「遅れている」はずの欧州は、AI競争の大穴になりうるか?
- Seo Seungchul

- 2月11日
- 読了時間: 13分

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事:Bernardo Kastrup, "Europe's last hope in the AI race" (Institute of Art and Ideas, 2026年1月5日)
概要:ヨーロッパのAI主権獲得の可能性について論じた記事。現在のAI産業がGPUの非効率な転用に依存していることを指摘し、ヨーロッパが精密工学の伝統と独自のチップ設計能力を活かすことで、製造技術の遅れを補い、真のAI主権を確立できると主張。著者自身の会社Euclydの事例を挙げながら、2030年までの実現可能性を説く。
AIの覇権争いといえば、アメリカと中国の二大巨頭が真っ先に思い浮かびます。莫大な資金、膨大なデータ、そして最先端の半導体製造技術。ヨーロッパはこの競争において、すでに周回遅れだと多くの人が考えています。実際、最先端のAIチップを製造できる工場(ファブ)はアジアに集中しており、ヨーロッパの半導体産業は自動車向けに特化してきた歴史があります。
しかし、本当にヨーロッパに勝ち目はないのでしょうか。オランダのAIハードウェア企業Euclydの創業者であり、心の哲学者でもあるベルナルド・カストラップは、意外な逆転の可能性を提示します。彼の主張の核心は、現在のAI産業が「途方もない非効率」の上に成り立っているという点です。もともとビデオゲーム用に設計されたGPUを無理やりAIに転用し、膨大な電力を浪費している。この構造的な歪みこそが、精密工学の伝統を持つヨーロッパにとってのチャンスになりうると。
今回は富良野とPhronaが、この刺激的な論考を読み解きながら、技術的主権とは何か、そして「追いつく」のではなく「ゲームのルールを変える」戦略について考えます。
「ソフトウェアで追いつく」という幻想
富良野:カストラップさんの議論で面白いのは、まずヨーロッパの業界で広まっている「常識」を否定するところから始めているところですね。AIモデル、つまりソフトウェアの開発で勝負すればいいじゃないか、という発想。
Phrona:製造で勝てないなら、せめてソフトウェアで、という気持ちはわかります。工場を建てるのに何十年もかかるなら、コードを書く方が早いですから。
富良野:ところが彼はそれを「脳手術で教育の問題を解決しようとするようなもの」と切り捨てている。AIの価値観、つまりアラインメントというのは、モデルの設計というよりトレーニングの結果だと。人間の価値観が脳の構造じゃなくて教育で決まるように。
Phrona:その喩えは鮮やかですね。でも、ちょっと待ってください。オープンソースのモデルがたくさんあるから、わざわざ自前で作る必要はない、という話もしていますよね。
富良野:ええ。アルゴリズム自体は論文で公開されていることが多いし、オープンソースのモデルも山ほどある。問題はそのモデルを訓練するのに莫大なハードウェア資源が必要だということです。結局、チップがなければ何も始まらない。
Phrona:ソフトウェアで逃げようとしても、ハードウェアの問題に引き戻される。
富良野:そういうことです。さらに言えば、HEMs、ハードウェア・イネーブルド・メカニズムというものがある。これはチップに物理的に組み込まれた安全機構で、ソフトウェアでは代替できない。書き換えられないからこそ信頼できる、ということです。
自動車産業という「城」の功罪
Phrona:ヨーロッパの半導体産業が自動車に特化してきた、という話は興味深いです。それ自体は合理的な選択だったはずなのに。
富良野:そうなんです。自動車って、スマートフォンと違ってイノベーションサイクルが長い。毎年新しいモデルを出す必要がないから、チップの開発にそこまで急かされない。
Phrona:それに、車の中でチップが占めるコストって、エンジンやシャシーに比べたら小さいですよね。
