各国の金庫に眠る金塊は、本当に宝の山なのか?
- Seo Seungchul

- 8月18日
- 読了時間: 13分

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事:Mark Sobel Financial authorities should responsibly sell their gold stocks - OMFIF (OMFIF, 2025年6月27日)
金価格が今年だけで25%も上昇し、ヨーロッパ中央銀行によれば金がユーロを抜いて第2位の外貨準備資産になったという。中国をはじめとする新興国が大量購入に動き、各国中央銀行の3分の1が短期的に金保有の増加を期待している現状がある。
しかし本当に、各国の金融当局は賢明な判断をしているのだろうか。アメリカ、ドイツ、イタリア、フランスの4大金保有国だけで1万6千トンもの金を抱えているが、年間の金需要はわずか5千トン程度だ。この巨大な公的備蓄が市場から隔離されているからこそ、金価格は高値を維持している。
もし各国が責任を持って金を売却すれば、金価格の上昇は頭打ちになり、むしろ下落する可能性が高い。しかし現実には、地政学的な思惑や既得権益、そして金に対する根強い信仰が、合理的な判断を阻んでいる。金融政策の専門家マーク・ソーベルの提言を通じて、富良野とPhronaが現代の通貨システムと国家財政の複雑な関係を解き明かしていく。
なぜ今、金なのか
富良野:ソーベルの論旨は興味深いんですが、中央銀行の行動原理を理解する上で、一つの重要な視点が抜けてるように思うんです。
Phrona:どういった視点でしょう?
富良野:金の25%上昇を単純に非合理な投機と捉えているけれど、これは実際には極めて政治的な現象なんです。中国が金を買い増ししているのは、ドル基軸体制からの段階的離脱戦略の一環でしょう。
Phrona:制裁回避という防御的動機だけではなく、より能動的な戦略ということですね。でも、それならなぜ欧州も追随するのでしょう。
富良野:欧州の場合は少し事情が違う。彼らはドル体制の恩恵を受けながらも、アメリカの一方的な制裁に巻き込まれることへの不安がある。金保有の増加は、戦略的自律性の確保という側面が強いんじゃないか。
Phrona:つまり、金市場の動向は、国際通貨システムの構造変化を映し出している。興味深いのは、ソーベルがアメリカの視点から「金を売れ」と主張していることです。これ自体が、ドル覇権の維持戦略とも読める。
富良野:アメリカにとって金価格の高騰は、ドルの代替資産としての金の魅力を高めることになる。だから売却を推奨するのは、確かに理に適っている。
Phrona:でも、各国が協調して金を売却すれば財政が改善するという論理は、一見合理的に見えて、実は権力関係の現状固定化につながりかねません。
金本位制の亡霊
富良野:ソーベルが「金バグ」と呼ぶ現象について、もう少し構造的に考えてみたいんです。単なる懐古主義や非合理な信念として片付けるのは、分析として浅い気がする。
Phrona:確かに。金への執着には、より深層的な制度的記憶が働いているように思えます。
富良野:ブレトンウッズ体制の崩壊から50年が経っても、各国の金融当局に金本位制的思考が残存しているのは、システミックリスクへの本能的な備えかもしれません。
Phrona:制度的記憶、という言葉が興味深いですね。組織や国家が持つ集合的無意識のようなもの。でも、それが現在の政策選択を制約しているとすれば、ある種の制度的病理とも言える。
富良野:病理という表現は的確ですね。金保有が財政効率性を損なっているのは明らかなのに、それを改革できない。制度的慣性の問題です。
Phrona:ただ、この慣性には政治経済学的な合理性もあるのではないでしょうか。不確実性の高い国際環境では、流動性の低い資産でも、その非流動性ゆえに戦略的価値を持つ。
富良野:コミットメント効果ということですか。金を保有することで、将来の政策選択肢を意図的に制約し、それが交渉上の優位性をもたらす。
Phrona:そういうことです。経済学的には非効率でも、戦略的には合理的。この二重性が、金保有問題の本質かもしれません。
