経済の前で肩をすくめる「民主制」――資本主義の平常運行の帰結
- Seo Seungchul

- 52 分前
- 読了時間: 19分

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事:Stephen Maher et al., "Under Capitalism, Democracy Stops at the Economy" (Jacobin, 2026年2月9日)
概要:経済学者クラーラ・マッテイの新著『Escape From Capitalism』の書評。格差の拡大や労働者の困窮は資本主義の「故障」ではなく「正常な作動」の帰結であるとするマルクス主義的分析を紹介し、緊縮政策の構造的必然性、競争と搾取の関係、社会民主主義の限界を論じる。書評者は、マッテイの診断の鋭さを評価しつつも、資本主義を超える政治的主体がどう形成されるかという「階級形成」の視点が欠けていると批判する。
格差が広がるのは、制度が壊れたからだ。独占企業が強欲だからだ。政治家が腐敗したからだ――私たちはそう考えがちです。でも、もし資本主義という仕組みが「壊れている」のではなく、むしろ「正常に動いている」からこそ格差が広がるのだとしたら?
経済学者クラーラ・マッテイの新著をめぐるこの書評は、その不穏な問いを真正面から突きつけます。「利潤の論理」と「必要の論理」は根本的に対立しており、緊縮政策は失敗した経済政策ではなく、階級規律を維持するメカニズムとして成功している、と。富良野はまず、その診断の骨格を丁寧に読み解こうとします。Phronaは、マッテイの分析の切れ味に惹かれながらも、その刃がどこに届き、どこに届かないかを問い返していきます。
対話の後半、二人はこの書評が開いたまま残している問い――資本主義を超える主体はどう形成されるのか、それは「階級」という形でなければならないのか――に踏み込みます。そしてその先に、もう一つ別の問いの輪郭が浮かんできます。
壊れているのか、正常に動いているのか
富良野: 今回の素材、マルクス経済学の立場からの書評なんですが、問いの立て方が独特で面白いんですよ。クラーラ・マッテイという経済学者の新著の書評で、要するに、資本主義の問題を「どこかが壊れた」と見るか、「正常に動いているからこそ問題が出る」と見るかで、すべてが変わるという話。
Phrona: 確かに、その差は大きいですね。普段の議論って、金融が暴走したとか、独占企業が強欲だとか、特定の「故障箇所」を探す方向に行きがちで。
富良野: マッテイはそういう見方を「ポピュリスト的フレーミング」と呼んで、そこに留まるかぎり構造は見えないと言っている。彼女が立てる対立軸は、「利潤の論理」と「必要の論理」。資本主義は人々の暮らしを豊かにするために回っているのではなく、利潤を蓄積し続けるために回っている。だから労働者の困窮はシステムの欠陥じゃなくて、むしろ駆動力そのものだと。
Phrona: それはかなり厳しい見方だけど、論理としてはまっすぐですよね。「成長すればみんなに恩恵が行き渡る」という前提そのものに疑問を投げかけている。
富良野: ええ。技術が発展すれば一人あたりの生産量は増える。でもその恩恵が利潤の側に吸い上げられて、賃金が上がりすぎれば投資が減って失業が増える。どちらに転んでも労働者は構造的に不利になるという議論です。
Phrona: ただ、そう言われると、じゃあ個々の改良にはまったく意味がないのかという気持ちにもなりません?