富良野:電力消費もそう。車を動かすエネルギーに比べれば、チップの消費電力なんて誤差みたいなものです。だからヨーロッパの半導体産業は、コストや電力効率よりも信頼性を重視してきた。
Phrona:一方でアジア、特に台湾や韓国は、スマートフォン市場に引っ張られた。
富良野:小さなバッテリーで動かさないといけない、しかも毎年新しいモデルを出して買い替えてもらわないといけない。そうなると、より高性能で、より省電力で、より安いチップを作り続けるプレッシャーがかかる。
Phrona:その結果として、製造技術でアジアが先行した。でもそれは、ヨーロッパが「怠けていた」わけじゃなくて、別のゲームをしていたということですよね。
富良野:その通りです。ただ、皮肉なことに今、その自動車という「城」自体がアジアのEVメーカーに攻め込まれている。
Phrona:顧客基盤を多様化しないといけない。そこでAIが浮上してくる。
ビデオゲームから始まった「歪み」
富良野:カストラップさんの議論で僕が一番面白いと思ったのは、NVIDIAの成功を「偶然の産物」と位置づけているところです。
Phrona:もともとビデオゲームのグラフィック用に設計されたチップが、たまたまAIにも使えた、と。
富良野:そう。トランスフォーマー、これはChatGPTなんかの基盤になっているアルゴリズムですけど、これが開発されたとき、専用ハードウェアを待たずに既存のGPUで動かせることがわかった。そこからNVIDIAの躍進が始まった。
Phrona:でも「たまたま使えた」ということは、最適化されていないということでもある。
富良野:まさにそこがポイントです。カストラップさんは「トランスフォーマーは本質的にローカルで分散的なデータと制御の流れを持っているのに、巨大なビデオゲームのようにグローバルなデータを扱うふりをしている」と書いている。
Phrona:ちょっと専門的ですね。もう少しかみ砕くと?
富良野:うーん、たとえばこう考えてみてください。ビデオゲームのグラフィックって、画面全体を一度に処理する必要がある。全体の座標系があって、その中でキャラクターが動く。でもAIの言語処理は違う。文章を順番に、文脈を保ちながら処理していく。必要な情報はもっと局所的なんです。
Phrona:全然違う作業を、同じ道具でやっているようなものですね。
富良野:そうです。だから途方もなく電力を食う。国際エネルギー機関の予測では、2030年にAIデータセンターの電力消費は世界全体の約3%になる。
Phrona:原子力発電所をデータセンターの隣に建てる計画があるという話、冗談かと思っていました。
富良野:冗談じゃないんですよ。NVIDIAにとって、この非効率は必ずしも問題じゃない。非効率なチップを大量に売る方が、効率的なチップを少数売るより儲かるかもしれないから。
Phrona:買う側が支払いに応じる限りは。
「精密工学」という逆転のカード
Phrona:でも、製造技術で追いつけないなら、設計が優れていても意味がないのでは?
富良野:そこがカストラップさんの主張の核心です。彼の会社Euclydは、NVIDIAの100倍効率的なシステムを設計したと主張している。
Phrona:100倍。それは本当なんでしょうか。
富良野:正直、検証のしようがない部分はあります。ただ、理屈としては筋が通っている。汎用的なビルディングブロックを寄せ集めるのではなく、AIワークロードに特化して一から設計すれば、大幅な効率改善は理論的に可能です。
Phrona:彼が使っている「象の尻尾だけ必要なのに、象全体をチップに入れてしまう」という比喩、わかりやすいですね。
富良野:過去50年、半導体業界では「市場投入の速さ」と「エンジニアリングコストの削減」が最優先されてきた。だから汎用部品を組み合わせる方式が主流になった。でもAIでは計算が変わった。
Phrona:効率がボトルネックになっている。
富良野:そうです。AIモデルの訓練コストは世代ごとに急上昇している。数十億ドル規模です。その大部分が、非効率なハードウェアを大量に動かすためのコスト。
Phrona:ヨーロッパの精密工学の伝統が活きる余地がある、と。
