性質の束として見る実体なき実在── 物質と社会
- Seo Seungchul

- 1 日前
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シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事:Andrea Oldofredi, "Hume, Rovelli, and why the quantum world contains no objects" (Institute of Art and Ideas, 2026年5月22日)
概要:ロヴェッリの関係的量子力学を、ヒューム由来の「束理論」とL.A.ポールのメレオロジカル束理論に接続し、量子世界の物体を、独立した実体ではなく、相互作用の中で値を持つ性質の束として再定義する論考。
「日本がある」と私たちは言う。地図の上に輪郭があり、国境があり、政府があり、通貨がある。それは石や椅子と同じように、世界のなかに最初から置かれた確かな物のように見える。民族も同じだ。「あの民族」と口にするとき、私たちはそれを、内部が均質で、境界がはっきりした、ひとつの実体として思い描いている。
だが、もしこの「物のように在る」という確信そのものが、最も小さなスケールでは成り立たないとしたらどうか。量子物理学のある立場は、まさにそれを告げている。独立して、それ自体で完結している物体——そんなものは、根本のレベルには存在しない。あるのは性質と相互作用、そして関係だけだ。
本稿は、この量子論的な存在論を出発点に置く。ただし目的は物理学の解説ではない。問いたいのは、物体について言えることが、国家や民族についても言えるのではないか、ということだ。そして、もし言えるのなら、それは「国などしょせん作り物だ」という安易な結論へ私たちを導くのか、それとも、まったく逆の場所へ連れていくのか。
量子世界に「物」はあるか
古典力学が描く世界は、明快だ。物体はそれぞれ区別可能で、いつでも明確な性質を持つ。ある球はこの位置にあり、この速度で動き、この質量を持つ。測定しようがしまいが、それらの値は決まっている。物体とは、独立して自存する実体であり、性質はその実体に帯びる属性だ——この常識が、私たちの世界像の土台にある。
量子力学は、この土台を掘り崩す。微視的なスケールでは、粒子は互いに区別がつかず、性質は測定の前には確定していない。重ね合わせがあり、非局所的な相関があり、位置と運動量のように同時には定まらない量がある。量子力学は実験的には桁外れに成功した理論でありながら、それが何を「存在する」と語っているのかは、一世紀を経た今も論争の的であり続けている。
筆者が手がかりとするのは、ロヴェッリの関係的量子力学(Relational Quantum Mechanics, RQM)である。今年で提唱から三十年を迎えるこの立場の核心は、量子系の状態や物理量の値は、観察者から独立した絶対的なものではない、という主張にある。ここでいう観察者は人間の意識ではない。別の物理系でありさえすればよい。ある量子系が別の系と相互作用するとき、その相手に対してはじめて性質が定まる。
この発想は、唐突なものではない。古典力学における速度を考えればよい。時速六十キロという値は、何らかの参照枠に対してのみ意味を持つ。絶対速度などというものはない。相対性理論では時間の進み方さえ観察者に相対化される。物理学は、もともと関係的な概念に満ちていた。RQMの新しさは、その関係性を、ほかならぬ量子状態そのものにまで押し広げた点にある。
ただし、ここで一つの躓きが生じる。RQMの存在論は、しばしば「世界は物の総体ではなく事実の総体である」というウィトゲンシュタイン的な言い方で要約される。物ではなく出来事。その出来事とは、物理系どうしの相互作用にほかならない。だが——相互作用する物理系とは、そもそも何なのか。物体を消したはずなのに、物体なしには相互作用すら語れない。ここに、関係的存在論の最初の難所がある。
物体を捨てずに関係化する──ヒュームと束理論
