AIが揺るがす雇用中心社会――生産・分配・社会参加をどう組み直すか
- Seo Seungchul

- 2 日前
- 読了時間: 19分

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事:Adrian Johnston, "A coming age of leisure is a dangerous myth" (Institute of Art and Ideas, 2026年7月23日)
概要:AIと自動化が雇用を減らしても、それだけで真の余暇が増えるわけではないと論じた記事。デジタル企業は人々の自由時間から注意、コンテンツ、データを得ており、技術的失業は「働かなければ食べられない」という社会契約も揺るがすと警告する。
AIが人間の仕事を引き受ければ、私たちは長く働かずに暮らせるようになる。仕事が減ったぶんだけ余暇が増え、技術は人を苦役から解放する。ずいぶん古くからある期待だが、生成AIの普及によって、また現実味を帯びて語られるようになった。
エイドリアン・ジョンストンは、この期待を「危険な神話」と呼ぶ。彼が疑っているのは、AIの性能ではない。雇用が減った時間を、そのまま自由時間として数える考え方である。現代の余暇はすでに、仕事を組織するのと同じデジタル企業や利益の仕組みに深く入り込まれている。しかも、社会の多数は働くことで所得を得てきた。AIが仕事だけを減らせば、人は自由になる前に生活の手段を失う。
この批判は鋭い。しかし、デジタルサービスの利用を一括して無給労働と呼ぶだけでは、議論を先へ運びにくい。余暇の収益化と、雇用に依存した分配は関連しているが、同じ問題ではないからだ。
私の見立てでは、AIが最も深く揺るがすのは仕事の数ではない。近代社会が雇用に、生産と分配と社会参加をまとめて預けてきたことだ。生産から人間労働が部分的に外れるなら、所得と参加資格も雇用から外さなければ、制度のつじつまが合わなくなる。
その先で、ジョンストンの余暇論がもう一度効いてくる。生活が保障されても、自分の時間を自分で使えるとは限らない。AI時代の自由には、生存を雇用から切り離すことと、時間を他者の目的から取り戻すことの両方が要る。
スマートフォンの一日
ジョンストンの記事は、スマートフォンから始まる。AI研究所でも、無人の工場でもない。
朝、スマートフォンのアラームを止める。天気を見て、メールとメッセージを読み、予定を確認する。移動中にニュースを読み、道を調べ、音楽を聴く。買い物をし、健康状態を記録する。仕事の連絡にも、家族との相談にも、友人との会話にも同じ端末を使う。
仕事が終わると、動画を見て、ゲームで遊び、投稿に反応し、誰かと知り合う。寝る直前まで画面を見ていることも珍しくない。かつて職場を離れることは、仕事を支配する時間割や命令から離れることでもあった。いまは勤務と余暇が、同じ端末、同じアカウント、同じ通知欄に並ぶ。
スマートフォンが便利すぎる、という話ではない。問題は、AIが作業時間を短くしたとき、空いた時間がどこへ行くかである。企業が一日の仕事量を増やせば、その時間は新しい仕事で埋まる。仕事が増えなくても、私たちは同じ画面へ戻り、別の企業が並べた選択肢の中で時間を過ごす。
ジョンストンは、真の余暇は労働と利潤生産を形づくる力とは異なる力によって形づくられなければならない、と考える。これはかなり厳しい定義である。勤務していなければ余暇、という時計上の区別を退け、誰が時間の過ごし方を組織しているかを問うからだ。
推薦欄は、利用者が次に見るものを並べる。通知は、利用者がいつ戻るかに働きかける。ランキングや連続利用の記録は、やめる時点をずらす。自由時間は企業によって買い取られてはいないが、放置されてもいない。
余暇の量だけを数えても、自由は測れない。これが元記事の出発点である。
余暇の収益化
