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「ひとつ」であることの条件──生命が支払った代償と、社会が支払えない代償

5 日前
読了時間: 18分

シリーズ: 知新察来


◆今回のピックアップ記事:Addy Pross, "Is Life Itself a State of Matter?" (The MIT Press Reader, 2026年9月10日)


  • 概要:生物も非生物も同じ原子からできているのに、両者の振る舞いはまるで違う。この断絶を埋めるために、生命を特別な材料ではなく、構成要素が絶えず入れ替わりながら維持される「動的な速度論的状態」として捉え直すことを提案する論考。著者の新著からの抜粋。



人間の身体を構成する物質は、時間とともにかなり入れ替わっていく。それでも、昨日の自分と今日の自分を別人だとは考えない。


これはテセウスの船の問いに似ている。板を一枚ずつ交換し、最後にすべての部品が入れ替わった船を、なお同じ船と呼べるのか。だが生命は、この古い問いより少し奇妙である。船の場合、板を交換するのは外にいる誰かだ。生命の場合、交換しているのはその生命自身である。しかも、交換をやめれば同じでいられるかというと逆で、代謝を止めた瞬間に終わる。


同じであることと、変わらないこと。私たちは普段この二つをほとんど同じ意味で使っている。生命はその等号を静かに壊している。




物理学と生物学のあいだに残った断絶


化学者アディ・プロスがこの論考を始める場所は、かなり素直な困惑である。


現代の自然科学は、生気論を採らない。生物も原子と分子からできており、物理法則と化学法則に従う。エルンスト・マイアの言葉として彼が引くように、今日、自分を生気論者に分類されたいと思う生物学者はいない。この点では徹底した物理主義が成立している。


それにもかかわらず、では生物と非生物の物理的な違いは何かと問われると、驚くほどすっきりした答えがない。彼はこの奇妙さを、おもちゃの犬と本物の犬の違いは子どもにも分かるのに、と書く。子どもに分かることが、科学の言葉では言えない。


プロスが対比に使うのは、塩の結晶と受精卵である。どちらも目に見えないほど小さな種から始まり、周囲から材料を集めて大きくなる。雪の結晶を拡大すれば、自然が極めて精密に過程を導きうることが分かる。ところが受精卵は、同じように材料を取り込みながら、心臓や腎臓や眼を備えた一個体になる。同じ自己組織化という語で呼んでも、両者のあいだには巨大な隔たりがある。


隔たりの正体は、複雑さの程度ではない。向きである。


結晶の成長は、系がより安定な状態へ落ちていく過程として記述できる。坂を転がるボールが低いところへ行くのと同じで、落ち着いた先に落ち着いている。細胞はその逆だ。外部のエネルギー源に絶えず接続し、わざわざ高い位置に留まり続けている。プロスの表現では、細胞はエネルギーを与えられた状態にある。放っておけば平衡へ落ちるはずの物質を、落ちないように組み替え続けているのが生命である。


だからこそ、材料を揃えても生命にはならない。死んだ細胞からたんぱく質も核酸も脂質も取り出せる。それを混ぜて自己組織化させることはできるが、そこで起きるのは氷や塩の形成と同じ種類の物理的な自己組織化であり、結果はむらのある塊にすぎない。彼はこの状況について、我々は始め方すら確信が持てない、と書く。率直な認識であり、同時に、まだ理論が足りないという告白でもある。



散逸構造では足りない、という自己申告


二十世紀の大きな前進として、プロスはイリヤ・プリゴジンの非平衡熱力学を置く。


渦、ハリケーン、下から加熱した液体層に現れる六角形の対流。これらは平衡状態では存在しえない。外部からエネルギーが供給され続ける限りにおいて構造を保つ散逸構造である。生命もまた閉じた物体ではなく、物質とエネルギーの流入出によって維持される開いた系だから、この発想が効かないはずがない。


しかしプロスは、プリゴジンの業績が断絶を縮めはしたが、求められていた突破にはつながらなかった、と本文で明言する。ここが重要だ。彼は自分の理論を売り込む前に、先行する最有力の枠組みが不十分であることを自分で言っている。


そこで彼が提案するのが、生命を三つの熱力学的状態とは別の状態として見ることである。固体、液体、気体に対して、生命は動的な速度論的状態 (dynamic kinetic state) だという。


