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「粒子」も「場」も存在しない?――物理学の根底を揺るがす構造主義的現実観

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シリーズ: 知新察来


◆今回のピックアップ記事:Jon Bain "There are no particles or fields only structure"
(Institute of Art and Ideas, 2025年6月27日)

  • 概要現代素粒子物理学の哲学的解釈について、粒子解釈と場解釈の両方に対する批判的検討と、構造主義的現実観の提案



私たちが「素粒子物理学」と呼んでいる分野は、実は粒子について扱っているわけではない。それどころか、場についても扱っているわけではない——少なくとも、私たちが直感的に考えるような意味においては。ニューヨーク大学の哲学者ジョン・ベインは、現代物理学の根幹を成す理論が、実は私たちの常識的な物質観を根底から覆すものだと主張しています。


粒子は数えられて特定の場所に存在するもの、場は空間に広がった連続的なものという古典的な直感。しかし、相対論的量子場理論という現代物理学の最前線では、これらの概念が意味を失ってしまうのです。では、物理学が本当に描き出しているのは何なのでしょうか。ベインによれば、それは「もの」ではなく「構造」——関係性、観測可能量、数学的枠組みそのものなのです。


今回は、富良野とPhronaの対話を通じて、この驚くべき哲学的洞察を探っていきます。私たちの現実認識を根本から問い直すこの議論は、科学と哲学の境界で何が起きているのかを照らし出してくれるでしょう。




物理学の名前が指すものの謎


富良野: 素粒子物理学って名前なのに、実は粒子について扱ってないって話、最初聞いたときは「え?」って思いましたよ。看板に偽りありというか。


Phrona: でも考えてみると、名前と実態がずれるのって、学問の発展ではよくあることじゃないですか。天文学だって、もう星占いとは関係ないし。


富良野: そうですね。ただ、この場合はもう少し深刻な問題なんです。ベインが指摘しているのは、僕たちが「粒子」として想像しているもの——数えられて、場所を特定できる小さな球みたいなもの——そういうものが、相対論的量子場理論では定義できないということなんです。


Phrona: 定義できないって、どういうことでしょう?存在しないということ?


富良野: 正確には、数えたり場所を特定したりする数学的道具が使えないということです。局所数演算子とか全粒子数演算子とか、いかにも専門的な名前ですが、要は「この領域に粒子が何個ある」とか「全部で何個の粒子がある」とかを計算するための数学的装置なんです。


Phrona: その装置が使えないということは、粒子という概念自体が... ああ、でも待って。場だったらどうなんでしょう?場なら連続的だから、数を数える必要もないし。


富良野: それが面白いところで、ベインは場の解釈も同じような問題を抱えていると言うんです。僕たちが直感的に考える「場」——空間のあらゆる点に値が割り当てられた連続的な何か——それも、厳密に考えると相対論的な文脈では問題が出てくる。


ニュートンの呪縛と現代物理学


Phrona: でも、そもそもなぜ「粒子物理学」なんて名前になったんでしょう?


富良野: ベインはその責任をニュートンに押し付けてるんですよ(笑)。ニュートンがデカルトの連続物質観に対抗して、離散的な粒子が無限の虚空を運動するという宇宙観を打ち立てた。それが現代まで続いているという話です。


Phrona: ニュートンの時代から300年以上も経ってるのに、まだその影響が残ってるんですね。


富良野: そうなんです。量子力学が出てきても、実はそれほど変わらなかった。確かに波動性とか重ね合わせとか、古典的直感を覆す部分はありますが、非相対論的な量子力学では、まだ粒子を数えたり位置を特定したりできるんです。


Phrona: つまり、問題は量子力学にあるのではなく、相対性理論にある?


富良野: 正確には、相対性理論と量子力学を組み合わせたときに生じる問題なんです。相対論的量子場理論では、時間と空間が等しく扱われるから、絶対的な「同時性」がない。そうすると、「同じ時刻に存在する粒子の総数」みたいな概念が意味を失ってしまう。


Phrona: 時間の流れが観測者によって違うから、「今この瞬間に宇宙に存在する粒子の数」みたいなことが言えなくなる、ということですか?


富良野: まさにそういうことです。それと、もう一つ重要なのが、相対論的な理論では場の励起によって粒子が生成されたり消滅したりするんです。真空からでも粒子が湧き出してくる。


構造が語る新しい現実


Phrona: それで、粒子も場もダメなら、物理学は一体何について語っているんでしょう?