プラットフォームを利用しているとき、本人は消費者である。動画を見て、音楽を聴き、知人の投稿を読む。だが企業の側から見れば、その人は複数のものを生み出している。
投稿やコメントは、ほかの利用者を呼ぶ。閲覧時間は広告枠の価値になる。どの画像で手を止め、何を飛ばし、何を共有したかという記録は、推薦や広告の精度を上げる。生成AIでは、質問の書き直し、出力の選択、誤りの指摘、好みの表明が、製品を評価し改善するための材料になり得る。
ジョンストンはここに、無報酬の労働を見る。私たちは自分の楽しみや気晴らしだと思いながら、他者のために働いている。AIが賃金を伴う仕事を代替する一方で、職を失った人々の日常からは、注意、データ、コンテンツが引き続き生み出される。労働者としては余剰になっても、消費者、投稿者、学習データの提供者としては企業に必要とされる。
この非対称は、余暇社会という言葉の楽観を崩す。企業が人を雇わなくても利益を得られる範囲が広がるほど、「雇用がない時間」と「生産から自由な時間」は離れていくからである。
現在のデジタル企業による働きかけは細かい。何を表示するか、どの順で表示するか、いつ通知するか、どんな感情を刺激するかを利用者ごとに変えられる。昔から余暇には広告も娯楽産業もあったが、現在のプラットフォームは一人ひとりの反応を測り、次の働きかけを変える。
ただし、元記事の強い言葉は後で吟味する必要がある。企業に価値を渡していることと、搾取されていることは同義ではない。利用者が娯楽、情報、交流、創作の場を受け取っているなら、相互利益もある。論点は消えないが、境界は引き直した方がよい。
その作業に入る前に、元記事のもう一つの柱を確認しておきたい。所得である。
働かなければ食べられない
資本主義社会では、多くの人が雇用を通じて生活の手段を得る。働き、賃金を受け取り、その賃金で住居、食料、医療、教育を買う。資産所得、相続、社会保障などの別経路はあるが、大多数にとって標準の経路は仕事である。
AIとロボットが人間労働を大規模に代替すれば、この標準は維持しにくくなる。働く意思があっても需要がない人へ、「働かない者は食べられない」という規範を適用することはできる。だがそれは勤労の奨励ではない。生産に必要とされなくなった人へ、存在するための条件を満たせと命じることである。
技術は豊富な財を生産できる。人々は所得を失い、その財へアクセスできない。生産能力の上昇と生活の不安定化が同時に進む。この状況では、機械による苦役からの解放が、住居喪失や飢えの恐怖として人間へ返ってくる。
ジョンストンはここで、エンゲルスとローザ・ルクセンブルクに結びつけられる「社会主義か野蛮か」という分岐を持ち出す。雇用されなくなった多数を貧困と死へ追いやるのか。雇用の有無が、食べる資格を決めない社会契約を作るのか。技術的失業が現実になれば、後者を避けて通れないという判断である。
元記事の論旨は、次の二本に整理できる。
一つは、賃金労働が減っても、自由時間は企業の利益へ組み込まれたままだという余暇の問題。もう一つは、人間労働の需要が減れば、雇用を通じて生存を保障する社会契約が壊れるという分配の問題である。
二つはつながっている。しかし、前者を解決しても所得の問題は残る。公共的なSNSを作り、注意の収益化を弱めても、職を失った人の家賃は払えない。反対に、所得を無条件で保障しても、起きている時間の大半を依存的な画面の中で過ごせば、時間の自由は乏しい。
ここから先へ進むには、まず分配の側を細かく見る必要がある。「資本主義か社会主義か」という大きな二択の手前に、雇用へ集めすぎた役割を一つずつ外す仕事がある。
雇用の三つの仕事
近代の市場社会では、雇用が三つの仕事を担ってきた。
第一に、人間労働を集め、分業し、財やサービスを生産する。第二に、賃金を払い、社会的な生産物を購入する権利を配る。第三に、職業を通じて地位、承認、生活のリズム、他者との接点を与える。健康保険、年金、信用、住宅ローンまで雇用に結びつく社会では、三番目に制度上の資格も含まれる。
