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なぜ人は自分の利益に反する政治的判断をするのか?──「聖なる価値観」が分極化社会を生む理由

更新日:7月4日

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シリーズ: 知新察来


◆今回のピックアップ記事:Steven Sloman "Why We Live in Alternate Political Realities" (Institute of Art and Ideas, 2025年6月24日)


政治的な出来事が起こるたび、左右の陣営はまったく異なる結論に達します。まるで私たちが別々の現実を生きているかのように。同じニュースを見ても、なぜこれほど解釈が分かれるのでしょうか。そして時として、人々は自分の経済的利益に明らかに反する政治的選択をすることがあります。貧困に苦しむ人が福祉削減を支持する政治家に投票したり、既得権を持つ白人男性がダイバーシティ推進を熱心に支持したり。これは一体どういうことなのでしょうか。


認知科学者スティーブン・スローマンは、この現象を理解する重要な手がかりを提示しています。私たちが政治的判断をする際、事実や結果よりも「聖なる価値観」を優先してしまうからだというのです。この価値観は絶対的で、妥協を許さず、証拠よりも信念を重視します。左右どちらの陣営も、この罠にはまっているのです。



なぜ飛行機事故の原因をすぐに断定したがるのか


富良野:スローマンが挙げている例が印象的でしたね。軍用ヘリコプターが民間機に衝突した事故で、トランプ大統領が即座にDEI、つまり多様性・公平性・包摂性の取り組みのせいだと断定した話。


Phrona:詳しい調査をまったく待たずに、ですよね。実際にはヘリコプターの乗員が夜間視力ゴーグルの訓練中だったという技術的な要因があったのに。


富良野:あれは典型的な聖なる価値観による判断の例だと思うんです。トランプにとってDEIは「絶対的に悪いもの」という価値観があるから、何かまずいことが起これば、とりあえずDEIのせいにしておけばいいという。


Phrona:でも、これって彼だけの問題じゃないですよね。スローマンも指摘していますが、DEI推進派の人たちも同じことをやっていると。DEI研修の効果に疑問があることは以前から指摘されていたのに、それを無視して推進し続けてきた。


富良野:そう、まさに聖なる価値観の逆向きの発動ですね。「多様性は絶対に良いものだ」という信念があるから、結果を検証することなく制度を作り続けた。どちらも同じ思考パターンに陥っている。


Phrona:興味深いのは、国家運輸安全委員会のような専門機関の調査方法との対比です。彼らは徹底的に時間をかけて、証拠を積み上げて、因果関係を慎重に特定する。


富良野:それは結果主義的なアプローチですね。つまり、どういう結果が生じるかを重視する考え方。一方で政治的な判断は、しばしば聖なる価値観から出発してしまう。


世界は複雑すぎて、私たちには簡単化が必要


Phrona:でも考えてみると、世界って本当に複雑ですよね。飛行機事故の原因だって、パイロットのミス、気象条件、航空管制の問題、機械の故障、訓練の問題...無数の要因が絡み合っている。


富良野:そうなんです。スローマンが言うように、世界は複雑すぎて普通の人間には細部まで理解できない。だから私たちは様々な方法で簡略化せざるを得ない。


Phrona:政党政治なんかもそうですよね。前回投票した政党に今回も投票するという単純なルールを使えば、いちいち政策を詳しく調べなくて済む。


富良野:それ自体は合理的な選択なのかもしれません。でも問題は、政策課題について判断するときにも同じような簡略化をしてしまうこと。特に聖なる価値観に基づく簡略化は危険だと思うんです。


Phrona:なぜ危険なんでしょう?