富良野: そこは大事なところで、マッテイは改良そのものを否定してはいないんです。でも、改良を「資本主義をよりうまく回すための修繕」として位置づけるのか、「資本主義を超えるための足場」として位置づけるのかで、まったく意味が違ってくる、と。フレーミングの問題ですね。
Phrona: 同じ行為なのに、どちらの物語の中に置くかで政治的な意味が変わる。
富良野: そういうことです。そしてこのフレーミングの話が、次の「緊縮」の議論に直結してくる。
緊縮は「失敗」しているのか
Phrona: この書評でいちばん目を引いたのが、緊縮政策の話なんです。普通は、緊縮って「経済を立て直すために痛みを伴う」けれど「本当は成長に必要」みたいな語られ方をするじゃないですか。
富良野: はい。で、左派の側からは「緊縮は成長にも失敗している、だから間違いだ」という批判がある。ケインズ主義的な立場ですね、需要を刺激しないから経済が萎むんだと。
Phrona: マッテイはその批判にも「ちょっと違う」と返すわけですよね。
富良野: そうなんです。マッテイによれば、緊縮には三つの形がある。財政的緊縮、これは社会支出の抑制。金融的緊縮、金利を上げること。産業的緊縮、労働者の権利を制限すること。この三つは全部、労働者を市場への依存状態に留めておくための装置だと。
Phrona: つまり、賃金労働をしなければ生きていけない状態を維持するのが本来の目的で、成長を促すのが目的ではない。
富良野: もし福祉が十分に手厚くて、働かなくても暮らせるなら、それは事実上の「無制限のストライキ資金」を全員に渡すのと同じだ、とマッテイは表現している。だからそうはさせない。緊縮の目的は成長促進ではなく階級規律の維持であって、その意味ではちゃんと「成功している」んだと。
Phrona: 「失敗した政策」ではなく「成功している統制装置」。捉え方の鮮やかな逆転ですね。
富良野: 金融政策も同じ構図で。中央銀行が金利を引き上げてインフレを抑える。でもそれは同時に失業を増やすことでもある。経済学にNAIRU(Non-Accelerating Inflation Rate of Unemployment)という概念がありますよね。インフレを加速させない失業率の水準。
Phrona: マッテイはそれを「労働者の従順さを確保するのにちょうどいい水準の失業率」と読み替えるわけですよね。
富良野: そう。「インフレ抑制」と聞くと中立的な技術判断に聞こえるけれど、その裏に階級的な利害が埋め込まれている。失業は自然現象ではなくて政治的な選択だと。
Phrona: そうなると、経済学そのものの位置づけが変わってきませんか。
富良野: マッテイの言い方を借りれば、新古典派経済学は数学的モデルと科学の装いで経済を「技術的な課題」に変換し、選挙で選ばれていない専門家の手に委ねる。結果として「経済」が民主主義の射程から外される。書評記事のタイトルにある「資本主義のもとでは、民主主義は経済の手前で止まる」というのはそういう意味なんです。
Phrona: 経済学の「脱政治化」が、民主主義そのものの射程を狭めているという構図。これはたしかに、壊れた部品を直す話では済まないですね。
競争と社会民主主義のあいだで
富良野: もう一つ、この書評で考えさせられるのが「競争」の話です。独占が諸悪の根源だから競争を回復しよう、というのは直感的に説得力があるし、実際にアメリカのリナ・カーンの反トラスト路線なんかはそういう立場ですよね。
Phrona: でもマッテイはそこにも異を唱える。
富良野: ええ。マッテイによれば、現代資本主義の基本的性格は独占ではなく競争です。書評者もアマゾンの研究を引いて補強しているんですが、アマゾンは独占どころか猛烈に競争的な企業で、価格を下げ、物流を効率化し、イノベーションを続けている。でもその結果が、倉庫労働者への過酷な労働条件、自動化、監視の強化なんです。
Phrona: 競争が激しければ激しいほど、人件費を削る圧力も強まる。
富良野: そう。だから「独占を解体して競争を取り戻せば労働者のためになる」というのは、この見方からすると逆で、競争の回復はむしろ搾取を激化させる。