富良野:カストラップさんはこう書いています。「ますます非合理的になっている市場において、昔ながらの技術的能力がスーパーパワーになりうる」と。
「追いつく」ではなく「ルールを変える」
Phrona:でも、設計が100倍効率的だとして、製造で50%のハンデがあったら、50倍のアドバンテージが残る。そういう計算ですよね。
富良野:ええ。もっと保守的に見ても、設計の優位性を全部使って製造の遅れを相殺するだけでも、競争力のある製品ができるかもしれない。
Phrona:面白いのは、彼が「消費者向け市場では勝てない」と認めているところです。
富良野:正直ですよね。ハイパースケールのデータセンター市場、つまりGoogleやAmazonが使うような規模では、量と価格のプレッシャーが大きすぎる。でも政府システム、軍事、金融、企業の機密システム、こういった領域は違う。
Phrona:価格感度が低くて、量も少なくて済む。しかも扱うデータは極めてセンシティブ。
富良野:市民データベース、企業秘密、軍事技術、経済データ。まさにそういうところでこそ、主権が問題になる。
Phrona:全部を取りに行くのではなく、本当に必要な領域に集中する。
富良野:そう。そしてそういう領域では、ヨーロッパのハンデが最も影響しにくい。
断片化という本当の問題
Phrona:記事の後半で、ヨーロッパの様々な技術的取り組みが列挙されていますね。フランスのCEA-Leti、ベルギーのIMEC、ドイツのInfineon…。
富良野:それぞれ世界レベルの研究開発をしている。問題は、断片化しているということです。
Phrona:「AIのためのマンハッタン計画」とか「AIのためのCERN」という表現がありましたね。
富良野:CERNは素粒子物理学の研究で、ヨーロッパ諸国が共同で運営している機関です。そういう大陸規模の結集が必要だと。
Phrona:資金はあるのに、何百もの会社に少しずつばらまいている。結果として誰も十分な資金を得られない。
富良野:ディープテックの開発には何億ユーロも必要なのに、一社あたり一千万、二千万ユーロでは話にならない。
Phrona:有望なプレイヤーに集中投資する勇気が必要、と。
富良野:そして、間違った選択をするリスクを受け入れる。
Phrona:それは政治的に難しいですよね。どの国の会社に投資するか、という問題になる。
富良野:カストラップさんは「どの国にあるかに関係なく」と書いていますが、現実には各国の思惑がある。
哲学者がハードウェアを語る意味
Phrona:最後に気になったのは、著者の立ち位置です。心の哲学者であり、コンピュータエンジニアであり、AIハードウェア会社のCEO。
富良野:面白い組み合わせですよね。彼は分析的観念論、簡単に言えば「意識が根本的で、物質はその現れである」という立場の哲学者としても知られています。
Phrona:その人がなぜハードウェアに?
富良野:記事の冒頭で、ヨーロッパの価値観、個人の自由、民主主義、人権、消費者保護、権力の分散…こういったものを守るためにはAIを自分たちの手でコントロールする必要がある、と書いています。
Phrona:技術的主権は、結局のところ政治的・文化的主権の問題でもある。
富良野:そう。「東からも西からも脅かされている」という最後の一文は、なかなか重い。
Phrona:アメリカと中国の両方から、という意味ですよね。
富良野:技術を通じた影響力という点では、同盟国であっても完全に信頼できるわけではない、ということでしょう。
Phrona:それは冷戦的な発想なのか、それとも現実的な危機感なのか。
富良野:僕は、少なくとも問いとしては真剣に受け止めるべきだと思います。AIが社会のあらゆる側面に浸透していく中で、そのインフラを誰が握るのかは、本当に重要な問題ですから。
Phrona:「追いつく」のではなく「ゲームのルールを変える」。そのためには、まず現状の非合理性を見抜く目が必要で、それは哲学者の仕事なのかもしれませんね。
ポイント整理
ソフトウェアによるAI主権は幻想
