「真実」は人類最大の幻想なのか? ──「発見」するのではなく「創造」する現実
- Seo Seungchul

- 9月17日
- 読了時間: 9分

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事:Manuel Delaflor "Truth is the most dangerous fantasy our species ever invented" (Institute of Art and Ideas, 2025年7月21日)
概要: 西洋の啓蒙思想が追求してきた「客観的真実の発見」という理想を批判し、モデル依存的存在論の観点から、私たちの概念や枠組みが現実を表現するのではなく創造していると論じる哲学的エッセイ
私たちは子どもの頃から「真実を探求すること」の大切さを教わってきました。科学は客観的な事実を発見し、哲学は普遍的な真理に迫る。そんな当たり前だと思っていた前提が、実は人類を危険な道に導いているとしたら、どうでしょうか。
哲学者Manuel Delaflor氏は最近の論考で、西洋思想の根幹である「真実探求」そのものを根本から問い直しています。彼が提唱するのは、私たちのモデルや概念は現実を表現するのではなく、現実を創造しているという驚くべき視点です。
この記事では、富良野とPhronaの対話を通じて、この大胆なアイデアがどのような意味を持つのか、私たちの知識や現実認識をどう変えていくのかを探っていきます。一見すると哲学的すぎる話に思えるかもしれませんが、実は私たちの日常の判断や社会のあり方に深く関わる、とても現実的な問題なのです。
「真実探求」という美しい夢の正体
富良野:この記事、かなり思い切った主張ですね。「真実は人類最大の幻想」って、普通に考えたらちょっと受け入れがたい話ですよね。
Phrona:でも、読んでいて妙に納得してしまう部分もありました。特に、真実を探そうとすればするほど、かえって混乱が深まるという指摘は面白いなと思って。
富良野:ああ、あの「水銀のように散っていく」という比喩ですね。確かに僕も経験がある。政策の議論なんかでも、定義を厳密にしようとすればするほど、かえって話がこじれることがありますから。
Phrona:そうそう。例えば「幸せって何?」みたいな話をしていても、みんなで一生懸命定義しようとすると、逆にどんどん分からなくなっていく感じ。
富良野:Delaflor氏が言っているのは、それがたまたま起こることじゃなくて、「真実探求」という行為そのものの構造的な問題だということでしょうね。啓蒙主義以来、僕らは「客観的な真実がどこかにあって、それを発見すればいい」と思ってきた。
Phrona:でも実際は、その探求の仕方自体が現実を形作っているってことなんでしょうか。ちょっと抽象的すぎて、まだピンと来ないんですが。
富良野:例えば、経済学の話で考えてみましょうか。「市場は効率的である」という理論がありますよね。これを単なる現実の説明だと思っていたら、実はこの理論を信じる人たちが行動することで、実際に市場がその理論通りに動くようになる。
Phrona:あ、なるほど。予言の自己実現みたいな感じですね。
富良野:そう、まさに。でもDelaflor氏が言っているのは、それよりもっと根本的な話かもしれません。僕らが使っている概念や枠組み自体が、現実を切り取る方法を決めてしまっている。
モデル依存的存在論という新しい視点
Phrona:記事の中で「モデル依存的存在論」という言葉が出てきましたよね。これがキーワードなんでしょうか。
富良野:そうですね。簡単に言うと、僕らが現実だと思っているものは、実は僕らが使っているモデルや概念によって決まっているという考え方です。
Phrona:つまり、世界がまずあって、それを僕らが観察するんじゃなくて、僕らの観察の仕方が世界を作っているってこと?
富良野:そういうことだと思います。例えば、「個人」という概念を使って社会を見れば、個人の権利や自由が重要に見える。でも「共同体」という概念を使えば、集団の調和や結束が重要に見える。どちらが「真実」かという問題じゃなくて、使う概念によって見える現実が変わってしまう。
Phrona:それって、ちょっと怖くもありますね。じゃあ、僕らには「本当の現実」にアクセスする方法がないってことになりませんか?
富良野:まさにそこが、Delaflor氏が「危険な幻想」と呼んでいる部分かもしれません。「本当の現実」があるという前提で議論を始めると、最終的には「自分の見方が正しい」という独断につながりやすい。
Phrona:確かに、歴史を見ても、「真理」の名のもとに行われた暴力って少なくないですもんね。十字軍とか、魔女狩りとか、もっと最近でも様々なイデオロギー的な対立とか。
富良野:そう。「自分たちこそが真実を知っている」という確信が、他者を排除したり、暴力を正当化したりする根拠になってしまう。これは政治の世界では特に深刻な問題です。
哲学の失敗、それとも哲学の成功?
Phrona:でも記事の中で印象的だったのは、「哲学が失敗したんじゃなくて、哲学が僕らを失敗させた」という部分でした。これってどういう意味なんでしょう?
富良野:うーん、難しいところですが、僕なりに解釈すると、哲学という営み自体が「真実を探求する」ことを前提としている。でもその前提こそが問題だったということじゃないでしょうか。
Phrona:つまり、哲学は設計通りに動いているけれど、その設計自体が間違っていたということですか。
富良野:そうですね。例えば、古代ギリシャから始まって、デカルト、カント、そして現代まで、西洋哲学の多くは「普遍的な真理」を求めてきた。でもその結果として生まれたのは、合意ではなくて、より深い対立だった。
Phrona:記事の中で、様々な思想家の名前が並んでいましたよね。タオイズム、禅、ナーガールジュナ、ソクラテス、ニサルガダッタ、ドゥルーズ、ボーア、ヴィトゲンシュタイン...