私たちは、仕事を生産手段として語りすぎる。失職した人が失うのは所得だけではない。朝起きる理由、定期的に会う人、自分の技能が必要とされる感覚、自分を紹介するときの言葉まで弱くなることがある。雇用は生活時間と社会参加をまとめる役割も引き受けてきた。
AIが最初に弱めるのは生産の機能である。少ない人間労働で多くを作れるなら、企業が必要とする労働時間は減る。ところが分配と社会参加を雇用に残したままにすれば、生産システムと社会制度の間にずれが生じる。
この議論に、全職業の消滅という予測は要らない。労働時間が短くなる。賃金が生産性ほど伸びない。短期契約や請負が増える。交渉力が落ちる。人間労働と生産能力の結びつきが少しずつ弱まるだけで、雇用を唯一の分配経路にする合理性は細っていく。
問題は、仕事のない社会が来るかどうかではない。
生産に必要な労働量が変わっても、所得、社会保険、信用、承認、参加資格を雇用だけで配り続けられるのか。問うべきなのはこちらである。
AIが雇用の生産機能を弱めるなら、ほかの二つも段階的に外す必要がある。生活保障を外す。医療と教育へのアクセスを外す。社会的な富への参加資格を外す。最後に、職業の有無を人間の価値の代理にする慣行を弱める。
仕事を否定する必要はない。仕事に背負わせた荷物を減らすのである。
ポスト雇用中心社会
AI時代の未来を「資本主義の次に何が来るか」と問うと、議論は一気に大きくなる。市場を残すのか、企業を国有化するのか、私有財産をどうするのか。どれも重要だが、最初の一歩を考えるには範囲が広すぎる。
市場も企業も私有財産も残したまま、雇用を社会の中心から外すことはできる。雇用契約がなくても基礎的な所得を得られる。職業に関係なく医療と教育へアクセスできる。短時間しか働かない人、時期によって働けない人、無償のケアを担う人が、社会保障と信用を失わない。こうした変更は、資本主義の全面廃止を待たずに始められる。
「ポストワーク社会」という言葉は、この方向を表すためによく使われる。ただ、誰も働かない未来を連想させやすい。必要なのは仕事の消滅ではない。働くことを選ぶ自由を残しながら、働いていないと社会の一員として生きられない状態を終わらせることだ。
ポスト雇用中心社会という呼び方なら、変える対象が明確になる。雇用を社会参加の唯一の入口にしている、その中心性を外す。
この移行には順序がある。所得保障や基礎サービスは比較的制度にしやすい。社会参加は難しい。職場が担ってきた人間関係や承認を政府給付で代替することはできないからだ。
だから、雇用から外すとは、すべてを国家へ集めることではない。地域、協同組合、専門職団体、学校、文化活動、ケアの集まりなど、複数の場所で人が役割を持てるようにする。所得の入口と参加の入口を分けることで、職を失うことが同時にすべてを失う出来事になるのを防ぐ。
ここで一つ、古い規範が抵抗する。働いていない人へ、なぜ所得を渡すのか。
この問いに「かわいそうだから」と答え続ける限り、ポスト雇用中心社会は不安定である。権利の根拠を、救済の外に置かなければならない。
富への持分
AIで仕事が減るなら、ベーシックインカムを導入すればよい。議論はしばしば、ここへ直行する。だが、給付額や財源の前に、受け取る理由を考える必要がある。
富がまず企業と資本所有者へ集中し、国家が税として一部を取り戻し、職を失った人へ給付する。この順序では、受給者は「他人が稼いだお金で暮らす人」と見なされやすい。高い利益を上げた企業や納税者が、自分たちの成果をなぜ働かない人へ渡すのかと問えば、給付は恒常的な政治闘争になる。
AIが生み出す富は、一部の企業だけが生み出したのだろうか。
現在のAIは、公的資金で支えられた研究、大学で蓄積された知識、インターネットと通信網、何世代もの著作物、利用者が生み出したデータ、法制度が保障する市場の上に成立している。企業は大きな投資を行い、技術上と事業上の危険を負っている。その寄与は無視できない。それでも、社会全体の寄与をゼロとする理由もない。
