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友だちって何だろう?──中世ヨーロッパから現代まで続く「つながり」の変化を考える

更新日:9月17日

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シリーズ: 知新察来


◆今回のピックアップ記事:Bénedicte Sère "How the nature of friendship has changed through the centuries" (Psyche, 2025年7月11日)

  • 概要:中世ヨーロッパにおける友だち概念の変遷を、アリストテレス哲学の受容とキリスト教的な愛の理念との関係から分析した論考



「友だち」と聞いて、あなたは何を思い浮かべますか。SNSで繋がっている同級生でしょうか、それとも何でも話せる親友でしょうか。実は、この「友だち」という概念は、時代によって大きく変わってきました。


中世ヨーロッパの時代、友だちとは単なる個人的な絆ではありませんでした。それは道徳的理想、宗教的義務、そして政治的階層と深く結びついた社会の仕組みの一部だったのです。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは友だちを三つに分類し、その中でも「徳に基づく友だち」を最も高く評価しました。しかし、キリスト教が支配的だった中世では、この考え方をどう受け入れるかが大きな問題となりました。


現代のわたしたちが当たり前だと思っている「友だち」の概念も、実は長い歴史の中で形作られてきたものです。中世の思想家たちが悩み、議論し、実践してきた「つながり」の在り方を探ることで、現代の人間関係についても新しい視点が見えてくるかもしれません。




古代ギリシャから中世へ:友だちの「格付け」とは


富良野:この記事、アリストテレスが友だちを三つに分類したって話から始まってるんですが、これって現代にも通じる気がしません?


Phrona:そうですね。利益の友だち、楽しみの友だち、そして徳に基づく友だち。今でも職場の同僚関係とか、趣味仲間とか、本当に深い関係の友だちとか、確かに分かれてますよね。


富良野:アリストテレスが言うには、最初の二つは長続きしないけれど、徳に基づく友だちは違うと。お互いを人間として根本的に愛し、尊敬し合って、相手が幸せになることを願う関係だって。


Phrona:それって理想的すぎません?現実的には、利益や楽しみから始まった関係が、だんだん深くなっていくこともあるじゃないですか。最初から徳ありきって感じでもないような。


富良野:なるほど、たしかに。でも興味深いのは、中世の人たちがこのアリストテレスの考え方をどう受け止めたかなんです。キリスト教の世界観とぶつかっちゃうんですよ。


Phrona:どういうことですか?


富良野:キリスト教には「カリタス」っていう概念があって、これは神様への愛が基盤になってる。人間同士の愛も、結局は神様を通じた愛なんだと。でもアリストテレスの友だちは、あくまで人間同士の徳に基づいた関係でしょう?


Phrona:ああ、根本的に違うんですね。片方は神様中心、もう片方は人間中心。


キリスト教 vs 哲学:愛の「正解」をめぐる戦い


富良野:13世紀のトマス・アクィナスなんかは、なんとか両方を調和させようとしました。友だちというのは一種の徳だと言って、でも最終的にはキリスト教的な愛に向かうべきだと主張したんです。


Phrona:無理やり感がありますね。でも、そういう議論があったってことは、当時の人たちにとって友だちって本当に重要な問題だったんでしょうね。


富良野:そうなんです。14世紀になると、ジャン・ビュリダンという人が全く違うアプローチを取りました。友だちを神学から切り離して、純粋に理性的なものとして扱ったんです。


Phrona:どう変わったんですか?


富良野:極端に言えば、奴隷でも主人の友だちになれるって考え方です。なぜなら、どちらも同じ人間だから。友だちというのは、その人の道徳的価値に基づくもので、事前の面識なんて関係ないと。


Phrona:それって革命的じゃないですか。身分制社会の中で、人間の本質的な平等を言ってるわけでしょう?


富良野:まさに。ビュリダンは、キリスト教的な社会秩序に対する哲学的な対案を提示したんです。友だちを通じて、人間中心の新しい倫理観を作ろうとした。


Phrona:でも、そんな急進的な考えが受け入れられたんでしょうか?


富良野:案の定、15世紀には反動が起きます。中欧の学者たちが、再びキリスト教的な解釈に戻していったんです。でも、13世紀の単純なコピーじゃなくて、新しい文脈に適応させた形で。


政治の世界に入り込む「友だち」


Phrona:面白いのは、友だちの議論が政治の世界にも影響したってことですよね。


富良野:そうです。中世後期になると、統治者は感情をうまく使いこなすべきだという考えが出てきました。理性だけじゃなくて、感情も政治の重要な要素だと。


Phrona:でも、王様が友だちを持つって変じゃないですか?友だちって基本的に対等な関係でしょう?