売るにも智恵がいる
富良野:協調的売却の必要性については同意しますが、ワシントン金協定の歴史を見ると、国際協調の脆弱性が浮き彫りになります。
Phrona:1999年の協定がどの程度実効性を持ったかは、確かに検証が必要ですね。協調メカニズムの設計は、理論上は可能でも、実際の政治過程では極めて困難です。
富良野:特に、協調の便益が各国に均等に分配されない場合は。アメリカが金を売却すれば8500億ドルの収入になるが、ドル安圧力も生じうる。一方、新興国にとっては金価格下落は外貨準備の目減りを意味する。
Phrona:利害の非対称性ですね。そして、売却のタイミングを調整するには、各国の財政サイクルや政治的制約も考慮せねばならない。
富良野:さらに言えば、金市場の構造的特徴として、少数の大口保有者による寡占状態がある。この市場構造では、協調的行動が必要である一方で、協調の破綻リスクも高い。
Phrona:ゲーム理論的に見れば、協調均衡は非常に不安定ということですね。一国が抜け駆け的に売却すれば短期的利益を得られるが、全体としては協調体制が崩壊する。
富良野:そうです。しかも、金市場には透明性が乏しい。各国の実際の売却意図や保有量の変化が即座に把握できないため、疑心暗鬼が生まれやすい環境にある。情報の非対称性が協調を困難にする典型例ですね。制度設計の観点からは、透明性確保とモニタリング機能が不可欠になります。
金に秘められた権力関係
Phrona:金保有の政治的機能について、ソーベルの分析は経済効率性に偏りすぎているように感じます。
富良野:どういう意味でしょう?
Phrona:金は単なる資産ではなく、主権の象徴的表現でもある。特に新興国にとって、金保有は旧植民地主義的な経済秩序からの自立を示すシンボルでもあります。
富良野:なるほど。金保有には、経済合理性を超えた政治的正統性の機能がある、と。
Phrona:そうです。中国やインドの金買い増しを、単純に制裁回避やポートフォリオ分散として理解するのは表層的です。これは、西欧中心的な金融秩序への挑戦の側面もある。
富良野:それで言えば、ソーベルの提言自体が、既存の権力構造の維持を前提としている。アメリカが金を売却して財政を改善し、ドル体制の安定性を高める。これは明らかにアメリカに有利な提案ですね。
Phrona:興味深いのは、この権力関係が金市場の価格形成にも影響していることです。金の価値は、市場メカニズムだけでなく、地政学的な力学によっても決定される。
富良野:つまり、金市場は純粋な経済市場ではなく、政治的な競技場でもある。だとすれば、経済効率性だけで政策を判断するのは不適切かもしれません。
Phrona:ただし、この政治的機能が財政効率性を犠牲にしているのも事実です。問題は、この両者をどうバランスさせるかでしょう。
既得権益との闘い
富良野:ソーベルが言及する政治的障壁については、もう少し構造的な分析が必要でしょう。金産業のロビー活動を単純な既得権益防衛として捉えるのは、問題の本質を見誤る可能性がある。
Phrona:どういうことでしょうか?
富良野:金産業は、実は国家安全保障の一翼を担っているという側面があります。戦略的鉱物資源の確保は、エネルギー安全保障と同様に、国防政策の重要な要素になっている。
Phrona:つまり、金産業保護は単なる経済的利益追求ではなく、安全保障上の要請でもある、と。これは興味深い視点ですね。
富良野:南アフリカやオーストラリアなどの金産出国にとって、金産業は外貨獲得の重要な手段であるだけでなく、地政学的影響力の源泉でもある。金価格の維持は、これらの国々の国際的地位に直結している。
Phrona:でも、それは結局、一部の国や産業の利益のために、グローバルな財政効率性が犠牲にされているということでもありますね。
富良野:そこが問題の核心です。国際政治経済では、しばしば局所的利益が全体最適を阻害する。金保有問題は、その典型例かもしれません。
Phrona:ただし、この構造を変革するには、単に経済合理性を説くだけでは不十分です。既存の利益構造に代替する新たな枠組みを提示する必要がある。
富良野:代替枠組み、ですか。具体的にはどのようなものを想定されますか?