富良野: ベインの答えは「構造」です。関係性、観測可能量、数学的枠組み——つまり、「もの」ではなく「もの同士の関係」や「測定できる量」そのものが現実だということなんです。


Phrona: それって、すごく抽象的に聞こえますね。でも考えてみると、普段の生活でも、「関係性」って目に見えないけれど確実に存在しているものですよね。


富良野: そう、例えば音楽を考えてみてください。音楽の本質は、個々の音符にあるのではなく、音符同士の関係——リズム、ハーモニー、メロディーライン——にありますよね。


Phrona: なるほど。音符ひとつひとつは「もの」だけれど、音楽そのものは「構造」。物理学も同じようなことを言っているのかもしれませんね。


富良野: そうです。ただ、これは単なる哲学的な言葉遊びではなくて、実際の物理学の実践と深く関わっています。現代の実験物理学では、「粒子検出器が反応すること」が粒子の存在証拠とされているんです。


Phrona: ああ、それって結局、測定装置との相互作用、つまり関係性を見ているということですね。


富良野: まさに。粒子そのものを直接見ているのではなく、検出器という測定装置との関係性を観測している。そう考えると、「粒子は検出器が検出するもの」という道具主義的な立場も出てくるんです。


現実の多層性と科学の限界


Phrona: でも、ちょっと不安になりませんか?もし物理学が最終的に「構造」についてしか語れないのだとしたら、私たちが普段感じている固い机とか、手で触れるものとかは、幻想だったということになるんでしょうか?


富良野: それは深い問いですね。ベインも、この構造主義的な見方が、日常的な経験をどう説明するかという問題は残していると思います。


Phrona: スケールの問題もありそうですよね。原子レベルでは構造が重要だとしても、マクロなレベルでは古典的な「もの」概念がまだ有効かもしれない。


富良野: そう、実際に「スケール相対的実在論」という考え方もあるんです。何が実在するかは、どのスケールで見るかに依存するという立場です。量子場理論の文脈では粒子概念は意味を失うけれど、ある特定の条件下では粒子として振る舞うものが現れる。


Phrona: つまり、絶対的な意味での「粒子」は存在しないけれど、特定の状況では粒子らしく見えるものが出現する、ということですか?


富良野: その通りです。これを「創発」と呼ぶこともあります。複雑な構造から、より高次のレベルで新しい性質が現れる。粒子という概念も、そういう創発的な性質の一つかもしれません。


Phrona: そうすると、私たちの現実認識って、実はいくつもの層になっているんですね。日常的な層、古典物理学の層、量子力学の層、相対論的量子場理論の層...


富良野: そして、それぞれの層で有効な概念や実在観が違う。これって、科学的実在論にとってはかなり挑戦的な状況ですよね。「科学は究極的現実を記述する」という素朴な期待とは違う複雑さがある。


測定が作り出す現実


Phrona: 構造主義的な見方だと、測定や観測の役割って、どうなるんでしょう?


富良野: それがまた興味深いところで、構造主義では測定可能量、つまりオブザーバブルが中心になるんです。「粒子がある」ではなく「こういう測定結果が得られる」という関係性こそが現実だという考え方です。


Phrona: それって、現実が測定によって決まるということ?それとも、測定が現実の一部だということ?


富良野: 難しい問題ですね。ベインの立場では、測定は現実を「作り出す」のではなく、すでにある構造的関係を「顕在化」させるという感じかもしれません。


Phrona: でも、そうすると測定装置も含めて全体を考えないといけませんよね。検出器も量子系だし、観測者も。


富良野: そうです。実際、量子場理論では、粒子検出器の動作そのものも場の理論で説明されるんです。検出器が「クリック」する確率を計算することで、粒子の検出を説明する。


Phrona: つまり、粒子を検出する装置も、粒子と同じ理論的枠組みで記述される。境界がどんどん曖昧になっていきますね。


富良野: まさに。主体と客体の境界、測定装置と測定対象の境界、そういったものが溶け合って、全体としての構造だけが残る。


哲学と物理学の対話


Phrona: こういう議論を聞いていると、物理学って本当に哲学的な学問だなと思います。


富良野: ベインは実際、物理学の哲学者なんです。純粋に数学や実験をやっている物理学者とは違う視点から、物理学理論の意味を問い直している。


Phrona: でも、現場の物理学者たちは、こういう哲学的問題をどう受け止めているんでしょう?