富良野:まさにその議論があったんです。アルベルトゥス・マグヌスは「王は友だちを持てない」と言いました。友だちには平等と親密さが必要だけど、親密になりすぎると軽蔑を招くって理由で。


Phrona:王の権威を保つためには、ある程度の距離が必要だと。


富良野:ところが、1世紀後のニコル・オレームは正反対のことを言うんです。王こそ友だちを持つべきだと。じゃないと、孤独で愛も友だちも知らない暴君になってしまうって。


Phrona:極端から極端ですね。でも、どちらの言い分も分かる気がします。


富良野:実際の宮廷では、友だちと敵を明確に区別する文化が生まれました。中立なんてありえない。味方でなければ敵、みたいな世界観です。


身体で表現される友だち関係


Phrona:当時の友だちって、今よりもずっと身体的だったんですね。握手、抱擁、キス、同じベッドで寝ることまで。


富良野:これは興味深いポイントです。現代だと身体的な接触は誤解を招きやすいですが、中世では外交や友好関係の重要な表現手段だった。


Phrona:同じベッドで寝るのも、性的な意味じゃなくて外交的な意味だったと。なんだか不思議な感じがします。


富良野:考えてみると、現代のわたしたちの方が身体的な距離に敏感すぎるのかもしれません。握手すら減ってますからね。


Phrona:確かに。コロナ以降は特に。でも、中世の人たちは公と私をそんなに区別してなかったんですね。個人的な感情と公的な立場が深く結びついてた。


富良野:そうです。友だちという個人的な関係が、そのまま政治的な意味を持っていた。感情と政治が分離不可能だったんです。


Phrona:それって、ある意味で正直というか、自然な在り方なのかもしれませんね。今のように公私を厳密に分けるのが当たり前だと思ってましたけど。


現代への問いかけ:友だちは社会の鏡


富良野:この記事の最後で言ってることが印象的です。友だちの在り方を見れば、その社会が自分自身をどう捉えているかが分かるって。


Phrona:友だちって社会の鏡みたいなものなんですね。


富良野:現代のSNS時代の友だち関係を考えると、確かにそうかもしれません。「友だち」の数が多いことが価値とされたり、表面的なつながりが重視されたり。


Phrona:でも一方で、本当に深いつながりを求める人も増えてる気がします。量より質というか。


富良野:中世の議論に戻ると、結局のところ友だちって、単なる感情じゃなくて、意図的に作り上げられるものなんですよね。演出され、儀礼化され、理論化され、議論される。


Phrona:つまり、友だちって自然に生まれるものじゃなくて、社会的に構築されるものだと。


富良野:そう考えると、現代のわたしたちも友だち関係を意識的に考える必要があるのかもしれません。どんな友だちを求めているのか、どんな関係を築きたいのかを。


Phrona:中世の人たちが何世紀もかけて議論してきた問題を、わたしたちも引き継いでるってことですね。友だちって何なのか、どうあるべきなのかという。


富良野:時代は変わっても、人間同士のつながりを求める気持ちは変わらない。その表現方法や理解の仕方が変化してるだけで。


Phrona:そう思うと、なんだか心強いですね。友だちについて悩むのは、人間として自然なことなんだって思えて。



ポイント整理


  • アリストテレスの友だち分類

    • 利益・楽しみ・徳の三種類があり、徳に基づく友だちが最も価値があるとされた。この考え方は1246年にラテン語に翻訳されて中世ヨーロッパに広まった。

  • キリスト教との対立

    • アリストテレスの人間中心的な友だち観と、神への愛を基盤とするキリスト教的な「カリタス」の概念は根本的に異なっていた。

  • トマス・アクィナスの統合的アプローチ

    • 13世紀の神学者で、友だちを一種の徳として位置づけながら、最終的にはキリスト教的な愛に向かうべきものとして調和を図った。

  • ビュリダンの革新的解釈

    • 14世紀のパリ大学の学者で、友だちを神学から完全に分離し、人間の理性と道徳的価値に基づく純粋に哲学的な概念として再構築した。

  • 15世紀の神学的復活

    • 中欧の学者たちがキリスト教的解釈を復活させたが、過去の単純な模倣ではなく、新しい文脈に適応させた形での復興だった。

  • 政治領域への浸透

    • 友だちの概念が政治理論に影響し、統治者は感情を効果的に管理・活用すべきだという考えが生まれた。

  • 王の友だち論争

    • 王が友だちを持てるかどうかをめぐって、権威保持のための距離説と、暴君化防止のための友だち必要説が対立した。

  • 身体的表現の重要性

    • 握手、抱擁、キス、同床など、身体的な接触が友好関係の重要な表現手段として機能していた。

  • 公私の未分化

    • 中世では個人的な感情と公的な立場が深く結びつき、友だち関係がそのまま政治的意味を持っていた。

  • 社会の自己認識の反映

    • 友だちの在り方は、その社会が自分自身をどう捉えているかを示す鏡のような役割を果たしている。



キーワード解説


【アリストテレスの三分類】

利益・楽しみ・徳に基づく友だちの区分


【ニコマコス倫理学】

アリストテレスの主著で、友だち論の源泉


【カリタス(caritas)】

キリスト教の神学的愛、信仰・希望と並ぶ三つの神学的徳の一つ


【トマス・アクィナス】

13世紀ドミニコ会の神学者、スコラ哲学の代表者


【ジャン・ビュリダン】

14世紀パリ大学の哲学者、理性主義的友だち論の提唱者


【amor amicitiae】

アクィナスの用語で「友愛的愛」、利己的欲求とは対照的


【ニコル・オレーム】

14世紀の学者、王の友だち論の支持者


【ブルゴーニュ宮廷】

15世紀の宮廷文化で友だち理論が実践された場


【身体的表現】

中世の友だち関係における握手・抱擁・接吻などの重要性


【公私の結合】

中世社会における個人的関係と政治的意味の一体化



本稿は近日中にnoteにも掲載予定です。
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