見出しは「生命は物質の第四の状態なのか」と読者を誘うが、本人は本文でかなり明確な留保を置いている。固体・液体・気体は熱力学的状態であり、生命は環境と物質・エネルギーを交換する開いた系だから、形式的に言えば熱力学的状態ではない。ただし分析の目的には有用な特徴づけである、と彼は書く。


この留保を無視して「生命は第四の物質状態である」を科学的命題として受け取るのは、やりすぎだろう。より正確な読み替えはこうなる。生命とは特定の物質組成ではなく、物質が入りうる特定の動的な体制である。水分子そのものに渦という性質が含まれているわけではない。特定の境界条件とエネルギー流のもとで、渦という動的な組織が出現する。炭素や水素や窒素に生命という物性が入っているのでもない。反応のネットワーク、エネルギーの流れ、境界、複製が結びついたときに、物質が生きている体制へ入る。


そしてプロスは、この体制を最も鮮やかな比喩で読者に渡す。噴水である。


噴水を構成する水滴は絶えず入れ替わっている。それでも噴水というパターンは存在し続ける。いまこの文章を読んでいるあなたの分子と細胞も、同じように次々と入れ替わっている。だから自分を化学の噴水だと思ってもいい、と彼は書く。


付け加えておくと、この視点の転換は2026年に突然現れたものではない。構成要素が入れ替わりながら系統として持続することを動的速度論的安定性 (dynamic kinetic stability) と呼ぶ議論は、2000年代半ばからプロスの論文にある。今回の論考の新しさは、新しい物理法則の発見ではなく、二十年以上かけて育てた枠組みを、一般読者に向けて一つの生命観として提示し直した点にある。



噴水は生きていない


ここで、この論考の最も面白い弱点に触れておきたい。


噴水は生きていない。


構成要素が入れ替わりながらパターンが持続する、という記述は、噴水自身に当てはまる。炎もそうであり、渦もそうであり、プロス自身が数段落前に挙げたハリケーンもベナール対流もそうである。生命を説明するために持ち出された例が、そのまま反例として機能してしまう。


したがって、動的に持続することだけでは生命を切り出せない。ここは彼の議論の欠陥というより、一般向けの叙述が比喩の魅力に依存しすぎたところだと考えるべきだろう。比喩が鮮やかであるほど、その比喩が何を説明していないのかは見えにくくなる。


では、何が足りないのか。


炎は、自分が燃えるための仕組みを自分で作っていない。燃料と酸素が外から与えられ、その条件のもとで形が立っている。条件は外部に属する。細胞はそうではない。膜があるから内側で反応のネットワークが成立し、その反応のネットワークが膜の構成物を生産する。自分を可能にしているものを、自分で作り直している。この再帰的な折り返しを、ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラは1970年代にオートポイエーシス (autopoiesis) と呼んだ。


ただし、これを生命の定義として固定すると別の不都合が出る。自分では子を作らない働き蜂は明らかに生きているが、複製はしていない。宿主に依存して複製する存在もいる。境界例は必ず残り、定義を精密化する作業はどこかで収穫が逓減する。


筆者の見るところ、より生産的なのは定義の競争を比較の作業へ置き換えることである。非平衡への依存、境界の維持、損傷への応答、構成要素の自己生産、情報の保存、複製、遺伝可能な変異、環境の感知、行動の選択。これらを一列の階段として並べると、あたかも生命進化の順序であるかのような誤解を招く。そうではなく、独立した複数の目盛りとして扱い、対象ごとにどの目盛りがどこまで立っているかを見る。岩と噴水と炎と細胞と多細胞生物と巣と企業と国家を、一本の直線に並べずに比べられるようになる。



会社も、自分を作り直している


この目盛りを手にすると、思わぬ対象が視界に入ってくる。


企業である。


創業時の社員はやがて全員いなくなる。経営者も株主も交代する。製品も工場も技術も、組織図も規則も書き換わる。それでも企業は同じ企業として続く。百年続いた会社が百年前と共有している部分は、ほとんどないかもしれない。


国家ならさらに極端だ。百年前に生きていた国民の大半はもういない。法律も行政制度も産業構造も生活習慣も変わる。それでも一定の連続性を持つ社会として存続している。


しかも、これらは外から部品を交換されているのではない。企業は人を採用し、教育し、次の意思決定者を選び、契約を継承し、記録を残し、資金を調達する。国家は教育を通じて次世代の市民を形成し、選挙や任命によって政府を更新し、法を制定・改正し、行政機構を通じて制度を運用する。


