「国際秩序」は誰かが書いた物語だった――神話が崩れるとき、世界はどう変わるのか
- Seo Seungchul

- 3 日前
- 読了時間: 10分

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事: Jeremy Moulton et al., "World politics is a shared myth, one we can change from the bottom up" (Institute of Art and Ideas, 2026年2月6日)
概要: リベラルな国際秩序の衰退を、制度や物質的な力の変化としてだけでなく、「政治的神話」の変容として捉える論考。古代ギリシャから現代まで、神話が政治的想像力と行動をどう形づくってきたかを辿りながら、帝国的言説の復活が新たな神話を生みつつある現状を分析し、下からの神話創造の可能性を提起する。
私たちが「当たり前」だと思ってきた国際秩序、つまり国連を中心としたルールに基づく世界の仕組みは、いつからか揺らぎ始めています。領土的野心を隠さない大国の振る舞い、力による現状変更、そして多国間主義への不信。ニュースを追うたびに、何か大きな地殻変動が起きているような感覚を覚える方も少なくないのではないでしょうか。
ヨーク大学の政治理論家ジェレミー・モールトンとニコライ・ゲルヴィツキは、今起きていることの本質は、制度や軍事力の変化だけでは説明できないと主張します。崩れているのは、秩序そのものを支えてきた「政治的神話」――つまり、人々がそれを信じて行動することで現実を形づくってきた共有の物語なのだと。
富良野はこの論考を、制度と物語の関係という構造の問題として読み解こうとします。一方Phronaは、神話という概念が持つ人間的な意味、つまり私たちはなぜ物語を必要とするのかという根源的な問いに立ち止まります。二人の対話を通じて見えてくるのは、「秩序の終わり」が同時に「想像力の空白」でもあるという、少し不穏で、でもどこか希望を含んだ風景です。
「神話」は嘘じゃない――物語が世界をつくるということ
富良野:今日の素材、ヨーク大学のモールトンとゲルヴィツキの論考なんですけど、僕が一番引っかかったのは、「政治的神話」(political myth)っていう言葉の使い方なんですよね。
Phrona:ああ、普通に聞くと「神話=作り話」みたいに聞こえますよね。フェイクニュースとほぼ同義で使われることも多いし。
富良野:そう、まさにそこを著者たちは最初にひっくり返してくる。神話というのは、事実として正しいかどうかが問題なのではなくて、人々がそれを信じて行動することで現実を形づくるもの、つまり「意味の力」を持つ集合的な物語だと。
Phrona:人類学や哲学の世界では、昔からそういう理解がありますよね。混沌を秩序に変換する装置としての神話。でも国際政治の文脈でそれを正面から論じるのは、ちょっと新鮮な感じがします。
富良野:僕もそう思いました。たとえば第二次世界大戦後の国際秩序って、国連とか安保理とかの制度面でよく語られるんだけど、著者たちはその制度を下支えしていた物語の方に注目する。「平和」とか「ルールに基づく秩序」とか「国家間の形式的平等」とか、そういうものが一種の神話として機能していたんだと。
Phrona:制度があって、それを正当化する物語がある。でもその物語の方が先に崩れ始めているという見立てですよね。箱はまだあるけど、中身の意味が抜け落ちてしまった、みたいな。
富良野:うん、そのイメージはかなり的を射てると思う。制度は残存しているけど、もはや誰も説得されていない。彼らはそれをグラムシの有名な言葉を引いて「間奏期」(interregnum)と呼んでいる。古い世界は死につつあり、新しい世界はまだ生まれようとしてもがいている。今は怪物の時代だ、と。
Phrona:「怪物の時代」って、すごく詩的だけど、実際に何を指しているのか考えると、けっこうぞっとしますね。
富良野:そうなんですよ。古い神話は力を失ったのに、それに代わる新しい物語がまだ形をなしていない。その空白の中で、何が起こるか分からないという不安定さ。それ自体が「怪物」なのかもしれない。
帝国の言葉が戻ってきた
