ひとつの神経細胞が語る、脳の巧妙な分業システム
- Seo Seungchul

- 9月6日
- 読了時間: 7分
更新日:9月11日

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事:Freda Kreier "One Neuron, Two Behaviors" (Neuroscience News, 2025年7月8日)
腐った果物の匂いを嗅いだショウジョウバエは、その方向へ歩き始めると同時に歩くスピードも上げていきます。でも、この二つの行動って、実は脳の中で全く違う回路が制御していることが分かったんです。
しかも驚くのは、その起点となっているのは同じひとつの神経細胞。同じ信号を受け取った神経細胞が、下流に向かって全く異なる二つの指令を送り分けているという話なんです。
イェール大学の研究チームが明らかにしたこの発見は、私たちが考えていた以上に脳の神経回路が効率的で巧妙な仕組みを持っていることを教えてくれます。ひとつの神経細胞が複数の機能を持つという「多機能性」は、実は様々な動物に共通して見られる現象らしく、これまでザリガニから線虫、マウス、そして人間でも確認されているとか。
富良野とPhronaが、この小さな発見から見えてくる、脳という巧妙なシステムの秘密について語り合います。効率性と複雑性のバランス、そして私たちの行動や判断がどのように生まれているのか。きっと新しい視点が見えてくるはずです。
一つの信号、二つの行動
富良野:ショウジョウバエが腐った果物の匂いを嗅いだとき、同じ神経細胞からの信号が二つの全く違う行動を引き起こすって話、すごく面白いですね。
Phrona:そうそう、方向転換と速度調整っていう、別々の機能が同じ起点から生まれてるんですよね。なんというか、一人の人が同時に二つの全く違う指示を出してるみたいで。
富良野:まさにそう。しかも下流の二つの神経細胞、LHN1とLHN2って呼んでるんですが、これらが同じ信号を受け取っても、電気的な反応が全然違うんです。LHN1は匂いがある限りずっと安定した電流を保つけど、LHN2は一瞬だけスパイクして、すぐに落ち込む。
Phrona:その違いが行動の違いに直結してるのが興味深いですよね。LHN2を機能停止させたハエは、匂いが濃くなってもスピードを上げられなくなったとか。
富良野:そうなんです。つまりLHN2は「もっと急げ」っていう指令を担当してる。一方でLHN1を止めると、匂いが薄くなった瞬間に動きを止めちゃう。こっちは「進み続けろ」という持続的な指令を出してるんですね。
Phrona:でも不思議じゃないですか?なんで一つの神経細胞が二つの仕事を同時にやってるんでしょう。分けて考えた方がシンプルな気もするけど。
富良野:そこが研究者も着目してるポイントで、効率性の問題なのかもしれません。研究チームのジーンさんが言ってるんですが、「すべての情報を基本的に一つの神経細胞に集約できる」って。
効率性という名の謎
Phrona:効率性かあ。でも私、ちょっと違う見方もできそうな気がするんです。単に効率だけじゃなくて、何か生存上の理由があるんじゃないかって。
富良野:というと?
Phrona:たとえば、匂いの方向に向かうことと、スピードを上げることって、本来は連動してるけど、時には分けて考える必要があるじゃないですか。危険が迫ってる時は方向は変えずにスピードだけ調整したいかもしれない。
富良野:なるほど、柔軟性ですね。確かに、一つの信号から複数の選択肢を生み出せるっていうのは、環境の変化に対応しやすくなる。
Phrona:そうそう。それに、この仕組みって実は私たちの日常でも似たようなことがありそう。たとえば、美味しそうなケーキを見た時、「近づきたい」気持ちと「早く食べたい」気持ちって、同じ「美味しそう」という認識から生まれてるけど、微妙に違う反応ですよね。
富良野:面白い例えですね。でも確かに、人間の場合はもっと複雑で、同じ刺激に対して相反する反応が同時に起きることもある。ケーキを見て「食べたい」と「太りたくない」が同時に湧いてくるみたいに。
Phrona:そうなんです。ショウジョウバエの場合は比較的シンプルで、どちらも「腐った果物に向かう」という大きな目標に向かってるけど、私たちの脳はもっと複雑な分岐をしてそう。
神経回路の設計思想
富良野:この研究で僕が興味深いと思うのは、シナプスの動作特性の違いなんです。持続的な反応を作るシナプスは、抑制から素早く回復して継続的な伝達を維持する。一方で一時的な反応を作るシナプスは、回復が遅くて継続伝達はできないけど、スパイク率が上がると促進される。
Phrona:つまり、同じ材料を使って全く違う性格のシナプスを作り分けてるってことですか?
