実在論のパラドックス──物質主義に隠された科学の限界を探る
- Seo Seungchul

- 10月29日
- 読了時間: 9分

シリーズ: 知新察来
◆今回のピックアップ記事:Àlex Gómez-Marín "Materialism is holding science back" (Institute of Art and Ideas, 2025年9月16日)
概要:哲学者フィリップ・ゴフによる、物質主義が科学の進歩を阻害しているという主張を展開した記事。意識の問題、構造主義の限界、汎心論の可能性について論じている。
私たちは普段、科学と物質主義がセットで機能していると考えています。科学の進歩は物質的な現実を解明することで成り立っており、目に見える物質世界こそが真実だという前提に立っているのではないでしょうか。しかし、もしその前提自体が科学の発展を妨げているとしたら、どうでしょう。
今回ご紹介するのは、哲学者で作家のフィリップ・ゴフが提起した、物質主義と科学の関係性についての議論です。ゴフは意識の研究において「汎心論」という立場で知られており、意識は基本的な物理的性質だと主張しています。彼が投げかけるのは、私たちが当然視している科学観そのものへの根本的な問いです。
物質主義、構造主義、そして意識の問題を巡って、富良野とPhronaの対話が展開されます。この会話を通じて、科学的世界観の隠れた前提や、私たちの認識の枠組みがどのように現実理解を制約しているのかを考えていきましょう。読み終わる頃には、科学と哲学の境界線がいかに曖昧で、そして重要なものかを実感していただけるはずです。
物質主義という思い込み
富良野:この記事、なかなか挑発的ですね。物質主義が科学を妨げているって言われると、最初は違和感を覚えます。
Phrona:そうですよね。私たちって、物質的なものこそが本物で、それ以外は二次的だって無意識に思っているところがありますから。
富良野:でもゴフさんの指摘で面白いのは、現代科学自体が実は物質の本質を語っていないということ。物理学が扱っているのは、結局のところ関係性や構造だけなんですよね。
Phrona:電子って何かって聞かれたら、特定の質量や電荷を持つ粒子だと答えるけど、それって結局、他の物質との関係で定義しているだけですものね。
富良野:そう、まさにそこなんです。ゴフさんは構造主義って呼んでるけど、科学が教えてくれるのは、もののつながり方や振る舞い方であって、ものの中身そのものじゃない。
Phrona:でも、それで今まで十分だったんじゃないですか?技術も発達したし、世界のことも随分分かるようになったし。
富良野:確かにそうですね。でも問題は、意識みたいな現象に突き当たったときなんです。意識って、構造や関係だけで説明できるものなんでしょうか。
Phrona:ああ、そこが核心ですね。私が痛みを感じるとき、脳の中でニューロンが特定のパターンで発火してるっていうのは分かるけど、なぜそれが痛みという感覚として経験されるのかは謎のまま。
富良野:ゴフさんが言うハード問題ってやつですね。機能や構造は説明できても、なぜそこに主観的な経験が生まれるのかは、現在の科学的枠組みでは手に負えない。
汎心論という大胆な仮説
Phrona:それで、ゴフさんは汎心論を提案してるんですよね。意識が物質の基本的な性質だっていう。
富良野:最初聞いたときは、正直かなり突飛に思えました。石ころにも意識があるって言われても、ちょっとついていけない。
Phrona:でも考えてみると、物理学だって最初はそうじゃなかったですか?重力が空間を歪めるとか、量子の世界では粒子が同時に複数の場所に存在するとか。
富良野:確かに。科学史を振り返ると、常識を覆すような理論が後から当たり前になってることって多いですね。
Phrona:汎心論の面白いところは、意識を特別な何かとして扱わないところかもしれません。質量や電荷と同じように、物質の持つ基本的な性質のひとつとして考える。
富良野:そうすると、複雑な意識は単純な意識の組み合わせで説明できるかもしれない。ちょうど、複雑な物理現象が基本的な力の組み合わせで説明されるように。
Phrona:でも、単純な意識がどうやって統合されて、私たちのような統一された意識になるのかは、まだ謎ですよね。
富良野:組み合わせ問題って呼ばれてる難題ですね。僕らの脳には数十億のニューロンがあるけど、それぞれに意識があるとして、どうして統一された私という意識が生まれるのか。
Phrona:そこが汎心論の弱点でもあり、これから探求すべき領域でもあるんでしょうね。
科学的実在論の再考
富良野:でも、この議論でもっと根本的なのは、科学的実在論そのものへの問いかけじゃないでしょうか。
Phrona:実在論って、科学が描く世界が実際の世界だっていう考えですよね。
富良野:そうです。でもゴフさんが言うのは、科学が教えてくれるのは構造だけで、その構造を支える実体については何も分からないということ。
Phrona:つまり、楽譜は読めるけど、音楽そのものは聞こえていないような状態?
