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定義するのは難しいけど、なくてはならない「宗教」という言葉

シリーズ: 知新察来


◆今回のピックアップ記事:Kwame Anthony Appiah, "The selfish myth driving modern economics" (Institute of Art and Ideas, 2025年12月10日)

  • 概要:古代から現代まで「宗教」という概念がどのように変遷してきたか、そしてなぜこの言葉が定義不可能でありながら社会的に不可欠なのかを、哲学的・歴史的な視点から論じたエッセイ。



私たちは宗教を人類史に深く根ざした営みだと思いがちですが、実は「宗教」という概念そのものが近代に生まれたものだとしたら、どう感じるでしょうか。


古代ローマ人は神々や儀式を持っていましたが、それを私たちが理解するような「宗教」とは捉えていませんでした。17世紀の西洋で、キリスト教世界が分裂し、探検や征服を通じて未知の文化と出会う中で、ようやく「世界宗教」という枠組みが生まれたのです。それ以来、学者たちは宗教を定義しようと試み続けてきましたが、どの定義も広すぎたり狭すぎたりして失敗してきました。それなのに、この言葉は今もなお、法律や政策、研究、そして信仰者の内面の営みを組織する上で欠かせない役割を果たしています。


富良野とPhronaの対話を通じて、定義不可能でありながら手放せない「宗教」という概念の不思議な生命力を探っていきます。




概念の誕生:古代ローマには「宗教」がなかった?


富良野:Phronaさん、この論文を読んで面白いなと思ったのは、古代ローマ人には私たちが考えるような宗教という概念がなかったという話なんですよ。religio という言葉はあったけど、それは規則を細かく守ることとか、儀式を正しく行うことを意味していて、今の宗教とはかなり違うんですね。


Phrona:それって、どういうことなんでしょう。神々も儀式もあったわけですよね。


富良野:ええ、神殿も犠牲もありました。でもそれらを独立した一つの領域として切り分けて考える発想がなかった。公的な生活や市民の義務、家族の礼儀作法、そういったものと連続していたわけです。他の土地に行けば別の神様がいることは当然で、戦争の時なんか evocatio という儀式で敵の神を味方につけようとしたりしてた。


Phrona:ああ、なるほど。つまり宗教を一つの普遍的なカテゴリーとして捉えるんじゃなくて、それぞれの場所にはそれぞれの儀礼があるという感覚だったと。


富良野:そうそう。ローマがキリスト教化した後も、4世紀のラクタンティウスという人が真の礼拝と偽の礼拝を区別した時、彼は他の自己完結したシステムを並べて比較したわけじゃない。正しい崇拝と間違った崇拝の違いを言っていただけなんです。


Phrona:つまり、自分たちは真理を持っているという感覚であって、たくさんある宗教の中の一つを持っているという感覚じゃなかったわけですね。そこが決定的に違う。



近代的な「宗教」概念の形成


富良野:まさに。で、私たちが理解するような宗教という概念が確立したのは17世紀だと言われていて、それにはヨーロッパのキリスト教世界が分裂したこととか、探検や征服を通じて馴染みのない文化に出会ったことが大きく関係しているんですね。


Phrona:つまり、自分たちとは違う何かに名前をつける必要が出てきたと。


富良野:そう。で、面白いのは、ヨーロッパ人がインドやアフリカ、中国、古代地中海の文化を見る時、キリスト教的な、しかもしばしばプロテスタント的な要素を探したんですよ。権威の源泉としての聖典、起源を語る予言者、正統と異端を分ける神学的教義、救済への道筋としての義務、とかね。


Phrona:そういう枠組みで見ちゃうわけですか。


富良野:そうなんです。もしその伝統にそういう要素がなければ、学者たちが親切にも供給してくれた。創始者がいない伝統には創始者が与えられ、一つの経典がない伝統には正典が割り当てられ、多様な地域の儀礼が包括的なシステムにまとめられたんです。

Phrona:それって、ある意味暴力的ですよね。その文化の人たちが自分たちをそう理解していなくても、外から枠をはめられちゃう。


富良野:その通り。19世紀後半に世界宗教が学問の対象になった時、仏教なんかはいい試金石になったんですよ。南アジア、中央アジア、東アジアの様々な実践をまず統一して、それから時に神のいない伝統が宗教として認められるかどうかを決めなきゃいけなかった。