Phrona:たとえば、金売却の収益を国際的な公共財の供給に充てるような仕組みです。気候変動対策や感染症対策など、各国が協調的に取り組むべき課題への資金として活用する。
トランプ要因という読めない変数
Phrona:記事ではトランプさんの予測不可能性も問題として挙げられてますね。
富良野:これは興味深い点です。トランプさんの政策が読めないから、各国が金に逃避してる。でも、そのトランプさんがアメリカの大統領として金売却を決断するかもしれない。
Phrona:皮肉な話ですね。金高騰の原因が、金売却の引き金になるかもしれない。
富良野:ただ、トランプさんの場合、合理的な経済政策よりも象徴的な意味合いを重視する傾向がありますからね。「アメリカの金を手放すなんてとんでもない」って考える可能性も高い。
Phrona:たしかに。金って、国力の象徴みたいな面もありますもんね。
富良野:でも逆に、「アメリカファースト」の観点から、金売却で債務を減らして国力を高めるって論理もあり得る。この人の場合、どちらに転ぶか本当に読めない。
Phrona:不確実性が不確実性を生む、みたいな。
富良野:国際金融の世界では、そういうことがよく起こります。みんなが相手の出方を予想して行動するから、予想外の連鎖反応が起きる。
Phrona:でも、それって疲れませんか?常にハラハラドキドキしながら政策を決めるなんて。
富良野:疲れますよ。だからこそ、金みたいな「安全資産」に逃げたくなる。でも、その安全資産自体が不安定要素になってしまうというジレンマです。
財政再建の隠れた切り札
Phrona:でも冷静に考えると、金売却って財政政策のオプションとしては魅力的ですよね。
富良野:そうなんです。増税や歳出削減と違って、政治的な痛みが少ない。国民に直接的な負担を強いるわけじゃないから。
Phrona:でも、なぜこの選択肢があまり検討されないんでしょう。
富良野:一つは、金の価値が不安定だからです。売却のタイミングを間違えると、本来得られたはずの収益を逃してしまう。
Phrona:タイミングの問題ですか。
富良野:それと、一度売ってしまったら元に戻せない。金価格がその後さらに上昇したら、「なぜあの時売ったんだ」って批判される。政治家は失敗を恐れますから。
Phrona:現状維持バイアスってやつですね。何もしないことの責任は問われにくいけど、何かして失敗したら責任を問われる。
富良野:まさに。でも、何もしないことで機会損失が発生してても、それは見えにくいから政治問題になりにくい。
Phrona:もったいない話ですね。財政再建の手段があるのに、政治的な理由で使えない。
富良野:ただ、僕は少し楽観的に見てます。財政状況がこれ以上悪化すれば、いずれ金売却も真剣に検討されるようになるでしょう。
市場の歪みが生む偽りの安定
Phrona:記事を読んでいて、市場メカニズムの不思議さを感じました。
富良野:どういう点でですか?