そこで社会配当という発想が出てくる。共有された生産基盤に持分があるから受け取る。困窮の度合いは条件にしない。収益が生まれる前に社会的な権利を設定する考え方である。
市民の位置づけは、受給者から共同所有者へ移る。
この違いは言い換えでは済まない。共同所有者なら、利益への請求権だけでなく、資産の使い方と危険の取り方について声を持つ。社会配当は現金を配る技術であると同時に、誰が生産基盤の正当な所有者なのかを定める制度になる。
実装の形は一つではない。公的研究への助成と引き換えに株式や収益の一部を公共基金へ戻す。社会が保有する計算資源やデータの利用料を基金へ入れる。公共の持株会社や政府系ファンドがAI関連資産を持つ。どの方法を選ぶにせよ、「社会が貢献した」という大きな言葉だけでは足りない。何を共有資産とし、どの収益に、どの割合で権利を設定するかを決めなければならない。
さらに、誰が社会の構成員なのかという難問がある。国民だけか。永住者や移民は含むのか。世界中の著作物と利用者データを使うAIから得た配当を、企業の本拠地がある国だけで分けてよいのか。
社会配当は正解の名前ではない。分配の問いを、救済から所有へ移すための出発点である。
貢献の値札
社会配当に対する反発は予想しやすい。社会に貢献していない人まで受け取るのは不公平だ、という反発である。
この言い方では、雇用されて賃金を得ることが、社会貢献の証明になっている。だが市場賃金は、社会的な価値を測る物差しとしては雑である。
子育て、介護、地域活動、家族や友人への支援には値段がつかないことが多い。オープンソースの開発やオンライン百科事典の編集、地域の文化活動も、市場所得にならない場合がある。社会はそこから利益を受けている。反対に、高賃金の仕事が常に大きな社会的価値を生むとも限らない。
それでも雇用は便利な代理指標だった。職業が分かれば、何をしている人かをおおよそ説明できた。毎月の賃金があれば、分配の額も決められた。社会保険料を集め、給付資格を記録する入口にもなった。正確ではないが、運用しやすい。
AIが人間労働と生産の結びつきを弱めると、この便法は苦しくなる。少数の人と大量の機械で必要な財を作れる社会において、「生産に雇用された者だけが成果を受け取るべきだ」という原理は、生産能力そのものと衝突する。
では、無償のケアや地域活動を測り、点数にして配当額へ反映すればよいのか。
私は反対である。市場が測らなかった活動を国家が細かく採点し始めれば、管理は以前より深く生活へ入る。介護した時間、友人を支えた回数、文化活動への参加、ネット上の貢献を記録し、善良な市民の点数を作る。そんな制度は、雇用による規律を生活全体の規律へ広げる。
生存の権利と、貢献への承認は分けた方がよい。基礎的な所得とサービスは、構成員であることに基づいて保障する。個々の貢献は、地域、専門職、文化的な集まり、人間関係の中で多様に評価する。中央の一枚の点数表へ集めない。
人は所得のためだけに子を育て、友人を助け、ソフトウェアを書き、歌うわけではない。生活保障を無条件に近づけることは、貢献を不要と宣言することではない。貢献の証明を、生存の条件にしないという判断である。
二つの自由
ここで余暇へ戻る。
雇用から生活保障を外し、社会配当によって基礎的な所得を得られるようになったとする。必要労働も短くなった。これでジョンストンが批判した余暇の神話は、現実になるだろうか。
まだ足りない。
人は経済的に仕事から離れられても、得られた時間を自律的に使えるとは限らない。SNS、動画サービス、オンラインゲーム、買い物、生成AI、ファンダムの中で、人は楽しみ、交流し、創作する。同時に、注意、データ、コンテンツを企業へ渡す。所得保障が公費から出て、自由時間から生まれる利益を少数のプラットフォームが得るなら、国家が生活費を負担し、企業が余暇を収益化する分業さえ成立する。