富良野:面白いのは、この並びに東洋と西洋、古代と現代の思想家が混在していることです。Delaflor氏は、異なる文化や時代の知恵を統合しようとしているように見えます。
Phrona:でも、それってまさに彼が批判している「共通の真理を見つけよう」という試みにも見えませんか?なんだか矛盾しているような...
富良野:いい指摘ですね。でも僕は、彼がやろうとしているのは統合ではなくて、むしろ多様性の承認なのかもしれないと思います。それぞれの思想体系が異なる現実を創造している、ということを示そうとしているのかもしれません。
日常の中の「モデル依存」を考える
Phrona:この話、哲学の問題だけじゃなくて、僕らの日常にも関係してきそうですよね。例えば、最近のSNSでの議論とか見ていても思うんですが。
富良野:ああ、確かに。同じ出来事について、まったく違う解釈が並立していて、しかもお互いに「事実はこうだ」って言い張っている状況をよく見ますね。
Phrona:そういう時って、どちらが正しいかを判定しようとするよりも、なぜ異なる見方が生まれるのかを考える方が建設的なのかもしれませんね。
富良野:そうですね。使っている概念枠組みが違えば、見える現実も違って当然だという前提で対話ができれば、もう少し生産的な議論になるかもしれません。
Phrona:でも一方で、「全部相対的だから何でもあり」っていう話にもなりかねませんよね。それはそれで危険な気がします。
富良野:まさにそこが難しいところですね。Delaflor氏も、「現実は相対的だ」と言っているわけではないと思います。むしろ、僕らが現実を創造している責任を自覚しろ、ということじゃないでしょうか。
Phrona:責任を自覚する、ですか。
富良野:つまり、僕らが使っている概念や言葉が、実際に現実を形作っているとしたら、その選択にはもっと慎重になる必要がある。「これが真実だ」と言い切ってしまう前に、「この見方を採用することで、どんな現実が生まれるのか」を考える必要がある。
「知る」ということの意味が変わる時
Phrona:そうすると、「知識」とか「学問」の意味も変わってきますよね。発見するものから、創造するものへと。
富良野:そうですね。科学も例外ではないと思います。科学的な理論や法則も、自然を「発見」するというより、自然との関係の仕方を「発明」していると考えることができる。
Phrona:量子力学なんかは、まさにその典型例かもしれませんね。観測することで現実が決まるという話ですから。
富良野:ええ。でも、これは科学の価値を否定する話ではないと思います。むしろ、科学の力と責任をより深く理解するための視点かもしれません。
Phrona:つまり、科学者も含めて、僕らはみんな現実の共同創造者だということですね。
富良野:そういうことです。そして、もしそうだとしたら、「どんな現実を創造したいのか」という問いが重要になってくる。これは技術的な問題であると同時に、倫理的な問題でもあります。
Phrona:それって、すごく責任重大ですね。でも同時に、希望でもあるのかもしれません。現実が固定されたものじゃないとしたら、変えることも可能だということですから。
富良野:まさに。Delaflor氏の議論は、絶望的に聞こえるかもしれませんが、実は可能性を開く議論でもあると思います。「真実はひとつ」という呪縛から解放されることで、より創造的で多様な思考が可能になるかもしれません。
ポイント整理
真実探求という西洋思想の根本的問題
啓蒙主義以来、西洋思想は「客観的真実の発見」を目標としてきたが、この前提自体が人類を危険な道に導いている可能性がある。真実を探求しようとすればするほど、かえって混乱と対立が深まる構造的問題が存在する。
モデル依存的存在論の核心
私たちが使用する概念やモデルは、現実を単に表現するのではなく、現実を積極的に創造している。異なるモデルを採用すれば、文字通り異なる現実の中に生きることになる。これは単なる認識の問題ではなく、存在論的な問題である。
哲学の構造的問題
哲学が合意に達しないのは偶然ではなく、「普遍的真理」を追求するという哲学の基本設計に起因している。哲学は失敗しているのではなく、設計通りに動いているが、その設計自体が問題だった。
「真理」に基づく暴力の危険性
「自分たちこそが真実を知っている」という確信は、歴史的に他者の排除や暴力の正当化に利用されてきた。真実探求という理想的に見える営みが、実際には危険な結果を招く可能性がある。
多様な思想の並存
東洋と西洋、古代と現代の様々な思想体系は、それぞれ異なる現実を創造している。これらを統一的な真理として統合するのではなく、多様性として承認することが重要である。
現実創造の責任と可能性
私たちが現実の共同創造者であることを自覚することで、「どんな現実を創造したいか」という倫理的問いが重要になる。これは絶望ではなく、変化と創造の可能性を開く視点でもある。
日常生活への応用
この視点は抽象的な哲学論にとどまらず、SNSでの議論、政策決定、科学研究など、日常の様々な場面での思考と行動に影響を与える実践的な意味を持っている。
キーワード解説
【モデル依存的存在論】
現実は独立して存在するのではなく、私たちが使用する概念的モデルによって構成されるという哲学的立場
【啓蒙主義の真実観】
客観的な真実が存在し、理性的探求によってそれを発見できるという西洋近世以降の基本的な世界観
【概念枠組み】
現実を理解し記述するために使用される基本的な概念や分類システム
【予言の自己実現】
予測や理論が、人々の行動を通じて実際にその通りの結果を生み出す現象
【存在論的問題】
「何が存在するか」に関わる哲学の根本的な問い。認識論(どう知るか)とは区別される
【共同創造者】
現実を受動的に観察するのではなく、能動的に構成・創造する主体としての人間の役割
【多様性の承認】
異なる視点や価値観を統一するのではなく、それぞれの固有性を認める姿勢