富良野:音符と音符の関係は分かるけど、実際に鳴っている音は分からない。科学が扱っているのは、世界の楽譜であって、世界の音楽そのものじゃない。
Phrona:でも、楽譜だけでも十分価値があるんじゃないですか?予測もできるし、技術的な応用もできるし。
富良野:もちろんです。でも、楽譜だけでは説明できない現象もある。意識がまさにそれで、これは音楽そのものの領域なのかもしれません。
Phrona:そうすると、意識を理解するには、科学の枠組み自体を広げる必要があるということですね。
富良野:ゴフさんが言いたいのは、まさにそこなんだと思います。物質主義という前提に縛られている限り、科学は構造しか扱えない。でも意識という現象を理解するには、その枠を超える必要があるんじゃないかと。
新しい科学観の可能性
Phrona:でも、これって科学にとって大きな転換になりますよね。実験や観測で確かめられない意識の性質を、どうやって科学的に扱うんでしょう。
富良野:そこが難しいところですね。汎心論って、ある意味では検証不可能な形而上学的仮説でもあるから。
Phrona:でも、意識の研究が進めば、間接的に検証する方法が見つかるかもしれませんよね。意識の統合パターンとか、意識の情報処理のあり方とか。
富良野:そうですね。意識の性質について具体的な予測ができれば、それを実験で確かめることも可能かもしれません。
Phrona:それに、科学の歴史を見ると、最初は哲学的な思索から始まって、後から実験的手法が追いついてくるってことも多いですし。
富良野:アインシュタインの相対性理論だって、最初は思考実験から始まりましたからね。現実の実験で確認されたのは、ずっと後のことです。
Phrona:そう考えると、汎心論も今後の科学の発展の中で、何らかの形で検証可能になるかもしれません。
富良野:ただ、それには科学的方法論そのものを拡張する必要があるかもしれませんね。第三人称的な客観性だけでなく、第一人称的な主観性も含めて。
Phrona:意識の科学って、ある意味では科学が自分自身を研究対象にするということですものね。それって、とても特殊で難しい状況ですよね。
物質主義を超えて
富良野:この議論で興味深いのは、ゴフさんが物質主義を否定してるわけじゃないということです。
Phrona:そうですね。むしろ、物質主義の枠組みを拡張しようとしている。意識も物質の性質のひとつだと考えることで。
富良野:でも、それって結局、物質って何なのかという根本的な問いに戻ってきますよね。
Phrona:そう考えると、物理学者が扱っている物質と、哲学者が考える物質って、案外違うものなのかもしれません。
富良野:物理学の物質は、数式で記述できる関係性の束。哲学の物質は、もっと存在論的な何か。汎心論は、その隙間を埋めようとする試みなのかもしれませんね。
Phrona:でも、この話って、最終的には私たち自身のことでもありますよね。私たちの意識や経験も、この世界の一部なわけですから。
富良野:そうです。科学が世界を完全に理解したと言えるためには、私たち観察者自身のことも説明できないといけない。今のところ、それは大きな謎のままです。
Phrona:意識の問題って、単なる学問的関心じゃなくて、私たちが何者なのかという根本的な問いでもあるんですね。
富良野:ゴフさんの議論は、科学の限界を指摘しているようで、実は科学の可能性を広げているのかもしれません。意識という最後のフロンティアに向かって。
ポイント整理
物質主義の限界
現代科学は物質の構造や関係性は説明できるが、物質そのものの本質については何も語らない。科学的実在論は構造主義に留まっており、実体についての知識を提供しない。
意識のハード問題
脳の神経活動と主観的経験の関係は説明できない。なぜ物理的プロセスが意識的経験を生み出すのかは、現在の科学的枠組みでは理解不可能な謎として残されている。
汎心論の提案
意識を物質の基本的性質として位置づけることで、心身問題を解決しようとする試み。すべての物質が何らかの形の意識を持つという大胆な仮説であり、複雑な意識は単純な意識の組み合わせとして説明される。
組み合わせ問題
汎心論が直面する主要な課題。個別の微小な意識がどのように統合されて統一された意識を形成するのかは未解決の問題として残されている。
科学的方法論の拡張
意識を科学的に研究するためには、従来の第三人称的客観性に加えて、第一人称的主観性も考慮した新しい方法論が必要になる可能性がある。
実在論の再考
科学が描く世界像と実際の世界との関係について根本的な見直しが求められている。構造的知識と存在論的知識の区別を明確にし、科学の射程と限界を正しく理解することが重要。
学際的アプローチ
意識の問題は物理学、神経科学、哲学、心理学など複数の分野にまたがる学際的な取り組みが必要であり、従来の学問分野の境界を超えた新しい研究パラダイムが求められている。
キーワード解説
【物質主義(マテリアリズム)】
物理的な物質だけが実在し、精神的現象も物質的プロセスに還元できるという哲学的立場
【構造主義(科学における)】
科学が扱うのは物質の内在的性質ではなく、物質間の関係性や構造のみという考え方
【汎心論(パンサイキズム)】
すべての物質が何らかの形の意識や心的性質を持つという哲学的立場
【ハード問題】
物理的プロセスがなぜ主観的経験を生み出すのかという意識研究の根本問題
【組み合わせ問題】
微小な意識がどのように組み合わさって統一された意識を形成するかという汎心論の課題
【科学的実在論】
科学理論が記述する世界が実際の世界の真の姿であるという立場
【第一人称的視点】
主観的経験や内的状態に基づく認識の観点
【第三人称的視点】
客観的・外的観察に基づく科学的認識の観点
【還元主義】
複雑な現象をより基本的な要素に分解して説明しようとする方法論
【創発】
部分の相互作用から予期できない新しい性質が生まれる現象