ジョンストンの警告はここで効く。労働からの解放と、時間への支配からの解放は同じではない。
ただし、デジタルサービスを利用する時間をすべて無給労働や搾取と呼ぶのは広すぎる。利用者は娯楽、知識、友情、創作の道具を受け取っている。企業と利用者がともに価値を得る交換はあり得る。企業が利益を得たという事実だけで、利用者の楽しさを偽物にすることはできない。
資本の内側と外側という二分法も役に立ちにくい。本を読めば出版社があり、旅行には鉄道やホテルがあり、カフェで話すにも代金を払う。市場と接触しない時間だけを自由と呼べば、現代の生活から自由はほとんど消える。
見るべきなのは、その時間の目的を誰が決めているかである。
同じ推し活でも、作品について友人と語り、自分なりの解釈を作る時間と、ランキングを上げる義務感から同じ曲を何時間も再生する時間は違う。同じ動画サービスでも、自分で選んだ映画を見ることと、自動再生のまま夜を使い切ることでは、自律性の程度が違う。
AI時代の自由には二段階がある。
第一は経済的自由である。生きるために、望まない労働を売り続けなくてもよい。所得、医療、教育、住居への基礎的なアクセスを雇用から外す。
第二は時間的自由である。そこで得た時間を、自分が価値を置くことのために使える。通知、推薦、ランキング、職場からの常時接続に働きかけられても、別の選択肢へ移れる。
第一がなければ、第二は難しい。家賃を払えない人に、画面を閉じてゆっくり散歩すればよいとは言えない。しかし第一を実現しても、第二は自動的には生まれない。所得保障は自由の入口であり、完成ではない。
時間の自己統治
時間的自由を、市場から完全に離れた状態として定義する必要はない。自分の時間と注意をどの程度自分で統治できるか。その度合いとして考えた方がよい。
自律性が高い時間には、いくつかの条件がある。自分で目的を決められる。始めるだけでなく中断できる。別のサービスや非商業的な活動へ移れる。推薦の仕方を変えられる。自分が生んだデータの二次利用について拒否や削除を求められる。
反対に、退出の費用が高いほど自律性は下がる。友人が一つのSNSに集まっている。職場や学校が特定のサービスを前提にする。購入した作品や作った記録を別の場所へ移せない。アルゴリズムが利用者の弱い時間帯を学び、通知を重ねる。形式上はいつでもやめられても、生活上はやめにくい。
これは個人の意志だけで解決できない。利用者を長く留めるために企業が画面と報酬を調整しているなら、閉じられなかった人だけを責めるのは筋が悪い。推薦を選べる権利、データを持ち出す権利、既定設定への規制、子どもへの広告制限、公共的な文化空間が要る。
だからといって、個人の選択を消してしまうべきでもない。同じ環境で、自分で映画を選ぶ人も、通知を切る人も、散歩へ出る人もいる。社会の仕組みは選択肢と選択の費用を決める。個人はその条件の中で選ぶ。両方とも事実である。
制度の役割は、正しい余暇を国が決めることではない。個人が自分の目的を持ち、やめ、迷い、別の過ごし方へ移る余地を守ることだ。非生産的に過ごす権利もそこに含まれる。すべての時間を成果、成長、健康、人気、データへ変換しなくてよい。
余暇はAIが仕事の後に残してくれる時間ではない。経済的な強制を弱め、注意への働きかけを制限し、本人が選び直せる条件を作ったとき、同じ一時間が余暇になる。
AI時代の市民権
議論は市民権へ行き着く。
近代社会では、社会的な富へのアクセス権の多くが「労働者であること」を通じて与えられてきた。働き、賃金を得て、生産物を買う。社会保険料を払い、病気や老後の給付を受ける。職業を持つことで信用と身分を得る。
AIが人間労働と社会的生産の結びつきを弱めるなら、アクセス権の根拠を移す必要がある。労働者であることから、社会の構成員であることへ。
これは福祉国家の単純な拡大とは少し違う。福祉国家では、市場で所得を得ることが標準であり、そこから外れた人を国家が補完する。AI時代の社会契約では、社会配当や基礎サービスを、市場から脱落した人への救済ではなく、構成員が最初から持つ権利として置く。
