top of page

SpaceXと準主権的企業――資本調達の社会化と統治権の私有化

シリーズ: 知新察来


◆今回のピックアップ記事:Tim O’Reilly, "Elon Musk is building a form of capitalism that Adam Smith would hate" (The Economist, 2026年7月12日)

  • 概要:SpaceXの上場時に採用された創業者支配の仕組みを手掛かりに、市場が商人の情念を穏健にするという近代の期待が反転したと論じる寄稿。企業統治で異議申立てや交代の回路を外すことは、その企業が開発するAIの統治にも影響すると警告する。



損失も引き受ける。ところが、会社を誰が動かし、経営者を誰が交代させられるかという話になると、彼らの声は急に小さくなる。

出資と統治がきれいに切り離されている。


ティム・オライリーは、この切断をイーロン・マスクという特異な企業家の趣味で片づけない。近代社会は長いあいだ、商業上の利益が政治的な情念を抑えることに期待してきた。商人は取引の継続を望み、信用を必要とし、気まぐれな破壊を避ける。その期待が反転し、商業的成功が君主のような裁量を得る手段になったと彼は考える。


しかし、マスクを「新しい王」と呼ぶだけでは足りない。問うべきなのは、なぜ国家が法的権限を持ったまま企業への依存を深め、なぜ市民が影響を受けながら統治の当事者になれないのかという点である。私の見立てでは、企業権力の大きさが不可欠性へ変わり、政府や社会がその力へ条件を付ける費用を押し上げる循環こそが問題である。


マスクを信頼できるかどうかは、あまり良い問いではない。優秀な人物も間違えるし、年を取り、後継者を選ぶ。必要なのは人格鑑定ではなく、間違いを見つけ、異議を述べ、必要なら方向を変えられる関係である。




薄い議決権


オライリーが見るのは、SpaceXの将来価値をめぐるマスクの大言壮語ではない。会社の支配権がどう配られたかである。


記事によれば、SpaceXは2026年6月、一般投資家へ株式を売り出した。マスクは複数議決権株式を通じて約85%の議決権を維持し、その権利は信託を通じて相続人へ渡せる。普通株の購入者は陪審裁判を受ける権利と集団訴訟を起こす権利を放棄する。会社は「支配会社」として、取締役会の過半数を独立取締役にする取引所規則の適用を免れる。マスクを解任するには、本人が支配する種類株式の同意が要る。


これらの条件を一つずつ見れば、上場企業の世界でまったく未知というわけではない。複数議決権株式は、創業者を短期的な株価圧力から守るために使われてきた。長い研究開発期間と多額の先行投資を必要とする宇宙事業では、四半期ごとに成果を迫る株主が最善の監督者だとも限らない。


組み合わせると、別の姿になる。外部の投資家は経済的な危険を負い、成長に必要な資金を供給する。その一方で、経営者の選任、取締役会の構成、司法的な責任追及に使える力は弱い。資金は広い範囲から集め、統治権は狭い場所へ留める。ここでいう「資本調達の社会化」とは、公的所有を意味しない。多数の投資家が資金を出し、危険を分担する状態を指す。


テスラの巨額報酬についても、オライリーは金額そのものより議決権を重く見る。彼は、火星、ロボット、AIと続く計画を、他人の承認なしに実行できる地位を求めている。


投資家は条件を読んだうえで株を買える。この反論は正しい。彼らは成長への参加と引き換えに弱い議決権を受け入れた。資本市場は創業者支配の共同制作者でもある。


問題は、契約が成立した後に残る。投資家の同意は、衛星通信、政府契約、軍事技術、情報空間、AIの影響を受ける人々の同意まで代行しない。



穏和な商業


オライリーは企業統治の話から、近代政治思想へさかのぼる。市場が効率的かどうかを論じる以前に、商業には権力者の情念を穏やかにするという期待があった。


アルバート・ハーシュマンは『情念の政治経済学』で、この忘れられた系譜を再構成した。モンテスキューが語った「穏和な商業(le doux commerce)」では、取引を続けたい商人は信用を守り、相手との関係を壊す行動を避ける。ジェームズ・ステュアートは、複雑な経済が君主を縛ると考えた。支配者が商業の網を気まぐれに切れば、税収と国力を自分で損なうからである。


