合理的な企業が、合理的でない社会をつくる――AI時代のレジリエンスを、構造から問い直す
- Seo Seungchul

- 3 日前
- 読了時間: 15分

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事: Eric Markowitz, "It was never about AI (we are not our tools)" (Big Think, 2026年3月19日)
概要:AIによる雇用喪失の本質はAIの能力ではなく、人間を費用として扱い、効率と短期利益を目的化してきた経済の側にある、と論じる。AIは原因ではなく、すでにあった傾向を映し出し加速させる鏡だ、という主張。
AIと雇用をめぐる議論には、奇妙な噛み合わなさがある。一方には、AIが人間の仕事を奪うという不安がある。他方には、AIは生産性を高め新しい仕事を生むのだから恐れる必要はない、という反論がある。どちらにも一理ある。だが、この対立を何度繰り返しても、いま起きている変化の核心には届かない気がする。
理由はおそらく、両者がともに「AIが何をどれだけ代替するか」という、量の問いに立っているからだ。本稿が辿りたいのは、別の軸である。問題は代替の量ではなく、速度の差ではないか。より正確には、AIが企業の側の最適化を飛躍的に速める一方で、それを受けとめる社会の側の調整が、ほとんど同じ速さでは動けない、という非対称ではないか。
出発点として、この非対称をいち早く——ただし別の言葉で——言い当てた一篇の記事を取り上げたい。
「これはAIの話ではない」——マルコウィッツの診断
エリック・マルコウィッツの論は、その題名から梯子を外しにかかる。「これはAIの話ではない」。AIが仕事を奪うという話のはずが、彼はAIを被告席から外す。AIは原因ではなく、鏡だというのである。
彼の診断はこうだ。人を一行の費用として処理する仕組みは、AIが登場するはるか前から完成していた。四半期ごとの数字に経営が縛られ、株価が判断を支配し、人員削減が合理性の名で呼ばれる。冒頭に置かれるのは、現場も顧客も知らない若いアナリストが、ある企業の人員が競合より多いという一点を見て投資家向けのメモを書き、それが巡り巡って数千人の解雇に至る、という挿話である。彼はこれを事故ではなく、システムが設計通りに作動した結果として描く。人を費用として扱う癖は、すでに私たちの制度に織り込まれていた。AIはそこに新しい悪意を持ち込んだのではなく、その傾向に速度を与えただけだ——これが彼の核心である。
論の体温を決めているのは、レッドウッドの森の比喩だ。彼は友人と森を歩きながら、仕事の終わりについて語る。何百年もの冬を越してきた木は、この程度の騒ぎには動じない。速く伸びた木が嵐で最初に倒れる。根の浅いものは、条件が変われば崩れる。長く生き残る生態系は、速さではなく、深い根と相互依存によって続いてきた。彼はここから、現代経済が速さを美徳とし忍耐を弱さと見る倒錯を撃つ。効率を全否定しているのではない。効率を最上位の目的に据え、人間的な判断をそれに従属させることを撃っているのである。
そして題名の言葉が戻ってくる。「私たちは道具ではない」。マルコウィッツによれば、これは人間がAIより尊いという感傷ではない。道具にできることを、そのまま社会の目的にしてはならない、という主張だ。置き換えられるから置き換える、削れるから削る。能力の存在が、そのまま使用の正当化になっている。彼はこれを、判断を道具に明け渡し、それを進歩と呼ぶ態度——道徳の放棄と呼ぶ。本当に問うべきは、AIが何をできるかではない。お金は何のための道具なのか、会社は誰に何を負っているのか、成長とは何を意味するのか。技術の問いに見えたものは、その底で道徳の問いだった。ここまでのマルコウィッツの射程は、長く、そして正確である。
良心は、どこで作動するのか
問題は、彼がこの鋭い診断のあとで、処方をどこに求めたか、である。
マルコウィッツの答えは、経営者の良心に向かう。数字の上では解雇すべきでもチームを守るオーナー、コスト削減のために移転できるのに地域に雇用を残す製造業者、AIを道具として扱い使い方を自分で決める創業者。彼らは実在する、と彼は書く。彼自身、二人の研究助手をAIで置き換えないと宣言する。その判断は美しいし、嘘ではない。
だが、ここに本稿の最初の留保がある。その良心は、どこまで届くのか。
