブルコイン(GSC)】
複数の管轄区域にまたがる潜在的な影響力を持つ広く採用されたステーブルコイン
【CBDC】
中央銀行デジタル通貨(Central Bank Digital Currency)
【通貨代替】
外国通貨や代替通貨が国内通貨に取って代わる現象
【ステーブルコイン・ディスカウント】
大手ステーブルコイン発行体の国債保有による利回り押し下げ効果
【閾値効果】
特定の市場シェア水準を超えると市場影響が非線形的に増大する現象
【非主権購入者】
政府以外の大規模な債券購入主体(ステーブルコイン発行体など)