AIモデルの価値観(アラインメント)はソフトウェア設計ではなくトレーニングによって決まるため、ヨーロッパ独自のモデル開発だけでは主権を確保できない。オープンソースモデルは豊富に存在し、問題はそれを訓練するためのハードウェア資源にある。
ハードウェア・イネーブルド・メカニズム(HEMs)の重要性
真のAIアラインメントには、ハッキング不可能な形でチップに組み込まれた安全機構が必要であり、これはソフトウェアでは代替できない。
ヨーロッパ半導体産業の自動車特化
ヨーロッパの半導体産業は自動車市場に適応してきたため、コストや電力効率よりも信頼性を重視してきた。一方、アジアはモバイルデバイス市場の圧力により、高効率・低コスト・省電力のチップ開発で先行した。
現在のAIハードウェアは構造的に非効率
NVIDIAのGPUはビデオゲーム用に設計されたものをAIに転用しており、トランスフォーマーの本質的なワークロード特性(ローカルで分散的なデータ・制御フロー)に最適化されていない。
電力消費の危機的状況
国際エネルギー機関の予測では、2030年にAIデータセンターの電力消費は945TWhに達し、世界全体の電力消費の約3%を占める。この非効率は持続不可能。
設計効率による製造ラグの補償
AI専用に一から設計されたチップは、既存GPUの最大100倍の効率を達成しうる。この設計優位性を「予算」として使い、製造技術の遅れを相殺することが可能。
ターゲット市場の絞り込み
消費者向け・ハイパースケール市場では競争困難だが、政府・軍事・金融・企業システムなど、価格感度が低く量も少なく、かつデータの機密性が高い領域では欧州製ハードウェアが競争力を持ちうる。
断片化した取り組みの統合が必要
ヨーロッパには世界レベルの技術(CEA-Letiの先進プレーナーノード、IMECの3Dパッケージング、Infineonのパワーエレクトロニクスなど)が存在するが、投資が分散しており「AIのためのCERN」のような大陸規模の結集が必要。
2030年までの実現可能性
適切な政策、集中投資、大陸横断的な協調により、ヨーロッパのAI主権は今後数年以内に達成可能だと著者は主張する。
キーワード解説
【AI主権(AI Sovereignty)】
自国・地域内でのAI技術の開発・運用・規制を外国に依存せず自律的に行える状態。ハードウェアからソフトウェア、データまでのサプライチェーン全体の自立を含む。
【アラインメント(Alignment)】
AIシステムの振る舞いを人間の価値観や意図に沿ったものにすること。モデルの設計よりもトレーニングとパラメータ調整によって主に決定される。
【ファブ(Fab)】
半導体製造施設(Fabrication Facility)の略称。最先端のファブは数兆円規模の投資と長年の技術蓄積を必要とする。
【GPU(Graphics Processing Unit)】
元々はビデオゲームの画像処理用に設計されたプロセッサ。並列処理能力が高いためAIの訓練に転用されているが、AI専用設計ではない。
【トランスフォーマー(Transformer)】
2017年に発表された深層学習アーキテクチャ。ChatGPTなど現代の大規模言語モデルの基盤技術。注意機構(Attention)により文脈を効果的に処理する。
【FinFET】
立体的な「フィン」構造を持つトランジスタ技術。従来のプレーナー型より高性能・省電力だが、製造が難しく熱管理にも課題がある。
【プレーナーノード(Planar Node)】
平面的な構造を持つ従来型のトランジスタ技術。FinFETより性能は劣るが、製造歩留まりが高く信頼性に優れる。
【HEMs(Hardware Enabled Mechanisms)】
ハードウェアに物理的に組み込まれた安全・制御機構。ソフトウェアと異なり改変が困難なため、AIの安全性担保に重要。
【3Dパッケージング】
複数のチップを垂直方向に積層する技術。チップ間の通信を高速化し、全体の性能と効率を向上させる。
【IMEC】
ベルギーにある世界最先端の半導体研究機関。次世代製造技術の開発で世界をリードしている。
【CEA-Leti】
フランスの原子力・代替エネルギー庁傘下の研究機関。先進的な半導体技術の研究開発を行う。