雇われた労働者である前に、社会的な持分を持つ構成員であること。そう言えば短い。ただし大切なのは看板ではない。人間は雇用主に選ばれる前から、過去の知識、公共制度、社会的な資産を共同で受け継いでいる。その持分に基づいて生産物へアクセスし、資産の使い方へ意見を持つ。そういう制度を作れるかどうかである。
難問は残る。誰を構成員と認めるのか。国民、永住者、移民、難民をどう扱うのか。国境を越えて価値を生むAIに、国家単位の配当で対応できるのか。どの知識やデータを共有資産と認め、企業の投資と両立させるのか。配当を受ける権利と、統治へ参加する権利をどこまで結びつけるのか。
それでも、問いの立て方は変えられる。
AIが何人の仕事を奪うか。その予測だけを争っていると、雇用が少しずつ弱まる過程で制度を変える機会を逃す。見るべきなのは、人間労働と生産能力の結びつきが変わったとき、分配、社会参加、承認を何に結び直すかである。
二十世紀は、資本主義か社会主義かを問うた。ジョンストンは、その言葉をAI時代へ呼び戻した。彼の警告を受け取りながら、二択の手前で行うべき仕事がある。雇用が束ねてきた三つの役割を分けること。社会的な富への持分を救済より前に置くこと。生存の権利と貢献の審査を切り離すこと。そして、得られた時間を自分で統治できる条件を作ることだ。
AIが仕事を減らすだけでは、余暇の時代は来ない。
生産することと生きる権利を切り離し、人間を労働者である前に社会の共同所有者として扱う。そのうえで、誰にも成果を求められない時間を守る。技術が作るのは、その可能性までである。
残りは政治の仕事だ。
ポイント整理
二つの危機
AIが賃金労働を減らしても、余暇はプラットフォーム企業によって収益化され続ける。同時に、雇用と生存を結びつけた社会契約が維持しにくくなる。
雇用の三機能
雇用は生産を組織し、賃金によって富へのアクセス権を配り、職業を通じて承認と社会参加を与えてきた。AIが生産機能を弱めるなら、残る機能も雇用から段階的に外す必要がある。
救済から持分への移行
社会配当は、職を失った人への事後的な救済ではない。公的研究、知識、制度、データなどの共有された生産基盤に対し、構成員が当初から持つ権利として正当化される。
経済的自由と時間的自由
生活のために望まない労働を売らなくてもよいことと、得た時間を自分の目的へ使えることは別である。所得保障と、注意やデータを自己統治できる環境の両方が必要になる。
構成員としての市民権
社会的な富へのアクセスを、労働者であることから社会の構成員であることへ移す。所得だけでなく、共有資産の使い方を決める参加権まで含めて考える必要がある。
キーワード解説
【雇用中心社会】
所得、社会保険、信用、社会的地位、日々の人間関係など、生活上の主要な資格を雇用へ強く結びつけた社会を指す。企業や市場が存在することより、社会参加の入口が職業に集中していることに焦点を置く言葉である。
【社会配当】
自然資源、公的投資、知識、データ、社会制度など、共同で受け継いだ資産から生じる収益を構成員へ配る考え方。困窮への救済ではなく、共有資産への持分を根拠とする点で、事後的な再分配とは正当化の順序が異なる。
【注意経済】
人が何を見るか、どれほど長く留まるかという注意を集め、広告や購買などの収益へ変える事業の仕組みである。通知、推薦、自動再生などは、利用者の注意を継続的に得るために使われる。
【時間の自己統治】
自分の時間の目的を選び、活動を中断し、別の選択肢へ移り、そこで生じるデータの扱いにも一定の発言権を持てる状態を指す。商業サービスを利用しているかどうかではなく、選び直せる条件に注目する。
【社会的請求権】
社会が生み出した財、サービス、所得の一部へアクセスする正当な権利である。賃金は労働者に請求権を配る代表的な方法だが、社会配当や基礎サービスは、構成員であることを別の根拠として用いる。