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「進歩的ナショナリズム」は可能か──左派とネイションの困難な関係

更新日:2月19日

シリーズ: 知新察来


◆今回のピックアップ記事:Siniša Malešević, "Everyone's a nationalist, the Left needs to accept this" (Institute of Art and Ideas, 2026年1月6日)

  • 概要:ナショナリズムは過激な右派政治と結びつけられがちだが、実際には現代社会のあらゆる側面に浸透した支配的な世界観である。進歩派はナショナリズムを拒絶するのではなく、フランス革命の理念(自由・平等・友愛)に立ち返り、より包摂的で連帯的な形へと再構築すべきだと論じる。



ナショナリズムは右派のものだ——そんな思い込みを捨てよ、と社会学者シニシャ・マレシェヴィッチは言います。オリンピックで自国選手を応援し、「国産」のラベルに安心感を覚え、海外旅行で「日本人です」と名乗る。私たちの日常には、すでにナショナリズムが深く浸透している。ならば進歩派もこの現実を受け入れ、ナショナリズムを「より良い形」に作り変えるべきではないか——これが彼の提案です。


一見もっともらしい議論ですが、どこか引っかかるものがあります。「包摂的なナショナリズム」とは、そもそも成り立つ概念なのか。フランス革命の理念に回帰せよと言うけれど、その理念はなぜナポレオン戦争や植民地支配へと転化していったのか。福祉国家への誇りが、移民排斥の論理と紙一重になるのはなぜか。マレシェヴィッチの議論を入り口に、富良野とPhronaがナショナリズムの「飼い慣らし」という発想そのものを問い直します。




目新しいようで、そうでもない議論


富良野:マレシェヴィッチの議論、どう読みました?


Phrona:正直に言うと、前半は「そうだよね」という感じで、後半は「えっ、それで終わり?」という感じでした。


富良野:僕も似た印象です。ナショナリズムが日常に浸透しているという指摘自体は、マイケル・ビリッグが「バナル・ナショナリズム」という概念を提唱してから、もう30年近く経っている。


Phrona:天気予報の地図とか、スポーツ中継の「私たち」とか、国旗を模したロゴとか。目立たないけれど遍在している国民意識の再生産装置がある、という話ですよね。


富良野:そう。世論調査で8割が「国に誇りを持っている」と答えるというデータも、特に驚きはない。問題は、その先で何を言うかです。


Phrona:マレシェヴィッチは「だから進歩派もナショナリズムを使え」と言っている。でも、その「使い方」の提案がかなり薄いんですよね。


富良野:フランス革命の理念に立ち返れ、と。自由・平等・友愛。それ自体はいいとして、じゃあ具体的にどうするのかというと、NHSへの誇りとか、北欧の福祉国家とか。


Phrona:そこで私は「あれ?」と思ったんです。福祉国家への誇りって、すでに移民排斥の論理と深く結びついていますよね。「私たちが築いた福祉を、新参者に食い荒らされる」という語り。


富良野:デンマークやスウェーデンの右派ポピュリズムがまさにそれです。福祉ショービニズムと呼ばれる現象。



「包摂的ナショナリズム」という難問


Phrona:マレシェヴィッチは「包摂的で、熟議的で、連帯的で、平等主義的なナショナリズム」と言う。形容詞をたくさん並べているけれど、それが本当に可能なのかという問いには答えていない気がします。


富良野:ナショナリズムには構造的に「内と外」を分ける論理が含まれている。「私たち」を語るためには「彼ら」が必要になる。この境界線なしに、ナショナリズムは成立するんでしょうか。


Phrona:「誰でも仲間になれる」と言った瞬間、それはもうナショナリズムではなくなるのかもしれない。


富良野:シビック・ナショナリズムという概念がありますよね。血統や民族ではなく、共有された政治的価値観や制度への忠誠を基盤とする国民意識。


Phrona:アメリカの「憲法愛国主義」的なものですね。


富良野:ただ、それも実際には「アメリカ的価値観を共有しない者」を排除する論理として機能してきた歴史がある。冷戦期の赤狩りとか、9.11以降のムスリムへの監視とか。