Phrona: それは「テクノ封建制」の議論への反論でもありますよね。巨大テック企業が市場を封建領主のように支配しているから問題だ、という見方に対して、いや問題は封建ではなく資本主義の競争そのものだと。
富良野: ここで面白いのは、問題の所在を「独占」に見るか「競争」に見るかで、処方箋が根本的に変わってくることです。独占が悪いなら競争を回復すればいい。でも競争そのものが問題なら、市場メカニズムに代わる何かを構想しなければならない。
Phrona: 社会民主主義ってありますよね。ヨーロッパの福祉国家って、左派にとっては一つの成功モデルとして語られてきたじゃないですか。市場は残しつつ再分配する、資本主義のやさしい顔、みたいな。
富良野: マッテイはそこにも切り込んでいて。デンマークの社会学者エスピン=アンデルセンが「脱商品化」という概念を提唱していますよね。市場を通さなくても一定の生活が保障される度合いのこと。社会民主主義は医療や教育といった特定のサービスの脱商品化には成功した。でも、労働力そのもの——つまり「働かなければ生きていけない」という根本条件——は変えられなかった。
Phrona: しかも面白いのが、北欧型の福祉国家では労働力参加率がむしろ高いんですよね。福祉が充実しているのに、働いている人の割合はアメリカやイギリスの「自由主義的」モデルより高い。
富良野: 脱商品化が進んでいるなら参加率は下がるはずなのに。マッテイの見方では、社会民主主義は労働者をより深く市場関係に埋め込んだんです。そして1970年代に利潤率が落ちたとき、資本主義の枠組みを前提にしていた社会民主主義政党には、緊縮以外の選択肢が見えなかった。
Phrona: ここに、なんというか、切なさを感じるんです。社会民主主義の理念は真っ当ですよね。人間の尊厳を守りながら経済を回したい。でもそれが構造的に行き詰まったとき、次の構想がなければ全部巻き戻されてしまう。
富良野: マッテイの診断は、その「巻き戻し」のメカニズムを構造的に説明します。社会民主主義の危機は政治的失敗ではなく、利潤の論理が必要の論理に対する敵対性をむき出しにした瞬間だった、と。
「階級」でまとまる必然性はあるか
Phrona: で、書評者が最後にマッテイに対して突きつけるのが、「階級形成」の問題ですよね。資本主義を超えるべきだと言うのはいいけれど、その主体がどう形成されるかが語られていないと。
富良野: マルクスの古典的な命題で、労働者は客観的には一つの階級として存在しているけれど、共通の利害を自覚して政治的に組織化されるまでは政治的な主体にはなれない。書評者は、この組織化のプロセス——つまり社会主義政党を通じた教育、討論、集団的行動——がマッテイの分析に欠けていると批判している。
Phrona: でも富良野さん、私はその批判自体にも、もう一歩問いを重ねたくなるんですよ。「政治的な主体としてまとまることが必要だ」、それはいいとして、それが「階級形成」という形でなければならない必然性はあるのか、という。
富良野: 至極真っ当な疑問だと思います。
Phrona: 20世紀後半以降の政治的動員って、「階級」よりも環境とか、ジェンダーとか、人種とか、もっと流動的なアイデンティティの連合として成立したケースの方が多いですよね。
富良野: たしかに。書評者の立場は、生産関係における位置——つまり資本家に対して労働を売る側にいるということ——が、他のどの分析軸よりも根本的だという理論的前提に立っている。でもそれは、理論的な「正しさ」であって、実際に人が動くかどうかは別の問題ですよね。
Phrona: マッテイ自身が「必要の論理」を起点にしているなら、その「必要」を共有する人々の連合という形の方がむしろ自然じゃないかとも思うんです。非正規労働者、ケアワーカー、移民、障害を持つ人——こういう人たちの「必要」は重なるけれど、それを「プロレタリアート」の一語で括ることには、やっぱり無理がある。
富良野: そこで一つ思い出すのが、エルネスト・ラクラウの議論です。ラクラウはポピュリズムを理論化した政治思想家で、彼の枠組みでは、バラバラの不満や要求を「人民」という一つのシンボルのもとに束ねるのがポピュリズムの政治的論理なんです。階級ではなく、もっと空っぽの器に多様な要求を流し込む。
Phrona: ポピュリズムって、普通は批判的に語られますけど、ここでは「主体形成の別ルート」として出てくるわけですね。