この難所を、筆者は物体の全面的な廃棄によってではなく、物体概念の作り替えによって越えようとする。召喚されるのは、十八世紀の哲学者デイヴィッド・ヒュームだ。
ヒュームによれば、性質をまったく持たない裸の実体——それ自体は何の属性も持たず、ただ属性を背負うだけの担い手——というものは、そもそも考えることができない。私たちが物体と呼んでいるものは、実際には性質の束である。ビリヤードの球は、丸さ・重さ・色・硬さといった性質の集まりそのものであって、それらの背後に「性質を持たないビリヤード球そのもの」が控えているわけではない。では、なぜ私たちは物が時間を通じて同一であり続けると感じるのか。ヒュームはそれを想像力の仮構と見る。物は変化し、性質は移ろう。それでも同じ物が残っていると思いたいがために、私たちは奥に変わらぬ何かをでっち上げ、それを「実体」と名づけている。
このヒューム的な束理論は、二十世紀以降さまざまに彫琢された。なかでも筆者が依拠するのが、L.A.ポールのメレオロジカル束理論(Mereological Bundle Theory)である。物体とは性質の融合体であり、物がまずあって性質を帯びるのではなく、性質の構成からこそ物らしきものが立ち上がる。物体と性質の区別は、根本的なものではなくなる。
この理論を量子に接ぐとき、決定的な区別が導入される。性質を二種類に分けるのだ。第一に、内在的性質。電子であれば質量・電荷・スピンがこれにあたり、どの電子をとっても同じ値を持つ。第二に、外在的・関係的性質。位置・運動量・エネルギーなどであり、これは特定の相互作用に応じて値を変える。さらに量子形式の制約上、すべての性質が同時に確定するわけではない。位置を握れば運動量が逃げる。
こうして、物体は消えない。消えるのは古典的な物体像のほうである。すなわち、裸の基体としての物体、観察者から独立した完全な性質一覧を持つ物体、いつでもすべてが確定している物体。これらに代わって残るのは、安定した内在的性質と、関係のなかで定まる外在的性質と、確定しないまま残る余白とからなる束だ。タイトルの「物体がない」という強い主張は、ここで正確に言い直される。否定されているのは物体そのものではなく、「それ自体で在る独立した実体」としての物体なのである。
同じ操作を、国家と民族へ
さて、題外閑話。
まず確認すべきは、ここで借りるのが量子論の「結論」ではない、ということだ。物理法則によって社会現象を計算できる、などという主張はしない。借りるのは存在論的な身ぶり——「奥に裸の芯がある」という実体主義の前提を外す、その操作の形だけである。この一線を曖昧にすれば、議論はたちまち牽強付会に堕する。逆にこの一線を守るとき、電子から国家への跳躍は、奇をてらった連想ではなく、ひとつの操作の射程の確認になる。
その上で問う。否定されたのが「独立した裸の実体としての物体」だったのなら、同じ操作は国家や民族にも効くのではないか。
私たちはふだん、国を自然物のように扱う。世界地図の上に、あらかじめ輪郭を持って置かれているもののように。だが実際の「日本」は、領土・制度・法・行政機構・言語・教育・歴史叙述・記憶・国境管理・国際承認・パスポート・人口分類・周辺国との関係——こうした要素の束として成立している。剥がしていった先に、裸の「日本そのもの」が残っているわけではない。これらの性質・制度・関係の束が、十分に反復され、十分に運用され、十分に信じられたとき、それが「日本」として振る舞う。
この視点は、社会科学のなかですでに鍛えられてきた。ベネディクト・アンダーソンは国民を「想像された政治共同体」と呼んだ。この「想像された」は「虚構」を意味しない。会ったこともない無数の他人を、言語・メディア・教育・制度を通じて同じ共同体の成員として思い描く、その想像の実践こそが国民を成立させている、という指摘である。さらにロジャース・ブルーベイカーは、民族や国民を境界明確で内部均質な「実在する集団」として扱う傾向を「グループ主義」と呼んで批判した。集団があるから行為が生まれるのではない。政治・分類・動員・語りといった実践のなかで、集団性がある局面において強く作動する。観察すべきは、実体としての集団ではなく、集団性が立ち上がるその局面のほうだ。量子物体について筆者が述べたことが、ここで社会の語彙によって反復されている。