定義の試みとその失敗


Phrona:で、結局どうやって定義したんですか。


富良野:それがね、みんな試みたけど誰も成功しなかったんです。ジョン・スチュアート・ミルは信条と感情と道徳的権威の組み合わせだと言った。ハーバート・スペンサーは世界の存在とそれを取り巻くすべてが解釈を求める謎だという暗黙の確信だと。エドワード・タイラーは霊的存在への信仰が最低限の定義だと。マックス・ミュラーは無限なるものを把握する精神的能力だって言ったし。


Phrona:みんなバラバラですね。


富良野:そう。ウィリアム・ロバートソン・スミスは儀礼こそが宗教生活の真の基盤だと主張して、古代の宗教にはほとんど信条がなくて、制度と実践だけから成り立っていたと言った。デュルケームは聖なるものに関する信念と実践の統一されたシステムで、信者を教会という一つの道徳的共同体に結びつけるものだと定義したんですけど。


Phrona:それぞれもっともらしく聞こえますけど、問題があったと。


富良野:そうなんです。どの定義も、除外しすぎるか包含しすぎるかのどちらかだった。釣ろうとしている魚が網にかからないか、混獲が多すぎるか。


Phrona:具体的には?


富良野:たとえばミルは信条と感情と道徳的説得を一つのパッケージにしたかったけど、19世紀にヨーロッパ人が出会った多くの伝統はそういう要素をそんなふうには配置してなかった。スペンサーが中心だと考えた宇宙論的な謎に取り組む姿勢なんて、古代ユダヤ教にはほとんどなかったし。


Phrona:ああ、なるほど。それぞれの定義が特定の伝統を念頭に置いてるから、他がこぼれ落ちちゃうんですね。



「家族的類似」という逃げ道


富良野:20世紀後半になると、定義への希望は薄れてきて、ヴィトゲンシュタインの家族的類似という概念に頼る理論家が出てきたんです。つまり、ある特徴を全員が共有してなくても、いとこ同士が鼻はこっち、顎はそっちって感じで部分的に重なり合っていれば同じ概念的家族に属せるという考え方。


Phrona:それなら柔軟に対応できそうですけど。


富良野:でも問題は、類似性っていつもプロトタイプ次第なんですよ。プロテスタント・キリスト教から始めればプロテスタントにとって重要な類似性が見つかるし、ヨルバのオリシャ信仰から始めれば全く違う類似性のセットが浮かび上がる。


Phrona:結局、どこを出発点にするかで見えるものが変わっちゃうと。


富良野:そうなんです。人類学者のタラル・アサドは宗教も世俗も西洋近代の政治的・知的習慣に由来すると論じて影響力があったんですけど、彼の説明だと宗教はそういう力の産物というより効果みたいに見えちゃう面もあって。


Phrona:力そのものじゃなくて、力の結果物だと。


富良野:ええ。で、この概念は救いようがないのかって話になって、ウィルフレッド・カントウェル・スミスという学者は、宗教という言葉自体をやめて信仰と累積的伝統について語るべきだと長年主張してたんです。



なぜ「宗教」は生き残ったのか


Phrona:でも実際には、宗教って言葉はなくなってないですよね。


富良野:そこが面白いところで。マルティン・リーゼブロットという社会理論家が皮肉っぽく指摘したんですけど、宗教に代わる新語だって結局は歴史的に特定の言説を通じて構築されたものだって示せるし、階級や文化間の言語的闘争の道具だって明らかにできるって。それに、宗教という用語を排除しようとする人たちも、長くはそれなしで済ませられないんですよ。


Phrona:じゃあ、定義できないのに、なんで残ってるんでしょう。


富良野:ここで化学の話を例に出すと分かりやすいかもしれない。酸という言葉、最初は単に酸っぱい味がする物質を指してたんです。後に金属を溶かすとか、アルカリと接触すると性質を失うとか、何をするかで区別されるようになった。ラボアジエは酸性は酸素という共通成分から来ると確信してたけど、それは間違いだった。


Phrona:でも、酸という言葉は残ったと。


富良野:そう。アレニウスが水中で解離して水素イオンを放出する性質で定義し直し、ブレンステッドとローリーがプロトン供与体として再概念化し、ルイスが電子対受容体として範囲を広げた。定義は変わったけど、言葉は残った。なぜかというと、その対象、つまり溶解や反応を起こしている物質が、理論的な輪郭が変わっても言葉を固定するのに十分現実だったから。