富良野: ある意味では。そして面白いのは、階級形成とポピュリズムでは、人を動かすエンジンが違うということです。階級形成の前提にあるのは利害の認識。自分がどういう立場にいて、何を共有しているかを「理解する」ことで主体になる。でもポピュリズムが掴むのは、もっと生々しい情念ですよね。怒りとか、屈辱の感覚とか、あるいは希望とか。
情念と理性のあいだに
Phrona: シャンタル・ムフが左派ポピュリズムを構想したのは、まさにそこですよね。マルクス主義的な階級形成は「利害」や「必要」という合理的な基盤に政治的主体化を賭けている。でも政治的動員の現実は、ムフの言葉で言えば「パッション」——情念——なしには起動しない。
富良野: で、右派ポピュリズムの方がそこを先に掴んでしまっている。書評でも触れられていますが、MAGAが労働者の怒りを吸い上げて、でもそのエネルギーが資本に向かうんじゃなくて移民やマイノリティに向かってしまう、という構図。
Phrona: 「理論的に正しいが人を動かせない主体化」と「人は動かすが構造に届かない主体化」があって、階級形成は前者、ポピュリズムは後者と言えそうな。
富良野: そう来ると次に私たちが考えるべきは、「正しいが起動しない」と「起動するが届かない」の間に、何があり得るのか、という問いになりますかね。
Phrona: ムフはそこに一つの答えを出そうとしていますよね。「闘技民主主義」という構想。敵対を消すのではなくて、敵対を制度の中で持続的に扱えるようにする。情念を排除するのでもなく、情念が破壊に向かうのでもなく、情念を民主的な回路の中に引き込む。
闘技場を、どう設計するか
富良野: そこで一旦立ち止まって考えておきたいのは、マッテイの議論の前提そのものなんです。「利潤の論理」と「必要の論理」が根本的に対立している、というテーゼ。これ、本当にそこまで言い切れるのかという問題。
Phrona: 対立があるのは間違いないとして、それが「調停不能な敵対」なのか、それとも「政治的に媒介可能な緊張」なのかで、話がかなり変わりますよね。
富良野: 社会民主主義が「両方を両立させられる」と言ったのは、嘘だったのか、それとも制度設計が未成熟だっただけなのか。この問いは区別する必要があると思うんですよ。
Phrona: マッテイが示した歴史的事実は重いですよね。社会民主主義は最終的に緊縮に屈した。でも「屈した」という事実から、「原理的に両立不能だった」と結論するのは、論理的にはジャンプがありませんか。
富良野: そこなんです。社会民主主義が崩れたのは、利潤と必要が本質的に敵対しているからなのか、それとも二つの論理の緊張を扱う制度的な仕組みが脆弱すぎたからなのか。原因の帰属先が違う。
Phrona: 富良野さんの見方では、後者ですか。
富良野: 少なくとも、前者に確定させるのは早いと思っている。利潤と必要は共存し得るけれど、その共存を維持するにはかなり精巧な制度的アリーナが要る。1970年代にそれが崩れたのは、資本のグローバルな移動が自由化されたのに対して、国内の制度的枠組みが追いつかなかったから。原理的に不可能だったからではなく、仕組みが追いつかなかった。
Phrona: もしそうだとすると、社会民主主義の失敗は「思想の敗北」ではなく「闘技場の設計の未成熟」ということになりますよね。
富良野: そう。で、そこがムフの闘技民主主義と接続するところでもある。ムフが「敵対(antagonism)」を「闘技(agonism)」に変換すると言うとき、対立を消すのではなくて、対立を制度の中で持続的に扱えるようにする、ということですよね。マッテイは「対立は根本的で調停不能だ」と言い切る。ムフなら「対立は根本的だからこそ、それを扱える闘技場が必要だ」と返すはず。
Phrona: ここですごく大事な転換が起きている気がするんです。マッテイと書評者の議論は、最終的に「資本主義から脱出するか、修繕するか」という二択に収束しがちですよね。でも「闘技場の設計」という視座は、その二択自体を迂回している。
富良野: 脱出でも修繕でもなく、利潤の論理と必要の論理が衝突し続ける場のアーキテクチャを問う。マッテイの診断は受け取る。緊縮の構造性も、経済学の脱政治化も、競争が労働者を救わないことも。でも処方箋の出し方が違う。
