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人的資本と人種格差──労働市場の見えない壁について考える


シリーズ: 論文渉猟


◆今回の論文:Owen Thompson "Human Capital and Racial Inequality in the US Labor Market" (NBER Working Paper, 2025年9月)

  • 概要:アメリカ労働市場における人種格差を人的資本の観点から分析し、教育水準や能力測定値の格差が解消された場合の賃金・雇用格差への影響を検討した研究。



アメリカの労働市場では、今も黒人と白人の間に大きな賃金格差が存在しています。この格差は、教育水準や能力テストの得点といった人的資本の違いだけでは説明しきれない部分が多いのです。もし教育格差がすべて解消されたとしたら、賃金格差はどこまで縮まるのでしょうか?そして残る格差は何を意味するのでしょうか?


この問題を理解することは、現代社会における構造的不平等の本質を見抜く上で欠かせません。富良野とPhronaの対話を通じて、人的資本理論の限界と、労働市場に潜む見えない障壁について考えてみましょう。単純な数字の裏にある、複雑で微妙な社会の仕組みが見えてくるかもしれません。


 


数字が語るもの、語らないもの


富良野:この論文、すごく興味深いですね。人的資本の格差を完全に解消したとしても、賃金格差は完全にはなくならないという結果が出ている。これって、僕らが考えてきた「教育さえあれば平等」という前提を根本から揺さぶる話ですよね。


Phrona:そうですね。でも、この「人的資本」という言葉自体が気になるんです。人間の能力を資本として捉える視点って、なんだか冷たくないですか?まるで人を投資対象みたいに見ているような。


富良野:確かに言葉は冷たいけど、実際の政策論議では避けて通れない概念でしょう。教育投資の効果を測るときに、どうしても定量化が必要になる。ただ、Phronaさんの指摘は重要で、人的資本理論って、測れるもの以外を見落としがちなんですよ。


Phrona:測れないもの、ですか。たとえば?


富良野:たとえばネットワーク効果。同じ大学を出ても、どんな人脈ができるかは全然違う。あとは、職場での「文化的適合性」とか。これは表向きは能力の問題として語られるけど、実際は...


Phrona:実際は偏見の温床になりうる、と。「うちの会社の文化に合わない」って言葉で、結果的に特定のグループを排除してしまう。それって、能力とは全く別次元の話ですよね。


富良野:その通りです。この研究が示しているのは、表面的な能力格差を解消しても、もっと深いところにある構造的問題は残るということなんですね。


見えない選別のメカニズム


Phrona:でも、気になるのは労働市場での「学習」の話なんです。雇用主が最初は偏見を持っていても、実際に働く様子を見て徐々に正当な評価をするようになる、という議論がありますよね。


富良野:ああ、統計的差別の理論ですね。雇用主が個人の能力を正確に把握できない状況で、グループの平均的特徴に基づいて判断してしまう。でも時間が経てば真の能力がわかって、差別は解消される、という話。


Phrona:理論上はそうなんでしょうけど、現実はそんなに単純じゃないですよね。特に昇進とか、責任の重い仕事を任せるかどうかの判断って、数値化しにくい「信頼」が関わってくる。


富良野:そこが厄介なところで、信頼って往々にして既存の人間関係や文化的親和性に影響される。結果として、能力があっても重要な機会にアクセスできない人が出てくる。これは個人の能力の問題じゃなくて、システムの問題なんです。


Phrona:しかも、そういう機会格差って世代を超えて蓄積されていきますよね。親世代のネットワークや資源を引き継げるかどうかで、同じ能力でも全然違う人生になってしまう。


富良野:まさに。だから人的資本理論だけで格差を説明しようとすると、どうしても見落としが出てくる。個人の努力や能力以外の要因が、思っている以上に大きな影響を与えているんです。


制度の隙間に潜む不平等


富良野:この研究で興味深いのは、1940年代から現代までの長期的な変化を追跡している点なんです。公民権運動以降、法的な差別は禁止されたはずなのに、なぜ格差が根強く残っているのか。