Phrona:つまり、間違った地図でも、実在する国の地図なら修正できるけど、アトランティスの地図は修正できないってことですね。


富良野:まさに。フロギストンっていう物質があると思われてた時代があって、燃焼時に放出される不可視の本質だとされてたんです。でも実際には、そんなふうに振る舞うものは世界のどこにもなかった。ラボアジエの密閉系実験で、燃焼は何かを失うんじゃなくて空気の成分、つまり酸素を得ることだって分かって、フロギストン概念は蒸発した。


Phrona:言葉が生き残るかどうかは、それが何か実在のものを指してるかどうか次第だと。



「宗教」は自然種か社会種か


富良野:自然科学でもそうなんだけど、歴史的・社会的領域になるともっと複雑になるんですよ。革命、国家、貨幣、結婚、宗教、こういうものは私たちの集団的活動の産物であり、さらに私たちの集団的記述の産物でもある。哲学者のサリー・ハスランガーはこれを社会的に基礎づけられたものと呼んでいて、社会的に構築されたという言葉の混乱を避けるためなんですけど。


Phrona:つまり、自然種じゃなくて社会種だと。


富良野:そう。でも宗教は社会種の中でも特殊で、生きている人々が自分自身に適用する種類なんです。不況みたいに外部から定義できる社会種もあって、経済学者は19世紀に起きたと宣言できる。当時の人が誰もそう呼ばなくてもね。でも結婚式みたいなものは共同体が結婚式というものを信じてないと開けない。


Phrona:宗教は両方の側面があると。


富良野:そうなんです。人類学者は参加者が決して宗教と呼ばないような実践を宗教と記述できるけど、いったんそのラベルが流通し始めると、反射的な力を持つようになる。信者たちがそれを中心に自己理解を組織し始めるんです。


Phrona:ラベルが現実を作り出す部分があるわけですね。


富良野:イアン・ハッキングという哲学者が動的唯名論という考え方を提案していて、分類と分類される人々が互いを再形成していくプロセスなんです。カテゴリーが種を創り出す。大酒飲みはアルコール依存症者として見られ、自分自身をそう見るようになる。言葉は現象にラベルを貼るだけじゃなくて、それを構成する手助けをするんです。


Phrona:そして、あなたが持っているのは宗教だと言われた時、変わるのはそれとの関わり方だけじゃなくて、自分が何者だと思うかも変わるんですね。



実用的な真理として


富良野:じゃあ、こういう手に負えない用語を使って人間生活を理解しようとしている人はどうすればいいのかって話になるんですけど。僕は、宗教が統一的な意味に抵抗することを認めた上で、ケースバイケースで進めばいいと思うんですよ。見えるようにする必要があるものを最もよく明らかにする角度を選ぶ。


Phrona:具体的には?


富良野:たとえばアブラハムの諸宗教について語る時は、実践中心のアプローチが儀礼と遵守の生きた質感を捉えられるかもしれない。ニカイア信条やアタナシウス信条の命題は曖昧で議論の余地があるけど、それを肯定する行為には重い意味がある。一方、アザンデやヌアー、アシャンテの伝統的思考に目を向ける時は、信念中心のレンズの方が、近代キリスト教モデルが視界から隠してしまう要素を照らし出すかもしれない。


Phrona:それぞれのアプローチが何かを明らかにして、別の何かを曖昧にすると。


富良野:そうです。で、もっと大きな真実は、僕らは常に世界をおおよそ近似するモデルで航海してきたってことなんですよ。様々な程度の妥当性でね。ハンス・ファイヒンガーが『かのように』の哲学で論じたように、僕らはしばしば十分に真実だと判断する虚構を通じて推論する。なぜなら、それらを使うことが行動し、予測し、理解する助けになるから。


Phrona:地図は領土ではないけど、地図がなければ迷子になっちゃうと。


富良野:まさに。そして社会科学も自然科学も、そういう許容可能な虚偽を通じて前進してきたんです。その価値は結果の有用性にある。


Phrona:じゃあ、宗教という言葉が生き残っているのは、まだ仕事をしているからだと。


富良野:そう。実践的にも理論的にも。法律や政策を整理し、研究を導き、それを使う人々の内面生活を形作っている。社会学者は慈善や自殺との関係を探究できるし、心理学者は偏見や幸福との関連を研究できる。アメリカでは、立法者や判事が憲法の義務、つまり宗教への配慮と政教分離のバランスを取るために、このカテゴリーを十分に把握してなきゃいけない。