良心的な経営者にできるのは、自社の従業員を守ることまでだ。彼女は自分の会社の人を守れても、社会全体の働き口を、自社の意思決定の中に抱え込むことはできない。良心は作動する。ただし、手の届く範囲でしか作動しない。マルコウィッツの診断は構造の水準にあったのに、彼の処方は個人の水準に降りてしまう。診断と処方の間に、埋まらない段差がある。
この段差を、競争があるから無理だ、という現実論で済ませることもできる。競合がAIで原価を下げれば自社も追随せざるをえない、という理屈だ。それも正しい。だが筆者の見立てでは、それでは弱い。なぜ良心では届かないのかを、もう一段、構造の言葉で言い直す必要がある。問いはこうなる。社会全体の利害は、いったい、どこで代表されているのか。
企業は、規模によってマクロにはならない
ここで、ひとつの区別を立てたい。企業とは、どこまでいってもミクロな主体である。そして、この「ミクロ」は、小さいという意味ではない。
経済学でミクロとマクロという言葉を使うとき、しばしば規模の大小が連想される。だが、ある主体がミクロかマクロかを決めるのは、影響の射程ではない。その主体の目的が何に対して定義され、その意思決定の仕組みが誰に応答するよう設計されているか、である。企業の目的は企業に対して定義され、取締役会も株主も市場規律も、自社の存続・収益・競争力に応答する。だから企業は、どれだけ巨大になっても、部分の目的を最適化する装置であり続ける。規模が変えるのは、最適化の中身ではなく、その爆発の半径だけだ。
この区別は、直感に反する帰結を持つ。巨大なプラットフォーム企業は、雇用、情報の流れ、消費行動、研究開発、産業構造、さらには人々の政治意識にまで影響を及ぼす。影響だけ見れば、もはや一社の都合では済まない、社会規模の存在に見える。だが、その意思決定の仕組みは、依然として自社のために設計されている。影響は社会規模で、目的は自社規模。この二つは別物だ。したがって、巨大企業は「ミクロでありながらマクロ環境を変える中間的な存在」なのではない。最後までミクロな主体である。規模はその種別を変えない。変えるのは、自社の合理と社会全体の都合とのずれが、より大きく、より乱暴になることだけである。
見かけの反例として、ステークホルダー型のガバナンスがある。ドイツの共同決定制度のように、労働者が取締役会に席を持つ仕組みだ。これは社会の側を企業の中に取り込んでいるように見える。だが、そこで代表されるのは、その企業の労働者であって、社会全体の労働市場ではない。自社の従業員という、企業のすぐ隣にある利害は内部化できる。しかし、雇用の総量や社会の吸収力といった、一つ上の階層に宿る性質は、誰か一人の代表が背負えるものではない。全体の性質を部分の中に入れようとすれば、部分が部分でなくなるまで——企業が企業の輪郭を失うまで——広げるしかない。ゆえに、原理的に、一社の意思決定の中には、社会全体の席を作れない。
ここから、後半すべてを支える梁が立ち上がる。企業の良心に期待する設計は、心がけの問題で失敗するのではない。代表すべき相手を入れる枠が、その仕組みの中に存在しないという、構造の問題で失敗する。だとすれば、社会全体の利害は、企業の外側で代表されるしかない。マルコウィッツが踏み越えられなかった一線は、ここにあった。
一人ひとりの合理が、全体の不合理になる
外側の話に進む前に、各社が内側で何をしているのかを、正確に見ておきたい。
各社がAIで自社を最適化すること自体は、責められない。むしろ合理的ですらある。業務を効率化できる、人件費を抑えられる、競合も同じことをしている。一社ずつ見れば、すべて正しい判断だ。ところが、全社が同じ方向に同時に動くと、社会全体では別の現象が立ち上がる。雇用が不安定化し、消費需要が弱り、人が技を身につける機会が減り、地域社会の担い手が失われ、社会保障への負荷が高まる。最後には、企業が商売をする前提である市場・信頼・人材供給そのものが痩せていく。
これは、一人ひとりにとって合理的な行動が、全員が同時に取ると全体にとって不合理な結果を生む、という構造である。経済学はこれを合成の誤謬と呼んできた。決定的なのは、何が削られるのか、だ。企業会計は、冗長な人員、重複した経験、現場でしか伝わらない暗黙の知、長い時間をかけて育った信頼を、しばしばコストとして記帳する。各社にとっては無駄の削減でも、社会全体では、緩衝材が消えていく。企業会計上のコスト削減が、社会システム上の耐久力低下に変わる。ここにあるのは、誰かの強欲ではない。みなが合理的であることが、そのまま全体の足元を抜いていく、という構造である。悪人を探しても見つからない種類の問題は、見つからないからこそ厄介なのだ。