Phrona:本来なら、需要と供給で価格が決まるはずなのに、供給の大部分が人為的に市場から隔離されてる。これって、自由市場とは言えないですよね。
富良野:鋭い指摘です。金市場は、実は極めて人工的な市場なんです。各国政府という巨大なプレーヤーが、意図的に供給を制限してる。
Phrona:それで価格が高止まりしてるとしたら、市場の失敗というか、歪みですよね。
富良野:そうです。そして、その歪みが投資家や中央銀行の行動をさらに歪める。金価格が上がってるから買いたくなる、買う人が増えるからさらに上がる。
Phrona:バブルの典型的なパターンですね。
富良野:ただ、バブルと違うのは、この価格上昇に政府の政策が深く関わってることです。民間だけの投機なら、いずれ現実に戻される。でも政府の行動は、経済合理性以外の要因に左右される。
Phrona:政治的な論理と経済的な論理が混在してるってことですね。
富良野:その通りです。そして、その混在が市場参加者にとって読みにくい状況を作り出してる。金を買うべきか売るべきか、判断材料が経済データだけじゃ足りない。
Phrona:なんだか、みんなが手探りで動いてる感じですね。
富良野:国際金融の世界は、案外そういうものかもしれません。完全情報のもとで合理的な判断をしてるつもりでも、実際には不完全な情報と政治的制約のなかで最善策を探ってる。
未来への問い
Phrona:ソーベルの分析で興味深いのは、金保有の非効率性を指摘しながら、代替的な価値貯蔵手段についてはほとんど言及していないことです。
富良野:確かに。デジタル通貨の台頭についても触れられていませんね。ただ、中央銀行デジタル通貨が普及したところで、根本的な通貨政策の枠組みが変わるわけではない。
Phrona:そうなんです。デジタル化は決済システムの効率性を高めるかもしれませんが、通貨の本質的な問題—インフレリスクや政府の財政規律の欠如—は解決しません。
富良野:むしろ、デジタル通貨は政府による通貨管理を強化する可能性がある。金への逃避欲求は、政府管理通貨への不信が根底にあるわけですから、その不信が解消されない限り、金の代替的役割は続くでしょう。
Phrona:興味深いパラドックスですね。技術的には金より優れた価値貯蔵手段が開発されても、それが政府発行である限り、金への根源的な需要は残存する。
富良野:それに、デジタル通貨の普及は、逆に物理的資産としての金の希少性を高める可能性もある。「最後の非デジタル資産」として、金がより神聖視されるかもしれません。
Phrona:でも、そうなると金市場の構造的歪みはさらに深刻化するということですね。技術進歩が問題解決ではなく、問題の複雑化をもたらす。
富良野:そう考えると、ソーベルの提言の意義がより明確になります。技術的解決策を待つのではなく、現在の制度的枠組みの中で可能な改革を追求する。それが現実的なアプローチかもしれません。
Phrona:ただし、その改革が成功するためには、各国の金融当局が長期的視点を持てるかどうかにかかっています。短期的な政治的圧力に屈せず、構造改革を実行する意志があるかどうか。
ポイント整理
金価格の上昇要因
中国をはじめとする新興国が、米国の金融制裁への懸念や地政学的不安から金を大量購入している
公的備蓄の規模
米独伊仏の4大保有国だけで1万6千トンを保有、年間需要(5千トン)の3倍以上の規模
財政改善の可能性
米国は金売却で8500億ドル、仏伊は政府債務を5%以上削減可能だが実現していない
金の現在の役割
1971年の金本位制終了後、公式な国際通貨システムでの役割はないが、心理的な安全資産として機能
売却の課題
協調なき大量売却は価格暴落を招く恐れ。1999年の欧州中央銀行による「ワシントン金協定」が先例
政治的障壁
金産業のロビー活動、産金国の反対、政治家の現状維持バイアスが合理的な政策実行を阻害
市場の歪み
公的備蓄による人為的な供給制限が価格を押し上げ、バブル的な投資行動を誘発している可能性
キーワード解説
【外貨準備資産】
中央銀行が保有する外国通貨建て資産。為替相場の安定や国際収支の調整に使用
【ワシントン金協定】
1999年に欧州中央銀行が締結した金売却制限協定。年間売却量に上限を設けて市場混乱を防止
【金バグ(Gold Bugs)】
金本位制復活や金の絶対的価値を信じる人々。経済合理性を超えた金への信念を持つ
【機会費用】
金保有により失われる利益。利息収入や他の投資機会を放棄することのコスト
【地政学的リスク】
国際政治の変化が経済や投資に与える不確実性。制裁、貿易摩擦、軍事衝突など
【現状維持バイアス】
変化を避け現状を維持しようとする心理的傾向。政治家の意思決定でしばしば見られる
【囚人のジレンマ】
各自が合理的選択をすると全体の利益が損なわれるゲーム理論の概念。国際協調の困難さを示す