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意識のエントロピー理論──脳は情報処理の最適化マシンかもしれない

更新日:7月15日

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シリーズ: 論文渉猟


◆今回の論文:Ramón Guevara Erra et al. "Statistical mechanics of consciousness: Maximization of information content of network is associated with conscious awareness" (Physical Review E, 2016年11月8日)


私たちが今この瞬間、これらの文字を読み取り、意味として理解していることは、実は宇宙で最も複雑で神秘的な現象の一つです。意識とは何なのか。なぜ私たちは単なる物質の集合体でありながら、主観的な体験を持つことができるのか。この根本的な謎に、物理学の統計力学という手法でアプローチした興味深い研究があります。それは、意識状態にある脳は「情報処理を最適化するエントロピー最大化マシン」として働いているのではないか、という大胆な仮説を提示しています。


この研究は、意識のメカニズムを理解する新しい視点を提供するだけでなく、医療現場での意識レベル評価や、人工知能の発展にも重要な示唆を与える可能性があります。一体どのような発見が、私たちの意識理解を変えようとしているのでしょうか。今回は、富良野とPhronaの対話を通して、この興味深い研究を紐解いていきます。




意識とエントロピー:驚くべき関係性


富良野:この論文、面白いですよね。意識状態の脳は、情報処理を最適化している状態だという発見です。ここで言うエントロピーは情報エントロピー、つまりシャノンエントロピーのことで、脳ネットワークが取りうるパターンの多様性を表しています。


Phrona:エントロピー最大化って、なんだか逆説的に聞こえませんか?普通、意識って秩序だったものというイメージがあります。でも実際は、情報的にはむしろ多様性の方に近い状態が意識なんですね。


富良野:そこが興味深いところで。完全に秩序だった状態、つまり脳の全ニューロンが完全に同期している状態は、実は意識を失った状態、例えばてんかん発作の時なんです。一方で、完全に無秩序な状態も、また意識的ではない。


Phrona:なるほど、意識は秩序と無秩序の中間地点にあるということですね。でも、なぜ中間地点が最適なんでしょう?


富良野:研究者たちは、これを「ネットワーク構成の多様性」という観点で説明しています。例えば、10個のニューロンがあったとして、全部つながっている状態は1通りしかない。全部つながっていない状態も1通り。でも5個ずつつながっている状態は?


Phrona:あ、それはすごくたくさんの組み合わせがありますね。どことどこをつなぐかで、無数のパターンができる。


富良野:まさに。研究では、この「中程度のつながり状態」で可能な組み合わせの数、つまり情報エントロピーが最大になる時に、被験者が意識的な状態にあることを発見したんです。ただし研究者たちは、将来的には脳の実際のエネルギー代謝や熱の発生も調べて、情報エントロピーと熱力学エントロピーの関係も明らかにしたいと考えているようです。


実験データが語る意識の姿


Phrona:でも、どうやってそれを測定したんでしょう?意識って主観的なものですよね。


富良野:いい質問ですね。研究チームは、脳波計(EEG)、頭蓋内脳波(iEEG)、脳磁図(MEG)という3つの手法を使いました。覚醒状態、睡眠状態、てんかん発作、昏睡状態の被験者の脳活動を比較したんです。


Phrona:客観的に測定できる脳活動から、主観的な意識状態を推測するということですね。それで、どんな結果が?


富良野:驚くほどシンプルで明確でした。覚醒状態の時、脳ネットワークの情報内容、つまりエントロピーが最も高かった。一方、てんかん発作中や深い睡眠状態、昏睡状態では、エントロピーが低下していた。


Phrona:それって、意識がある時の脳は、情報処理のキャパシティを最大限に活用しているということでしょうか?


富良野:そう解釈できますね。研究者たちは、これを「情報処理の最適化」と呼んでいます。意識的な状態では、脳は環境からの多様な感覚情報を効率的に処理し、柔軟に反応できるよう、ネットワーク構成を最適化している可能性があります。


生存戦略としての意識


Phrona:でも、なぜ脳はそんな最適化をするんでしょう?エネルギーをたくさん使いそうですけど。


富良野:それこそが進化的な視点で考えると興味深いところです。研究者たちは、この情報処理の最適化が、実は生存に有利だからだと考えています。


Phrona:どういうことですか?


富良野:考えてみてください。複雑で変化する環境で生き残るには、多様な情報を素早く処理し、適切に反応する必要がある。エントロピー最大化状態の脳は、まさにそのような「環境モデリング」に最適化されているんです。


Phrona:つまり、意識というのは、外界をより良く理解し、予測し、対応するための進化的ツールだということですね。なんだか意識を見る目が変わりました。単なる主観的体験ではなく、生存のための高度な情報処理システムなんですね。


富良野:そう。この視点から見ると、意識は物質から「創発」する現象として説明できる可能性があります。複雑なネットワークが特定の状態になった時に、自然に意識という性質が現れる。


その後の研究展開と新たな発見


Phrona:この発見、実用的な応用もありそうですね。


富良野:人工知能の分野でも興味深い示唆がありそうです。もし意識がエントロピー最大化と関係しているなら、AIシステムにも何らかの形で応用できるかもしれませんね。


Phrona:この論文は2016年の発表ですが、その後の研究はどうなっているんでしょう?


富良野:実は、この分野はここ数年で急速に発展しています。2020年頃からエントロピーと意識の関係を調べる研究が爆発的に増えました。例えば、2022年の研究では、意識レベルを判定する上で神経複雑性が共通の指標になることが示されています。


Phrona:具体的にはどんな進展があったんですか?


