脳はいつから「脳」になったのか?──神経系誕生の謎を探る
- Seo Seungchul

- 9月26日
- 読了時間: 7分
更新日:10月17日

シリーズ: 論文渉猟
◆今回の論文:Sebastián R. Najle et al. "Stepwise emergence of the neuronal gene expression program in early animal evolution" (Cell, 2023年10月12日)
概要:動物の神経系進化における遺伝子発現プログラムの段階的発達を、比較ゲノム学的手法で解析した研究論文
私たちの脳は、どうやって生まれたのでしょうか。考えてみると不思議ですよね。海にふわふわ漂っているクラゲにも神経系があるし、私たちヒトの複雑な脳も、元をたどれば同じ起源から生まれているはずです。
でも、その「元」って一体何だったのでしょう。そして、いつから神経細胞は「神経細胞らしく」振る舞うようになったのか。2023年に発表された最新の研究が、この根本的な謎に新しい光を当てています。
今回は、富良野とPhronaの対話を通じて、神経系進化の最前線を探ってみます。遺伝子の発現パターンから読み解く進化の物語は、私たちが思っている以上にドラマチックで、そして意外な展開を見せてくれるかもしれません。
神経系の「設計図」を追いかける
富良野:この論文、神経系がどう進化したかを、遺伝子の発現パターンから逆算して追いかけてるんですけど、面白いです。
Phrona:遺伝子の発現パターンって、要するに細胞がどの遺伝子をいつ使うかの設計図みたいなものですよね。それで進化を読み解くって、まるで考古学みたい。
富良野:そう、まさに分子考古学ですね。研究者たちは、現在生きている様々な動物の神経細胞を調べて、共通の「神経らしさ」を定義する遺伝子セットを特定したんです。それが神経系進化の核心部分だと。
Phrona:でも、神経らしさって何でしょう。私たちが普通に思い浮かべる神経って、電気信号を伝える細胞ですけど、そもそもの始まりはもっと曖昧だったのかも。
富良野:それがこの研究の面白いところで、段階的な発達があったことを示してるんです。最初は情報処理に関わる遺伝子群、次にシナプス形成、最後に神経伝達物質の制御。順番があった。
Phrona:なるほど。いきなり完成形の神経系ができたわけじゃなくて、機能が少しずつ積み重なっていったんですね。人間の成長みたいに。
海綿動物が語る進化の物語
富良野:特に興味深いのが海綿動物の位置づけです。海綿には神経系がないとされてきたんですが、実は神経系の「部品」に相当する遺伝子の一部を持ってることが分かった。
Phrona:海綿って、あの海底にくっついてる、植物みたいな動物ですよね。動かないし、確かに神経系なんて必要なさそうに見えるけど。
富良野:でも、細胞同士のコミュニケーションは必要だった。水の流れを感知したり、栄養の分配を調整したり。この研究では、そういう基本的な情報処理機能が神経系の原型だったと示唆してる。
Phrona:面白いですね。神経系って、最初から「考える」ためにあったわけじゃなくて、もっと生存に直結した実用的な機能から始まったんだ。
富良野:そうなんです。むしろ「考える」なんて高次機能は、ずっと後になってから付け加わった贅沢品かもしれない。
Phrona:贅沢品か。でも、その贅沢品のおかげで私たちはこうして進化について議論できてるわけですから、皮肉なものですね。
刺胞動物の革新
富良野:次の大きな進化的飛躍が刺胞動物、つまりクラゲやイソギンチャクの仲間で起きるんです。ここで初めて本格的なシナプス形成の仕組みが登場する。
Phrona:シナプスって、神経細胞同士がつながる接点ですよね。それまでは細胞がバラバラに情報処理してたのが、ネットワークを組むようになったと。
富良野:まさにそうです。単独の細胞レベルの情報処理から、ネットワーク型の情報処理への転換。これは質的な変化ですね。
Phrona:質的な変化。なんだか社会の発展みたいですね。個人個人が別々に生きてたのが、コミュニティを作るようになった感じ。
富良野:実際、神経ネットワークと社会ネットワークには共通点が多い。情報の伝達、処理の分散、集合知の創発。
Phrona:でも、刺胞動物の段階では、まだ神経伝達物質の精密な制御システムは発達してなかったんでしょう?