Phrona:論考の後半で印象的だったのは、帝国という言葉が再び公の場に堂々と現れてきている、という指摘です。領土拡大を匂わせる発言とか、勢力圏とか緩衝地帯とか、19世紀の帝国政治の語彙が復活しているって。
富良野:しかも著者たちが強調しているのは、こうした言説が単に現実を描写しているだけじゃなくて、現実を形成しているということなんですよね。帝国的な振る舞いが「理解可能なもの」「ある意味で当然のもの」として受け入れられていくプロセスに、物語が加担している。
Phrona:そこが一番怖い部分かもしれない。大国が小国に対して特別な権利を持つのは自然なことだ、という前提が、いつの間にか常識化していく。国際法よりも大国間のゲームが優先される、という語り方がじわじわ広がっていく。
富良野:著者たちの言い方を借りれば、大国間の競争が世界政治の「自然な状態」として描かれるようになると、封じ込めやブロック形成が合理的な選択として浮上してきて、多国間主義や平和主義、グローバルな連帯といった選択肢が周縁に追いやられる。
Phrona:物語が想像力の地平を規定してしまうんですね。何が「現実的」で何が「夢物語」かを、神話が先に決めてしまう。
富良野:ここでブルーメンベルクの議論が効いてくる。彼は『神話の作業』(Work on Myth)で、神話は静的なものではなく、再解釈を通じて変化し、適応し、力を獲得していくと論じている。つまり、今目の前で生まれつつある帝国の物語も、過去の単なる繰り返しじゃなくて、現代的な文脈で再解釈され、新しい力を帯びている。
Phrona:古代ギリシャの英雄神話が当時の政治的想像力を形づくったのと同じように、今の帝国回帰の物語が、今後数十年の制度やアイデアや外交政策を方向づけていく可能性がある、と。
富良野:そういうことです。だからこそ著者たちは、どの神話がこの新しい世界を定義するのかを問うことが急務だと言っている。どんな秩序を正当化し、何を可能にし、何を不可能にするのか。
空白は危険か、それとも可能性か
Phrona:でも私、この論考を読んで少し引っかかったのは、最後の結論部分なんです。古いリベラルな秩序の神話にはもう戻れない、でもこの空白の中にこそ創造の可能性がある、って。ニーチェの「神は死んだ」の構図を国際政治に重ねているんですけど。
富良野:ああ、普遍主義や新自由主義的資本主義という「古い神」が死んだ後に、新しい価値を意志的に創造せよ、という話ですよね。
Phrona:そうそう。でも、ちょっと楽観的すぎないかなって。だって、空白が生まれたときに最初にそこを埋めにくるのは、たいてい力を持った側の物語じゃないですか。
富良野:鋭いところを突きますね。実際、論考の中でも、すでに帝国的な物語がその空白を埋めつつあるという分析がある。著者たちも論考のタイトルで「下からの変革」(from the bottom up)を掲げているけれど、具体的にどうやって「下から」新しい神話を紡ぐのかについては、そこまで踏み込んでいない。
Phrona:そこが私には宿題として残ったんです。政治的神話が集合的な物語であって、トップダウンで押しつけられるものだけではないという指摘は重要だと思う。キアラ・ボッティチが言うように、神話は複数の場所で繰り返され、循環することで力を持つ。でも、じゃあ具体的に「下から」の物語って、今どこに芽があるんだろうって。
富良野:市民社会とか、草の根の運動とか、あるいは文化や芸術の中にあるのかもしれない。でも、それがグローバルな規模で政治的神話として機能するには、相当なエネルギーがいる。
Phrona:ある意味、私たちが今こうやって「物語の力」について語ること自体が、そのプロセスの一部なのかもしれませんね。どんな物語を信じ、どんな物語を語り直すかを自覚的に考えること。
富良野:それは面白い視点だな。著者たちが引用しているアン・カーソンの言葉がありましたよね。「自分の神話の終わりを生き延びるのは危険なことだ」って。でも裏を返せば、終わりを自覚しているからこそ、次の物語をどう紡ぐかを選べる余地がある、とも読める。
Phrona:神話の終わりに立ち会っている当事者として、何を語るかを選ぶ。それは確かに危険だけど、同時にすごく能動的な立場でもある。