富良野:一つは、麻酔や精神作用薬といった意識を変化させる物質の研究です。2024年の総説では、これらの物質が脳の構造と機能の結合関係を変化させることで、意識状態を変えることが明らかになっています。


Phrona:面白いですね。薬物で意識を変えると、脳のネットワーク構造も変わるということですか?


富良野:そうです。特に興味深いのは、麻酔では脳の構造と機能の結合が強くなるのに対し、精神作用薬では逆に結合が弱くなることです。つまり、意識を失う方向と、意識を変化させる方向では、脳の変化パターンが正反対なんです。


Phrona:それって、意識の「質」の違いを客観的に測定できるようになったということでしょうか?


富良野:まさに。2021年の大規模レビューでは、複雑性関連の指標が様々な意識状態における信頼できるマーカーになることが確認されました。睡眠、麻酔、幻覚状態、昏睡など、異なる意識状態を区別できるようになってきています。


新技術と応用の拡大


Phrona:医療現場での応用も進んでいるんでしょうか?


富良野:2024年の研究では、脳波を使った新しい複雑性測定手法が開発されています。これにより、これまでよりも正確に意識レベルを評価できるようになりました。特に、性別による麻酔感受性の違いなども検出できるようです。


Phrona:個人差にも対応できるようになったということですね。他にはどんな応用が?


富良野:興味深いのは、この手法が加齢研究にも応用されていることです。脳の複雑性は年齢とともに変化し、それが認知機能の変化と関連していることが分かってきました。つまり、エントロピー測定により、健康な加齢と病的な加齢を区別できる可能性があります。


Phrona:認知症の早期発見とかにも使えそうですね。


富良野:そうですね。さらに、2023年の研究では、様々な神経発達障害における意識の特徴も明らかになってきています。例えば、アンジェルマン症候群の子どもたちでは、意識は保たれているのに脳波パターンが睡眠時に似ているという興味深い発見もありました。


残された謎と今後の展望


Phrona:でも、まだ分からないことがたくさんありそうですね。


富良野:ええ。例えば、この研究では比較的少数の被験者での結果です。より大規模な研究での再現性確認が必要です。また、個人差や、文化的・言語的背景による違いも調べる必要があるでしょう。


Phrona:それに、この理論だと夢を見ている時はどう説明されるんでしょう?REM睡眠中も結構複雑な脳活動がありますよね。


富良野:いい指摘です。研究では主に覚醒と深い睡眠を比較していますが、REM睡眠や、明晰夢の状態での測定は今後の課題でしょうね。意識の連続性や、意識の異なる「質」をどう区別するかも重要な問題です。


Phrona:あと、この研究、物理学者の視点が入っているのが面白いですね。意識という究極的に主観的な現象を、客観的な物理法則で説明しようとしている。


富良野:そうですね。統計力学という、もともと気体分子の運動を扱う分野の手法が、意識研究に応用されているのは興味深い。学際的なアプローチの重要性を示していると思います。


Phrona:でも同時に、これは意識の「困難な問題」と呼ばれるものにどこまで迫れているのかという疑問もあります。脳活動のパターンが分かっても、なぜそこに主観的体験が生まれるのかという謎は残っているような気がします。


富良野:確かに。この研究は意識の「神経相関」を見つけた研究であって、意識の本質そのものを解明したわけではありません。でも、客観的に測定可能な意識の指標を見つけたことの意義は大きいと思います。




ポイント整理


  • 覚醒状態の脳は情報エントロピーが最大化される

    • 意識がある時、脳ネットワークは最も多様な構成パターンを取り、情報処理能力を最大化している

  • 意識は秩序と無秩序の中間点に存在

    • 完全な同期(てんかん)でも完全な非同期でもなく、中程度の結合状態で意識が現れる

  • 情報処理の最適化仮説

    • 意識は環境への適応と生存のために、脳が情報処理を最適化した結果として創発する可能性

  • 客観的測定手法の確立

    • EEG、iEEG、MEGを用いて意識レベルを定量的に評価する方法論が開発された

  • 医療応用の可能性

    • 昏睡患者の意識レベル評価、麻酔深度管理などへの応用が期待される

  • 学際的アプローチの重要性

    • 物理学の統計力学を神経科学に応用した革新的な研究手法

  • 2016年以降の急速な発展

    • 複雑性関連指標が様々な意識状態の信頼できるマーカーとして確立され、麻酔、精神作用薬、加齢、神経発達障害などの研究に応用が拡大

  • 個人差への対応

    • 性別、年齢、疾患による意識状態の違いをより精密に測定できる技術が開発されている



キーワード解説


【統計力学】

多数の粒子からなるシステムの巨視的性質を、微視的な粒子の統計的振る舞いから説明する物理学の分野


【情報エントロピー】

情報理論におけるエントロピーの概念。システムが取りうる状態の数の対数に比例。この研究の主要測定対象


【熱力学エントロピー】

物理系の無秩序さを表す熱力学量。研究では情報エントロピーとの関連性も示唆されている


【脳波(EEG)】

頭皮上の電極で測定する脳の電気活動。非侵襲的で意識状態の評価に広く使用


【頭蓋内脳波(iEEG)】

脳に直接電極を挿入して測定する脳波。より詳細な脳活動を捉えられる


【脳磁図(MEG)】

脳の磁気活動を測定する手法。時間分解能が高く、リアルタイムの脳活動を捉える


【レンペル・ジブ複雑性】

信号の複雑さを測定する指標の一つ。パターンの予測可能性を数値化


【位相同期】

異なる脳領域間での活動タイミングの同調。脳ネットワークの結合性を表す指標


【創発現象】

個々の要素にはない性質が、要素間の相互作用から自然に現れる現象



本稿は近日中にnoteにも掲載予定です。
ご関心を持っていただけましたら、note上でご感想などお聞かせいただけると幸いです。
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