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大きな物語を探すのをやめると、設計の話が始まる──痩せた中間層と審判のいない上空



シリーズ: 行雲流水


人間が最も長く警戒してきた相手は、多くの場合天災でも猛獣でもなく、知らない人間だった。虎の行動は読める。しかし隣の谷から来た集団が何を考えているかは読めない。資源を奪うかもしれず、暴力を振るうかもしれず、病を持ち込むかもしれない。読めない相手を警戒することは、生存の条件だった。


それでも人類は、この読めない相手を、話が通じて利害を調整できる相手へと変えてきた。交易し、婚姻し、同盟を結び、貨幣と法と国家を発明し、外の人間を少しずつ社会の内側に入れてきた。人類史の大きな線を一本引くとすれば、この線になる。


問題は、その作業がどこまで進んだのか、である。


本稿の見立てでは、作業は途中で止まっている。外集団はもはや即座に殺すべき敵ではない。しかし競争相手として制度的に再構成されたまま残っている。そしてその競争が置き直された場所を特定しない限り、この議論は道徳論に堕ちる。




敵ではなく、高いリスクと高いリターンが同居する相手


出発点を正確に置いておきたい。


外集団を単純な敵として描くのは、粗い。見知らぬ集団は暴力と資源争奪と病原体のリスクを運ぶ一方で、交易、婚姻、同盟、情報、技術、文化の媒介者でもあった。閉じた集団は安全だが、何も入ってこない。開いた集団は多くを得るが、何が入ってくるかを制御できない。


したがって外集団とは、高いリスクと高いリターンが同居する不確実な関係対象だったと定式化すべきであろう。ここで確認しておくべきは、人間が外集団を常に敵と見なしていたという命題ではなく、不確実性の高い相手に対して警戒を優先する傾向が生存上は合理的であったという、より限定的な命題である。


そして人類史とは、この不確実な外部を、敵として処理するか、交易相手として処理するか、同盟者や婚姻相手として処理するか、あるいは制度的なパートナーとして処理するかをめぐる歴史でもあった。処理の様式が変われば、外集団の意味も変わる。以下で辿るのは、その様式が段階的に拡張されてきた過程と、その拡張がどこで停止したのかという問いである。



顔の見える範囲から、制度による拡張へ


最初の様式は、交易であった。


黒曜石という火山ガラスがある。割れ口が鋭く、石器時代を通じて道具の材料として重宝された。一九六〇年代、考古学者のコリン・レンフルーらは、黒曜石に含まれる微量元素の組成が産地ごとに異なることを利用して産地を同定する手法を確立した。この手法によって、中東の肥沃な三日月地帯において、紀元前一万四千年から六千五百年頃にかけて狩猟採集民が黒曜石を数百キロメートル規模で運んでいたことが確認されている。


国家はない。文字も貨幣も、契約を保証する司法もない。それでも石は動いた。


ここで作動していた条件を特定しておくことには意味がある。反復囚人のジレンマの分析が繰り返し確認してきたように、関係が世代を超えて継続すると見込まれる状況では、一度の裏切りによる利得は、関係の断絶によって失われる長期の利得を下回る。すなわち人類が最初に手にした外集団処理の条件とは、顔の見える範囲で継続する関係にほかならなかった。この条件は、後述する中間層の議論において決定的な意味を持つことになる。


しかし顔の見える範囲には限界がある。数百人を超えれば、関係の継続という見込みだけでは秩序を支えられない。人類はこの限界を超えるために、貨幣、法、宗教、契約、国家、市民権、企業といった媒介を発明してきた。見知らぬ他者が取引相手になり、同じ国の成員になり、契約の当事者になる。社会の内側と呼びうる範囲は、こうして段階的に拡張された。


ユヴァル・ノア・ハラリが広く知らしめた「フィクションを共有する能力」という見方は、この拡張を説明する補助線として有効である。ただし留保が要る。共有された意味が人間の行動を実際に左右するのは、それが徴税機構、司法制度、記録、強制力といった制度的実装と結びついたときに限られるからだ。円の価値を信じなくなった者にも納税義務は課される。信念の有無を問われないまま作動するものを、信念によって支えられていると呼ぶのは無理がある。マックス・ヴェーバーが正統的支配を論じるにあたり、正統性への信仰とそれを執行する官僚制的装備とを不可分のものとして扱ったのは、この結合を捉えていたためであろう。