富良野:聖なる価値観って絶対的で妥協を許さないものだから。しかも証拠を必要としない。「これは正しいことか、間違ったことか」という判断基準で動くので、「実際に何が起こったのか」という事実への関心が薄れてしまう。


Phrona:ああ、なるほど。現実よりも理想が先に来るということですね。それが両極化を生む土壌になっていく。


聖なる価値観はなぜ生まれ、どう機能するのか


富良野:ただ、聖なる価値観自体が悪いわけじゃないと思うんです。スローマンも良い市民であるためには一定の聖なる価値観が必要だと言っています。


Phrona:たとえば「他人を傷つけてはいけない」みたいな道徳的な原則は、絶対的である必要がありますもんね。いちいち結果を計算して「今回は傷つけてもいいかな」なんて考えていたら、社会が成り立たない。


富良野:宗教的なコミュニティなんかを見ても、共通の聖なる価値観が人々を結束させている。祈り、断食、戦い、あるいは特定の食べ物や行為の禁止といった。


Phrona:でも政治の世界でそれが前面に出すぎると、話し合いができなくなってしまう。お互いの価値観が絶対的で譲れないものだから。


富良野:そこなんですよね。文化戦争と呼ばれる現象の背景には、まさにこの聖なる価値観の衝突があると思います。右派は「真のアメリカを取り戻す」という価値観に、左派は「多様性と包摂に基づくアメリカを作る」という価値観に動かされている。


Phrona:どちらも行動への呼びかけになっているのが興味深いですね。ただの考えじゃなくて、「こうあるべきだ」「こうしなければならない」という強い動機を生む。


富良野:だからこそ、自分の経済的利益に反してでも政治的選択をしてしまう。貧しい白人が福祉削減政治家を支持するのも、豊かな白人男性がDEIを支持するのも、物質的利益より価値観を優先しているから。


Phrona:それって、ある意味では人間らしいことなのかもしれませんね。純粋に損得だけで動く存在じゃない、というか。


結果を考えることで対話は可能になるか


富良野:スローマンが提案している解決策が興味深いんです。聖なる価値観ではなく、結果について語ることで対話を可能にしようという。


Phrona:たとえば、銃規制の問題で「憲法修正第2条の権利だから」とか「人権だから」とか言い合うんじゃなくて、「この政策でどんな結果が生まれるか」を議論するということですね。


富良野:そうそう。実際、銃規制に賛成の人も反対の人も、多くは「殺人率を下げたい」「自殺率を下げたい」「乱射事件を減らしたい」という同じ結果を望んでいる。


Phrona:価値観のレベルでは水と油でも、望む結果については意外と共通点があるかもしれない。そこから対話を始められれば...


富良野:ただ、これも簡単じゃないでしょうね。結果について語るのは、聖なる価値観について語るより認知的に負荷が高い。複雑で、不確実で、証拠を集めて分析する必要がある。


Phrona:しかも政治家にとっては、結果について語るより聖なる価値観について語る方が票になりやすいですもんね。スローマンが例に出していましたが、クリントンは政策重視で詳細な結果を論じたけど、トランプは「これは良い、これは悪い」の単純なメッセージで勝った。


富良野:現実的に考えると、政治の世界で結果主義を徹底するのは難しいかもしれません。でも少なくとも、自分たちが聖なる価値観の罠にはまっていることを自覚するだけでも意味があるのかな。


Phrona:そうですね。「これは価値観の問題なのか、それとも結果の問題なのか」を意識的に区別して考える習慣を身につけるとか。


私たちはこの分極化から抜け出せるのか


富良野:でも悲観的に見えるのは、この傾向がますます強くなっているように感じることです。ソーシャルメディアの影響もあって、似たような価値観の人たちで固まって、ますます極端な方向に向かっていく。


Phrona:確証バイアスの問題もありますよね。自分の聖なる価値観を強化してくれる情報ばかり集めて、反対の証拠は無視する。そして誤情報の方が拡散しやすいという。


富良野:先日話した心理学者のジョナサン・ハイトも、『The Righteous Mind』で「道徳的直感が先で、理性的正当化は後」って言ってましたよね。


Phrona:ああ、確かに。人は先に「これは正しい」「これは間違っている」と感じて、その後で理由を後付けするっていう。スローマンの聖なる価値観も同じ構造ですね。


富良野:そうそう。しかもハイトは左右で重視する道徳基盤が違うって言ってたでしょう。左派はケアや公正を重視して、右派は忠誠や権威、神聖さを重視するって。これもスローマンの言う聖なる価値観の具体例だと思うんです。