Phrona: マッテイ自身、「経済理論・経済政策・経済そのものの民主化」という三重の民主化を掲げていますよね。その三つを「資本主義からの脱出」の文脈に置くからシステム全体の置き換えの話になるけれど、「闘技場の制度的条件」として読み替えることもできる。
富良野: 経済理論の民主化は、経済学が中立的な科学であるという装いを剥がすこと。経済政策の民主化は、「専門家に任せるべき技術的問題」を政治的な議論の場に引き戻すこと。経済そのものの民主化は、投資や生産の意思決定に民主的な統制を及ぼすこと。どれも、闘技場の設計図として読めますよね。
Phrona: でも、そこに情念の問題が残りませんか。闘技場がいくら精巧に設計されていても、そこに人が入ってこなければ動かない。マッテイの「必要の論理」は人を正しい場所に連れてくるかもしれないけれど、闘技場に留まり続けるためのエネルギーは別のところから来る。
富良野: それがムフの言うパッションですよね。怒りでも、尊厳の感覚でも、連帯の高揚でも。闘技場の設計は、そういう情念を破壊的な方向ではなく、民主的な回路の中に導くための制度的条件でもある。
Phrona: ただ、ここで正直に言うと、「闘技場の設計」という言い方はとても魅力的だけれど、具体的に何を指すのかは、まだ漠然としすぎていませんか。
富良野: その通りですね。ただ、答えは一つじゃなくて、議会制度の改革も、中央銀行の民主化も、労働組合の再設計も、地域の参加型予算も、実際考えなくてはいけないんだと思うんですよ。闘技場は一つの巨大な制度ではなくて、異なるレベル——国際的な資本移動を規制する仕組み、国内の社会政策、職場の意思決定、地域のガバナンス——の重層的な設計になるんだと思います。
Phrona: マッテイが見せてくれたのは、闘技場がなぜ必要かという理由。書評者が付け加えたのは、闘技場に入る主体がどう形成されるかという問い。でも闘技場そのものをどう設計するかは、たぶんまだ誰も十分には描けていない。
富良野: そこが開かれた問いとして残りますね。でも僕は、オルタナティブを「資本主義に代わるシステム」として構想するよりも、「利潤と必要の衝突を持続的に扱える闘技場」として構想する方が、射程が長いんじゃないかという気がしているんです。なぜなら、対立そのものは消えないから。どんなシステムに移行しても、資源配分と人間の必要の間には緊張が残る。
Phrona: システムを取り替えても、緊張は消えない。だったら、緊張を扱える場の設計こそが本当の問いだと。
富良野: そうかもしれないし、マッテイなら「それは甘い」と言うかもしれない。利潤の論理は闘技場のルールそのものを書き換える力を持っている、闘技場を作ってもそれが利潤に飲み込まれるだけだ、と。その反論にも重みはあるんですよ。
ポイント整理
資本主義の問題は「故障」ではなく「正常運転」の帰結
マッテイは、格差拡大や労働者の困窮を金融化・独占・政治腐敗といった個別の「異常」に帰するのではなく、「利潤の論理」と「必要の論理」の根本的対立として捉える。搾取は資本蓄積の欠陥ではなく駆動力そのもの。
緊縮は「失敗した経済政策」ではなく「成功した階級規律のメカニズム」
財政的緊縮(社会支出の抑制)、金融的緊縮(金利引き上げ)、産業的緊縮(労働権の制限)を通じて、労働者を市場依存状態に留め置くことが緊縮の本来の機能。「成長に失敗した」という批判は、緊縮の目的を見誤っている。
経済学の「脱政治化」が民主主義の射程を狭めている
新古典派経済学は数学的モデルと科学の装いで経済運営を「技術的問題」に変換し、選挙で選ばれない専門家の手に委ねることを正当化する。「インフレ抑制」のような中立的に聞こえる政策目標の裏に、階級的利害が構造的に埋め込まれている。
競争の回復は労働者の味方ではない
独占ではなく競争こそが現代資本主義の基本的性格であり、企業間の競争が激しいほど人件費削減・自動化・監視強化の圧力が労働者に直接降りかかる。「独占を解体すれば健全になる」という処方箋は、搾取を激化させるメカニズムを見落としている。
社会民主主義の限界は「思想の敗北」か「制度設計の未成熟」か