そして、この緩衝材という言葉で、私たちはマルコウィッツのレッドウッドに再会する。あの木が嵐に耐えるのは、深い根と、周囲との相互依存を持つからだった。効率だけを見れば、根を張る時間も、隣と支え合う関係も、遅さや無駄に映る。彼が詩の言葉で語ったものを、ここで私たちは構造の言葉に置き換えている。レジリエンスとは、効率を最大化することではなく、適切な余白を設計することなのである。
AIが奪うのは、変化を吸収する時間である
ここで、ひとつの反問が要る。合成の誤謬も、緩衝材を削る話も、AIが無くても起きていたのではないか。外注の拡大も、在庫の圧縮も、余剰を嫌う経営も、ずっと前からあった。その通りだ。だからこそ、ここでようやくAIの本当の役割が浮かぶ。
AIの新しさは、人を置き換えることそのものではない。企業が自社を最適化する速度を、一段引き上げることだ。人の配置、採用、評価、価格設定、在庫管理、広告運用、文書作成、調査、分析、意思決定の支援。これまで人が時間をかけて行ってきた判断が、より速く、より細かく、しかも投資家に説明しやすい形で回せるようになる。企業の意思決定は、ほとんど即時化する。
一方で、社会の側の調整は遅い。教育の中身はすぐには変わらない。職業訓練には時間がかかる。地域産業の転換には年月がかかる。税制や社会保障の変更には政治過程が要る。個人が新しい職へ移るには、所得、年齢、家族、地域、技能、心理的負担という多くの摩擦がある。片方が秒で動き、もう片方が年単位でしか動けない。その時間差が、そのまま、壊れる場所になる。
だとすれば、AIが奪うものは、仕事だけではない。社会が変化を受けとめるための時間である。この定式化の利点は、論旨が代替の規模に依存しない点にある。AIが多くの職を代替するなら、再配置が急務になる。代替が部分的にとどまっても、企業側の最適化速度が社会側の調整速度を上回るかぎり、両者のずれは衝撃として現れる。どちらに転んでも、問われるのは何人が職を失うかではなく、社会が間に合うか、である。マルコウィッツがAIを鏡と呼んだとき、彼は半分を言い当てていた。AIは鏡であり、同時に、その鏡が映すものを高速で増幅する装置でもある。
レジリエンスとは、余白の設計である
ここまでで二つのことが言えた。社会全体の利害は企業の外で代表するしかないこと。そして、AIはその外と内の速度差を押し広げること。この二つを重ねると、必要なものの輪郭が見えてくる。企業のミクロな最適化を、社会全体の耐久力へと変換する仕組みである。
ただし、本稿はこの変換を、具体的な政策の処方箋として提示するつもりはない。実装可能な提案は、それを設計する人々の仕事だ。ここで照らしたいのは、その手前にある構造——なぜ変換が必要で、なぜそれがこれほど難しいのか、である。そして難しさの在り処そのものが、問題の形を教えてくれる。
理屈の上では、AIで浮いた力を、人手の足りない社会的に必要な領域へ回せばよい。介護、医療、保育、教育、防災、地域の交通、インフラの保全、環境対応、文化、研究。社会的な必要は、確かにそこにある。だが、言葉にすると簡単なこの移動は、押すそばから別の場所が抜ける。社会的に必要な仕事ほど、市場では十分な賃金を生まない。財源が要る。AIの生産性向上に課税しようとすれば、企業の流出を招くか、技術導入そのものを冷やしかねない。高い所得のホワイトカラーが、そのまま介護の現場へ移れるわけでもない。中高年の職種転換は容易ではない。都市と地方で需要が違う。
重要なのは、これらの破綻点を「だから難しい」で閉じないことだ。破綻の仕方そのものが、問題の構造を露わにしている。市場では値がつかないものを社会は必要としている、という賃金の歪み。利益は私有化されやすく、移行の費用は労働者・家族・地域・国家財政へ社会化されやすい、という非対称。即時に動ける企業と、合意に時間を要する社会の、速度の落差。これらはすべて、ミクロが速く動き、マクロの代表が遅く争われる、という同じ一つの形の、別々の現れである。だから本稿は、ここで政策の答えを並べない。答えが難しいその難しさの中に、議論の核心が宿っているからだ。
人間は、再配置される資源ではない
最後に、これまで何度か使ってきた「変換」や「再配置」という言葉に、自ら留保をかけておかなければならない。
労働の移動を、余った力の再配置として語るかぎり、人はふたたび一行の費用に戻ってしまう。ある産業で不要になったから、別の産業へ動かす。その言い方の中で、人はいつのまにか在庫のように扱われている。これは皮肉なことに、マルコウィッツが最初に怒っていたことそのものだ。人を一行の費用として扱うな、という彼の出発点に、構造を徹底しようとした私たちの議論が、気づけば同じ罠の入口で立っている。