Phrona:そして信仰者にとっては、意味が作られ、守られ、否定される空間を名指し続けていると。



観察の規律


富良野:学問それ自体も遵守を要求するんですよ。証拠の基準に関して、そして注意を払う規律に関して。この意味で観察的であるというのは、自分がその外側に立っていると装わずに世界を注意深く見守ることなんです。


Phrona:だから、言葉を慎重に使おうとするわけですね。何を視界から隠してしまうか、それでもどれだけ見せてくれるかを意識しながら。


富良野:そうです。僕らは自分がいる場所から始めるしかない。歴史が残してくれた道具を使って、やりくりする。たとえ自分たちのモデルがいつか置き換えられるかもしれないと疑っていてもね。今のところ、宗教は共有された注意の行為として続いている。僕らが自分の方位を見つけ、世界への信頼を保とうとする、そういう役に立つ地図の一つなんですよ。


Phrona:定義できなくても、手放せない。それが宗教という言葉の不思議な生命力なんですね。


富良野:まさに。利害関係者が多すぎて、命令で解雇するわけにはいかない。言葉が何を意味するかについて、誰も独占的に言う権利はないし、みんなが発言権を持っている。


Phrona:それって、民主主義みたいですね。混乱してるけど、それでも機能している。


富良野:そう、不完全だけど、僕らが持っている最良のものなのかもしれない。


 

 

ポイント整理


  • 「宗教」という概念の歴史的形成

    • 古代ローマの religio は規則の遵守や儀式の正確さを意味し、現代の「宗教」概念とは異なっていた。公的生活や市民の義務と連続しており、独立した領域として切り分けられていなかった。

  • 近代的宗教概念の誕生

    • 17世紀に西洋でキリスト教世界が分裂し、探検や征服を通じて未知の文化と出会う中で、現代的な「宗教」概念が確立された。世俗的領域の成立が、宗教という特別な領域を可能にした。

  • 西洋中心的な枠組みの押しつけ

    • ヨーロッパ人がインド、アフリカ、中国などを見る際、プロテスタント的要素(聖典、予言者、神学的教義、救済の道筋)を探し、それがない場合は学者が供給した。創始者、正典、包括的システムが外部から付与された。

  • 定義の試みの歴史と失敗

    • ミル(信条・感情・道徳的権威)、スペンサー(宇宙的謎への取り組み)、タイラー(霊的存在への信仰)、マックス・ミュラー(無限を把握する精神的能力)、ロバートソン・スミス(儀礼中心)、デュルケーム(聖なるものに関する信念と実践の統一システム)など、多様な定義が提案されたが、いずれも除外しすぎるか包含しすぎるという問題を抱えた。

  • 仏教という試金石

    • 南アジア、中央アジア、東アジアの様々な実践をまず統一し、時に神のいない伝統が宗教として認められるかを議論する必要があった。分類の困難さが定義の不確実性を露呈した。

  • 家族的類似という逃げ道とその限界

    • ヴィトゲンシュタインの概念に基づき、全体に共通する特徴がなくても部分的重なりで同じ家族に属せるという考え方。しかし、類似性は常にプロトタイプ次第で、プロテスタント・キリスト教から始めるかヨルバのオリシャ信仰から始めるかで異なる類似性が浮かび上がる。

  • 宗教概念の脱構築と批判

    • タラル・アサドは宗教と世俗を西洋近代の産物と論じた。ウィルフレッド・カントウェル・スミスは「宗教」という用語をやめ、信仰と累積的伝統について語るべきだと主張。ダニエル・デュビュイソンは「宇宙論的形成」という新語を提案。

  • 自然種と社会種の違い

    • 化学における酸の例(ラボアジエ、アレニウス、ブレンステッド、ローリー、ルイスによる定義の変遷)は、誤った理論でも実在する対象を指せることを示す。フロギストンは実在しなかったため消滅した。宗教は自然種ではなく社会種であり、集団的活動と記述の両方の産物。

  • 動的唯名論と反射的効果

    • イアン・ハッキングの概念で、分類と分類される人々が互いを再形成していく。「宗教」というラベルが流通すると、信者が自己理解をそれを中心に組織し、言葉が現実を構成する手助けをする。