ケインズはこの選択を、他人に専制的に振る舞うより銀行残高に執着する方がましだという趣旨で表現した。金銭欲を道徳的に称賛したのではない。権力欲、征服欲、宗教的熱情と比べれば、計算可能で相互依存に縛られやすいと見たのである。


この説明には一定の説得力があった。政府が無理な政策を続ければ債券市場が金利を上げる。企業経営者が業績を損ねれば資金調達は難しくなり、取締役会や株主から交代を求められる。市場は権力者の外側にあり、資金への依存を通じて行動を抑える。少なくとも、そう理解されてきた。


SpaceXで起きた反転は単純である。投資家が創業者を代替不能だと評価するほど、創業者の交渉力が強くなる。議決権が弱くても、訴訟の道が狭くても、解任が難しくても投資したい人が集まる。市場は制約を課す側から、制約の弱い条件で資金を提供する側へ回る。


王子を檻に入れるはずだった市場が、王子を外へ出すレバーになった。オライリーの文章で最も強いのは、この反転である。


もっとも、アダム・スミスを素朴な市場楽観主義者として置くのは正確ではない。スミスは商人の利益が公益と自然に一致するとは考えず、商人が政策を自分たちに有利な方向へ曲げる危険を警戒していた。現代の事態はスミスが想像できなかった異物というより、彼がすでに疑っていた商人の政治力が、公開市場と基盤技術によって増幅されたものと読む方がよい。


商人と君主が結びついた例も歴史上は珍しくない。植民地会社、鉄道王、石油資本、メディア王を思い出せばよい。現代の新しさは、世界規模で資金を集めながら議決権を個人へ集め、宇宙、通信、防衛、AI、政治的な発信力を同じ企業家の周囲へ重ねられることにある。



会社と機械


原論考の後半で、オライリーは企業を一種の人工知能として扱う。ここは魅力的だが、少し慎重に読んだ方がよい。


企業は、多数の人間、規則、情報システム、資本、評価指標を組み合わせ、一人の能力を超える規模で目的を追う。複雑な現実を売上、利益、株価、市場占有率、生産性などの少数の数値へ圧縮し、それに沿って人と資源を動かす。この意味では企業、官僚制、市場、AIを、大規模な目的追求システムとして比較できる。


独立取締役、株主投票、裁判所、情報開示、規制当局、世論は、企業が目的を追いすぎたときに修正を促す回路である。経営者が善人だから会社が社会と折り合うのではない。情報を外へ出し、異議を受け、責任を問われ、場合によっては交代させられるから、間違いを直せる。


オライリーは、マスクがこれらの回路を一つずつ外す時期と、xAIで強力なAIを作る時期が重なっていることを問題にする。AIの安全を約束する人が、自分の会社では三百年かけて作られた異議申立ての仕組みを弱めている。会社の作り方は、機械の作り方の予告編だという。


比喩だけで因果関係を済ませてはいけない。集権的な会社が必ず危険なAIを作るわけではないし、企業には内部対立、専門職倫理、法的責任がある。AIモデルと会社は同じ物ではない。


それでも会社の権力関係は、誰がモデルの目的を決めるか、安全部門が経営者へ異議を述べられるか、外部の研究者が運用を検証できるか、事故の際に誰が停止を命じるかを左右する。企業統治からAIの性格へ至る道は、この具体的な権限を通る。そこを確かめて初めて、オライリーの類推は仮説から分析へ進む。