物語が人類を協力へ導いたのではない。物語が制度に実装されたとき、外集団は社会の内側に入った。



取り込みは、途中で止まっている


ここまでの叙述は、進歩の物語に見えるかもしれない。


だが、そうではない。


たしかに現代において、地球の裏側の人間と取引し、翻訳し、協力することは日常である。外集団を即座に殺す必要はなくなった。にもかかわらず、社会の息苦しさは減っていない。理由は明確である。外集団が敵ではなくなった代わりに、競争相手として残ったからだ。

しかも、その競争は二つの極端な場所へ移動している。


一方には国家間の競争がある。軍事、資源、エネルギー、半導体、AI、データ、通貨、産業政策、技術標準、人材。かつての集団間競争は、国家という巨大な単位に移され、洗練された制度と語彙をまとって継続している。他方には個人と企業の競争がある。学歴、職歴、収入、資産、住宅、子どもの教育、可視性、市場価値、老後の備え。こちらでは競争が細分化し、生活のほぼ全域に浸透している。


つまり、外集団との競争は消滅したのではない。国家間の巨大な競争と、個人および企業間の細かな競争へと二極化して再配置されたのである。


ここで、競争という語を分解しておく必要がある。ひとまとまりに扱うと、処方箋が「意識を変えよう」に収束してしまうからだ。資源や所得や技術をめぐる物質的な競争がある。国家や都市や大学や企業が投資と人材とランキングをめぐって競う制度的な競争がある。個人が自らを市場価値や可視性で測る認知的な競争がある。そして、競争こそが進歩を生むという意味づけを与えるナラティブの競争がある。


この区別を欠くと、ナラティブを変えれば競争は和らぐ、という結論に滑り落ちる。だが実際に競争を合理的な選択にしているのは、税制であり、労働市場であり、教育制度であり、株主構造であり、安全保障体制であり、プラットフォームの設計である。競争を正当化する物語と、競争を合理的にする制度構造は、相互に補強し合っている。


したがって、外集団の内部化が停止した地点を問うことは、この制度構造の配置を問うことにほかならない。



中間が痩せると、個人は裸で受け止める


競争が国家間と個人間の両極へ移動したとき、その間で何が起きたか。


痩せたのである。


国家ほど巨大ではなく、個人ほど孤立してもいない共同体がある。地域、職場、学校、大学、協同組合、職能団体、宗教共同体、ケアの共同体、市民会議、オープンソースの集まり、研究の共同体。これらをここでは中間層と呼ぶ。


この層が担ってきたのは、相互扶助、共同での意思決定、学習と技能の継承、市場以外の承認、そして自分たちのルールを作り替える経験である。注目すべきは、ここで成立しているのが先史時代の交易を支えたのと同じ条件、すなわち顔の見える継続的な関係だという点にある。人類が最初に手にした外集団処理の条件は、この層においてのみ、いまも生きている。


ところが現代において、この層は弱い。財源が乏しく、担い手が足りず、参加する時間がなく、行政の下請けとなり、市場評価に従属し、独自のルールを作る権限も小さい。中間が痩せれば、個人は国家、市場、企業、プラットフォームと直接向き合うことになる。医療、教育、住宅、老後、キャリア、育児、介護、承認のすべてが競争に接続されるほど、人は防衛的になり、共同体に参加する余裕を失う。


ただし、この診断から中間層への礼賛へ進むのは早計である。


濃密な共同体は、同調圧力、排他性、内部での序列化、地域の有力者による支配、女性や移民や少数者の排除を生む場にもなりうる。閉じた中間層は、外集団を排除する側へ回る。すなわち、それは競争社会への代替ではなく、より小さな規模での支配にすぎない。


エリノア・オストロムがコモンズの統治を論じるにあたり、境界の設定、監視、段階的な制裁、紛争解決の手続き、入れ子状の統治構造といった条件を列挙したのは、共同体が自動的に機能するわけではないことを踏まえていたためであろう。厚い中間層に要求されるのは、退出の可能性、内部での異議申し立て、少数者の保護、外部からの検証、そして他の共同体との接続可能性である。厚く、かつ閉じていないこと。この条件を欠いた中間層の再建は、部族化の再生産に終わる。



国家の上には、選手より強い審判がいない


もう一方の極、国家間の競争を制約すべき層はどうか。


存在しないわけではない。国際法があり、国連の諸機関があり、通商や課税をめぐる国際的な取り決めがある。問題は、それが断片的で、分野ごとに偏り、強制力が弱く、大国の政治に左右されやすいという点にある。