富良野: 実際のところ、多くの物理学者は日常的な研究では、こうした存在論的問題はあまり気にしていないと思います。計算ができて、実験と合えばそれでいい、という実用的な態度です。


Phrona: それはそれで健全かもしれませんね。でも、やっぱり時には立ち止まって、自分たちが何をやっているのか、何について語っているのかを考え直すことも大切そうです。


富良野: そうですね。特に、量子重力理論とか、まだ実験的検証が難しい分野では、理論の意味をしっかり考えることが重要になってくるでしょう。


Phrona: そういえば、この構造主義的な見方って、他の科学分野にも影響を与えそうじゃないですか?生物学とか、社会科学とか。


富良野: 面白い視点ですね。確かに、「個体」という概念も、実は関係性の束として理解した方がよいかもしれません。生態系では、個々の生物よりも、種間の関係性や物質循環の方が重要だったりしますし。


Phrona: 社会も同じですよね。個人の性質よりも、人々の関係性や制度の構造の方が、社会現象を理解するのに重要かもしれない。


科学的世界観の転換点


富良野: このベインの議論って、科学革命の一つの形かもしれませんね。コペルニクス的転回ならぬ、構造的転回というか。


Phrona: 地球中心から太陽中心へという転換と同じように、「もの中心」から「関係中心」への転換ですね。


富良野: そうです。ただ、これは単なる理論的な変化ではなく、僕たちの現実認識そのものに関わる問題でもある。科学が描く世界像が変われば、僕たちの自己理解も変わる可能性があります。


Phrona: でも、変化を恐れる必要はないのかもしれませんね。新しい見方が、より豊かな現実理解につながるかもしれないし。


富良野: そうですね。実際、構造主義的な見方は、還元主義的な世界観よりも、複雑性や創発性を大切にする視点を提供してくれるかもしれません。


Phrona: それに、「もの」がないからといって、現実が貧しくなるわけではないですよね。関係性や構造にも、十分に豊かさがある。


富良野: まさに。音楽の比喩に戻ると、個々の音符がなくても音楽は存在しないけれど、音楽の美しさは音符同士の関係にある。物理学も同じかもしれません。


Phrona: そう考えると、この構造主義的な物理学観って、案外人間的というか、詩的でもありますね。


富良野: 確かに、関係性や構造を重視する見方は、機械論的な世界観よりも、ずっと生き生きとした現実像を提供してくれるかもしれません。




ポイント整理


  • 相対論的量子場理論では古典的な粒子概念が破綻する

    • 粒子の局所化可能性と可算性を数学的に表現する演算子が定義できないため、従来の粒子解釈は成立しない

  • 場の解釈も同様の困難に直面する

    • 連続的な場という古典的概念も、相対論的文脈では問題を抱えており、粒子解釈の代替案にはならない

  • 構造主義的現実観の提案

    • 物理学の対象は「もの」ではなく「構造」——関係性、観測可能量、数学的枠組みそのものである

  • スケール相対的実在論

    • 何が実在するかは観測のスケールに依存し、特定の条件下では粒子的振る舞いが創発的に現れる

  • 測定の中心的役割

    • 「粒子がある」ではなく「測定可能な関係性がある」という視点への転換が必要

  • 哲学と物理学の協働

    • 物理学理論の存在論的意味を明確化するために、哲学的考察が不可欠である

  • 科学的世界観の根本的転換

    • 「もの中心」から「関係中心」への認識論的転回が進行中である



キーワード解説


【相対論的量子場理論(RQFT)】

特殊相対性理論と量子力学を統合した理論的枠組み


【局所数演算子】

特定の空間領域内の粒子数を計算する数学的道具


【全粒子数演算子】

システム全体の粒子総数を表現する演算子


【リー・シュリーダー定理】

量子場理論における真空状態の非局所的性質を示す重要な結果


【ハーグの定理】

相互作用する場の理論において、自由場とは数学的に異なる表現が必要であることを示す


【フォック空間】

粒子数が変動するシステムを記述する数学的構造


【創発】

複雑なシステムから、より高次のレベルで新しい性質が現れること


【道具主義】

科学理論は現実の記述ではなく、予測のための道具であるとする立場


【構造実在論】

物理的対象ではなく、数学的構造や関係性が実在の基盤であるとする哲学的立場



本稿は近日中にnoteにも掲載予定です。
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