今日の組織が、明日の組織を作っている。折り返しの形は、細胞と同じだ。


では社会は生命なのか。


この問いにそのまま肯定で答えると、古い社会有機体論へ戻ってしまう。国家を一個の身体と考え、政府を脳に、市民を細胞になぞらえる議論である。この比喩は、全体のために部分が犠牲になるのは自然だという規範判断を、あまりにも簡単に呼び込んできた。


だからといって、比較をここでやめる必要はない。やめると、たいていの人が次に置く区別に足をすくわれる。



「部品が主体だから違う」という反論は弱い


社会と生物の違いを説明しようとするとき、最も出てきやすいのはこの対比だろう。社会を構成しているのは自分の目的を持つ人間であり、生物を構成しているのは部品としての細胞である。だから両者は根本的に違う、と。


直感的で、しかも間違っている。


多細胞生物そのものが、もともと独立して複製していた単位から成立したものだからだ。進化生物学が個体性の主要移行 (major transitions in individuality) と呼んで扱ってきた問題群は、まさにこの点から始まる。かつてそれぞれ独立に複製していた単位が、どのようにして協力し、新たな上位の個体を形づくったのか。単細胞から多細胞へ、独立個体から真社会性の巣へ。これらは同じ形の問題として並べられてきた。


そこで焦点になるのは協力だけではない。内部対立の制御である。


多細胞生物を構成する細胞が、それぞれ自分の複製だけを最優先すれば、個体全体は維持できない。がんは、この逸脱が上位の統合を振り切った状態として論じられてきた。だからこそ多細胞生物には、細胞増殖の制御、細胞死、免疫、発生過程の制約といった、下位単位の振る舞いを個体全体の維持へ揃える仕組みが発達している。


つまり、下位に独自の都合があること自体は、生命と社会を分ける線にならない。生命の側にも同じ問題があり、それを長い時間をかけて処理してきた。比較すべきなのは都合の有無ではなく、その都合がどう処理されたかである。


ここで議論の水準がひとつ上がる。



何を代償に、ひとつになったのか


多細胞生物における個体性の達成は、下位の自律性を削ることと引き換えに成立している。


体細胞はほとんど自分の遺伝的系統を独立して残さない。増殖は強く制御される。必要とあれば個体のために死ぬ仕組みまで備わっている。肝臓の細胞が個体を離れて独自の人生を始めることはない。私たちが「ひとつの身体」と呼んでいるものは、数十兆の単位から自分の都合を取り上げた結果として成り立っている。この代償の大きさは、しばしば見落とされる。


人間社会では、この代償が支払われていない。


社会を構成する人間は、自分の身体を持ち、自分の目的を持ち、自分で生殖する。企業を辞めることも、移住によって国家を離れることもできる。複数の組織に同時に所属できる。組織の目的に反対することも、組織そのものを作り変えようとすることもできる。


したがって人間社会の特徴は、下位単位の個体性を大幅に残したまま、上位の組織を成立させていることにある。


ここで重要なのは、これを未完成と読まないことだ。生物の側の個体化を完成形とみなせば、社会はその途上にあることになる。しかし、削り切った社会を想像してみればいい。市民が体細胞と同じ程度まで全体に従属している状態は、高度に統合された社会というより、私たちが自由と呼んできたものがない状態である。


社会の課題は、下位単位の個体性を消すことではない。下位単位が独立した目的を持ち続けることを前提に、それでも上位のシステムが崩壊しないようにすることである。



統治とは何を調整しているのか


ここから見ると、統治という語の輪郭が変わる。


ガバナンスとは、政府をどう設計するか、取締役会をどう構成するかという問題ではない。それは一部にすぎない。より一般的には、部分的に自律した複数の主体から上位の組織を成立させ、維持するための調整である。


この抽象度で見れば、生物にも同型の仕組みがある。細胞増殖の制御、免疫による監視、細胞死、発生上の制約。もちろん、細胞増殖の制御と議会制度を同じものと呼ぶべきではない。制度も主体も規範性の有無もまったく異なる。共通するのは、局所の自律性と系全体の持続をどう両立させるかという構造的な問題だけである。