内在と外在、そして承認の関係性
内在的性質と外在的性質という区別は、社会へ移したときに、にわかに分析の刃となる。
国にも、比較的安定した性質がある。憲法、公用語、国籍制度、領土的中心、教育制度、通貨制度。これらは電子の質量や電荷のように、簡単には動かない。ただし、ここは正確を期さねばならない。これらは自然の意味で内在しているのではなく、高度に制度化され、長い時間をかけて沈殿した性質である。生まれつきではなく、積み重なって固まったものだ。
一方、関係のなかで揺れる性質がある。大国か小国か。先進国か途上国か。同盟国か敵国か。中心か周辺か。そして、承認されているか否か。これらは電子における位置や運動量に対応する。とりわけ承認と主権は強く関係的だ。国際関係論では、主権はもはや「有るか無いか」の固定した属性ではなく、程度や質において変動するものとして論じられてきた。ある政治共同体は、国内では国家として税を集め法を執行していても、外部からは未承認国家、自治政府、亡命政府、占領地として扱われうる。同じひとつの対象に、観察者ごとに異なる性質の列が割り当てられる——RQMが量子系について述べた構図が、ここでは生々しい政治の語彙で反復されている。
民族の場合、この関係性はさらに強い。民族はしばしば、帝国による分類、植民地行政の人口区分、国民国家による標準語教育、少数派としての排除経験、隣接集団との差異化、迫害や戦争の記憶、政治運動による自己定義——そうした関係のなかで輪郭を強めたり弱めたりする。民族を血統や文化や起源を共有する閉じた自然的単位として実体化することは、分析として不十分であるだけでなく、しばしば危険でもある。
構成されているが、崩れない
ここに、思想史が繰り返し落ちてきた陥穽がある。あるものが「構成されたもの」だと示すと、人はしばしば、それが「本物ではない」「軽いものだ」「乗り越え可能だ」という含意を勝手に読み込んでしまう。だが構成されていることと、強固であることは、少しも矛盾しない。
国家は構成されたものである。しかし、構成されたものだから弱いわけではない。国家は税を取り、徴兵し、国境で人を止め、戦争をし、教育内容を決め、パスポートを発行し、人を投獄する。民族も構成されたものである。しかし、構成されたものだから軽いわけではない。民族の名は、誇りの源にもなり、連帯の基盤にもなり、独立運動の核にもなり、同時に差別の標識にもなり、迫害の理由にもなる。
ここを踏み外すことの危うさは、強調してもしすぎることはない。「どうせ作られたものだ」という言葉は、抑圧的な本質主義を解きほぐす優しい道具にもなれば、他者の切実な現実を「思い込みにすぎない」と切り捨てる残酷な道具にもなる。束だと見抜くことと、それを軽いと侮ることは、まったく別の操作だ。
本稿の見立てでは、社会的なものの厄介さの核心は、まさにこの逆説にある。それは人の手で作られたにもかかわらず、いったん制度・記憶・分類・承認・暴力・日常実践によって安定化されると、個々人の意志ではびくともしない強度を獲得する。権力がもっとも深く作動するのは、人々がその秩序を「自然なもの」「当たり前のもの」として受け入れたときだ。実体だという思い込みは、構成されたものを構成されたものとして見えなくさせる装置であり、その不可視化こそが強度の源泉の一つにほかならない。
したがって、束として見ることは、解体でも軽視でもない。それは、何がこの強度を支えているのかを問う身ぶりである。
「本質は何か」と問うのをやめる
この視点が最終的にもたらすのは、問いの形の転換である。
実体を前提にすると、私たちは悪い問いを立ててしまう。この民族の本質は何か。この国の本質は何か。「本質」という語が現れた瞬間、私たちは奥に裸の芯を探し始めている。剥がした先のあの裸の球を、社会のなかに探している。