Phrona:法律で禁止されても、慣行や文化はすぐには変わらないということでしょうか。それとも、もっと巧妙な形で差別が続いているのか。


富良野:両方だと思います。たとえば住宅政策。過去の人種差別的な住宅政策の影響で、居住地域に偏りがある。良い学校のある地域に住めるかどうかで、次世代の教育機会が決まってしまう。これは直接的な労働市場での差別ではないけれど、結果的に格差を再生産している。


Phrona:なるほど。差別が「迂回」しているようなものですね。労働市場では平等に扱っているように見えても、その前段階で既に不平等が組み込まれている。


富良野:そういうことです。しかも、この種の間接的な不平等って、意図的でない場合も多い。政策立案者は善意で制度を作っているつもりでも、既存の不平等構造を見過ごしてしまう。


Phrona:善意だからこそ厄介ですよね。明確な悪意があれば対処しやすいけれど、構造に埋め込まれた不平等って、どこから手をつけていいかわからない。


富良野:だからこそ、こういう実証研究が重要なんです。データで現実を可視化することで、「そんなつもりはなかった」という言い訳を許さない。問題の存在を客観的に示すことが、解決への第一歩になる。


交渉力という隠れた要因


Phrona:この話を聞いていて思うのは、労働市場って本当に「市場」なのかということなんです。需要と供給で価格が決まる、というシンプルなモデルで捉えきれない複雑さがありますよね。


富良野:その通りです。完全競争市場という前提が現実と大きく乖離している。特に重要なのは、労働者と雇用主の交渉力の非対称性ですね。失業のリスクがある限り、労働者は弱い立場に置かれがちです。


Phrona:そして、その交渉力の弱さが、人種によって違うレベルで現れるということですか。


富良野:はい。失業率を見ると、黒人労働者の失業率は白人の約2倍という状況が長期間続いています。これは単純な能力差では説明できない。失業リスクが高いということは、雇用条件について強く交渉できないということでもある。


Phrona:悪循環ですね。交渉力が弱いから不利な条件を受け入れざるを得なくて、それがさらに立場を弱くしてしまう。


富良野:そうです。しかも、これは個人レベルの問題ではなく、構造的な問題なんです。たとえば地理的な制約。良い仕事を求めて簡単に引っ越せる人と、家族や地域のつながりで動けない人とでは、交渉力に差が出てしまう。


Phrona:つまり、同じ能力を持っていても、置かれた状況によって全然違う結果になってしまうということですね。個人の努力だけでは解決できない問題がある。


階層を維持する見えない力


富良野:最近注目されているのが「階層経済学」という考え方なんです。従来の経済理論では差別は非効率的だから長続きしないはずなのに、なぜ人種格差が持続するのかを説明しようとしている。


Phrona:差別が非効率的、というのはどういう意味ですか?


富良野:優秀な人材を人種で排除したら、企業にとって損失になるはずだという理屈です。競争の激しい市場では、そんな非効率な企業は淘汰されるはずだと。でも現実には差別が続いている。


Phrona:ということは、差別に何かメリットがあるということでしょうか。それとも、市場の競争が不完全だということ?


富良野:階層経済学の考え方では、差別は単なる偏見ではなく、既存の社会階層を維持する機能を果たしているという見方をします。支配的なグループにとって、階層構造を保つことは経済的・社会的な利益をもたらす。


Phrona:なるほど。つまり差別は「バグ」ではなく「機能」だということですね。社会システムの欠陥ではなく、特定の目的を果たしている仕組みだと。


富良野:まさにその通りです。この視点で見ると、なぜ格差がこれほど根強いのかが理解できる。単に教育機会を平等にするだけでは解決しない理由も見えてきます。


Phrona:それって絶望的な話にも聞こえるけれど、同時に希望もありますよね。問題の構造が見えれば、対処法も見つけられるかもしれない。


富良野:そうですね。問題を正確に診断することが、効果的な治療の前提になる。この研究の価値は、問題の複雑さを明らかにしたことだと思います。


データが照らす現在地


Phrona:具体的な数字を見ると、現在の状況はどうなんでしょうか。進歩はあったのでしょうか、それとも停滞しているのか。


富良野:複雑な状況ですね。2019年のデータでは、黒人労働者の時給は白人より24.4%低い。これは1979年の16.4%よりも拡大している。教育や経験の違いを調整しても、14.9%の説明できない格差が残る。