その構造的な問題に対して、生命と社会は異なる解を採っている。


下位単位に自由度がなければ、全体は硬直する。下位単位が完全に自分の利益だけを追えば、全体は分解する。上位のシステムはその中間に存在しなければならない。生物進化は、この中間を対立の抑制によって確保してきた。人間社会は、対立を残したまま確保することを求められる。同じ問題に対する二つの解法であり、後者のほうが構造的に難しい。


そしてこの難しさを認めないまま前者の言葉を借りてくると、議論はいつのまにか抑圧の側へ滑る。



対立が消えた状態を、完成と呼ばない


進化的な個体性においては、内部対立の低下はしばしば高度な統合につながる。個体性の主要移行の研究で対立の抑制が中心問題として扱われるのは、そのためである。


だが人間社会で、内部対立が完全に消えた状態を理想とすることはできない。


構成員自身が独立した価値判断と目的を持ち続けることが、人間社会の前提だからだ。人は何が望ましいかについて異なる考えを持つ。利害も知識も異なる。その違いを表明できること、組織の目的そのものを問い直せることは、除去すべき摩擦ではない。


したがって成熟した社会の統合とは、すべての構成員が同じ目的を持つ状態ではない。異なる目的を持つ主体が、対立を抱えたままシステムを破壊せず、必要に応じてそのシステム自体を修正できる状態である。


この区別を見落とすと、長く続く社会ほど良い社会だという誤った結論に行き着く。



存続することと、望ましいことは別である


自己維持の能力と規範的な望ましさは、独立した軸である。当たり前に見えて、実際の議論では驚くほど頻繁に崩れる。


持続能力を高める手段の多くは、構成員にとって望ましいものとは限らない。異論の抑制、情報の統制、離脱の困難化、資源の効率的な回収。これらはいずれも内部対立を下げ、結果として系の存続を延ばしうる。極めて抑圧的な制度でも、自己再生産の能力が高ければ長期にわたって存続する。


逆に、構成員の自由を広く認める社会は、対立を処理するための制度を余分に抱え込むことになる。選挙も司法手続きも熟議も、効率の観点からは高価である。それは、対立を消さずに扱うために支払われている費用だ。高くつくほうを選んでいるという自覚があるかどうかで、制度をめぐる議論の質は大きく変わる。


だから、社会について「長く続いている」ことは、「その社会が望ましい」ことを意味しない。持続を説明する理論と、その系を評価する規範的な理論は、最後まで分けて置かなければならない。生命との類比が最も危険になるのは、まさにこの地点である。個体と細胞の関係を社会へ写すと、全体の存続のために部分が引っ込むのは自然である、という結論が、論証を経ずに手元に落ちてくる。


自然界に一つの解法があるという事実と、それを採るべきだという判断は、別のことである。



ひとつであるとは、内部の多をどう扱うかということ


ここで最初の問いに戻れる。


どこまで変われば別の存在になるのか。構成物を見ても答えは出なかった。重要なのは、何がそのシステムを次の時点へ再生成しているかである。ただし、次の状態を生むだけなら炎も渦も河川もそうだ。だからそこに、自分を成立させている条件を部分的にであれ自ら再生産しているか、という条件が加わる。


それでもまだ足りない。その「自己」が一枚岩ではないからだ。


一つの生物個体の内部にも、進化的に異なる利害を持ちうる下位単位がある。一つの社会の内部には、はるかに明確に異なる目的を持つ人間と組織がある。とすれば、個体性はあらかじめ与えられた自然の区分ではない。複数の自己維持する単位が、協力し、競争し、対立を制御しながら、ある水準ではひとつとして振る舞えるようになったとき、そこに新しい個体が現れる。しかもそれは到達される点ではなく、維持され続ける状態である。


身体はひとつだが、その内部には数十兆の細胞がある。企業はひとつの法人だが、その内部には異なる目的を持つ人間がいる。国家はひとつの政治単位だが、その内部には多数の組織、共同体、家族、個人が存在する。ひとつであることは、構成要素が一つの目的に完全に従属していることを意味しない。複雑なシステムにおいては、ひとつであること自体が、内部の多をどう扱うかという問題になる。


そう考えると、「社会は生命か」という問いは二次的である。


より踏み込めるのは、複数の自己維持する主体から一つの自己維持するシステムが成立する条件は何か、という問いだ。そして人間社会については、もう一つ問いが加わる。生命進化に見られるような強い個体化を選ばないのなら、その代わりに何を引き受けるのか。対立を抑え込まずに扱うための費用を、誰が、どのように払い続けるのか。