歴史はこの弱さを繰り返し記録してきた。


第一次世界大戦後に設立された国際連盟は、経済部門を含む協調の枠組みを備えていた。しかし実効的な強制力を欠き、加えてアメリカが最後まで加盟しないまま推移する。その帰結が、世界恐慌下における近隣窮乏化政策の連鎖であった。各国が自国通貨の切り下げによって輸出競争力を確保しようとした結果、世界貿易そのものが縮小し、全参加者が損失を被っている。


一九四四年のブレトンウッズ会議は、この失敗を踏まえた再挑戦であった。国際通貨基金と世界銀行が設立され、固定為替相場制を軸とする、より拘束力の強い枠組みが構築される。この体制は戦後の一定期間にわたり実際に機能した。しかし一九七一年、アメリカがドルと金の交換停止を宣言したことで、体制そのものが崩壊した。


ここから引き出すべき論点は、通俗的な悲観論とは異なる。人類は上位のルールを構築することに失敗し続けてきたわけではない。国際連盟もブレトンウッズ体制も、実際に構築された。失敗が生じたのは、その枠組みが最も強い参加者を拘束できなかった局面においてである。


国内において、国家は審判でありうる。税を徴し、法を執行し、秩序を維持する。しかし国外に出た瞬間、国家は選手になる。そしてその上に、選手より強い審判は存在しない。この非対称のもとで、国家間競争の圧力は下方へ流れる。国家は企業に国際競争での勝利を求め、企業は個人に生産性の向上を求め、個人は自らに市場価値の向上を課す。上位層の弱さは、こうして最も細かな競争にまで転化していく。



層を横切る者に、責任は追いついていない


そして、この上位層の空白を利用しながら、各層を横切って動く主体が存在する。これは新しい現象ではない。


イギリスの東インド会社は、もともと貿易を目的とする商人の団体であった。ところが王室から与えられた特許状によって、貿易独占権に加えて交戦権、築城権、条約締結権を獲得する。一七五七年のプラッシーの戦い、一七六四年のブクサールの戦いを経てベンガル地方の徴税権を掌握し、一八〇〇年頃には本国イギリスの軍隊を上回る兵力を擁するに至った。徴税し、裁判を行い、軍隊を動かす。機能としては国家でありながら、責任を負う先は株主に限られていた。国家の上でも下でもなく、層を横切る位置に立っていたのである。


アダム・スミスが『国富論』において、貿易の独占権を保持する主体が統治において公平でありうるはずがないと述べたのは、この配置への批判にほかならない。そして注目すべきは、この構造が終わった仕方である。会社が自ら反省したのではない。一七八四年のインド法による制約、ウォーレン・ヘイスティングス弾劾裁判を通じた議会の監視強化を経て、一八三三年に商業活動が停止され、一八五八年には完全に国有化された。二百七十年以上存続した主体を解体したのは、上位に位置する強制力としての議会である。


現代のグローバル企業、とりわけプラットフォーム企業とAI企業は、同じ位置に立っている。ただし行使する手段が異なる。領土や軍事力ではなく、利用規約、アルゴリズム、API、技術標準、クラウド基盤、データ流通の条件を通じて、人と人が接続する条件そのものを設計している。法的にはいずれかの国家に登記され、活動実態としては国境を越え、内部的には巨大な中間組織であり、部分的には国家法に近い規範形成力を持つ。


この主体を単一の層に位置づけようとすると失敗する。本質は、層を横切ることにあるからだ。


そして問題は、横断する力に対して、横断する責任構造が対応していないという一点に集約される。データはある国で収集され、別の国で処理され、利益はさらに別の国に計上される。環境負荷は供給網の末端に現れ、労働問題は委託先に現れ、利用者の被害は利用規約によって処理される。力は層を横断し、責任は法人格と契約と管轄によって分割される。



問いを立て直す


ここまでの整理が正しいとすれば、通常提示される二つの選択肢は、いずれも的を外していることになる。


人類は新しい大きな物語を共有できるか、という問い。これは的を外している。物語なしに制度は作れないが、単一の巨大な物語による統合は、異論と逸脱を新たな外集団として再生産する。


競争と共有のどちらを選ぶか、という問い。これも的を外している。競争には発見と改善と能力形成の機能があり、全面的な否定は非現実的である。他方、共有を美徳として語れば議論は道徳論に堕ちる。