  • 状況依存的アプローチの必要性

    • アブラハムの諸宗教には実践中心のアプローチが有効かもしれないが、アザンデやヌアー、アシャンテの伝統的思考には信念中心のレンズが適切かもしれない。各強調は何かを明らかにし、別の何かを曖昧にする。

  • 「かのように」の哲学と実用的真理

    • ハンス・ファイヒンガーの考え方で、十分に真実だと判断する虚構を通じて推論する。地図は領土ではないが、地図がなければ迷子になる。科学は許容可能な虚偽を通じて前進してきた。

  • 宗教の継続的な有用性

    • 法律や政策の整理、研究の方向づけ、信仰者の内面生活の形成において実践的・理論的な仕事を続けている。社会学者は慈善や自殺との関係を探究でき、心理学者は偏見や幸福との関連を研究できる。アメリカでは憲法上の配慮と政教分離のバランスを取るために必要。

  • 利害関係者の多さと民主的性格

    • 宗教という言葉には多くの利害関係者がいるため、命令で排除できない。言葉の意味について誰も独占的に言う権利はなく、みんなが発言権を持つ。

  • 学問における観察の規律

    • 証拠の基準と注意を払う規律に従いつつ、自分が世界の外側に立っていると装わずに世界を注意深く見守る。言葉を慎重に使い、何を隠し何を見せるかを意識する。

  • 共有された注意の行為としての宗教

    • 現時点で宗教は、自分の方位を見つけ世界への信頼を保とうとする役に立つ地図の一つとして機能している。不完全だが、私たちが持っている最良のツールである可能性がある。



キーワード解説


religio(レリギオ)】

古代ローマで使われた言葉で、規則の遵守や儀式の正確さを意味した。現代の「宗教」概念とは異なり、公的生活や市民の義務と連続していた。


世俗的領域(secular sphere)】

宗教とは区別される非宗教的な社会の領域。この概念の成立が近代的な「宗教」概念を可能にした。


世界宗教(world religions)】

17世紀以降、ヨーロッパ人が異文化の信仰体系をキリスト教的枠組みで理解しようとして作り出した概念。創始者、聖典、教義体系などを持つ境界づけられたシステムとして構築された。


evocatio(エヴォカティオ)】

古代ローマの儀式で、戦争時に敵の神々を味方につけようと召喚する行為。


家族的類似(family resemblance)】

ヴィトゲンシュタインが提唱した概念で、全体に共通する単一の特徴がなくても、部分的な重なりによって同じ概念的家族に属することができるという考え方。


自然種(natural kinds)】

自然界に実在する分類。ボソン、バリウム、ボノボ、ブナの木など、因果的力や説明的役割、根底的性質を持つものを指す。


フロギストン(phlogiston)】

かつて燃焼時に放出されると考えられた不可視の物質。ラボアジエの実験によって否定され、現在では存在しないとされる。


社会種(social kinds)】

人間の集団的活動と記述の産物である分類。革命、国家、貨幣、結婚、宗教などが含まれる。


動的唯名論(dynamic nominalism)】

イアン・ハッキングが提唱した概念で、分類とそれによって分類される人々が互いを再形成していくプロセス。後に「弁証法的実在論」と呼ばれるようになった。


「かのように」の哲学(Philosophy of 'As If')】

ハンス・ファイヒンガーが提唱した考え方で、十分に真実だと判断する虚構を通じて推論し、行動し、理解することの重要性を説く。


プロトタイプ(prototype)】

概念やカテゴリーの典型例。家族的類似の議論では、どのプロトタイプを選ぶかによって見出される類似性が変わってくる。


酸(acid)】

化学における自然種の例。当初は酸っぱい味で定義され、後にラボアジエ、アレニウス、ブレンステッド、ローリー、ルイスによって異なる視点から再定義されたが、言葉自体は存続した。


orisha(オリシャ)】

ヨルバ(西アフリカ)の伝統的信仰における神々や霊的存在。プロテスタント的宗教観とは異なる枠組みを持つ例として言及される。


配慮と政教分離(accommodation and non-establishment)】

アメリカ合衆国憲法における宗教に関する二つの原則。宗教的実践への配慮と、国家による特定宗教の確立の禁止。



本稿は近日中にnoteにも掲載予定です。
ご関心を持っていただけましたら、note上でご感想などお聞かせいただけると幸いです。
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