富良野:そういうことです。これって、設計思想としてすごく興味深い。部品レベルでの微細な調整によって、システム全体の振る舞いを大きく変えている。
Phrona:なんだか、楽器のチューニングみたいですね。同じ弦楽器でも、張り具合や材質を変えることで全く違う音色を出せる。神経細胞も、シナプスという「調律」によって異なる機能を発揮してるのかな。
富良野:その比喩、すごくしっくりきます。しかも面白いのは、この調律が進化の過程で最適化されてきたってことでしょうね。効率的であり、かつ柔軟性も保てる設計になってる。
Phrona:でも、この多機能性って、ある意味でリスクでもありますよね。一つの神経細胞に問題が起きたら、複数の機能が同時に失われちゃう。
富良野:確かに。でも逆に考えると、この研究のようにシステムレベルで冗長性があるのかもしれない。LHN1とLHN2は異なる機能を持ちつつも、お互いに補完し合えるような仕組みがあるのかも。
人間の脳への示唆
Phrona:この発見って、人間の脳の理解にも繋がりそうですよね。私たちも一つの情報から複数の判断や行動を同時に生み出してることが多いし。
富良野:そうですね。研究チームも、この多機能性はザリガニから人間まで広く見られる現象だって言ってます。ということは、脳の基本的な設計原理の一つなのかもしれない。
Phrona:たとえば、人の顔を見た時に、「誰か」を認識すると同時に、「感情」も読み取って、「どう反応するか」も決めてる。これって、一つの視覚情報から複数の処理が並列で走ってるってことですよね。
富良野:まさに。しかも興味深いのは、この研究では「回路の構造」と「回路の機能」を結びつける「ロゼッタストーン」を作りたいって研究者が言ってることです。つまり、構造を見ただけで機能が予測できるようになれば、脳の理解は格段に進む。
Phrona:それって、すごいブレイクスルーになりそう。でも同時に、脳の複雑さを改めて感じますね。ショウジョウバエでさえこんなに精巧な仕組みを持ってるなら、人間の脳はどれほど複雑なんだろう。
富良野:でも逆に言えば、基本原理は共通してるのかもしれません。複雑さは、この基本的な仕組みの組み合わせや規模の問題で、根本的な設計思想は案外シンプルなのかも。
Phrona:なるほど。シンプルな仕組みの積み重ねが、結果として複雑で豊かな行動や思考を生み出してる。それって、なんだか希望的な話でもありますね。私たちの心の働きも、もしかすると理解可能な範囲にあるのかもしれない。
ポイント整理
一つの神経細胞が複数機能を持つ
ショウジョウバエの嗅覚神経では、同じ神経細胞から異なる二つの行動指令が生まれている
シナプスレベルでの調整
下流の神経細胞への伝達方法の違いによって、持続的な信号と一時的な信号を作り分けている
効率的な情報処理
一つの神経細胞に情報を集約することで、コンパクトながら多機能な神経回路を実現
進化的に保存された仕組み
この多機能性は、ザリガニから人間まで様々な動物で確認されている普遍的な現象
構造と機能の関係解明
神経回路の接続パターンから機能を予測する「ロゼッタストーン」開発への期待
キーワード解説
【グロメラー投射神経細胞(PN)】
嗅覚情報を中継する二次神経細胞
【側角神経細胞(LHN)】
嗅覚情報を処理する三次神経細胞
【シナプス可塑性】
神経細胞間の接続強度が変化する性質
【促進と抑制】
シナプス伝達が強くなる現象と弱くなる現象
【多機能神経細胞】
一つの神経細胞が複数の異なる機能を担う現象
【分岐回路】
一つの入力から複数の異なる出力を生み出す神経回路
【エチルアセテート】
腐った果物から放出される化学物質(ショウジョウバエの食物信号)