一つの職業には、技能だけでなく、生活、誇り、収入、住む土地、家族、人間関係、時間の蓄積、そして自己理解が結びついている。人を動かすとは、物を動かすことではなく、その人の生活世界そのものを組み替えることである。だから、たとえ社会の側に変換の仕組みを作るとしても、それは物流の設計ではありえない。所得の継続、技能への敬意、年齢への配慮、地域とのつながり、心理的負担——これらを壊さずに社会的役割を組み替えること。そこまで含めて初めて、変換という言葉は人間に向き合ったことになる。
ここで、マルコウィッツの「私たちは道具ではない」が、別の意味を帯びて戻ってくる。それは人間が道具より偉いという感傷ではなく、道具に目的を与える主体がどこにいるのか、という問いだった。企業という仕組みの中に、その主体の席は無い。ならば社会の側に、しかも変化に間に合う速さで、その席を作れるのか。筆者にも答えは無い。ただ、問いの形ははっきりしてきた。問われているのはAIの性能ではない。AIによって速くなった一社ごとの合理を、社会全体の耐久力へと変える主体を、私たちは持てているか——その私たちの側が、問われているのである。
ポイント整理
AIは原因ではなく、鏡であり加速装置
人を費用として扱う仕組みはAI以前から完成していた。AIはそれを高速で増幅する。
ゆえに問いは「AIが何をできるか」ではなく「私たちはAIに何の目的を与えるか」になる。
良心は、届く範囲でしか作動しない
経営者の良心は自社の従業員までしか守れない。社会全体の働き口を一社の決定に抱え込めない。
診断は構造の水準にあるのに、処方が個人の水準に降りる。ここに段差がある。
企業は、規模によってマクロにはならない
ミクロ/マクロを分けるのは影響の大きさではなく、目的が何に定義され誰に応答するか。
巨大企業も目的は自社規模のまま。規模が変えるのは、社会全体とのずれの乱暴さだけ。
社会全体の利害は一つ上の階層に宿る性質であり、一社の意思決定の中に席を作れない。
一人ひとりの合理が、全体の不合理になる(合成の誤謬)
各社の効率化は個別には正しいが、同時に進むと社会全体の緩衝材を消す。
帳簿上コストに見える冗長性・組織記憶・現場知・信頼が、危機時の耐久力になる。
AIが奪うのは、変化を吸収する時間である
AIの本質は代替よりも、企業の最適化を即時化すること。社会の調整は年単位でしか動けない。
この速度差ゆえ、論旨は代替の規模に依存しない。問われるのは人数ではなく、社会が間に合うか。
レジリエンスとは、余白の設計である
効率の最大化ではなく、衝撃を吸収し立て直すための適切な余白をどう保つか。
マルコウィッツのレッドウッド(深い根・相互依存)を、構造の言葉に置き換えたもの。
変換の難しさそのものが、問題の構造を映す
社会的に必要な仕事ほど市場賃金が低い。利益は私有化され、移行費用は社会化される。
これらの破綻点は、ミクロが速く動きマクロの代表が遅く争われる、同じ構造の別々の現れ。
人間は、再配置される資源ではない
労働移動は物流ではなく、生活世界の組み替えである。
変換の仕組みを作るとしても、生活・誇り・地域・時間を壊さない移行でなければならない。
キーワード解説
【合成の誤謬】
個々の主体にとって合理的な行動が、全員が同時に取ると全体にとって望ましくない結果を生む現象。各家計の節約が全体では需要を冷やす、という不況の例が古典的。各社のAIによる人員削減も、一社の効率化が全社同時となったとき社会の緩衝材を消す、という同じ形をとる。
【ミクロアクターとマクロの利害】
主体の水準は影響の大きさではなく、目的の定義域と応答先で決まる。企業の目的は自社に定義され、その意思決定は自社に応答するため、規模が大きくても部分の最適化装置にとどまる。雇用総量や社会の吸収力は社会という上位の階層に宿る性質であり、一社のガバナンスの中には代表する席を持てない。
【レジリエンス】
衝撃を受けても機能を保ち、立て直し、別の形の価値へ組み替える能力。効率の最大化とは異なり、適切な余白・冗長性・相互依存を含む。平時にはコストや無駄に見えるものが、危機時の耐久力として働く点に本質がある。
【生活世界】
人がそこで暮らし、意味づけ、関係を結んでいる経験の地平を指す。職業はこの生活世界に深く埋め込まれており、技能だけでなく誇り・地域・時間の蓄積と結びつく。労働移動を生活世界の組み替えとして捉えることで、人を資源として扱う視点から距離を取る。