Phrona:「開かれた条件」を設定しても、その条件を誰が判定するのかという問題が残る。結局、境界線は消えないで、引き方が変わるだけ。


富良野:しかも、その境界線は往々にして、既存の権力関係を反映してしまう。



フランス革命の教訓


Phrona:フランス革命に回帰せよという提案についても、ちょっと楽観的すぎませんか。


富良野:歴史を見れば、その理念がどこに行き着いたかは明らかですからね。ナポレオン戦争による「普遍的理念」の武力輸出、19世紀の植民地主義、第一次世界大戦のナショナリズムの爆発。


Phrona:「自由・平等・友愛」を掲げながら、アルジェリアを130年間支配していたわけで。


富良野:理念と現実のギャップ、で片付けていい問題じゃないと思うんです。むしろ、その理念自体に内在する論理が、排除や暴力に転化しやすい構造を持っていたのではないか。


Phrona:どういうことですか?


富良野:「人民主権」という考え方は、主権を持つ「人民」とは誰かという問いを必然的に呼び起こす。その境界画定の作業が、内部の異質な存在の排除や、外部への拡張と結びつきやすい。


Phrona:「真の人民」とは誰か、という問いが暴走するパターン。


富良野:フランス革命期のヴァンデの反乱への弾圧とか、ジャコバン派の恐怖政治とか。「人民の敵」を排除するという論理は、革命の初期段階からすでにあった。


Phrona:そう考えると、「原初の理念に戻れば大丈夫」という発想自体が問題を見誤っている気がしますね。



左派とナショナリズムの歴史


富良野:実は、左派がナショナリズムを動員しようとした歴史は長いんです。マレシェヴィッチもそれを意識しているとは思うんだけど、あまり踏み込んでいない。


Phrona:具体的には?


富良野:たとえば、20世紀の反植民地闘争。多くは社会主義とナショナリズムを結合させた形をとった。ベトナムにしてもアルジェリアにしてもキューバにしても。


Phrona:「民族解放」と「社会解放」を同時に掲げる。


富良野:それは帝国主義への抵抗としては有効だったけれど、独立後にどうなったかというと、必ずしも「包摂的で民主的な」社会にはならなかった。


Phrona:一党独裁とか、少数民族の抑圧とか。


富良野:ナショナリズムを進歩的な目的で動員したとしても、その論理自体が持つ排除の力学から逃れられなかった。これは歴史的に繰り返されてきたパターンです。


Phrona:イギリスの労働党も、ある時期まではかなりナショナリスティックな路線をとっていましたよね。


富良野:戦後のアトリー政権とか。NHSや福祉国家の建設は、確かに「国民的連帯」の語りと結びついていた。でも同時に、帝国の解体には消極的だった。


Phrona:「私たちの福祉」の範囲が、帝国の臣民を含むのかどうかという問題。


富良野:まさにそこです。進歩的な政策とナショナリズムの結合は、常に「誰を含み、誰を除外するか」という問いから逃れられない。



認識としては正しいが、処方箋が弱い


Phrona:でも、マレシェヴィッチの現状認識自体は間違っていないと思うんです。ナショナリズムが当分消えないという診断、進歩派がそれを無視すると政治的に不利になるという分析。