富良野:そうです。ネットワークはできたけど、まだ「言語」が洗練されてなかった。神経伝達物質の多様性と制御機構が本格的に発達するのは、もっと後の段階なんです。
左右相称動物の洗練
Phrona:そして最後に左右相称動物で神経伝達物質システムが完成すると。私たちもこのグループに入りますよね。
富良野:はい。ここで初めて、ドーパミン、セロトニン、アセチルコリンといった神経伝達物質を精密に制御する仕組みが整った。これで現代的な神経系の基本形が完成したと言える。
Phrona:不思議ですね。私たちが感情を感じたり、記憶を作ったりするときに使ってる神経伝達物質の仕組みが、そんな大昔に確立されてたなんて。
富良野:考えてみると、恋愛で胸がドキドキするのも、美味しいものを食べて幸せを感じるのも、数億年前の進化の産物なんですよ。
Phrona:ロマンチックなんだかロマンチックじゃないんだか(笑)。でも、そう考えると、感情や思考って、すごく長い時間をかけて磨き上げられた作品なんですね。
富良野:そうです。しかも、この研究が示すのは、それが一足飛びに完成したんじゃなくて、段階的に、少しずつ機能を積み重ねて今の形になったということ。
進化の意味を考え直す
Phrona:この段階的発達の視点って、進化に対する見方を変えますね。ダーウィンの時代から、進化は連続的だと言われてきたけど、遺伝子レベルで見ると本当にそうなんだなって。
富良野:しかも、各段階で新しい機能が付け加わるだけじゃなくて、古い機能も残ってる。海綿の情報処理機構も、私たちの脳の中で今でも働いてるかもしれない。
Phrona:進化って、新しいものに置き換わるんじゃなくて、古いものの上に新しい層を重ねていく感じなんですね。地層みたい。
富良野:まさに地層です。そして、この研究の面白いところは、その地層の境界線を遺伝子発現パターンで特定できたこと。分子レベルで進化の履歴書を読めるようになった。
Phrona:でも、これって神経系だけの話なんでしょうか。他の器官系でも同じような段階的発達があったのかな。
富良野:それは今後の研究課題ですね。ただ、生命の複雑性が段階的に積み重なってきたという視点は、神経系以外にも応用できそうです。
Phrona:そうすると、私たちが今「当たり前」だと思ってることも、実は何段階もの進化を経た結果なのかもしれませんね。
ポイント整理
段階的進化の証拠
神経系は一度に完成したのではなく、情報処理→シナプス形成→神経伝達物質制御の順で段階的に発達した
海綿動物の役割
神経系を持たないとされてきた海綿動物が、実は神経系進化の初期段階の遺伝子プログラムを保持していることが判明
刺胞動物の革新
クラゲやイソギンチャクの仲間で、細胞間のネットワーク型情報処理システムが初めて確立された
左右相称動物の完成
現代的な神経伝達物質制御システムが確立され、複雑な行動や認知機能の基盤が整った
分子考古学的手法
現存する動物の遺伝子発現パターンを比較することで、進化の履歴を再構築する新しいアプローチが確立された
機能の積層構造
新しい機能が古い機能を置き換えるのではなく、上に積み重なる形で進化が進んだことが示された
キーワード解説
【神経遺伝子発現プログラム】
神経細胞で特異的に活性化される遺伝子群の協調的な発現パターン
【比較ゲノム学】
異なる生物種のゲノム情報を比較して進化的関係を解析する手法
【海綿動物】
最も原始的な多細胞動物の一群で、神経系や筋肉系を持たない
【刺胞動物】
クラゲやイソギンチャクなどを含む動物群で、原始的な神経ネットワークを持つ
【左右相称動物】
体の構造が左右対称の動物群で、集中化した神経系を発達させた
【シナプス】
神経細胞同士が接続する特殊な構造で、情報伝達の中継点
【神経伝達物質】
シナプスで情報伝達を担う化学物質群
【分子系統学】
分子レベルの情報を用いて生物の進化的関係を推定する学問分野