富良野:うん。ただ、その「選ぶ」ということ自体が、今の情報環境の中でどれだけ可能なのかは、また別の問題として残りますけどね。
ポイント整理
「政治的神話」の再定義
神話とは事実の正誤の問題ではなく、人々がそれを信じて行動することで現実を形づくる集合的な物語である。政治的神話は、正当性を付与し、行動を方向づけ、可能性の地平を規定する力を持つ。
リベラル国際秩序の衰退は「神話の崩壊」でもある
第二次世界大戦後に構築された国際秩序は、国連や安保理といった制度だけでなく、「平和」「ルールに基づく秩序」「国家間の平等」といった政治的神話によって支えられていた。制度は残存しているが、それに意味を与えていた物語が力を失いつつある。
グラムシの「間奏期」
古い世界は死につつあり、新しい世界はまだ生まれていない移行期(間奏期)にあるとされる。旧い神話が機能しなくなったが、代替する新たな神話がまだ確立されていない不安定な状態。
帝国的言説の復活
領土拡大、勢力圏、緩衝地帯といった19世紀帝国政治の語彙が現代の公的議論に回帰しつつある。こうした言説は現実の描写にとどまらず、帝国的な振る舞いを「理解可能」かつ「自然」なものとして受容させる機能を持つ。
物語が想像力の地平を規定する
大国間競争が「自然な状態」として語られることで、封じ込めやブロック形成が合理的とされ、多国間主義・平和主義・グローバルな連帯が周縁化される。どの神話が支配的になるかが、実質的な政策選択の範囲を決定する。
神話は静的ではなく再解釈を通じて進化する
ブルーメンベルクの議論に基づき、神話は時代とともに適応・変容し、新たな力を獲得する。現在の帝国的言説も、過去の単純な回帰ではなく、現代的文脈での再解釈として理解する必要がある。
「下からの」神話創造の可能性と課題
著者たちは、政治的神話はトップダウンで押しつけられるものだけでなく、集合的に紡がれるものであるとし、下からの新たな神話創造を提起する。ただし、その具体的な方法や経路については、十分な議論が展開されていない。
自覚的な「物語の選択」の重要性
神話の終わりに立ち会う当事者として、どの物語を信じ、語り直すかを自覚的に選ぶことの重要性が示唆される。情報環境の複雑さの中で、この選択をどう実現するかは残された課題である。
キーワード解説
【政治的神話(political myth)】
事実の正誤ではなく、人々が共有し信じて行動することで政治的現実を形づくる集合的な物語。正当性の付与や行動の方向づけに機能する。
【間奏期(interregnum)】
もともとは王位の空白期間を指す語。ここではグラムシに倣い、旧い秩序が衰退し新たな秩序がまだ成立していない過渡的で不安定な時期を意味する。
【リベラル国際秩序(Liberal International Order)】
第二次世界大戦後、国連や国際法、自由貿易体制などを基盤として構築された国際的な枠組み。主権の平等、ルールに基づく秩序、多国間主義を理念とする。
【ハンス・ブルーメンベルク(Hans Blumenberg)】
ドイツの哲学者。著書『神話の作業』で、神話は再解釈を通じて時代とともに変容・適応し続けるものであり、人間は「意味への欲求」を克服することはないと論じた。
【キアラ・ボッティチ(Chiara Bottici)】
イタリア出身の政治哲学者。神話は単一の発信源から生まれるのではなく、複数の場で繰り返し語られ循環することで力を持つと主張。
【アントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci)】
イタリアのマルクス主義思想家。『獄中ノート』で文化的ヘゲモニーの概念を展開し、支配が物理的な力だけでなく、合意形成を通じた文化的・知的支配によっても維持されると論じた。
【アン・カーソン(Anne Carson)】
カナダの詩人・古典学者。「自分の神話の終わりを生き延びるのは危険なことだ」という言葉が引用され、共有された意味の枠組みが崩壊した後の不安定さを示唆する。
【勢力圏(spheres of influence)】
大国が自国の安全保障や利益のために、特定の地域に対して排他的な影響力を行使する権利を主張する概念。19世紀の帝国政治に由来し、現代に回帰しつつある。