Phrona:興味深いのは、どちらの研究者も、この現象を単純に「非合理」として片付けていないことですね。ある種の適応的な機能があることを認めている。


富良野:まさに。そしてこれって、政治学者カール・シュミットの友敵理論とも繋がってくる気がします。シュミットは政治の本質は友と敵の区別にあるって言ったけど、聖なる価値観もまさにその境界線を引く機能を果たしている。


Phrona:なるほど、聖なる価値観を共有する人は「友」で、それに反する人は「敵」として認識されるということですね。しかもその境界線は交渉不可能だと。


富良野:スローマンは、未来については誰も確実なことは言えないという不確実性の空間に着目しています。そこに対話の余地があるかもしれないと。


Phrona:どんなに価値観が違っても、「何が起こるかわからない」という部分では謙虚になれるかもしれませんね。


富良野:ただ、僕はもう少し構造的な問題もあると思うんです。政治制度、メディアの在り方、教育システム...個人の意識改革だけでは限界があるかもしれない。


Phrona:でも個人レベルでできることもありそうです。たとえば「なぜそう思うのか」を説明してもらうことで、人は少し謙虚になるという研究もスローマンは紹介していましたね。


富良野:そう、説明を求められると自分の理解の浅さに気づくという。これは知識の錯覚と呼ばれる現象ですね。


Phrona:私たちって、実際よりもずっと多くのことを理解していると思い込んでいる。でも詳しく説明しようとすると、意外と分かっていないことに気づく。


富良野:それが少しでも"intellectual humility"、知的な謙譲さにつながれば、極端な立場は和らぐかもしれませんね。


Phrona:結局のところ、完璧な解決策はないのかもしれません。でも聖なる価値観と結果主義のバランスを意識して、時と場合によって使い分けられるようになれば、少しはましになるのかな。


富良野:そうですね。全てを結果で判断する冷血な社会も嫌だし、全てを価値観で判断する独善的な社会も嫌だ。両方の知恵を使い分ける成熟した判断力が求められているのかもしれません。




ポイント整理


  • 政治的判断において、人々は事実や結果よりも「聖なる価値観」を優先する傾向がある

  • 聖なる価値観は絶対的で妥協を許さず、証拠よりも信念を重視するため、社会の分極化を促進する

  • この現象は左右どちらの政治的陣営にも見られ、DEI政策を巡る対立はその典型例である

  • 世界の複雑さに対処するため、人間は様々な簡略化の方法を使うが、聖なる価値観による簡略化は特に危険である

  • 聖なる価値観自体は道徳的生活に必要だが、政策判断では結果を重視するアプローチが対話を可能にする

  • 人々が自分の経済的利益に反する政治的選択をするのは、物質的利益より価値観を優先するからである

  • 結果について語ることで、対立する陣営の間にも共通の望ましい目標を見つけられる可能性がある

  • 完璧な解決策はないが、聖なる価値観と結果主義を状況に応じて使い分ける知恵が求められる


キーワード解説


【聖なる価値観(Sacred Values)】

絶対的で譲れない価値基準。証拠や結果よりも「正しさ」や「間違い」の原則を重視する


【結果主義(Consequentialism)】

行動の良し悪しを、その結果や帰結によって判断する考え方


【知識の錯覚(Knowledge Illusion)】

実際よりも多くのことを理解していると錯覚する認知バイアス


【文化戦争(Culture Wars)】

価値観や生活様式を巡る社会的・政治的対立


【確証バイアス(Confirmation Bias)】

自分の既存の信念や仮説を支持する情報を選択的に収集・解釈する傾向


【DEI】

Diversity(多様性)、Equity(公平性)、Inclusion(包摂性)の頭文字。組織における多様性推進の取り組み


【分極化(Polarization)】

社会の中で異なる意見や立場が極端な方向に分かれていく現象



本稿は近日中にnoteにも掲載予定です。
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