プロスの論考は、生命を噴水として描いて終わる。そこから先へ歩くと、話は誰の都合をどこまで削るかという場所に出る。生命との比較から取り出せる最も実用的な含意は、社会を生き物と呼ぶ根拠ではなく、この請求書の存在である。


削らない道を選んだのなら、その分は自分たちで持たなければならない。おそらく、ずっと。



 

ポイント整理


  • 同一性の判定と、持続の仕組みは別問題

    • テセウスの船では板を交換するのは外部の誰かであり、問いは「外から同じと呼べるか」という判定に留まる。

    • 生命では交換する者と交換される物が同一になるため、問いは自己維持の仕組みへ移る。この二つは混同されやすい。

  • プロスの貢献は「第四の状態」ではなく、物から過程への移動

    • 生命の同一性は構成物ではなく、時間を通じて維持される組織にある、という読み替えが論考の核心である。

    • 本人も本文で、生命は開いた系なので厳密には熱力学的状態ではないと留保している。

  • 動的に持続するだけでは生命にならない

    • 噴水も炎もハリケーンも、構成物を入れ替えながらパターンを保つ。プロスが挙げた例がそのまま反例になる。

    • 生命に固有なのは、自分を成立させている条件を自ら再生産する折り返しである。

  • 「部品が主体だから社会は違う」は成り立たない

    • 多細胞生物自体が、独立して複製していた単位の統合から生まれた。がんは下位の都合が上位を振り切る現象として論じられてきた。

    • 比較すべきは下位に都合があるかどうかではなく、その都合がどのように処理されたかである。

  • 生命と社会では、統合の代償の支払われ方が違う

    • 多細胞生物は、下位単位の繁殖と増殖を大幅に制限することで個体性を達成した。

    • 人間社会は、離脱も異議申し立ても残したまま秩序を立てる。だから統治の課題が構造的に難しくなる。

  • 存続能力と望ましさは独立した軸である

    • 異論の抑制や離脱の困難化は、内部対立を下げて系の存続を延ばしうる。長く続くことは実績ではあっても評価ではない。

    • 生命の比喩は、全体のために部分が引っ込むのは自然だという結論を論証抜きで呼び込む。この滑りが速すぎる点にこそ危険がある。



キーワード解説


【動的な速度論的状態 (dynamic kinetic state)】

生命を、固体・液体・気体という熱力学的状態とは別の、構成要素が絶えず入れ替わりながら維持される状態として捉えるプロスの提案。彼が2000年代半ばから展開してきた動的速度論的安定性 (dynamic kinetic stability) の枠組みを、一般読者向けに提示し直したものにあたる。


【散逸構造】

外部からのエネルギー供給によってのみ維持される、平衡から離れた構造。渦、ハリケーン、加熱された液体層に現れる対流細胞などが含まれる。プリゴジンによって定式化され、生命理解を大きく前進させたが、プロス自身が本文で、これだけでは生命と非生命の断絶は解けなかったと述べている。


【オートポイエーシス (autopoiesis)】

マトゥラーナとヴァレラが1970年代に導入した概念で、自らを構成する要素を生み出す過程のネットワークが、そのネットワーク自体を再生産する組織を指す。膜が反応を可能にし、反応が膜を作るという再帰的な折り返しがその典型である。社会システムへ拡張できるかについては長い論争があり、決着済みの前提としては扱えない。


【個体性の主要移行 (major transitions in individuality)】

それまで独立して複製していた単位が協力し、新たな上位レベルの個体を形成する現象。単細胞から多細胞へ、独立個体から真社会性の巣へといった移行が含まれる。協力と分業に加えて、下位単位の内部対立をどう制御するかが中心的な問題になる。


【系の存続と構成員の福祉の分離】

システムが長く持続する能力と、その内部にいる者にとって望ましいことは、独立した評価軸であるという原則。抑圧的な制度ほど内部対立が低く、結果として存続しやすい場合があるため、持続を説明する理論をそのまま規範的な評価へ使ってはならない。



本稿を素材として対話形式で再構成した記事も、近日中にnoteに掲載予定です。
ご関心を持っていただけましたら、note上でご感想などお聞かせいただけると幸いです。
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