Phrona:教育格差が縮まっているのに、賃金格差は拡大している?それって、教育以外の要因がより重要になっているということですか。


富良野:その可能性が高いです。全体的な格差拡大の流れの中で、黒人労働者はより不利な影響を受けている。これは能力の問題ではなく、労働市場の構造変化の影響だと考えられます。


Phrona:技術革新とかグローバル化の影響で、労働市場全体が変わっているということですね。でも、その変化の波が平等に影響するわけではないと。


富良野:はい。たとえば製造業の衰退は、比較的良い条件の中技能職を減らしました。こうした職種には黒人労働者も多く従事していたので、不平等な影響を受けることになった。


Phrona:つまり、マクロな経済変化と人種格差が絡み合っているということですね。個人の努力だけではどうにもならない大きな流れがある。


富良野:そういうことです。だからこそ、政策的な対応が重要になってくる。市場に任せておけば自然に解決する問題ではないということが、データからもはっきりしています。



 

ポイント整理


  • 人的資本格差の解消だけでは不十分

    • 教育水準や能力テストの得点差を完全に解消しても、黒人と白人の賃金格差は完全にはなくならない。これは差別や構造的要因が働いていることを示唆している。

  • 格差の長期的持続性

    • 公民権運動以降、法的差別は禁止されたにもかかわらず、労働市場での人種格差は根強く残っている。2019年の賃金格差は1979年よりもむしろ拡大している。

  • 交渉力の非対称性

    • 黒人労働者の失業率は白人の約2倍で推移しており、これが労働条件の交渉において不利な立場を生み出している。労働市場は完全競争市場ではなく、権力関係が重要な役割を果たしている。

  • 間接的差別メカニズム

    • 住宅政策、教育制度、地理的制約など、労働市場外の要因が結果的に雇用機会や賃金に影響を与えている。これらの迂回的な差別は特定や対処が困難である。

  • 階層維持機能

    • 従来の経済理論では差別は非効率的で自然に淘汰されるはずだが、実際には支配的グループの利益を保護する機能を果たしている可能性がある。階層経済学の視点が重要である。

  • 構造的問題の複雑性

    • 個人の能力や努力以外の要因(ネットワーク効果、文化的適合性の評価、世代間の資源移転など)が労働市場の成果に大きな影響を与えている。

  • 政策介入の必要性

    • 市場メカニズムだけでは人種格差の解消は期待できず、積極的な政策的対応が必要である。問題の構造的性質を理解した上での包括的なアプローチが求められる。



キーワード解説


人的資本(Human Capital)】

教育、技能、経験など、個人が労働市場で発揮できる能力や知識の総体


【統計的差別(Statistical Discrimination)】

個人の能力を正確に判断できない場合に、その人が属するグループの平均的特徴に基づいて判断すること


【階層経済学(Stratification Economics)】

経済的不平等が社会階層の維持機能を果たしているという視点に立つ経済理論


【労働市場流動性(Labor Market Fluidity)】

労働者が職を変える頻度や容易さを表す指標


【交渉力の非対称性(Asymmetric Bargaining Power)】

労働者と雇用主の間で交渉する力に格差があること


【間接的差別】

表面上は中立的な制度や慣行が、結果的に特定のグループに不利に働くこと


【残余格差(Residual Gap)】

観察可能な要因で調整した後に残る、説明できない格差


【ネットワーク効果】

人的つながりが就職や昇進の機会に与える影響


【地理的制約】

居住地域による就業機会への制限


【世代間資源移転】

親世代から子世代への経済的・社会的資源の継承



本稿は近日中にnoteにも掲載予定です。
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