原論考は最後に、近代の実験を逆向きに行う危険を述べる。何世紀もかけて権力へ部分的な制約を加えてきた社会が、巨大な資源を一人へ集め、その人のビジョンに賭けている。その賭けが成功する可能性を彼は否定しない。ただ、歴史は外部の修正を受けない権力へ楽観的ではない。



二つの説明責任


以上がオライリーの論考だが、彼は、独立取締役、株主投票、司法、規制、世論をまとめて修正の回路と呼ぶ。説明としては分かりやすい。制度としては分けた方がよい。


取締役会や株主投票は、会社と出資者の関係を主に扱う。経営者が会社の利益を害していないか、資本をどう使ったか、誰が経営を担うかを問う。規制当局や裁判所は、労働者、利用者、競争相手、地域社会、安全保障など、会社の外にいる人への影響も扱う。目的と正統性が違う。


仮にSpaceXの普通株主が十分な議決権を持っても、衛星通信の運用や軍事技術の利用について民主的な説明責任が成立するわけではない。株主は市民全体を代表しない。株主の統制が弱い問題と、社会が企業の力へ条件を付けられない問題は、つながっているが同一ではない。


この区別を置くと、投資家の自発的同意をめぐる混乱も解ける。投資家は弱い議決権を受け入れられる。その契約は、影響を受ける第三者を拘束しない。企業が普通の商品を売る範囲なら、外部への影響は既存の規制で扱えるかもしれない。通信、決済、移動、情報、軍事の条件を決めるようになれば、会社内部の契約だけでは足りない。


私は、ここに私企業が公共的な統治対象へ変わる境界があると思う。民間所有であることは、政府が日々の経営へ介入する理由にならない。しかし所有権は、企業の判断が他人の行動条件を決める事実まで消してくれない。


市場での成功も政治的な正統性を与えない。ロケットを飛ばせる能力と、社会が受け入れる危険を決める資格は別である。この二つを結びつけると、技術者として優れた人へ、いつの間にか市民を代表する権限まで渡してしまう。



不可欠性の循環


マスク個人に話を戻すと、問題は簡単になる。野心的な人物が権力を集めた。では、その人物を替えればよい。実際はそうならない。


巨大技術企業の力は、創業者の性格だけでは作れない。宇宙、AI、半導体、通信、防衛のような分野には、多額の固定投資、研究成果の蓄積、高度人材の集中、政府契約の実績、ネットワーク効果がある。先に大きくなった企業は、その大きさを使って次の資金と人材を集める。


国家もこの集中に加わる。政府が高度技術をすべて内部に持つのは高くつく。民間企業の方が開発は速く、専門家を集めやすい。外部委託は悪い判断ではない。むしろ一件ずつ見れば合理的である。


問題は累積することだ。


委託が続けば、公共部門から技術を評価する人が減る。政府は独自に運用できず、代替業者を育てられず、企業が提示する費用や危険を検証しにくくなる。法的な規制権限を持っていても、その企業が協力を止めれば政策自体が動かない。国家は主権者でありながら、依存する顧客になる。


依存は次の依存を呼ぶ。政府が仕事を委ねる。企業に資金と人材が集まる。公共部門の代替能力が落ちる。企業を厳しく制約した場合の費用が上がる。政府は慎重になる。その慎重さが企業の不可欠性をさらに高める。


「企業が国家を打ち負かした」という表現は派手だが、雑である。国家には課税、司法、許認可、調達の権限が残る。失われつつあるのは主権そのものより、主権を使うための情報、専門知識、代替手段、政治的な連合、費用を負担する余力である。


この違いは大きい。主権が消滅したなら、できることはほとんどない。行使条件が悪くなったのなら、知識と代替能力を作り直せる。時間はかかるが、政治の仕事として扱える。



規制者と顧客


国家を一人の意思決定者のように語ると、もう一つ見落とす。政府の内部では、同じ企業に対する目的が割れている。


規制当局は市場支配や安全上の危険を抑えたい。産業政策を担う部門は企業の成長を支えたい。軍事部門は最先端の能力を使いたい。地方政府は雇用と投資を守りたい。司法は違法行為を裁く。議会は有権者と業界の要求を受ける。「国家に統治意志がない」という一文では、この衝突を説明できない。