問うべきはこうである。どの層で、誰が、どのようなルールを作り、競争と共有の関係を設計しているのか。


この形に問いを組み替えると、共有という語も分解を要求される。資源の共有がある。土地、水、エネルギー、データ、知識、計算資源。リスクの共有がある。医療、失業、老後、災害、介護、育児。意思決定の共有がある。市民会議、参加型予算、協同組合、職場民主主義。意味の共有があり、学習の共有がある。


このうち、本稿が決定的とみなすのは、リスクの共有と意思決定の共有である。理由は構造的なものだ。リスクが共有されなければ、個人は裸の競争から降りられない。そして意思決定が共有されなければ、中間層は制度実験の場にならない。この二つは、前節までに描いた配置の欠落に、直接対応している。


層ごとの役割も、これに応じて定まる。


国家の上に位置する層は、薄くてよい。世界政府を志向すべきではない。この層が扱うべきは、気候負荷の上限、AIの安全基準、越境課税とタックスヘイブンの規制、パンデミック時の情報共有、自律兵器の制約、越境企業の責任といった、複数の実験が互いを破壊しないための最低条件に限られる。ここで善き生の中身を規定し始めた瞬間、それは単一の巨大な物語へ回帰する。薄いこと自体が、この層の設計要件である。


国家は不要にならない。社会保障、医療、教育、労働法、税制、再分配、独占規制、基本的人権。これらを担う主体は依然として国家である。ただし、社会の目的を一方的に決定する主体としてではなく、中間層の実験を支える基盤として位置づけ直される必要がある。


層を横切る主体には、横断する責任を対応させる。データポータビリティと相互運用性の義務づけは、利用者に退出の現実的な選択肢を与える。アルバート・ハーシュマンが退出と発言の対比において論じたように、離脱の可能性が確保されているか否かは、組織の振る舞いを規定する条件そのものである。監査アクセスの法的確保は、モデルとアルゴリズムの検証を外部に開く。そして政府調達における条件設定は、この文脈で著しく過小評価されている。公共部門は市場における最大級の買い手であり、監査への応諾や相互運用性の充足を購入の条件とすることで、新たな国際機関の創設を待たずに実効的な拘束を生み出せる。


中間層は厚くする。ただし、開いたまま厚くする。退出の可能性、内部での異議申し立て、少数者の保護、外部からの検証、他の共同体との接続可能性を条件とする。


個人の層においては、医療、住宅、教育、失業への備えが、単なる福祉としてではなく、競争から一時的に降りるための条件として位置づけられる。降りられない者に、中間層へ参加する時間も体力も残らないからである。個人の保護と中間層の再建は、独立した課題ではなく、一方が他方の前提をなしている。



誰が、この配置で得をしているのか


ここで議論を終えれば、美しい制度設計図が残るだけである。だが設計図は、それだけでは動かない。


なぜ上位層は弱いままなのか。なぜ中間層は痩せたのか。なぜ層を横切る企業は責任を免れるのか。なぜ国家は競争をやめられないのか。これらを単なる設計の不備として扱うことはできない。いずれの状態にも、それによって利益を得ている主体が存在するからである。


国家は主権の移譲を望まない。大企業は規制を避けたい。富裕層は課税を避けたい。安全保障に関わる勢力は脅威認識の維持に利害を持つ。プラットフォーム企業は相互運用性を嫌う。中間共同体の再建は既存の権力にとって面倒である。そして個人もまた、競争による上昇の可能性を完全には手放したがらない。


したがって、望ましい配置を描くだけでは足りない。誰がこの配置で得をしているのか。誰が変化を阻むのか。どの利害の組み合わせが新しい制度を支えうるのか。この分析を欠いた構想は、設計としては整っていても、実現の見込みを持たない。


現実的な経路は、全体設計の一括実装ではないだろう。都市、学校、医療とケア、AIの統治、地域のエネルギー、職能の共同体。こうした限定された単位で試作を重ね、機能したものを標準へ引き上げていく。制度実験を例外ではなく、社会を更新する通常の手続きとして位置づけること。それが、この構想における最も現実的な入口である。


外集団を脅威から機会へ変換するという課題は、認識や道徳の問題ではない。それは、どの層で誰がルールを作るのかという、配置の問題である。そして人類は、この作業を何万年も続けてきた。まだ途中で止まっているというだけで、止まったまま終わると決まったわけではない。