社会民主主義は特定サービスの脱商品化に成功したが、労働力そのものの脱商品化は実現できなかった。ただし、この限界を「利潤と必要の原理的敵対」の証拠と見るか、「闘技場の設計が追いつかなかった」と見るかで、処方箋は大きく異なる。
政治的主体の形成は「階級」に限定されない
書評者はマッテイに「階級形成」の欠如を指摘するが、政治的動員の歴史は階級以外の連合形態を多数示している。ポピュリズムは理論的正確さでは劣るかもしれないが、情念を通じて人を動かす力を持つ。「正しいが起動しない主体化」と「起動するが構造に届かない主体化」の間に、第三の可能性を探ることが求められる。
「脱出か修繕か」を超えて——闘技場の設計という問い
「資本主義に代わるシステム」の構想と「資本主義内部の修繕」の二択ではなく、利潤の論理と必要の論理が持続的に衝突し続ける場のアーキテクチャを問うこと。どんなシステムに移行しても資源配分と人間の必要の間の緊張は消えないため、緊張を扱える制度的な場の設計こそが、射程の長いオルタナティブかもしれない
キーワード解説
【利潤の論理と必要の論理(logic of profit vs. logic of need)】
資本蓄積を駆動する論理と、人間の生存・再生産に必要なものを満たす論理が根本的に対立しているとする、マッテイの中心的な枠組み。この対立を「調停不能な敵対」と見るか「制度的に媒介可能な緊張」と見るかが、処方箋の分岐点になる。
【緊縮(austerity)】
社会支出の抑制(財政的緊縮)、金利引き上げ(金融的緊縮)、労働権の制限(産業的緊縮)の三形態を通じて、労働者を市場への依存状態に留め置く政策的メカニズム。マッテイはこれを新自由主義固有の逸脱ではなく、資本主義に構造的に内在する階級規律のツールと位置づける。
【NAIRU(Non-Accelerating Inflation Rate of Unemployment)】
インフレを加速させない失業率の水準を指す経済学の概念。マッテイはこれを、労働者の交渉力を抑えるために「ちょうどよい」水準に失業を維持する政治的装置として批判的に読み替える。
【脱商品化(decommodification)】
デンマークの社会学者エスピン=アンデルセンが提唱した概念で、市場での購入を介さずに生活が保障される度合いを指す。社会民主主義は医療や教育の脱商品化には成功したが、労働力そのもの——「働かなければ生きていけない」という条件——の脱商品化には至らなかった。
【テクノ封建制(technofeudalism)】
巨大テック企業がプラットフォームを通じて封建領主のように経済を支配しているとする仮説。マッテイおよび書評者は、問題は独占的支配ではなく資本主義の競争的ダイナミズムそのものにあると反論する。
【階級形成(class formation)】
客観的に存在する労働者階級が、共通の利害を認識し、政治的主体として自らを組織化するプロセス。マルクスの古典的命題であり、書評者がマッテイの分析に欠けていると指摘する中心的概念。本記事では、この形式が政治的主体化の唯一の経路かどうかを問い直している。
【闘技民主主義(agonistic democracy)】
シャンタル・ムフが提唱した民主主義の構想。社会における対立や敵対を消去するのではなく、それを制度的な枠組みの中で持続的に扱えるようにすることを目指す。「敵(enemy)」を「対抗者(adversary)」に変換し、情念を民主的回路の中に導くことを重視する。
【ポピュリズム(populism)】
ラクラウの理論では、満たされない異質な諸要求を「人民」という空虚なシンボルのもとに束ねる政治的論理。階級形成が利害の合理的認識を前提とするのに対し、ポピュリズムは情念を通じた動員に強みを持つ。左派ポピュリズムも右派ポピュリズムも、この論理を共有しつつ、エネルギーの向かう先が異なる。
【闘技場の設計(design of the arena)】
本記事における独自の問い。「資本主義からの脱出」か「資本主義の修繕」かという二択ではなく、利潤の論理と必要の論理が衝突し続ける場の制度的なアーキテクチャを問う視座。社会民主主義の限界を「原理的敗北」ではなく「制度設計の未成熟」として捉え直すことで、異なるレベルでの重層的な闘技場の設計がオルタナティブの候補として浮上する。