地政学的な競争が、衝突をさらに難しくする。AI、宇宙、通信、防衛の企業は、国内の規制対象であると同時に国家間競争の資産でもある。自国企業を厳しく扱えば、競争相手を利するという反論が出る。国家は企業を抑える前に守ろうとする。


市民社会も一枚岩ではない。ある人は労働者として雇用を守りたい。利用者としては安いサービスが欲しい。投資家として株価上昇を望む。同じ人が、異なる立場を同時に持つ。規制で企業の成長が鈍れば、将来の危険を減らす利益と、現在の仕事を失う費用が衝突する。


加えて、企業を批判する活動そのものが民間の情報基盤に依存している。報道、政治的発信、寄付、社会運動、専門家の交流は、検索サービスやSNSの表示順位、利用規約、アカウント管理に左右される。世論が企業を制約するという期待は、世論が動く場所を企業が所有すると不安定になる。


ここで必要なのは「社会の覚醒」といった大きな言葉ではない。どの部門とどの人々が、どの企業行動を統治対象にし、その費用を負担するか。統治の主体は、利害の異なる人々が作る政治的な連合として考えなければならない。



統治意志の実体


オライリーの記事には、具体的な制度案がほとんどない。この点を弱点と見る評価は分かる。私は、警告文へすぐ政策一覧を要求する必要はないと思っている。


制度は、何かを問題として扱う人がいなければ作られない。企業内部の判断だと考えられていた事柄を、公共的な権力の行使として言い直す。その企業を統治する資格が社会にあると確認する。技術的な成功と政治的な正統性を切り離す。警告的な論説は、この最初の仕事を担える。


ただし、認識しただけでは人は動かない。統治意志には現実の支えが要る。影響を受ける人が危険を共通の言葉で説明できること。組織を作れること。企業が協力を拒んでも使える代替策があること。統治の費用を負担する人々が集まること。そして、小さくても成功する見込みがあることだ。


意志と能力は循環する。問題を見える形にすると人が集まる。人が集まれば知識と資金を持ち寄れる。小さな代替手段や拒否能力ができると、企業へ条件を付けても社会が壊れないという期待が生まれる。その期待が制度を可能にする。


逆もある。依存している企業へ異議を述べれば、必要なサービスを止められるかもしれない。代替できる技術者も設備もない。その状況で政治家や行政官に勇気だけを要求しても、まず動かない。統治意志の弱さは道徳的な怠慢というより、長年の能力喪失が人に学習させた慎重さである。


オライリーが明示したのは、説明責任のない巨大権力への警告だ。その文章が統治意志を再形成するという評価は、こちら側の解釈である。著者の主張と文章の政治的な働きを分けておけば、読み込みすぎを避けながら、警告の価値を正当に扱える。



私的主権の境界


すべての大企業を、同じ強さで公共的に統治する必要はない。企業活動は何らかの形で社会へ影響する。影響があるという理由だけで経営判断を政治へ移せば、政府の裁量を際限なく広げる。


境界を置く基準が要る。


第一の基準は不可欠性である。サービスが止まったとき、広い範囲で生活や行政が動かなくなるか。第二は代替不能性である。短期間で別の供給者へ移れるか。この二つが重なると、企業は契約相手を超えて人々の行動条件を決める。


公的資源への依存も見なければならない。政府契約、補助金、公的研究、教育された人材、法制度、公共インフラによって成長した企業は、自らの成功を完全な私的成果として扱えない。第三者への影響、通信や情報への支配、選挙、言論、軍事、外交との関係も統治の強度を上げる理由になる。