ポイント整理


  • 外集団は敵ではなく、高いリスクと高いリターンが同居する相手だった

    • 見知らぬ集団は暴力や病原体のリスクを運ぶ一方、交易、婚姻、同盟、技術、文化の媒介者でもあった

    • 人類史とは、この不確実な外部をいかなる関係として処理するかをめぐる歴史でもある

  • 内部化は顔の見える関係から始まり、制度によって拡張された

    • 中東の肥沃な三日月地帯では紀元前一万四千年から六千五百年頃、狩猟採集民が黒曜石を数百キロ規模で運んでいたことが産地同定の手法により確認されている

    • 顔の見える範囲の限界を超えるために貨幣、法、国家、契約が発明されたが、共有された意味は制度に実装されて初めて拘束力を持つ

  • 取り込みは完成しておらず、競争として再配置された

    • 外集団は即座の敵ではなくなったが、国家間の巨大な競争と個人・企業間の細分化された競争へ二極化して残っている

    • 競争を合理的にしているのは物語だけでなく、税制、労働市場、教育制度、株主構造、プラットフォームの設計である

  • 中間層が痩せ、個人が裸で競争を受け止めている

    • 地域や職場や協同組合といった中間の共同体でのみ、先史以来の顔の見える継続的関係が生きている

    • ただし中間層は排他性と内部支配を生みうるため、退出可能性、異議申し立て、外部検証を条件として厚くする必要がある

  • 上位層は存在するが弱く、最強の参加者を拘束できない

    • 国際連盟もブレトンウッズ体制も構築には成功しており、崩壊したのは最も強い参加者を縛れなかったためである

    • 国内で審判である国家は、国外では選手になる。その上に選手より強い審判は存在しない

  • 層を横切る主体に、責任構造が対応していない

    • 東インド会社は交戦権と徴税権を持ちながら株主にのみ責任を負い、上位の権力によって解体された

    • 現代のプラットフォーム企業は利用規約とアルゴリズムによって接続条件を設計するが、責任は法人格と管轄によって分割される

  • 問うべきは、どの層で誰がルールを作るのかである

    • 競争か共有かという二択ではなく、どの層で競争を許し、どの層で共有を守り、どの層でルールを作り替えるかを設計する

    • 上位層は薄く、中間層は開いたまま厚く、横断する力には横断する責任を、個人には競争から降りる条件を

  • 設計図だけでは動かない

    • 現状の配置から利益を得ている主体が存在する以上、利害の分析を欠いた構想は実現の見込みを持たない

    • 都市、学校、ケア、AI統治、地域エネルギーといった限定単位での試作から標準へ引き上げる経路が現実的である



キーワード解説


【黒曜石の産地同定】

黒曜石に含まれる微量元素の組成が産地ごとに異なる性質を利用し、出土品がどの供給源から運ばれたかを特定する分析手法。一九六〇年代にコリン・レンフルーらが確立し、先史時代の交換ネットワークの範囲を実証的に描き出すことを可能にした。


【近隣窮乏化政策】

自国通貨を切り下げることで輸出競争力を高め、貿易収支の改善を図る政策。個々の国家にとっては合理的でありうるが、各国が同時に採用すれば世界貿易全体が縮小し、全参加者が損失を被る。一九三〇年代の世界恐慌下で連鎖的に生じた。


【ブレトンウッズ体制】

一九四四年の国際会議によって設立された、固定為替相場制を軸とする国際通貨秩序。国際通貨基金と世界銀行がその中核を担った。一九七一年、アメリカがドルと金の交換停止を宣言したことで崩壊している。


【多中心的統治】

単一の中心が全体を統制するのではなく、複数の統治単位が重なり合いながら秩序を形成する状態を指す。エリノア・オストロムがコモンズの研究を通じて定式化した。市場か国家かという二択を超えて制度を構想する際の基礎となる。


【退出と発言】

組織や制度に不満を持つ成員が取りうる対応を、離脱することと内部から異議を述べることの対比で捉える枠組み。アルバート・ハーシュマンによって定式化された。離脱の現実的な可能性が確保されているか否かが、組織の振る舞いを規定する条件となる。


【相互運用性】

異なる事業者のサービスやシステムが、相互に接続し連携できる状態を指す。義務づけられた場合、利用者は蓄積したデータや関係を失うことなく他のサービスへ移行できるようになり、事業者側の交渉上の優位が縮小する。



本稿を素材として対話形式で再構成した記事も、近日中にnoteに掲載予定です。
ご関心を持っていただけましたら、note上でご感想などお聞かせいただけると幸いです。

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