富良野:そこは同意します。「世界市民だと思うなら、どこの市民でもない」というレトリックで左派を攻撃するのは、右派の常套手段ですから。


Phrona:グローバリスト、エリート、根無し草——こういうラベリングに対して、左派がうまく応答できていないのは事実。


富良野:問題は、じゃあどうするかという話になったときに、処方箋があまりに素朴だということ。


Phrona:「フランス革命の理念に戻れ」「共有された制度を基盤にせよ」。言いたいことはわかるけど、なぜそれが今まで成功しなかったのかへの分析がない。


富良野:歴史的な失敗から何を学ぶか、という視点が欠けている。


Phrona:ナショナリズムを「使う」ことの危険性についても、ほとんど触れられていませんよね。一度その論理を受け入れると、どこで歯止めをかけるのか。


富良野:右派の土俵で戦うな、と彼は言っている。でも、ナショナリズムという言葉を使う時点で、ある程度その土俵に乗っているわけで。



国民国家という枠組み自体を問う


Phrona:もうひとつ気になるのは、国民国家という枠組みを所与のものとして受け入れすぎていないか、ということです。


富良野:「予見可能な将来にわたって存続する」と彼は言っていますね。だから解体を目指すのは現実的ではない、と。


Phrona:でも、気候変動とか、パンデミックとか、デジタル経済とか、国民国家の枠組みでは対処しきれない問題が増えている。


富良野:超国家的なガバナンスの必要性は高まっている。EUのような試みが困難に直面しているとしても、その方向性自体を放棄するわけにはいかない。


Phrona:「ナショナリズムを飼い慣らす」ことに労力を注ぐより、もっと別のアイデンティティや連帯の形を模索すべきではないか、という問いもあり得る。


富良野:階級とか、職業とか、世代とか、あるいは地域とか。国民という単位に還元されない集団的帰属意識の可能性。


Phrona:気候正義の運動なんかは、かなり越境的な連帯を作り出していますよね。グレタ・トゥーンベリから始まった若者たちの運動は、国籍よりも世代という軸で動員している。


富良野:ただ、それも政治的な力に変換しようとすると、結局は国民国家の意思決定プロセスを通らざるを得ない。選挙とか、立法とか。


Phrona:そこがジレンマですね。越境的な運動を作っても、実際に政策を変えるには国ごとの政治に働きかけないといけない。


富良野:その接点で、ある種のナショナリズム的な動員が必要になる場面も出てくる。「私たちの国をこう変えよう」という語り方。



誰を見えなくしているのか?


Phrona:結局、マレシェヴィッチの議論は「問題提起としては正しいが、解決策としては不十分」ということになるんでしょうか。


富良野:そう言ってしまうと少し意地悪かもしれないけど、核心的な難問を避けている印象はあります。「包摂的なナショナリズム」がなぜ歴史的に持続しなかったのか、なぜ排外主義に転化しやすいのか。


Phrona:ナショナリズムの「良い使い方」と「悪い使い方」を区別できるという前提自体が、楽観的すぎるのかもしれない。


富良野:道具として使いこなせるつもりで手に取ったものが、実は使い手を変えてしまう力を持っている——そういう可能性への警戒が薄い。


Phrona:かといって、ナショナリズムを完全に無視することもできない。世論調査の数字が示すように、人々の意識に深く根を下ろしている。


富良野:そこが厄介なところです。批判するだけでは代案にならないし、受け入れるだけでは取り込まれる危険がある。


Phrona:この論考の価値があるとすれば、その緊張関係を可視化したことかもしれませんね。左派がナショナリズムについて考えることを避けてきた、というのはたぶん正しい。


富良野:タブー視せずに向き合え、という呼びかけとしては意味がある。ただ、向き合った先で何をするかは、この論考を超えたところで考え続けないといけない。


Phrona:答えが出る種類の問いではないのかも。ナショナリズムと民主主義の関係、連帯と排除の力学、普遍と特殊の緊張——どれも政治思想の根幹に関わる難問ですから。


富良野:少なくとも、「フランス革命に戻れ」で解決するほど単純な話ではない。


Phrona:そこは同感です。歴史から学ぶとしたら、むしろ「なぜ何度も失敗してきたか」をもっと深く掘るべきなんでしょうね。


富良野:次に何かを試みるとしたら、過去の失敗のパターンを踏まえた上で、どこに落とし穴があるかを意識しながら進むしかない。


Phrona:進歩的ナショナリズム——もしそれが可能だとしても、薄氷を踏むような慎重さが必要だということですね。


富良野:慎重さと同時に、自分たちがやっていることへの絶え間ない反省も。「包摂的」と名乗りながら、誰を見えなくしているのか。常にその問いを手放さないこと。


Phrona:それこそがたぶん、この論考に欠けていたものですね。

 


 

ポイント整理


  • ナショナリズムの日常的遍在という認識自体は新しくない

    • マイケル・ビリッグの「バナル・ナショナリズム」論(1995年)以来、ナショナリズムが日常生活に浸透しているという指摘は社会科学で広く共有されてきた。マレシェヴィッチの議論はこの認識を再確認するものだが、その先の処方箋に問題がある。

  • 「包摂的ナショナリズム」という概念の難しさ

    • ナショナリズムには構造的に内と外を分ける論理が含まれている。「私たち」を定義するためには「彼ら」が必要であり、この境界線なしにナショナリズムは成立しない。包摂的であろうとすればするほど、ナショナリズムとしての動員力を失う可能性がある。