基準を実務へ移すには、依存関係を測らなければならない。どの行政サービスが特定企業の技術を使い、契約終了から代替稼働まで何か月かかり、停止時に誰が影響を受けるのか。政府内部に仕様を読める人が何人いて、データを別の事業者へ移せるのか。こうした記録がなければ、不可欠性は印象論のまま残る。規制の強さを企業への好悪で決めないためにも、依存の範囲と切り替えの費用を公開する必要がある。


これらの条件が重なった企業を、準主権的な権力と呼ぶことができる。法的には国家ではない。徴税権、刑罰権、領土支配を持つわけでもない。それでも、誰が接続でき、何が見え、どのサービスを利用できるかを決めることで、他者の選択肢を狭められる。


「私的主権」という語は便利だが、酔いやすい。企業を国家と同一視すれば、企業固有の契約関係と国家固有の強制力の違いを失う。ここでは、私企業が社会の行動条件を決める機能を持ち、その決定を外部から修正しにくい状態を指す限定的な言葉として使いたい。


創業者支配も同じように分ける必要がある。長期の研究開発を守る裁量と、無期限で相続可能な支配は別である。複数議決権の期限、相続時の失効、独立取締役の要件、関連当事者取引の承認、公共契約に連動した情報開示と監督は、その境界を制度に移す手段になり得る。



統治する者


私的権力を公共的な統治へつなげれば、それで安心できるわけではない。国家も間違える。秘密主義へ傾き、安全保障を理由に監視を広げ、企業と癒着し、少数者の権利を傷つける。市民社会も、排外主義や陰謀論から自由ではない。


企業の権限を政府へ移すだけでは、王子の席を入れ替えることになる。


必要なのは、統治する側にも公開性、法的制約、異議申立て、権力分立、司法的な救済を求めることだ。企業に説明責任を求める制度が、政府の無制限な介入権になってはいけない。誰が、どの権限で、何を目的に介入し、その決定へ誰が異議を述べられるのかを明らかにする。


統治の目標も完全支配ではない。政府が企業のすべての判断を代行する必要はないし、できない。最低限残したいのは、情報を要求する力、契約へ条件を付ける力、異議を受け止める仕組み、代替供給者を育てる能力、協力拒否に耐える余力、許容できない行為を止める手段である。


その接点として、公的調達はもっと重く見てよい。政府が重要な顧客なら、契約時に事故報告、外部監査、事業継続、データの移行、利益相反の開示を求められる。規制法を新設するより対象を限定しやすく、公共資金を渡す条件として説明もしやすい。契約を厳しくしすぎれば応札する企業が減るという問題は残る。それでも、代替不能性を放置したまま次の契約を結ぶよりはましである。


大学や公共研究機関への投資も、遠回りに見えて効く。政府が企業の説明を検証できない理由の一つは、同じ技術を理解する人材が公共部門にいないことだ。数年で完成する規制案だけを探すと、この能力は育たない。法文に加えて、企業に「それは技術的に不可能だ」と言われたとき、本当に不可能かを確かめられる人が要る。


巨大企業は自己完結していない。公的研究、教育された人材、政府契約、法的承認、公共インフラ、顧客、従業員、取引先、社会的な信頼に依存する。権力は一人へ集中して見えても、実行能力は多くの協力者に支えられている。


問題は、必ずしも社会に力がないということではない。政府の調達権、行政機関の権限、技術者の知識、労働者の専門能力、利用者の参加、投資家の資金、研究者の検証能力は、別々の場所にある。統治意志とは、それらを企業への敵意で束ねることではない。社会に不可欠な仕事を企業へ任せながら、その企業なしでは何も決められない状態を拒む政治的な判断である。



条件を付ける側


オライリーの警告を、マスクという人物の危険性へ閉じ込めると安心できる。例外的な人が例外的な権力を持った。彼が去れば問題も去る。だが、現在の権力は個人の野心に加え、市場、国家、技術産業の条件から作られた。