束として見ると、問いがそっくり入れ替わる。どの性質の束が、この集団をひとつのものに見せているのか。どの制度が、その束を安定させているのか。誰が、その境界を引いているのか。誰にとって、その集団は実在しているのか。どの局面で、その集団性は強く作動し、どの局面ではぼやけるのか。そして——もっとも政治的な問いとして——その集団を実体だと思い込ませることで、誰が利益を得て、誰が不利益を被るのか。
ここで一つ、誤解を先回りして潰しておきたい。関係的に見ることは、すべてを言説や物語へ溶かすことではない。本稿の見立てでは、むしろ逆である。集団を性質の束として捉える視点は、政治を「ただの構築物」へと希薄化させるどころか、誰がその束を束ね、誰がその境界を引き、その実体視によって誰が得をするのか、という権力の問いを分析の中心へ呼び戻す。実体主義を手放すことは、政治を手放すことではない。政治を、より精確に見ることだ。
量子物理から始まったひとつの論考が、ナショナリズムと承認の政治にまで届く。その射程の長さは偶然ではない。「実体という思い込みを外す」という、たった一つの操作が、電子から国家まで貫いて効くからこそ生じる射程なのである。手のなかの球がほどけたとき、私たちは初めて、それを束ねている手のほうを見ることができる。
ポイント整理
否定されたのは物体ではなく「裸の実体」
RQMが斥けるのは物体概念そのものではない。他から独立し、観察者から独立した完全な性質一覧を持ち、奥に性質なき基体を持つ、という古典的な物体像である。物体は「関係のなかで値を持つ性質の束」として再定義される。
内在的性質と外在的・関係的性質の区別
質量・電荷のように観察者に依らず一定の性質と、位置・運動量のように相互作用に応じて値を変える性質。この区別が、社会へ移したとき「沈殿した制度」と「承認・地位のような関係的属性」の対比として働く。
社会集団への翻訳は「結論」ではなく「見方」の借用
物理法則で社会を説明するのではない。実体主義を外す存在論的操作だけを借りる。この一線を守ることが、議論を牽強付会から分ける。
構成されていることは、弱さを意味しない
国家も民族も構成物だが、税・徴兵・国境・戦争・差別・連帯として強固に作動する。「作られたもの=軽いもの」という読み替えは、解放の道具にも抑圧の道具にもなる危うさを持つ。
「本質は何か」から「何が束を安定させているのか」へ。安定化のメカニズム、境界を引く主体、実体視の受益者を問うことで、関係的存在論は政治分析の道具になる。
キーワード解説
【関係的量子力学(RQM)】
カルロ・ロヴェッリが提唱した量子力学の解釈。量子系の状態や物理量は観察者から独立した絶対的なものではなく、別の系との相互作用において相対的に定まるとする。ここでの観察者は人間の意識ではなく、相互作用する任意の物理系を指す。
【束理論(バンドル・セオリー)】
物体を、性質を背負う基体としてではなく、性質の集まりそのものとして捉える形而上学の立場。ヒュームに淵源し、ラッセルらを経て発展した。L.A.ポールのメレオロジカル束理論は、物体を性質の融合体として構成的に説明する現代版である。
【想像の共同体】
ベネディクト・アンダーソンが国民を説明するために用いた概念。「想像された」とは虚偽の意ではなく、直接には知り得ない多数の人々を、言語・出版・教育などを介して同一の共同体として思い描く実践を指す。国民とは、その想像の作用によって成立する政治共同体である。
【グループ主義(groupism)】
ロジャース・ブルーベイカーが批判的に用いた語。民族・人種・国民などを、境界が明確で内部が均質な実在的単位として無批判に扱う傾向を指す。彼は、集団を所与とせず、集団性が政治・分類・動員のなかで「作動する」局面に分析の焦点を移すことを提唱した。
【動態的主権・国家承認】
主権や国家承認を、有無の二択ではなく、程度・質において変動する関係的属性として捉える視角。同一の政治共同体が、観察者や制度的文脈によって、国家・未承認国家・自治政府・占領地など異なる地位を帯びうることを説明する。