  • シビック・ナショナリズムの限界

    • 血統や民族ではなく共有された価値観を基盤とするシビック・ナショナリズムも、実際には「その価値観を共有しない者」を排除する論理として機能してきた歴史がある。境界線の引き方が変わるだけで、排除の構造自体は消えない。

  • フランス革命の理念は「回帰」の対象として適切か

    • 自由・平等・友愛の理念は、ナポレオン戦争による武力輸出、植民地支配、20世紀のナショナリズムの暴走へと転化した。「原初の理念に戻れば大丈夫」という発想は、なぜその理念が排除や暴力と結びついたかという分析を欠いている。

  • 人民主権の論理に内在する危険性

    • 「人民主権」は、主権を持つ「人民」とは誰かという境界画定の問いを必然的に呼び起こす。この問いは内部の異質な存在の排除や外部への拡張と結びつきやすく、革命期のフランスでも初期段階から「人民の敵」排除の論理が作動していた。

  • 左派によるナショナリズム動員の歴史的教訓

    • 20世紀の反植民地闘争は社会主義とナショナリズムを結合させたが、独立後に包摂的で民主的な社会を実現できたケースは少ない。戦後イギリスの労働党政権も、福祉国家建設と帝国維持の両立を図った。進歩的な目的での動員も、排除の力学から逃れられなかった。

  • 福祉ショービニズムの問題

    • 福祉国家への誇りを進歩的ナショナリズムの基盤にするという提案は、すでに「私たちの福祉を新参者に食い荒らされる」という移民排斥の論理と深く結びついている。北欧諸国の右派ポピュリズムがまさにこのレトリックを使っている。

  • 国民国家の枠組み自体への問い直しの必要性

    • 気候変動、パンデミック、デジタル経済など、国民国家の枠組みでは対処しきれない問題が増加している。「ナショナリズムを飼い慣らす」ことに労力を注ぐより、国民という単位に還元されない連帯の形を模索すべきではないかという問いも重要。

  • ナショナリズムを「道具」として使いこなせるという前提への疑問

    • 道具として使いこなせるつもりで手に取ったものが、使い手自身を変えてしまう力を持っている可能性がある。ナショナリズムの「良い使い方」と「悪い使い方」を区別できるという前提自体が楽観的すぎる。

  • 問題提起としての価値と処方箋の不十分さ

    • 左派がナショナリズムについて考えることを避けてきたという指摘、正面から向き合う必要があるという呼びかけには意味がある。しかし、向き合った先で何をするかについては、歴史的失敗のパターンを踏まえたより慎重な議論が必要。



キーワード解説


バナル・ナショナリズム(banal nationalism)】

社会学者マイケル・ビリッグが1995年に提唱した概念。国旗、天気予報の地図、スポーツ報道の「私たち」など、日常生活の中で目立たないが遍在する形で再生産される国民意識を指す。


シビック・ナショナリズム(civic nationalism)】

血統や民族ではなく、共有された政治的価値観、制度、市民としての権利義務を国民的帰属の基盤とするナショナリズムの形態。エスニック・ナショナリズムより開放的とされるが、実際には価値観の共有を条件とした排除が生じうる。


福祉ショービニズム(welfare chauvinism)】

福祉国家の恩恵を「本来の」国民に限定し、移民や外国人を排除すべきだという主張。北欧諸国の右派ポピュリズム政党が典型的に用いるレトリック。


人民主権(popular sovereignty)】

政治的権威の究極的な源泉は人民にあるという原則。民主主義の根幹をなす理念だが、「人民」の範囲をめぐる境界画定が排除や暴力と結びつく危険性も内包している。


フラテルニテ(fraternité)】

フランス革命のスローガンのひとつで「友愛」「同胞愛」を意味する。市民間の連帯と相互扶助を含意するが、「同胞」の範囲をめぐって排除の論理とも結びつきうる両義的な概念。


コスモポリタニズム(cosmopolitanism)】

国境を超えた人類全体への帰属意識や普遍的な道徳的義務を重視する思想。ナショナリズムへの対抗軸として提示されるが、「エリート主義」「根無し草」として攻撃されることも多い。


越境的連帯(transnational solidarity)】

国民国家の枠組みを超えて形成される集団的連帯。気候正義運動、労働運動の国際連帯、移民の権利運動などに見られるが、政策変更には各国の政治過程を経る必要があるというジレンマを抱える。



本稿は近日中にnoteにも掲載予定です。
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