市場は成長期待を議決権より高く評価した。国家は速度と専門性を求めて能力を外へ出した。地政学的な競争は重要企業を保護した。市民は企業の情報基盤で企業を批判するようになった。その結果、企業は不可欠になり、企業へ条件を付ける費用が上がった。マスクはこの組み合わせが極端な形で現れた例である。


だから個人を替えるだけでは足りない。同じ条件を残せば、別の人物と別の会社が似た地位を得る。逆に、社会が情報と代替能力を持ち、創業者の裁量へ期限を置き、公共資源の提供に条件を付け、異議申立ての道を残せば、企業の創造力を使いながら私的な支配を抑えられる。


市場か国家かという二択でもない。市場は資源を集める。企業は技術を作る。国家は法と調達を使う。市民社会は危険を可視化し、異議を組織する。どれか一つへ全権を渡すのではなく、それぞれが他を止め、修正できる関係を保つ。


マスクを信頼できるか。答えは人によって違うだろう。私は、その答えに社会の基盤を預けたくない。


最後に問うべきなのは、社会がなお自らを統治する側だと認識できるかである。私的に所有された社会的権力へ、情報を出せ、異議を聞け、期限を設けよ、必要なら交代せよ、と条件を付けられるか。市場が王子を檻から出した後も、鍵を作る力まで失ったわけではない。



 

ポイント整理


  • 資本と統治権の非対称

    • 一般投資家が経済的な危険を分担する一方、創業者は強い議決権と解任への防御を維持する。

    • 資本市場は創業者支配の被害者にとどまらず、成長期待を優先することで支配を共同で作る。

  • 説明責任の二層

    • 株主投票と取締役会は会社と出資者の関係を主に扱う。

    • 社会的な基盤を担う企業には、契約に参加していない市民や政府への説明責任も生じる。

  • 不可欠性と統治費用

    • 政府による技術能力の外部化は、短期には合理的でも、評価力と代替能力を弱める。

    • 企業が不可欠になるほど制約を課す費用が上がり、慎重な規制が企業への依存をさらに深める。

  • 意志を支える能力

    • 統治意志は道徳的な勇気だけから生まれない。

    • 共通の言葉、政治的な連合、専門知識、代替手段、小さな成功経験が、条件を付けられるという期待を作る。

  • 相互に統治される権力

    • 私的権力を制約する公的権力にも、公開性、異議申立て、司法的救済が要る。

    • 目標は企業の全面支配ではなく、企業にも政府にも拒否不能な権力を持たせないことにある。



キーワード解説


【穏和な商業】

モンテスキューに結びつけられる考えで、継続的な取引と信用への依存が人々の行動を穏健にするという期待を指す。オライリーは、商業的成功が政治的情念を抑えるのではなく、その実現手段になったと論じる。


【複数議決権株式】

一株当たりの議決権が異なる複数の種類株式を発行する仕組み。創業者は経済的持分を薄めながら支配権を保てるため、長期経営に役立つ一方、経営者の固定化を招きやすい。


【支配会社】

特定の個人や企業、集団が取締役選任などに必要な議決権の過半を持つ上場会社。取引所の規則によっては、取締役会や委員会の独立性に関する一部要件の適用を免れ得る。


【国家能力】

政府が法的権限を持つことだけでなく、必要な情報を集め、技術を評価し、政策を実行し、代替手段を維持する実務上の力を指す。企業への依存が深まると、権限が残っていても行使が難しくなる。


【準主権的権力】

国家ではない私的主体が、通信、情報、決済、移動などを通じて他者の行動条件を事実上決める状態を表す分析上の言葉。国家の徴税権や刑罰権と同一視せず、不可欠性、代替不能性、政治的影響力が重なる場面に限って用いる必要がある。



本稿を素材として対話形式で再構成した記事も、近日中にnoteに掲載予定です。
ご関心を持っていただけましたら、note上でご感想などお聞かせいただけると幸いです。
bottom of page